私が千葉大学薬学部に生薬学研究室の助手として赴任したのは1985年(昭和60年)4月なので、もう34年も前のことになる。赴任後しばらくして当時の研究室主任の村越勇教授(現・名誉教授)から、当時の立﨑隆社長を紹介して頂いた。この時、立﨑社長は前年に社長に就任したばかりで、エネルギーに溢れたまさに新進気鋭の溌剌とした若社長であった。立﨑隆氏は、昭和41年卒業の千葉大学生薬学研究室のご出身ということで、先代の萩庭丈寿教授(当時・名誉教授)時代の昔話や生薬学研究室の同門会の話などをさせて頂いた。また、常磐植物化学研究所としては甘草からのグリチルリチン製造が大きなビジネスに展開していた頃で、中国現地での甘草の収穫や取引、グリチルリチン製造など、当時から先進的だったビジネスとしての植物化学の話を聞かせて頂いた。
その後、立﨑隆社長とは頻繁にお会いするようになった。多くの場合、社長が千葉大の研究室に足を運んでくれて、生薬学同門会や千葉大薬学部同窓会(薬友会)の話、会社の植物化学事業の話、諸々の気の置けないよもやま話をされた。研究室に来るときは、大きな大福餅がたくさん入った折り詰めをお土産に持って来てくれた。おそらく、ご自身が学生のときに楽しみだった大福餅を同門研究室の後輩の学生達にも、という親心だったのであろう。
1995年(平成7年)に村越教授の後任として私が研究室主任を引き継いだ。その前年に薬用資源教育研究センターの設置に伴う組織改組があり、研究室名は遺伝子資源応用研究室と変わったが、実質的に旧生薬学研究室の教育研究を引き継いだ。この前後には研究室学生だった二人の方々が社員としてお世話にもなり、甘草やカンゾウ属植物についての遺伝子鑑別の共同研究や論文発表もさせて頂いた。この頃(1997年(平成9年)3月)に撮った立﨑隆社長とのツーショット写真がある。これは同じく生薬学研究室出身の大先輩である千葉大学薬学部の山崎幹夫教授(現・名誉教授)の定年記念祝賀パーティーでのスナップである。
そうこうするうちに、たしか2001年(平成13年)の年末か翌正月だったかと思うが、いつものように立﨑隆社長が研究室に来られた時に、折り入って相談したことがあるとのことだった。なにかと思って聞いてみると、ご長男の立﨑仁君(現社長)のことであった。隆氏によると、仁君は長男だがご兄弟のなかでも一番遅くに生まれたお子さんで、3月に学習院大学理学部化学科を卒業するが、将来は隆氏の後継者として会社を引き継いで欲しいと思っている。ついては、隆氏の出身研究室でもあり、昔から何かと関係の深い小生の研究室に研究生としてしばらく預かってもらえないかとのご相談であった。隆氏によると仁君は大学では物理化学を専攻し、同大学のラクロス部の主将として、優れたリーダーシップを発揮して歴代のなかで最も主将らしい主将という評価を受けているとのことであった。小生としても断る理由は全くなく、二つ返事で即座に引き受けた。私の研究室の研究テーマが、そのまま会社での研究開発やましてや将来の経営などにはとても役立つとは思えなかったが、本人には若い時だし、短い間でも薬学の中に入って、少しでも植物化学の新しいことに触れるも悪くなかろうと思った。
というわけで、立﨑仁君は2002年(平成14年)4月から研究室メンバーに加わった。立﨑隆社長の意向も勘案すると、仁君には新しい学問に触れることだけでなく、国際的な経験や人間関係の構築が最初のトレーニングとして重要かと考えた。特に、世界展開を目指し研究開発を標榜する会社の将来のトップとなるべく、国際性の涵養や研究開発でのリーダーシップ育成を想定したプログラムが必要に思えた。当時、研究室には30人くらいのメンバーがいたが、その中にヨーロッパから来た外国人ポスドク(博士号を有する若手研究員)が二人いた。そこで、その内の一人のパトリック・ジョーンズさんに仁君のチューターになってもらい、一緒に研究をやってもらうようにお願いした。パトリックさんは日本人女性と結婚していたが、ほとんど日本語はしゃべらず、コミュニケーションはすべて英語であった。仁君にとっては、全く新しい研究内容の上にそれをすべて英語で意思疎通しなければならず、かなりのチャレンジだったと思うが、こちらとしても「崖下に子ライオンを突き落とす親ライオンの気持ち」であった。この日々の研究とは別に、仁君には薬学部生の講義に使っていた生薬学の教科書を使って、植物成分の生合成経路とそれらから生産される生薬成分や効能についてのレポートも書いてもらった。これは、将来、植物化学を標榜する会社のトップとして最低限必要な基礎知識を、自ら努力して得ることが必要と思ったからである。おそらく大変な苦労があったことは想像に難くないが、仁君は見事に期待に応え、短い期間でパトリックさんを始め多くの研究室員と積極的に交わり、新しい分子生物学的な学問にも触れることができた。そうこうするうちに、隆社長と仁君の意向もあり、同年の秋学期から米国ノースカロライナ大学のKuo-Hsiung Lee教授のもとに留学して、本格的に国際経験と植物成分の機能研究に携わることになった。これは私としても実に本懐とするところであった。
ちょうど同じ頃、私の研究室と常磐植物化学研究所との間で共同して、大型の国家プロジェクトに参加するチャンスが得られた。それは、かずさDNA 研究所が研究コンソーシアムの中核となり、植物での有用物質生産をメタボロミクスなどのゲノム科学によって解明し、産業化に応用するという経産省の大きなプロジェクトである。研究コンソーシアムには我が国を代表する財閥系大手企業も多く参加した。その中にあって我々の千葉大―常磐チームは甘草グリチルリチンのバイオ生産をテーマとして取り組んだ。このプロジェクトは2002年(平成14年)の途中から2010年(平成22年)まで足かけ8年間も続いた。千葉大研究室から2名が本プロジェクト経費での常磐雇用の社員として千葉大に出向する形で研究を進め、常盤側からも研究開発部から2名が関わって推進した。この甘草のグリチルリチン生産の研究は、このプロジェクトを契機として国内の多くの甘草研究者も巻き込んで、いわばオールジャパン甘草研究として推進し、世界に先駆けて甘草のゲノム科学研究を大きく前進させる原動力となった。その結果、2008年にはグルチルリチン生合成に関する最初の遺伝子を世界で初めて単離し(米国アカデミー紀要に発表)、2011年には2番目の遺伝子も同定して(米国植物生物学会誌に発表)、それによりグルチルレチン酸を酵母を使ってバイオ生産できる道を拓いた。これらもすべて33年前の立﨑隆社長との最初の出会いから始まっている。その邂逅に深く感謝せねばならない。
立﨑仁君は2002年(平成14年)夏過ぎからノールカロライナ大学薬学部に留学したが、その後私は米国での学会参加に合わせて仁君を訪ねたことがある。その折は、現地にてLee先生と共に大いに歓待して頂いた。仁君はその後、大学院マスターコースを卒業し、帰国後他社を経てから常磐植物化学研究所に入社した。2010年(平成22年)からは会長職に退いた隆氏の後を受け四代目社長に就任した。その後の仁君の若き社長としての研究開発と経営での快刀乱麻ぶりは衆目のよく一致するところである。
立﨑隆氏は残念ながら会長在職中の2015年(平成27年)6月に73歳の若さでお亡くなりになったが、亡くなる3〜4ヶ月前にいつものように私の研究室に来られた。すでに、がんの病魔が進行していることは誰の目にも明らかであったが、立﨑会長は33年前に私と初めてお会いした時と全く変わらず快活で、魅力に溢れた話しぶりも全く変わっていなかった。しかし、後から考えるとこの時すでにある程度覚悟は出来ていたようで、5年前に仁君に社長職を譲り託した会社の将来についても、その後の仁君のたゆまぬ努力や周囲の献身的なサポートで安泰であり、まったく思い残すことはないという思いだったろうと想像される(合掌)。
常磐植物化学研究所の70周年に寄せて、三代目と四代目の社長である二人の立﨑家の方々との個人的な思い出を思いつくままに書かせて頂いた。今後、常磐植物化学研究所と立﨑家が益々、ご発展、ご繁栄をされることを祈念して、同社70周年へのお祝いの言葉としたい。
所属・氏名:
千葉大学 大学院薬学研究院 遺伝子資源応用研究室・教授
理化学研究所 環境資源科学研究センター・副センター長
齊藤 和季
略歴:
1977年東京大学薬学部卒。同大学院大学院薬学系研究科を経て82年薬学博士号取得。慶應義塾大学医学部助手、千葉大学薬学部助手、ゲント大学遺伝学教室留学、千葉大学講師、助教授を経て、95年同教授、2016年同薬学研究院長・薬学部長。2005年から理化学研究所グループディレクターを兼務、現在同環境資源科学研究センター副センター長。生薬学、薬用植物や植物成分のゲノム機能科学、植物バイオテクノロジーなどの研究と教育に携わる。紫綬褒章、文部科学大臣表彰科学技術賞、日本薬学会賞、日本植物生理学会賞、日本生薬学会賞、日本植物細胞分子生物学会学術賞、国際メタボロミクス学会終身名誉フェローなどを受賞。近著に「植物はなぜ薬を作るのか」(文春新書2017年)など。