渡瀬荘次郎『将棋シン縄』

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解題

『將棊𣖯縄』は、愛知県半田市にある半田市立図書館が所蔵する和古書(写本)である。

本の大きさは、縦15.7cm×横11.1cm。表紙の中央に、直接『將棊𣖯縄 下』と書かれている。なお、題名に「下」とあるが、半田市立図書館では『將棊𣖯縄 上』は所蔵していない。

本文は、1丁表から26丁表に、1番から51番の番号が付けられた図面がある。そのあとに白紙が18丁あり、最後の44丁裏から49丁裏に、番号のない図面11が掲載されている。将棋盤は印刷(青色)で、そこに墨で記入されている。解答は書かれていない。図面の駒は、略号で書かれている(飛=飞、角=ク、金=人、銀=ヨ、桂=土、香=禾、歩=フ)。

巻末の裏表紙裏には以下の墨書があり、この本は慶応2(1866)年9月に、平安(=京都)の渡瀬荘次郎によって作られたと思われる。「五十局」とあることから、巻末の番号がない図面は、付録のようなものだったのかもしれない。

 慶應二丙寅年九月下旬日

 應後五十局之需於應前五十局

 舊丑之秋需而書置矣

        平安 渡瀬莊次良

『將棊𣖯縄』には、渡瀬荘次郎の他の作品集である『待宵』(慶応2(1866)年)、『待宵後集』(明治2(1869)年)、『將棋必勝法』(大正4(1915)年)、『必至二十題』(明治11(1878)年)と同じ作品や、よく似た作品が収録されている。特に、『待宵』は、慶応2(1866)年8月の序文があることから、『將棊𣖯縄』と深い関係がありそうである。

なお、『將棊𣖯縄』の版心には、ひらがなの「や」と書かれている。一方、『待宵』と『待宵後集』の版心には、「山本藏板」と書かれている。この「山本」は、『待宵』と『待宵後集』の序文を書いた山本正晴(※4)のことと思われるので、『將棊𣖯縄』の「や」は、山本正晴の頭文字「や」なのかもしれない。

表紙

1丁表

27丁表

裏表紙裏

作品概要

『將棊𣖯縄』に掲載された作品は、詰将棋、必至、迯(必至逃れ)(※5)、手筋など多彩である。このうち、「必至」、「迯」、「先手勝必至」、「先手勝」の種別は、作品にはっきりそう書かれている。

なお、「必至」は「必死」と書かれることもあるが、渡瀬荘次郎は一貫して「必至」と書いている(※6)。

巻末の図面には番号がないため、掲載にあたって「番外」として番号を付与した。また、既出の作品と同じ場合は、その作品の手順を掲載したが、それ以外は推定作意を掲載した。 

渡瀬荘次郎『将棋シン縄』

謝辞

この資料の所蔵者である半田市立図書館には、大変お世話になりました。また、インターネットでの公開もお許しいただきました。

資料の調査・研究には、詰将棋一番星の磯田征一氏にいろいろとお世話になりました。

推定作意の作成には、香龍会のメンバーにご協力いただきました。また、『将棋シン縄』第43番(=『必至二十題』第15番)は、銀杏(ぎんなん)@将棋ライター様のご指摘により、手順を修正いたしました。

作品のチェックには、「柿木将棋脊尾詰」「やねうら王」などの将棋ソフトが威力を発揮しました。

みなさま、どうもありがとうございました。

2019年8月12日作成/2023年2月17日修正

※1 『將棊𣖯縄』の「𣖯」(木偏に竹+心、U+235AF、WWWブラウザによっては表示されない場合あり)は、本来は「䈜」で、墨のついた道具を意味する。「𣖯縄」は「墨縄」で、墨のついた縄を意味する。大工が使う「墨壺」という道具には、この「墨縄」(=墨糸)が入っている。墨壺は、直線を引くのに用いるので、『將棊𣖯縄』という題名には、「将棋の(直線を引くような)規準、基礎」といった意味が込められているようである。

※2 半田市立図書館は、『將棊𣖯縄』以外にも将棋関係の和古書を所蔵している。そのほとんどが「八日会」からの寄贈図書で、小栗平蔵(1859-1925)の旧蔵書である。この「八日会」と小栗平蔵については、"八日会寄贈図書について". 半田市誌 文化財編. 半田市編. 半田市, 1977.10, p.252-261, https://dl.ndl.go.jp/pid/2991760/1/138 (参照 2023-01-08). を参照のこと。

※3 渡瀬荘次郎(とせ そうじろう)。別名:渡瀬昇治、昇次、荘治郎、正明など。清水孝晏によると、天保2(1831)年生まれ、明治元(1868)年没。天野宗歩の弟子で、四天王の一人。段位は六段。詰将棋(必至を含む)の作品集として、『待宵』、『待宵後集』、『將棋必勝法』(上編下編)が有名。

※4 山本正晴(やまもと まさはる)。別名:山本新治郎、新次郎。天保9(1838)年生まれ、明治35(1902)年没。名古屋の酒問屋である京口屋の十代目。くわしくは、山本花子著. 碁盤割商家の暮らし. 愛知県郷土資料刊行会, 1996.1 を参照のこと。

山本新次(治)郎の名は、幕末から明治前期の将棋番付に掲載されており、高段者だったようである。

1) 渡瀬荘次郎編. 大日本将棋有名集. 出版者不明, 慶応4(1868), https://dl.ndl.go.jp/pid/861299 (参照 2023-01-03). 2段目右側の25人目「同(尾州名古屋) 山本新次郎」

2)飯万島竜水, 津田富士著. 愛知県下将棋英名鑑. 寺本松太郎, 明18(1885), https://dl.ndl.go.jp/pid/777390 (参照 2023-01-03). 1段目右側の2人目 「傅馬町 山本新次郎」(「傅馬町」は名古屋市中区の地名)

3)伊藤宗印, 大橋宗金編. 日本将棋対手概表. 伊藤宗印, 明22(1889), https://dl.ndl.go.jp/pid/861312/1/2 (参照 2023-01-03).  1段目左側の11人目「同(尾州)名古屋 山本新治郎」

※5 「迯」(辶+外)は、「逃」の異体字。

※6  木見金次郎は『棋必勝法 上編』の凡例で、次のように書いている。

「必死の字は不雅であるので原書には「必至」といたしてあります 之れでも意味が取り悪いので「必勝法」と題して刊行いたしますのは書肆の望みに任せたのであります」

これをみると、棋必勝法』の元になった本にも、「必死」ではなく「必至」と書かれていたようである。

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