2006年度から薬学部教育は薬剤師を目指す6年制コース(薬学科)と創薬研究者を目指す4年制コース(多くの大学では薬科学科と呼称)とが並行して行われるようになった。その結果、薬学の教育内容はますます多様化・高度化している。一方、科学研究や科学者に対する社会からの要求も同時に多様化・高度化している。このような状況は薬学部のみならず、先端的な生命科学を教育研究する高等教育機関において共通する問題であろう。生命科学をめぐる社会的な議論―例えば、再生医療、ゲノム医療、遺伝子組換え、バイオエネルギーなど科学的な問題ばかりでなく、科学研究の評価と研究費配分(税金投入)、科学的不正など科学社会の問題―に対して科学者自身が説明と意見を述べることが求められている。このような状況で従来の教育プログラムだけでは日本の将来の科学を担う人材育成に大きな危惧を感じざるを得ない。そこで、筆者はこれらの生命科学系の学部・大学院教育において、実践的な科学哲学や科学倫理教育についていくつかの試みを実施しているので紹介したい。以下に述べることは薬学の学部・大学院教育に限らず、先端的でかつ応用を志向した生命科学の高等教育一般に共通する問題であると思われるので読者の参考になれば幸いである。
まず、どのような問題意識から出発したかを以下に列挙してみたい。
そこで、筆者は薬学部4年制の薬科学科(薬剤師国家試験受験資格は得られないが大学院を経由して創薬および生命科学研究者になることが主な進路と見なされているコース)の3年次後期に開講されている「分子生命科学」の講義の一部に「生命科学のための科学哲学入門」を講義している。さらに主に薬学系大学院修士1年次生を対象にした大学院講義「遺伝子資源応用学・遺伝子創薬学特論」の4月の講義に、科学研究の進め方、科学研究の評価、文献計量学、科学的不正行為、科学倫理などの問題を取り上げている。具体的には以下のような内容を取り上げている。
○薬学部薬科学科3年次後期「分子生命科学講義」での科学哲学関連項目
講義は対話形式で行い、最近の社会的な話題や具体的問題(再生医療、ゲノム医療、遺伝子組換え生物など)も取り上げて学生自らが時間をかけて思考を喚起できるようしている。
○大学院医学薬学府薬学領域「遺伝子資源応用学・遺伝子創薬学特論」での関連項目
(論理的な思考方法と問題設定と解釈の仕方、実験および関連技術、基礎知識と社会センス、国際センスとスキル、 研究遂行上の基本スキル)
(インパクトファクター、Eigenfactor、H-indexなどの使い方と注意)
(科学的不正とは、科学者の行動規範について(日本学術会議声明)、2009年日本分子生物学会での若手教育問題アンケートから、不正を未然に防ぐために)
講義後の学生・大学院生からのフィードバックを聞いてみると、「今までは教科書の知識を理解することだけだったが、初めて教科書の知識も疑う態度ができたように思う」「ちょうど自分のテーマの研究を始めたところで研究の進め方や目標設定に大いに参考になった」など前向きな感想が多かった。学部3年次後期と修士1年次4月は、ちょうど卒論や大学院研究など自らのテーマ研究を初めてスタートする研究者としても最も重要な時期である。この時期に科学哲学、科学論、科学倫理について考えることはその後の長い研究者人生に大いに役立つものと期待している。
最近の政府による事業仕分けを見ても、「説明できる科学者」「ものを言える科学者」「蓮舫議員に負けない説明力を持った科学者」が多く必要であることは明白である。マスコミやメディアも従来のようにノーベル賞を取った一握りの優秀な研究者だけの発言を取り上げるのではなく、多くの一般の科学者が社会に対して積極的に発言し議論することが科学の理解と健全な発展にとって重要である。そのために若い学生・大学院生に対して、研究現場にいる研究者による体系立ったこのような教育が必要である。今後ますます科学研究について社会に対して積極的に説明し社会的な幅広い議論を自らリードできる科学者を多く輩出する教育が求められる。