なんども県立図書館に通っていると、そのたびに自分の興味の対象が少しずつずれてき
て、読みたいと思う本もだんだんと入れ替わってくる。そんな中で次の本はタイトルがい
かにも胡散臭くて、なかなか手に取らなかったもののひとつである。しかし、いつかは読
むことになるのではないかという予感はしていた。Misquoting Jesusが「捏造された聖書」
とは名前でずいぶんと損をしているのではないかと思うのだが、どうだろうか。
そんな時、紀伊国屋書店で「破綻した神 キリスト」を手に取った。待ち合わせまでか
なり時間があり、その第1章の部分32ページを読んでしまった。本屋の立ち読みで32
ページは、かなりこたえる。背中が痛くなってしまったほどだ。ぜひ続きが読みたいと思
ったので、県立図書館で探してみようと書名と著者名を記憶して帰った。数日後、県立図
書館で検索して見ると「破綻した神 キリスト」はなく、同じ著者の「捏造された聖書」
があることが分かった。ああ、あの本かという感じで借りて帰ったが、これがけっこう面
白かった。というよりバート・D・アーマンと松田和也の訳が気に入ってしまった。深い
内容をやさしく説いている姿勢がとてもいい。こうなると是が非でも「破綻した神 キリ
スト」が読みたくなる。同じ著者で、同じ訳者なのだ。「捏造された聖書」を読み終わっ
た次の日に、本屋に走ったのはいうまでもない。
また、最近「キリスト教成立の謎を解く」という本が出版された。今回は、訳者が津守
京子という女性に変った。松田和也さんはどうしたのかなと思いつつもバート・D・アー
マンの既刊の本「捏造された聖書」、「破綻した神 キリスト」と三部作をなす本だとい
うので、さっそく買い求め、読んでみた。個人的には、第5章がとても面白かった。奇蹟
や復活を含むイエスの生涯を、彼がどのように捉え理解しているのかに、とても興味があ
ったからだ。
*後日知ったことだが、松田和也の代表的訳書にマイケル・ムーアの『stupid white men』
(『アホでマヌケなアメリカ白人』)というのがあるが、彼はこの翻訳で大変な犯罪的行
為を行ったらしい。詳しくは、http://plaza.rakuten.co.jp/atsushimatsuura/4000 を参照。
そしてこのようなことを言っている。http://www.edu.dhc.co.jp/fun_study/interview/index003.html
柏書房は、訳者を変えて改訂版を出版すべきなのではないだろうか。
著者:バート・D・アーマン (ノース・キャロライナ大学教授兼宗教学部長、新約聖書、原始キリスト教会、イエス伝の権威、著書多数)
書名:捏造された聖書(Misquoting Jesus―The Story Behind Who Changed the Bible and Why)
発行:柏書房 四六版・296頁 本体2,200円+税
はじめに
1.キリスト教聖書の始まり
2.複製から改竄へ
3.新約聖書のテキスト
4.改竄を見抜くーその方法と発見
5.覆される解釈
6.神学的理由による改変
7.社会的理由による改変
終章 聖書改竄
著者、バート・D・アーマンはノース・キャロライナ大学教授兼宗教学部長。現職を考
えれば成功したキリスト教学者である。かなり長めの「はじめに」において著者はまず、
自身のキリスト教遍歴とそれに付随してもたらされた彼の成功譚を語る。この「はじめに
」はこの著者の思想と信仰に対するスタンスを理解するうえでもっとも端的に語られた部
分であり、この著作の残りの部分全部と同じくらい重要と思われるので大体をかいつまん
で示す。
-------------「はじめに」の要約始まり---------------
著者は1950年代半ばにアメリカ南部保守地帯の中流家庭に生まれ、日曜学校に通う
程度の宗教生活を過ごしていたが、高校二年生のときに学内キリスト教青年団の会合に顔
を出すようになり、その若いリーダーによって「再生」を体験する。
このリーダー(ブルース)は聖書を自由自在に引用することができた。この再生体験を
契機にその後の30年間において、深くキリスト教に関係するようになる。この「再生」
を体験した人がそうなるように、自分こそが「真の」キリスト教信者であると考えるよう
になった著者は、ブルースと同じくシカゴのムーディ聖書研究所に入学。聖書神学を専攻
しようと決めたが、それはつまり「聖書は無謬なる神の御言葉である。」聖書にはただひ
とつも誤りはない。一字一句に至るまで完璧に神の霊感によって書かれたものなのである。
ということを「洗脳」に近いかたちで学ぶものであった。
しかし、聖書が「一字一句に至るまで」霊感によって書かれた言葉であるという主張に
は問題があった。ムーディのカリキュラムの最初のコースで習うのだが、新約聖書のオリ
ジナルなんてものは、世界のどこにも存在しない。あるのは何百年も後に作られた複製だ
け、しかもそれを写した書記によって時には不注意によって、時には意図的にあちこちが
改竄されたもの。つまり今日の私たちが手にしているのは霊感を受けた言葉の書かれた聖
書の間違いだらけの複製にすぎない。よって聖書のオリジナルには何が書いてあったかを
査定することこそが死活の急務となる。
そういうわけで新約聖書の写本に興味を持つようになり、18歳にしてムーディで「本
文批評」と呼ばれる学問分野の基礎を学んだ。その前に新約聖書のオリジナルな言語であ
るギリシャ語とそれ以外の古代語、たとえばヘブライ語などと他の学者たちの意見を知る
ためにドイツ語、フランス語などの現代ヨーロッパ語も学んだ。
ムーディでの3年間を終えるころには真剣にキリスト教学者を志していた。当時の著者
が考えていたのは、福音主義キリスト教徒の中には教養ある学者がごまんといるが、(世
俗の)教養ある学者たちの中に福音主義キリスト教徒がたくさんはいない。だから自分は
世俗社会の中で福音主義を説く「声」になってやろうと、そのためにはきちんと学位を取
り、世俗の環境の中で教育に携わるようになろうということだった。そのために福音主義
の最高ランクの大学、シカゴ郊外のホイートン・カレッジに行くことにした。
ホイートンで英文学を専攻し、ギリシャ語を完全にマスターする中で、「霊感によって
書かれた神の御言葉」という理解に疑問を抱かざるを得なくなった。もしも聖書の言葉の
意味を完全に理解するためには、それをギリシャ語で研究しなければならないとすれば、
そんな古代語の読めないほとんどの人はどうなるというのか。それだけでなく、ギリシャ
語を学ぶにしたがって新約聖書が書かれている写本そのものに、そして本文批評という学
問に興味を抱くようになった。そして何世紀も後になって作られた複製しかない聖書の正
体を理解するための研究にますますのめり込んでゆく。
ホイートンでは2年で学位を取りホーソーン教授の指導の下でさらに新約聖書の本文批
評の道を究めることとし、この分野の世界的権威であるプリンストン大学神学校のブルー
ス・M・メツガーという学者に教えを請うことにした。このころには著者の知識に対する
情熱も著しく拡大しており、もしも「真実」を学ぶということがもはや高校の頃に馴染ん
でいた再生派キリスト教徒でなくなってしまうということと同義であるのなら、それもま
た良し。真実追求の旅をとことん突き詰めてやろうと思うようになっていた。
無謬なる神の御言葉としての聖書に対する献身は、プリンストンでの精密な研究によっ
てさらに深刻な危機に曝されることになった。ターニングポイントとなったのは『マルコ
による福音書』に関する論文を提出したときだった。イエスの言葉にある「安息日は人の
ために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と述べ、ダビデ王と供の者たち
が空腹だったときのことに言及する。曰く「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは
神の家に入り、祭司のほかには誰も食べてはならない供えのパンを食べたではないか」。
しかし、旧約聖書の一節を見るとダビデがこれを行ったときの大祭司はアビアタルではな
く、その父親のアヒメレクなのだ。これは聖書といえども決して無謬ではなく、なかには
間違った箇所もあるということを如実に示す一節だということだ。
著者は提出した論文のなかで「マルコはアビアタルが大祭司であったときに起こったと
述べているが、それは実際にアビアタルが大祭司であったということを意味するのではな
く、本当はこの出来事がアビアタルが主要なキャラクタとして登場する部分において起こ
ったということを表しているのである」と複雑な議論を長々と、しかしそこに用いられい
るギリシャ語の単語の意味に基づいて展開した。教授はこの論を高く買ってくれるものと
思い込んでいた。しかし、帰ってきた論文を見ると、その末尾に添えられた教授のコメン
トはたったの一行だけ、「たぶんマルコはたんに間違えたのでしょう」。著者は頭を抱え
た。自分がこの論文に込めた作業のすべてを考え抜いた。そして自分が、好ましからざる
問題を迂回するため若干のアクロバット的釈義に頼っていたということを認めざるを得な
かった。実際のところこじつけの気味がなきにしもあらずであった。そして最終的につぎ
のような判断を下すに至った。「あううう....もしかしたらマルコは本当に間違えた
のかもなー」。
現存する写本同士の間に存在する相違点の数は新約聖書に出てくるすべての単語の数よ
りも多い!これらの相違点のほとんどは、実は全く取るに足らないものだ。たいていの場
合は、たんに昔の書記たちのスペリング能力がほとんどの現代人よりも劣っていたことを
示しているに過ぎない。(しかも彼らには辞書すらなかったのである。スペルチェックソ
フトなんて言わずもがなだ。)これは霊感というものに対する著者の観念にとっては厄介
な問題だった。というのも、もしも神がその気になれば、ちょいちょいと奇蹟のひとつも
起こして、聖書の言葉を同一に保つことくらい朝飯前であるはずなんだから。
少なくとも最初にその霊感を人間に与えた以上、それに比べて遥かに手間のかかるとも
思えない。神が本当に自分の民に自分の言葉を与えることを欲したのなら、間違いなくそ
うしたはずだ。にもかかわらず神の言葉が現存していないという事実は、神が私たちのた
めに御言葉を同一に保つということをしてくださらなかったということを意味しているに
違いない。そして神がそんな奇蹟を起こしてくださらなかったということは、それ以前の
奇蹟、すなわち、御言葉を霊感として人間に与えたという奇蹟を信ずる理由もないのでは
ないかと思えたのである。
聖書は著者にとって、ひじょうに人間的な本になりはじめた。聖書のテキストを人間で
ある書記が複製し、改竄したのと同様、人間である「著者」が元来のテキストを書いたの
だ。これは徹頭徹尾「人の書」なのだ。それぞれ異なる人間の著者が、それぞれ異なる時
代に、異なる場所で、異なる目的のために書いたのだ。これらの著者の多くは自分は神か
ら霊感を受けて書いたというだろうが、彼らにはそれぞれ独自の観点があり、独自の信条、
独自の視点、独自の必要性、独自の欲求、独自の理解、そして独自の神学があった。そし
てこれらの観点、信条、視点、必要性、欲求、理解、神学こそが、彼らの語ることすべて
を特徴づけている。これらすべての点で彼らは互いに異なっている。つまり、マルコとル
カの言っていることに食い違いがあるのは、マルコとルカの考えが違うからだ。ヨハネと
マタイも違うー同じじゃない。パウロは『使徒言行録』とは違うし、ヤコブはパウロと違
う。それぞれの著者は人間であって、だから彼が言わずにいられない事柄を読み取る必要
がある。彼の言うことが、他のあらゆる著者の言わずにいられないことと同じであるとか、
似通っているとか、首尾一貫しているなんて頭から決め付けてはいかんのである。つまり
一言で言えば、聖書とはきわめて人間的な本であるということだ。
-------------「はじめに」の要約終わり---------------
「神の国がきたら・・・」
聖書を読んでいていまいちよく解らんと思っていた箇所に、「神の国がきたら・・・」
と補うことで大抵の部分で意味がはっきりとすることが分かった。有名な山上の垂訓であ
る。なぜ、「貧しいものは幸いである、神の国はその人たちのものである」なのか。つま
り「貧しいものは幸いである、(神の国がきたら)神の国はその人たちのものである」。
なぜ、「悲しむものは幸いである、その人は慰められるからである」なのか。 つまり、
「悲しむものは幸いである、(神の国がきたら)その人は慰められるからである」。実に
初歩的な見落としである。聖書独特の言い回しに目がくらんで、こんな簡単なことに気が
つかないのだ。これはその他の部分にも言える。
彼ら(ヨハネやイエスや使徒たち)は、本当に世の終わりがもうすぐにも来ると信じて
いたのだ。これは新約聖書を貫く重要な視点だ。(これはヨハネのことばとしても、イエ
スの言葉としても、パウロのことばとしても何度も繰り返されている。)
だから、「貧しいものは幸い」と言えるのだ。イエスの死後何十年が経っても「神の国」
「天の国」は来なかった。この先も来そうにない。(結果的には二千年が経っても「神の
国」は来なかった。この先も来そうにない。)そうするとまずいことになるぞ。いつまで
も「貧しいものは幸い」ということでは信徒を引きつけていられなくなってしまうのだ。
「貧しいもの」たちはそんなに長い間「貧しいもの」でいつづけられない(二千年も)。
(だから「貧しいもの」を「心の貧しいものは幸いである」とし、「飢えるもの」は「義
に飢え渇くものは幸いである」とし云々、と精神主義的に改竄されたと田川建三はいう。)
最も詐欺的行為と思われるものは、この世に来なかった「神の国」という事実を糊塗す
るために、「神の国」は死んだ後に行く所、空の上(天国)とされたこと。同時に悪いヤ
ツラの行くところは地面の下にある(地獄)とされたこと。これはそうとうなインチキで
ある。「明日にでも、百万円をあげよう。」といっていたのに、なかなかくれないので、
そのことを訴えようとしたら、「あの世で一千万円をあげることにしたから。」と言われ
たようなものだ。
もう一度言おう、彼らは、本当に世の終わりがもうすぐにも来ると信じていたのだ!!
その激しい渇望を文章にしたのが黙示録。けっして未来の我々に当てて書かれたものなど
では断じてない。当時の彼らの時代に、今すぐにでも来てほしい状況を書き記したものだ。
今日の我々の時代を見通して書いたのではなく、彼らの時代から少し遡って書き始め、(
そうすることによって、既定の事実を預言の一部として織り込みながら、信ぴょう性を付
加することが可能になる)あくまでも彼らの時代の願望を書き記したにすぎないのだ。だ
から今の世に当てはめてああだこうだと解釈するようなしろものではない。そんなものは
デタラメにしか過ぎないのだ。この世で一儲けを企むヤツラに決して惑わされてはならな
い。
Misquoting Jesus A Talk By Bart Ehrman
http://www.youtube.com/watch?v=Y3N4ymHO-eA
Bart Ehrman
http://www.youtube.com/watch?v=KaCRWg535rQ
著者:バート・D・アーマン (ノース・キャロライナ大学教授兼宗教学部長、新約聖書、原始キリスト教会、イエス伝の権威、著書多数)
書名:破綻した神 キリスト(God’s Problem―How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question ? Why We Suffer)
発行:柏書房 四六版・340頁 本体2,200円+税
まえがき
第1章 人の苦しみと信仰の危機
第2章 怒れる神の手の上の罪人たち―苦しみに対する古典的見解
第3章 さらなる罪にさらなる怒り―古典的見解の支配
第4章 罪の帰結
第5章 大いなる善の神秘―救済のための苦難
第6章 苦しみの意味は―『ヨブ記』と『コヘレトの言葉』
第7章 最後に神は勝つ―ユダヤ=キリスト教の黙示思想
第8章 黙示思想の発展―悪に対する神の最終的勝利
第9章 人はなぜ苦しむのか―結論
第1章の「人の苦しみと信仰の危機」より冒頭部分を抜粋して紹介します。もし、この本を
読む必要のあるひとならば、この冒頭部分を読むだけで、その先を読みたくなることと思う
からです。
第1章 人の苦しみと信仰の危機 より冒頭部分を抜粋----------------
もしもこの世に全能にして愛なる神が存在するなら、なにゆえに世はかくも仮借なき苦痛、
筆舌に尽くしがたき苦難に満ち満ちているのだろうか? 人はなぜ苦しむのかという問題は
ずっと昔から私に付きまとってきた。若き日の私が宗教に考えを向けるようになったのはそ
れゆえであり、星霜を重ねた私が信仰に疑問を抱くようになったのもまたそれゆえである。
そしてついに私が信仰を失うに至ったのもまた、その問題ゆえである。本書はこの問題のい
くつかの側面について、ことにそれが聖書においてどのように取り扱われているかについて、
考察を加えようとするものである。聖書の書記たちもまた、この世の苦痛と悲惨の問題に取
り組んでいたのだ。
この問題が何ゆえにそれほど私にとって重要であったのかをご理解いただくために、少々
私自身の話をしたい。人生の大半を通じて、私は敬虔かつ熱心なキリスト教徒だった。会衆
派の教会で洗礼を受け、聖公会員として育てられ、12歳のときから高校を出る時まで侍者を
勤めていた。高校に入ってほどない頃から<ユース・フォー・クライスト・クラブ>に顔を
出すようになり、「霊的再生」(ボーン・アゲイン)を体験した---いまにして思えば奇
妙な話ではある。それよりも何年も前から私は教会に通い、キリストを信じ、神に祈り、罪
を告白し、といったようなことを続けていた。では、今さら霊的に再生して何を得ようと思
ったのか? たぶん、地獄に堕ちたくなかったのだ---「救済」に与れなかった哀れな人々
とともに永劫の業苦に責め苛まれるなんて、真っ平であった。行くなら断然天国である。い
ずれにせよ、霊的再生の体験によって私は自分の信仰が一段階上がったように感じた。私は
信仰について真摯に考えるようになり、ファンダメンタリストのバイブル・カレッジ---
シカゴにあるムーディ聖書研究所---に進学して牧師になる勉強を始めた。
私は熱心に聖書の学習に取り組み---その多くを暗記してしまった。とくに新約聖書は
初めから終わりまで一字一句違わず暗唱できるほどになった。聖書学と神学に関する免状を
もらってムーディを卒業すると(当時のムーディは学士号を出していなかった)、次にイリ
ノイ州にある福音派キリスト教の学校であるホイートンに行った(ここはビリー・グラハム
の母校でもある)。そこでギリシア語を学んだ私は、新約聖書を原語で読めるようになった。
そこで私は、新約聖書のギリシア語写本の研究に生涯を捧げたいと考えるようになり、長老
派の学校であるプリンストン神学校に行くことにした。そこの有能な教授陣の中に、アメリ
カ最高の文献学者であるブルース・メツガーがいたのである。このプリンストンで、私は神
学修士の学位---牧師になる修業---を取り、そしてついに新約聖書の研究によって文
学博士号を取った。
このような経歴を書いたのは、つまり私がガチガチのキリスト教徒であり、キリスト教の
信仰に関しては隅から隅まで知り尽くしていたということを示すためである---結局はそ
の信仰を失うことになるのだが。
大学と神学校にいる間、私は積極的に多くの教会と関わった。故郷のカンザス州ではすで
に聖公会を辞めていた。というのも、奇妙に聞こえるかもしれないが、この教会が信仰に対
してあまり真剣ではないように感じたからだ(福音派時代の私は妥協というものを知らなか
ったのである)。その代わり週に2,3回ずつプリマス同胞教会(真の信仰者たちの集まり
である!)に通うようになった。家を出てシカゴに暮らすようになると、福音契約派教会の
牧師補佐を務めた。ニュージャージーの神学校時代には、保守的な長老派教会とアメリカン
・バプティスト教会に通った。神学校を卒業すると、常任牧師が見つかるまでそのバプティ
スト教会の説教壇に立つことを求められた。そこで1年間、プリンストン・バプティスト教
会の牧師として毎日曜日の朝に説教し、祈りの会や聖書研究会を主宰し、入院中の病人を見
舞い、地域のための牧師としての責務を果たした。
だがそのうち、理由については後で述べるが、私は信仰を失い始めた。今ではすっかり失
っている。わたしはもはや教会にも行かず、教えも信じず、自分のことをキリスト教徒とも
考えていない。なぜそんなことのなってしまったのかが本書のテーマである。
私の前著『捏造された聖書』に書いた通り、研究すればするほど、聖書に対する強い信仰
が揺らいでいった。聖書は(ムーディ聖書研究所時代の私が確信していたような)言葉自体
に霊感の込められた神の無謬なる啓示などではないと徐々に気づき始めたのである。むしろ
聖書は実に人間的な書物であり、いたるところに人間の手が加えられた痕跡が残されている
---矛盾や不一致や誤謬や、個々ばらばらの書記たちの個々ばらばらの見解に満ち満ちて
いるのだ。なぜならそれらの書記たちはそれぞれに国も違えば時代も違う、執筆の動機も理
由も違えばその対象たる読者も違う。そしてその読者の欲求もまた全然違っているのだから。
とはいうものの、私が信仰を捨てたのは、聖書が抱える諸問題のゆえではない。これらの諸
問題は要するに、聖書に対する私の福音派的な見解は批判的吟味に耐えられないということ
を示すにすぎない。福音派を辞めた後も私は依然として---きわめて敬虔な---キリス
ト教徒であり続けた。
だがいずれにせよ最終的には私はキリスト教を棄てざるを得なくなった。それは簡単なこ
とではなかった。それどころか、私は足をばたばたさせて泣き喚きつつ、何とか信仰にしが
みつこうとしたのである。何と言っても、私は子供の頃から信仰に慣れ親しみ、10代以降は
それこそ人生を懸けてのめり込んできたのだ。だが私は、もうこれ以上信じることのできな
い地点にまで辿り着いてしまった。話せば長くならざるを得ないが、簡単に述べよう。要は
私は、キリスト教の主張と人生における事実の双方を妥協なく受け入れることはできないと
いうことに気づいてしまったのである。ことに、世界の状況を見る限り、この世界に全能に
して愛なる神が能動的に介入しているということはあり得ないと言わざるを得ない。地球上
の多くの人々にとって、人生とは悲惨と苦しみの詰まった肥溜に他ならないではないか。私
はもはや、この世を統轄する善良で親切な神が存在するということを信ずることができなく
なってしまったのだ。
なぜ人は苦しむのかという問題は、私にとってはまさに信仰の問題となった。私は長年に
わたってこの問題に取り組んだ。自分でもこれを解こうと努め、また他の人々が考え出した
解についても考え抜いた---単純さが魅力というべきおきまりの答えもあれば、真摯な哲
学者や神学者によるきわめて高邁玄妙な解もあった。だがこれらの解について考え抜き、自
らもこの問題と格闘し続けた末、9年前か10年前のことだったと思うが、ついに私は敗北を
認めたのだった。私はもはやキリスト教の神を信じることはできないと悟り、不可知論者と
なった。不可知論者である私には、神が存在するかどうか「判らない」。だがもしも存在す
るなら、その神はユダヤ=キリスト教が主張するような能動的かつ強力にこの世に介入する
神ではないということは間違いない。こうして私は教会に行くのを止めた。
今では教会に行くのは、妻のサラにどうしてもと頼まれた時くらいのものだ。サラはきわ
めて聡明で知的な女性で---デューク大学で中世英文学を講じる著名な教授である---
かつ敬虔なキリスト教徒でもあり、聖公会に属している。彼女にとっては、私の取り組んで
いる人の苦しみの問題は何ら問題ではない。聡明かつ善意溢れる人間が、人生における最も
基本的で重要な問題についてこれほど違った見解を持つことができるというのも、考えてみ
ればおかしな話だ。
なんにせよ、私が最後に教会へ行った時もサラと一緒だった。昨年のクリスマス・イヴで、
この時私たちはイギリスはケンブリッジ近郊の市場町サフロン・ウォルデンに住むサラの兄
弟サイモン(彼もまた不可知論者)を訪ねていた。サラは地元の聖公会の深夜礼拝に行きた
いと言い張り、サイモンと私---共に彼女の宗教観を尊重している---も付いていくこ
とになったのだ。
若い頃の私は、クリスマス・イヴの礼拝こそが一年で最も意義深い礼拝であると考えてい
た。聖歌とキャロル、祈りと頌詞、厳かな聖書の朗読、神なるキリストが人間の赤子として
この世にお生まれになった至聖の夜についての黙想---私は、今なおこの時に対して強い
感情的執着を抱いている。罪びとたちを救済するためにこの世に降臨する神の物語は、今な
お私の心の深奥を揺り動かす。だから私は、たとえもはや信者でない人間にとっても、この
クリスマス・イヴの礼拝は感動的で心を揺さぶるものとなるだろうと予期していた。
そして確かにそれは感動的ではあったが、私の予期していたような感動ではなかった。私
を最も感動させたのは聖歌でも式文でも説教でもなく、会衆の祈りだった。聖公会祈祷書か
ら引いてきたものではなく、この礼拝のために書かれたもので、通路に立つ一人の平信徒が
朗々たる声で読み上げた。彼の声は、洞窟のような教会の広大な空間に響き渡った。「あな
たは暗闇の中にお出でになり、世界を変えました」と彼は言った。「どうか再び、この暗闇
の中にお出でください」。この言葉はこの祈りの反復句として、深く高らかな声で数回繰り
返された。頭を垂れてこれを聞き、そして考えているうちに、私はいつしか涙を浮かべてい
た。だがそれは喜びの涙ではなかった。不満の涙だった。神が幼いキリストとして暗闇の中
に降臨し、世に救いをもたらしたのなら、なぜ今の世界はこんなありさまなのか? なぜ神
は再び暗闇の中に降臨しないのか? この苦痛と悲惨の世界において神はどこにいるのか?
なぜこの暗闇はこれほどまでに圧倒的なのか?
この心のこもった善意溢れる祈りの根底には聖書のメッセージの精髄がある。聖書の記者
たちにとって、世界を創造した神は愛と力であり、信者を苦しみと悲しみから解放し、救済
をもたらすためにこの世に介入する---その救済はあの世ではなく、われわれが生きてい
るこの世でもたらされるのだ。族長たちの神は彼らの祈りに答え、自らの民のために奇蹟を
起こした。『出エジプト記』の神はエジプトで奴隷にされていた自らの民を救った。イエス
の神は病人を癒し、盲人に光を与え、足萎を歩ませ、飢えるものを満たした。この神は今、
どこで何をしているのか? 彼は暗闇に降臨して世界を変えたというのなら、なぜ今もなお
世界は何一つ変わっていないのか? なぜ病人は今もなお筆舌に尽くしがたい苦痛に苛まれ
ているのか? なぜ今もなお先天性欠損症の子供が生まれるのか? なぜ幼い子供が誘拐さ
れ、強姦され、殺されるのか? 何百万もの人間を飢えさせ、恐ろしく苦痛に満ちた生と恐
ろしく苦痛に満ちた死をもたらす旱魃はなぜ起こるのか? かつて神がイスラエルの軍に介
入し、敵の手から救出したのなら、なぜ今、嗜虐的な暴君の軍が村を、街を、国全体を攻撃
し破壊している時、神は介入しないのか? この暗闇の中に神がいて、奇蹟によってパンを
増やし、飢えた者にお与えになるというなら、なぜ子供が---いたいけな子供が!---
5秒に1人の割合で餓死しているのか? そう、5秒に1人。
「あなたは暗闇の中にお出でになり、世界を変えました。どうか再び、この暗闇の中にお
出でください」。そう私はこの祈りを肯定し、この祈りを信じ、自らをこの祈りに委ねたい
と思う。だが、できないのだ。暗闇はあまりにも深く、苦しみはあまりにも強く、神の不在
はあまりにも明白だからだ。このクリスマス・イヴの礼拝が終わるまでのわずかな時間に、
全世界で700人以上の子供が飢えて死ぬだろう。250人が不潔な水によって死ぬだろう。
300人近くがマラリアで死ぬだろう。強姦され、手足をもぎ取られ、拷問され、傷つけられ、
殺される人々については言うまでもない。人身売買の犠牲となるひと、身を削るような貧困
に苛まれている人、われわれの祖国にいる極貧の移民労働者たち、ホームレス、精神病者も
また。衣食住の点では満たされている何百万という人々ですら、日々、苦しみを経験してい
る。先天性欠損症の子供の苦痛、交通事故で殺される子供、白血病で意味もなく殺される子
供、離婚と家庭崩壊の苦痛、失業、無収入、失望の苦痛。いったい、神はどこにいる?
How the Bible Explains Suffering
http://www.youtube.com/watch?v=y7cmUCjnCgE
God's Problem-Bart Ehrman (i-v)
http://www.youtube.com/watch?v=QRTS_yM89gE
http://www.youtube.com/watch?v=UQ4WtTbejMY
http://www.youtube.com/watch?v=S_OUrbojEtA
http://www.youtube.com/watch?v=O_uziQQ2JrE
http://www.youtube.com/watch?v=glh2Lb4ykYU
著者:バート・D・アーマン (ノース・キャロライナ大学教授兼宗教学部長、新約聖書、原始キリスト教会、イエス伝の権威、著書多数)
書名:キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書 (Jesus, Interrupted: Revealing the Hidden Contradiction in the Bible (and Why We Don't Know About Them))
発行:柏書房 四六版・350頁 本体2,400円+税
まえがき
第1章 信仰に突きつけられた歴史的挑戦
第2章 矛盾に満ちた世界
第3章 山積する様々な見解
第4章 誰が聖書を書いたのか
第5章 嘘つき、狂人あるいは主? 歴史的なイエスを求めて
第6章 いかにして私たちは聖書を手に入れたのか
第7章 誰がキリスト教を発明したのか
第8章 それでも信仰は可能か
著者自身がなぜこの本を書いたかということを語っている部分が、当然ながら、とてもよ
く著者の考えを表していると思われるので、その部分を引用し紹介する。ぜひキリスト教を
信じている人たちに、おこがましいことかもしれないが、より深い聖書とキリスト教の理解
のために、読んでみていただきたい本のひとつに挙げたいと思う。
第8章 それでも信仰は可能か? 歴史的批判と信仰(P.316)より
本書を書いたのもそのためである。驚く読者もいるだろうが、私は、キリスト教を批判す
るために、前章までを執筆したのではない。また、信仰というものが、たとえキリスト教信
仰であっても、無意味でばかばかしいものであることを証明するために、不可知論を展開し
ようと試みたわけでもない。そんなことは全然考えていないし、私が成し遂げたいことでも
ない。
私がやろうとしているのは、これまで何らかの事情で、多くの一般の人に知らされてこな
かった、昔からの聖書や初期キリスト教史の研究成果や知識を、新約聖書に興味がある人な
ら、誰でも知ることができるようにすることだ。
いま一つの副次的な目的は、本書に書かれていることが、欧米のとりわけトップレベルの
神学校や神学部で学んだ学者や学生には、何ら目新しいものではないということを、読者に
知ってもらうことだ。新約聖書研究の歴史的・批判的手法は、これらの学校では、普通に教
えられていることである。確かに、私の見解に異議を唱える学者や教授はいよう。例えば、
ルカとマルコの考え方はちがうかどうか、とか、『ヨハネによる福音書』から得られる情報
は、歴史的に正確かどうか、とか、『テサロニケの信徒への手紙二』の作者はパウロかどう
か、といった個別的な点については、いろいろな説がある。しかし、大方の新約聖書を研究
する学者やその学生は、神学校を卒業して牧師や司祭になる者も含め、本書で私が概括した
基本的な見解を知っており、教えたり学んだりしているし、受け入れている。にもかかわら
ず、なぜ聖職につく学生は、こうしたことを信者に教えようとしないのだろう? 説教壇に
立っているときはともかく(説教をする時には、敬虔さが求められるから)、なぜ成人講座
でも、受講者に、歴史的・批判的アプローチではなく、信心を持って聖書を読むことばかり
強いるのだろう? 本書を執筆し始めた時から、私はこうした疑問を抱き続けてきた。
もちろん、信者に、聖書の歴史的・批判的知識を伝えようとしている牧師や司祭もいるが、
いつもすんなり聞いてもらえる訳ではない。学者が聖書についてどう考えているのか、貪欲
に知りたがる教区民もいれば、一切耳を貸そうとしない教区民もいる。後者の場合、難しす
ぎるからということもあろうが、自分の信仰がぐらつくことを恐れている人が多いのではな
いだろうか。
多くの牧師や司祭は、信者が、歴史的・批判的知識について検討するよりも、もっとずっ
と切実な悩みを抱えていると感じているのだろう。あるいは、単に、どこから着手すればい
いのか分からないのかもしれない。おそらくこれは、彼ら自身が神学校で受けた教育方法に
問題がある。彼らは聖書学課程で聖職者の職務を学ぶが、これらの分野を密接に連携させる
学際的な講義がないのである。特に、ほとんどの牧師や司祭の卵は、歴史的・批判的手法を
学ぶ課程が、別の課程で学ぶ神学とどう関係してくるのか、神学校ではまったく教わらない。
これは非常に残念なことだ。なぜなら、歴史的批判は、重要な神学的要素を併せ持っており、
こうした要素を取り入れ、広く知らしめなければならないからだ。
あるいは、聖職者は、信者が、聖書学の研究成果を知ってしまうと、信仰が危機に瀕する、
さらには信仰が失われてしまうかもしれないことを恐れているのだろう。私に言わせれば、
聖書への歴史的・批判的アプローチが、必ず不可知論や無神論に行きつくと考えるのは間違
いである。実際には、こうした手法が、信仰をより知的で思慮深いものにすることもある。
むしろ、歴史的批評家が歳月をかけて発見した問題点をことごとく無視して聖書を読むより
も、ずっと奥の深い内面的な信仰になることは明らかだ。
Jesus, Interrupted by Bart D. Ehrman
http://www.youtube.com/watch?v=qADxEspNE-Q
Ehrman vs. Luke and Mark
http://www.youtube.com/watch?v=ZDrdQuk1Jwk
Jesus, Interrupted Revealing the Hidden Contradictions in the Bible by Bart Ehrman Part 1 - 4
http://www.youtube.com/watch?v=2HnntlAd2x8
http://www.youtube.com/watch?v=UoQ54p6j6bc