中島みゆきの「SINGLES BAR」という曲を聴いたことがあるだろうか。
彼女のアルバム「パラダイス・カフェ」に入ってる曲だ。
彼女のあまたある曲のなかでは、あまり有名なほうでもないだろう。
聴きようによってはとんでもなく「ぶりっ子」かましてる気恥ずかしい曲だ。
それを中島みゆきは一層媚びるような、ささやくような歌い方で歌っている。
「だめだ、こういう曲は鳥肌が立ってしまって。」というひともいるだろう。
そうでない人は、もう少し聴きすすんでほしい。
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夜のSINGLES BARでのさみしい女の思いが情景と共に綴られているが、
繰り返される言葉は、
「夜の入口はさみしくて 眠りにつくまでさみしくて
人の気配のする暗がりに身を寄せたくなります」だ。
・・・・・・・・聴きながらふと思った。
これが人生だとしたらどうだろう。
だれかあなたを待たせてる人がおありですか
さっきから見るともなく見ている私を悪く思わないで下さい
そこから何が見えますかタバコの煙越し 窓の彼方
マスターはあい変わらず何も話さない 自分のことも何も話さない
夜の入口はさみしくて 眠りにつくまでさみしくて
人の気配のする暗がりに身を寄せたくなります
そろそろ退場する時間が迫ってきた。
その退場の瞬間までにはまだ少し間があって、とくにすることもない。
思わず他人の生き方に目をやって、しばし見つめてしまう自分。
そこのあなたは人生を、この世界をどう見ていますか。満足しているのですか。
あなたも私と同類なのですか、と確認したいが、声をかける勇気もない。
しょっちゅう顔を合わせるマスターは、むしろそのためか、
あるいは仕事一筋なのか、いまさら語り合う仲ではない。
あらためて人生など語り始めるわけにはいかないだろう。
人生の終盤期は解放感とともに人恋しくなって、同じように下り坂を歩む同級生と
同窓会など開いたりしたくなる。
せめて「人の気配のする暗がり」に身を寄せたい。
だれか拾いにきたわけじゃない
いまさらもういいんです
日々をひたすら生きてゆくだけだから
嘘のような時間がほしかったんです
出会うことも別れることも
いまさらもういいんです
ただ だれか同じような人が他にもいると思いたいんです
夜の入口はさみしくて 眠りにつくまでさみしくて
人の気配のする暗がりに身を寄せたくなります
べつに誰か語り合うひとが欲しいわけでもない。
もう、このままでも構いはしない。
その時までひたすら生きてゆくだけだから。
ちょっと夢見る時間があればそれでいい。
出会ったり別れたり、それすらも疲れることだし。
ただ、こんな風に感じているのはこの世に自分だけではないと、
それを確認したかっただけ。
古いレコードをかけるなら思い出よりももっと古いやつがいい
無邪気に「こんな曲知らない」と笑う私になれるから
SINGLES BARのさみしさは 帰りどきを自分で決めること
「もう帰ろうか」って言われて席を立つ残念さもくすぐったさもないこと
夜の入口はさみしくて 眠りにつくまでさみしくて
人の気配のする暗がりに身を寄せたくなります
夜の入口はさみしくて 眠りにつくまでさみしくて
人の気配のする暗がりに身を寄せたくなります
この曲の決め台詞は先ほどのリフレインの部分と、この
「SINGLES BARのさみしさは 帰りどきを自分で決めること」
最期の旅路に発つ頃合いは自分で見計らう必要があるということか。
苦しみの果てに「もう十分」と自分に言い聞かせること。
天国のような無邪気さを思わせて、突然「訣別」の現実に引き戻す。
この落差の大きさにリスナーはどっきりとさせられる。
ここまで気が付かなかったことが驚きになる。
そして、この驚きに聴くものそれぞれの持っているある種のうしろめたさ、
そう、中島みゆきの演じてみせる歌の中の主人公に対する加害者としての
良心の呵責と、演じている中島みゆきとのいつもの共犯関係を感じてしまい、
次第に抜き差しならない中毒状態に陥っていく。
もういちど、後ろ髪を引かれるようなこの甘美な終わり方をじっくり味わってみてほしい。
作品の多義性は芸術の重要な要素だと思う。