36. 日本歯科医師会雑誌21年4月号

連載「人間と科学」

植物と薬と人間(1)

丁子と歯医者さんの匂い

日本歯科医師会雑誌 Vol. 74, No. 1 , pp. 2-3 (2021年 4月号)から引用、再掲載

理化学研究所環境資源科学研究センター長 斉藤 和季

 この連載「植物と薬と人間」の第1回目なので、まず私の自己紹介から始める。私は長く大学の薬学部で生薬学や植物成分のゲノム機能科学、バイオテクノロジーなどを研究教育してきた。今は理化学研究所で、SDGs(持続可能な開発目標)の実現を目指した研究センターの管理運営と植物研究に携わっている。この6回連載では、植物と薬や人間との関わりについて、つれづれに思うところを書くつもりである。どうぞ、気楽に読んで頂きたい。

匂いは人間の感覚の原始的、本能的な部分に関わっているという話を聞いたことがある。確かに、人生の様々な場面の古い思い出が、匂いと共に鮮やかに呼び起こされることが多い。私も研究者キャリアにおいて教えを請うた何人かの先生方の教授室の匂いや、そこでの会話の場面を思い出すことがある。最初の学部学生時代に指導を受けた愛煙家の先生の教授室は、タバコのヤニの匂いで満ちていて、先生の顔はいつも紫煙の向こうにあった。大学院時代の恩師で微生物や植物の化学成分を専門とする先生の教授室は、オートクレーブから発する微生物培地の匂いがした。留学先のベルギーの先生の教授室は、床磨きワックスのクレゾールの匂いがしていた。この先生は、植物遺伝子組換えの開拓者だったので、元素周期表を模した様々な作物のパネルも教授室の壁に飾られていた。

 私の前任の薬学部教授は生薬学や薬用植物学を講じていたので、教授室には国内外からの生薬や薬用植物の標本がたくさん置いてあった。そこは、いわゆる「漢方薬の匂い」で満ちていた。この漢方薬の匂いは、様々な生薬(主に植物などの天然物に由来する素材を精製せずに用いる薬)から発せられる揮発性化学成分が混じりあったものに由来する。これらは、精油(エッセンシャルオイル)とも呼ばれ、香りのよい植物(いわゆるハーブ類)や生薬から水蒸気蒸留によって得られる揮発性油成分の混合物である。

精油を含む生薬は多くあるが、その中でも歯医者さんになじみの深い生薬が丁子(あるいは丁香)である。英語名はクローブ(Clove)で、東南アジア原産のフトモモ科植物のチョウジ(Syzygium aromaticum)の開花直前の蕾を乾燥したものである。丁子の名前はその形状が釘(丁の同義語)の形に似ていることに由来する。丁子は、その種小名(aromaticum)にも示されているように、その刺激的で特徴的な香りによって、スパイスとしても重用されカレー料理の風味付けや肉料理の臭み消しに用いられる。

この特徴的な香りの元である丁子に含まれる精油は、その重量の15〜20%にも達する。この精油中80%を構成する主化学成分がオイゲノール(ユージノール)である。この主成分オイゲノールには、鎮痛作用、抗炎症作用、局所麻酔作用などがあり、酸化亜鉛ユージノールとして歯の仮封、歯髄の鎮痛消炎や補綴の目的で歯科領域において汎用されている。従って、誰でもこの丁子の匂いを嗅ぐと「あっ、歯医者さんの匂い」と言って歯科治療を思い出すのである。

このオイゲノールは、殺菌薬や消毒薬としても用いられているが、基本的に強い油性の揮発性有機化合物である。薬学部教育のなかでは生薬鑑定の項目があり、重要な生薬を透明なプラスチック容器などに入れて教育に用いているが、丁子を入れた容器は、この揮発性の油成分であるオイゲノールの作用で白く曇ってしまう。それくらい、丁子の中のオイゲノール含量は多く、揮発性が高くプラスチックを曇らせてしまう有機化合物である。

私も前任の教授の後を継いで、薬学部では生薬学や薬用植物学の講義を担当したが、決して植物の名前や育て方に詳しい訳ではない。市民講座などで講演した後や、古い同級生などに会うと、自分の好みの植物の育て方やその名前を聞きに来る方が多いが、多くの場合は残念ながら満足のいくお答えをすることが出来ない。このような植物を見る目や植物を育てる能力などの、いわゆる「植物心」は先天的な才能に依るところが大きいように思う。専門教育を受けていなくても、植物を見分けて名前を覚え、次に見たときに正確に判別できる先天的な能力を持った天才的な人たちが確かにいる。日本の植物の分類に大きく貢献した牧野富太郎氏などはこのような天才の一人だったと思われる。

しかし、現在では私のように植物を見分けて名前を覚えることに凡庸な人間にも便利なスマホのアプリが利用可能になっている。私もそれらの植物判別アプリを使っている。その精度は98%とも言われているが、確かに一部分だけの写真を撮っても直ちに植物名やその植物に関する様々な情報を教えてくれる。実に便利ではあるが、昔のように学生版牧野植物図鑑を携えて、いちいち特徴を捉えて名前を調べた楽しみはなくなってしまう。

さて、話は脱線してきたが、教授室の匂いの話にもどろう。私は昨年3月に薬学部教授を定年退職したが、かつて私の教授室を訪れた若い学生さん達が巣立った後に、何年かして私の教授室の何を思い出すだろうか? 爽やかな芳香か、はたまた、息苦しい雰囲気に包まれた思い出か? こちらとしては長い学期末の試験成績をもらう時の出来の悪い学生のような気分である。

図1 生薬「丁子」の写真

図2 丁子の揮発性主成分オイゲノールの化学構造、いわゆる「歯医者さんの匂い」の元になる物質