ところで、私のうちには猫が一匹います。もう17~18歳になる老猫です。ゴールデンレトリ
ーバーを飼っていたころ、その犬が公園でダンボール箱に入れて捨てられているのを見つけ
て、結局、うちで飼うことになったのです。私の手のひらに乗るくらいの小さなやつでした。
メイと名付けられたその雌猫は、とても気性が激しく、誰に向かっても尻尾をピンと伸ばし
て、まるでワニのように向かっていくのでした。口からは「プップップップッ」と猫特有の
怒りの声を吐きながら。猫用のミルクを与えるととてもよく飲みました。けれど、哺乳瓶の
乳首をすぐに嚙み千切ってしまうのが問題だったほどの気性の激しさでした。すくすくと育
ってあっという間に成猫になってしまいました。その間に食卓セットの椅子の背もたれは見
るも無残な状態になり、和室の襖は木の枠が削り取られ、壁紙のあちこちはささくれ立って
しまいましたが。
そんな猫に私は野性の気高さを見出しては感心したものです。その野性を見たさに、レジ袋
に入れて、破れて遠心力で飛んでいかないように気を付けながら、垂直にぶん回して歩ける
かどうかを試したりもしました。はたから見たら動物虐待ですね。確か何事もなかったかの
ように逃げていったと思います。そんな飼い主でしたから、私は嫌われていました。例えば、
私が居間に寝転がってテレビを見ているところに通りかかったその猫は、わざわざテレビの
向こう側へと回り込み、テレビと壁の間へと避けて通るくらい、徹底的に嫌われていました。
そんな関係が十年以上も続いて、私が退職し暇が出来た頃から少しずつ変わってきました。
暇になった私が、猫の世話でもしてみるかと思うようになったからです。ゴールデンは退職
して2か月くらいの時に死んでしまいましたから、猫がただ一匹残されていたのです。
毎回、餌をやり水を換えブラッシングをしてやっていたら、わたしにブラッシングをしてく
れと、おねだりをするようになったのです。それも必ず餌を食べながらブラッシングをして
欲しいと要求するようになったのです。私が書斎に籠っていると、階下から階段を上がって
くる可愛い音がして、書斎のドアのすぐ前で「ニャアー・ニャアー」とうるさく鳴いて「今
すぐ降りてこい、降りてきて背中を掻け。」と命令するのです。私が降りて行く先を、小さ
な尻をふりふりしながら階段を降りて行きます。
あまりに要求が激しいときは(認知症かもしれません、食べたことをすぐ忘れるみたいです)
添い寝をして掻いてやります。すると安心するのか、フイと立ち上がり、背伸びをすると、
いつものお気に入りの椅子の上に飛び乗って昼寝を始めます。今では、私が食事が終わり、
さあ薬とお茶を飲もうかとするころ、どこからともなくやってきて、電話台の陰から視線を
こちらへ投げかけてよこすのです。眼が合うと眼をパッチンしてお願いもされるのです。
その猫が、先月、急にぐったりとして元気がなくなり、今にも死にそうな感じになりました。
何も食べません。水は少し飲みますが。横になったままです。私はもう17~18歳だし、人間
でいえば90歳を超えているらしい老猫だから、このまま逝ってしまうのだろう。もう2~3
日が限界か。動物病院などに連れて行って痛い想いをさせることもあるまい。このまま静かに
逝かせてやろう。せめて卵の黄身だけでも食べさせてやろうか。などと考えていました。とっ
くに何年も前から猫の軀は「紙のごとうすくなりたる」の状態だったのです。猫の老いはこと
あるごとに感じていました。食卓テーブルの上に飛び乗れなくなったし、身体もフニャフニャ
になって、筋肉が失われてきていました。
その時、文藝春秋に載っていた短歌がしきりに思い出されていました。「紙のごとうすくなり
たる」の作者、小池光という人の詠んだ『死にたる猫』という作品からの抄録なのでしょう。
今、探して見つけてきましたが、こんな短歌七首でした。猫好きの人ならだれでも経験する、
あるいは既にしたであろうようなことばかりです。(文藝春秋2014年12月号P.81より)
死にたる猫
小池 光
これの世の最後の力をひきしぼりかくもしたたかにわが指を嚙む
紙のごとうすくなりたるなきがらを抱き(いだき)上げたり朝の光に
十五年かたへにゐたる生活やときに人より人とおもひて
三角の耳の弾力たのしみて撫でにしことのかずかぎりなく
辛かりしをりふし膝の上にゐてねむるいのちになぐさめられき
階段をはづみてのぼり来るときに首輪の鈴は鳴りたるものを
すきとほる秋の日差しに反射してひとつのこれるおまへの餌皿(えざら)
この中の「紙のごとうすくなりたる」という表現が、四六時中頭の中を駆け巡っていました。
いよいよ何も食べない状態で、呼びかけても眼も開けない、尻尾も振らないという状態にな
ったとき「今晩は徹夜で看病するぞ。」と宣言して寝ずの番をしました。私一人でも見送っ
てやろうと思ってのことです。とても風の強い晩でした。
その翌朝、猫はまだ生きていましたが、一人暮らしの義母から電話があり自宅で転倒した、
頭を打って動けない、すぐに来てくれ、と救援依頼が。結局、徹夜明けで駆けつけて市の緊
急通報装置で相談したところ、救急車を手配してくれて中村病院に搬送されました。
そんな中、子供たちが自宅の猫を動物病院に連れて行きました。血液検査の結果は異状なし。
後で検査結果のプリントを見ると私より正常でしたw。レントゲン撮影の結果、股関節が少
しずれている。かなり痛みもあるのではないかという事で、痛み止めの注射をして帰りまし
た。食欲が戻れば良いが、戻らなければまた来てくださいとのことだったといいます。
それで、なるべく栄養価の高いものをという考えで、また卵の黄身をやりました。少し食べ
ましたが、こんな量では体が持つまいというほどの量でした。じっと横になって痛みに耐え
ているようでもありました。しかし、その翌日から少しずつ食べる量が増え始め、パウチ入
りの「まぐろ」なども口にするようになりました。
凄いです。野性の本能か、じっと動かずにいて自分の身体を修復していたのでしょうかね。
2~3日の内に、体力も回復させ、なんと食卓テーブルに飛び乗れるまでになったのです。
食欲も完全復帰。人間が食べているところに飛び上がってきて、食事の盛られた皿や茶わん
の間を傍若無人に物色して回るほどです。人の皿から食おうとするくらいです。これは、当
分は大丈夫と思えるほどの元気さです。「紙のごとうすくなりたる」くせに。
ここまで読んでくれたみなさん、ありがとうございました。
他人の家の死にかけた猫の話なんか面白くもないでしょうね。しかも、なんのオチもないし。
ただ、たんに私も書きたかっただけです。書いて文字に残していくこと。それが好きなんだ
と思います。迷惑な話かもしれなせんが。