井沢衣水をさがせ

ホーム > 青空文庫 > 井沢衣水をさがせ

「aozorablog」 2017/11/15投稿「井沢衣水をさがせ」と同じです。

経緯

10月15日、青空文庫のオフ会に参加してきた。その時、「せっかく校了になったのに、諸般の事情で公開できない作品」の話が出た。

そのうち、一番古いのは2002年に校了になった作品で、その作品が公開できなかった理由は、著者の没年が不明だったため、とのこと。それで、以前、青空文庫の掲示板「こもれび」で調査が行われた――と、ここまで聞いて、そういやその調査に自分も関わっていたっけ、と思い出した。

そこで、そのオフ会の場では、もう一度調べてみます、と言ったのだが、なにせ5年以上前のことで、掲示板「こもれび」は閉鎖、何を書いたか覚えていない(※1)。ネットを検索したところ、この調査に参加した金子さんが「北原尚彦の書物的日常—掲示板」に書きこんだものが見つかったので、ちょっと引用する(※2)。

冒険世界の記者だったらしい「井沢衣水」という方の略歴あるいは本名など

ご存じではないでしょうか?

生没年だけでも分かればと願っているのですが。

私は青空文庫で入力などをやらせてもらっているのですが、最近になって

押川春浪の「本州横断 痛快徒歩旅行」という作品が校了まで行ってながら

ずっと未公開のままである事を知りました。

井沢衣水との共著であるためです。

『[天狗倶楽部]怪傑伝 ――元気と正義の男たち――』(朝日ソノラマ, 1993)

という底本から入力したそうですが、途中で「井沢衣水記、押川春浪補」と

いう名義であったことに気づいたそうです。

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/list_inp228_1.html

では、井沢衣水という人の没年は? という事で青空文庫のスタッフの方々も

当時ずいぶん手を尽くして探されたのですが判明しなかったとのことでした。

私も不勉強ながら横田順彌氏の著作を当たってみたのですがやはり手掛かり

を得る事ができませんでした。

そこで、あるいは古典SF研究会の方々ならば何か心当たりがあるかもと思い

お聞きしてみようと考えた次第です。

ご多忙のところ大変恐縮ですが、何かご存じの事がありましたら御教示いた

だけますと幸甚です。

この書き込みに対して、掲示板の主である北原尚彦さんは、次のように返答している(※3)。

拙サイトご訪問頂き、ありがとうございます。

ご質問の件、横田順彌氏に確認してみました。

「井沢衣水」というのは、やはり「本州横断 痛快徒歩旅行」の旅行の際に、春浪に同行した博文館の編集者もしくは写真家だということでした。

ただ、本名や略歴まではご記憶にない、とのこと。

ですが、もしかしたら坪谷善四郎 編『博文館五十年史』(博文館/昭12年)を確認すれば、判ることがあるかもしれない、ということでした。

同書は国会図書館などに所蔵されていますので、ご確認なさってみてください。

もう既に確認した上でのご質問でしたらすみません。

そこで、金子さんは『博文館五十年史』を調べられたが、結局、井沢衣水に関する記述は見つからなかったと記憶している。

この時の調査はここで行き詰まってしまったのだが、今回あらためて調査したところ、それらしい人物が見つかったので報告する次第である。

「冒険世界」における井沢衣水

まず、今回問題となった「本州横断 痛快徒歩旅行」という作品(※4)だが、これは雑誌「冒険世界」の明治44(1911)年10月に発行された4巻13号に掲載されたものである。執筆者は「押川春浪補 井沢衣水記」とあるので、主な筆者は井沢衣水で、押川春浪が補足したのだろう。この作品は、1つ前の4巻12号に掲載された、押川春浪著「本州横断 癇癪徒歩旅行」(※5)の続編で、2つを合わせると、茨城県の水戸から新潟県の直江津まで、徒歩で本州を横断した旅行記となる。

この徒歩旅行が行われたのは明治44(1911)年8月で、メンバーは押川春浪、小杉未醒(画家)、吉岡信敬(早稲田大学応援隊隊長)、木川専介(写真技師)、そして井沢衣水の5人。ただし、押川春浪は水戸から栃木県の那須野ヶ原までの参加で、「本州横断 癇癪徒歩旅行」はここで終っている。井沢衣水を含む残りの4人は、那須野ヶ原から直江津まで完走していて、それが「本州横断 痛快徒歩旅行」の内容となっている(※6)。

井沢衣水は、前編の「本州横断 癇癪徒歩旅行」で、「冒険世界」の記者として紹介されている。そこで、井沢衣水がこの雑誌にいつから記事を書いているか調べてみた。

『東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫所蔵雑誌目次総覧』の第77巻と第78巻には「冒険世界」の目次が収録されているのだが、第78巻には、さらに「冒険世界」の著者名索引が収録されている(※7)。それによると、井沢衣水は、明治44(1911)年の4巻2号から、大正5(1916)年の9巻8号まで執筆していたようである。

また、同じ著者名索引には「衣水頑客」「衣水狂生」「衣水生」という名前があり、これらがすべて井沢衣水と同一人物とすると、次の表のようになる。これをみると、明治44(1911)年に一番たくさん執筆しているが、あとは年に2-3本で、「冒険世界」の記者といっても専属の記者ではなかったように感じられる。

ネットを使った調査 その1

次に、Googleブック検索で「井沢衣水」を検索したところ、いくつかの雑誌に「井沢衣水」が掲載されていることがわかった。この情報を元に、実際に雑誌に当たってみた。

まず、雑誌「新声」。明治39(1906)年4月号の、尾上柴舟選「歌」という短歌のコーナーに、「下野 井沢衣水」の歌が1首掲載されている。「下野」とあるので、井沢衣水がこの歌を投稿したときには下野(=栃木県)に住んでいたと思われる(※8)。

次に、雑誌「帝国文学」。この雑誌には、明治44(1911)年に3回も掲載されている(※9)。

まず、明治44(1911)年4月号の「卯月集」という短歌のコーナーに、井沢衣水の歌が6首掲載されている。

次に、5月号の「皐月集」という短歌のコーナーにも、井沢衣水の歌が5首掲載されている。なお、この井沢衣水の歌の次に、同じ「冒険世界」の記者である河岡潮風の歌が8首掲載されているのは、偶然かもしれないが注目に値する。

そして、7月号の「短歌」のコーナーには、井沢衣水の歌が6首掲載されている。

また、雑誌「女学世界」にも井沢衣水の名があるようだが、この雑誌は、現物を確認することができなかった(※10)。

ただし、Googleブック検索の結果は「成吉思汗豪暗緑井澤衣水」となっており、井沢衣水は「冒険世界」4巻2号に「成吉思汗大王豪膽録」という記事を書いているので、単にこの記事を紹介しただけなのかもしれない。

ネットを使った調査 その2

Googleブック検索で「井沢衣水」を検索したところ、雑誌以外に、『日本近代教育百年史 4』という本にも「井沢衣水」が掲載されていることがわかった(※11)。

実際にこの本を見ると、脚注のリストの中に「井沢衣水」があったので、引用元の本を探したところ、西沢佶編『嗚呼玉杯に花うけて : 写真図説 第一高等学校八十年史』に、雑誌「雄弁」からの引用として、井沢衣水の「一高弁論部活躍史」が、最初のページのみ図版で掲載されていた(※12)。

また、Googleで「井沢衣水」を検索したところ、「石塚義夫 鶴見祐輔伝」(※13)というサイトが見つかった。そこには、次のように書かれていた。

鶴見が内閣拓殖局を選んだことを第三者は次のように見た。

「鶴見君の御得意は外交論、殖民論であると聞く。然らば君は今適所(朝鮮課)に在るものと言うべく。その手足を伸す飛躍の時は蓋し見物であろう」(明治44年1月号『雄弁』井沢衣水「一高出身の弁士月旦」)

どうやら、井沢衣水は「雄弁」という雑誌にも何本か書いていたようである。年代的にも、明治44(1911)年ならば「冒険世界」に執筆していた時期と同じなので、同一人物の可能性が高い。

そこで、雑誌「雄弁」の現物を調査しようと思ったのだが、この雑誌は近くの図書館では所蔵しておらず、見ることができなかった。

そのため、何か手がかりがないかと雑誌「雄弁」について調べたところ、この雑誌を出した「大日本雄弁会」は、のちに「大日本雄弁会講談社」を経て「講談社」になることがわかった。

さらに、Googleで「雄弁」「井沢」で検索したところ、「WEB連載「日本の出版」」(※14)というサイトがみつかり、雑誌「雄弁」の創刊当時、井沢弘という人が関わっていたことが判明した。この人は「のちに読売新聞論説委員、評論家」とのことだが、苗字が一緒なので、当時、井沢弘が衣水という名を使っていたのではないか、と考えた。

このサイト書かれたことは、野間清治著『私の半生』や、『物語 講談社の100年』、『講談社の歩んだ五十年 明治・大正編』といった本からの引用が多いため、元になった本を調べてみることにした。

「雄弁」

雑誌「雄弁」が創刊されたのは、明治43(1910)年の2月である。『講談社の歩んだ五十年 明治・大正編』の「明治四十二年」の章には、雑誌「雄弁」創刊までのいきさつが書かれているが、その中から井沢弘について書かれた部分を抜き出してみる(※15)。

当時団子坂の社内で創刊号の編集を手伝ったのは、井沢弘、長谷川宗一の二人で、第二号からは、大沢一六が加わって仕事をした。外部にあっては、弁論を愛好する法科の学生達が、多大な援助をおしまなかった。

続いて、井沢弘本人の談話が掲載されている(※16)。

井沢弘(元読売新聞論説委員、評論家)談

野間さんが「雄弁」を発行する時に私は編集助手みたいにしていた。そのころ長谷川宗一君も、私といっしょに手伝っていました。社長夫妻は二階に、私は長谷川君と二人いっしょに階下におりました。

(中略)

そのときの私の仕事は使い走り、図書会社へいくとか、原稿集め、ときには講演筆記などをしていました。私が二十歳のときでした。無給で、出かけるときに電車賃を十銭くらい、もらって出かけたものでしたよ。つまり住みこみですから下宿代と食費の分がありましたから無給なんです。大沢君でもだれでもみな無給でした。

「雄弁」を発刊した野間清治の伝記『私の半生』には、井沢弘が野間清治の家に住むことになった経緯として、次のように書かれている(※17)。

泮水会員の一人で、私が特に親しくしていた友人に宮本慶一郎君がある。号を美哉という。栃木県の真岡中学校に教鞭をとっており、校友会の雑誌の委員をしていたが、その雑誌に掲げた記事か何かで問題が起った。本人の書いたものではないが、委員として責任があるというので、教師の側では宮本慶一郎君、生徒の側では、五年生井沢弘君、小幡公君と、もう一人が廃めさせられることになった。これは「雄弁」創刊の半年ばかり前のことであったが、私は宮本君を当時の東京府立第三中学校長の八田三喜氏(その後新潟の高等学校長)にお願いしたり、いろいろ奔走した結果、独逸協会中学に勤めることになった。

この宮本君は、俳句をよくし、文章もうまいので、「雄弁」のために「俳句」や「雄弁家列伝」その他いろいろ書いて貰った。生徒の井沢弘君は、私の紹介で一時帝大の法科に勤めることになったが、「雄弁」創刊後、私の家に寝起きして、大いに手伝ってくれた。一ヵ月かの後には、佐々木照山氏を訪ねて、その訪問記を書いたが大変巧い。もう立派な記者であるというので、その後引続いて、その方面に尽力して貰った。現在は読売新聞で活躍している。

ここに書かれた栃木県の真岡(もおか)中学校、現在は真岡高等学校になっているが、この学校の七十年誌によると、宮田慶一郎や井沢弘が学校を辞めさせられることになった経緯は、次の通りである(※18)。

明治41(1908)年2月発行の「校友会雑誌 第4号」に、社会主義に関する論文「廿世紀の偏文明」(孤船生)と「社会主義について」(保志生)が掲載された。これが当局の検閲に引っかかり、関係者が処分された。執筆した2名は停学4か月、編集に携わった文芸部の幹事生徒2名は停学3か月となったのだが、この文芸部の幹事生徒のうちの1人が井沢弘だったのである。また、滝川中学校長は休職、文芸部長の宮本慶一郎は転職という処分になった。

この社会主義事件が起きたのは明治41(1908)年の2月で、「雄弁」が創刊されたのは明治43(1910)年の2月。この間は半年どころかも2年も離れているので、なにか記憶違いがあるのかもしれないが、野間清治が宮田慶一郎や井沢弘を助けて、井沢弘が野間清治の家に住みこむようになったというのは事実なのだろう。

先に、明治39(1906)年の雑誌「新声」に、「下野 井沢衣水」の歌が1首掲載されていると書いたが、井沢弘が栃木県(=下野)の真岡中学校に在籍していて、しかも文芸部に所属していたことを考えると、この歌は井沢弘の作と考えてもまず間違いはないだろう。つまり、井沢衣水という名は、真岡中学校の在籍当時から使っていた名で、それをそのまま雑誌「雄弁」でも用いた、ということである。

次に、『講談社の歩んだ五十年 明治・大正編』の「明治四十三年」の章には、野間清治が「雄弁」の編集者らとともに、早稲田にある大隈重信邸を訪れたことが記されている。これは明治43(1910)年7月2日のことだったが、井沢弘もこれに参加している。野間清治の『私の半生』には、次のように書かれている(※19)。

この日、同行の者は、河岡潮風、栄田猛猪、寺田四郎、高成田忠風、大井静雄、森岡二朗、大沢一六、小沢愛圀、宿利重一、井沢弘、太茂樹の諸君(順不同)。大抵和服に袴を着けて行ったが、私だけは主幹の貫禄を失ってはと、フロックコートを着用して出かけた。

また、『講談社の歩んだ五十年 明治・大正編』には、同行した小沢愛圀の談話が掲載されている(※20)。

小沢愛圀談

博文館発行の「冒険世界」記者河岡潮風氏を中心としての計画だったと思うが、私にも来いというので参加しました。大学生約十名ばかり大日本雄弁会に集まり、江戸川まで電車に乗って早稲田まで歩いて大隈邸を訪れたのです。世界の偉人といわれた大隈さんも気軽に若い人に会い、その意見をよく聞いていました。(中略)河岡潮風さんが、大隈さんと懇意だったので、その世話焼きによったものでした。

そして、『講談社の歩んだ五十年 明治・大正編』の「明治四十四年」の章には、井沢弘が「雄弁」から離れるに到ったいきさつが書かれている(※21)。

井沢弘談

私が筑土八幡前に下宿して「雄弁」の原稿を書いていたころ、私の隣りの部屋に淵田忠良がいた。つい隣りの座敷だもんだから、口をきくようになった。そのころ淵田は早稲田を卒業して「どっか勤めようと思うがないか」といっていた。文学青年みたいなところがありましたから、「僕は『雄弁』をよしたが、その後に入ったらどうか」「そいつはやってみたい。紹介してくれ」というので、野間さんに紹介し、それで入った。私は早稲田の試験にパスして、学校がいそがしくなり、自然と野間さんのところに足が遠くなっていたのです。

ここに出てくる淵田忠良は、後に講談社の常務取締役になるのだが、これによると、淵田忠良は井沢弘と入れ替わりの形で大日本雄弁会に入ったようである。

なお、この当時の大学は、4月ではなく9月に始まり、翌年の7月に終了していた。そのため、井沢弘が早稲田大学に入学したのは、明治44(1911)年の9月だっただろう。ということは、同じ年の8月にあった「本州横断 痛快徒歩旅行」に参加しても、特に問題はなかったと思われる。

「雄弁」と「冒険世界」

さて、井沢弘が井沢衣水の名で雑誌「雄弁」に書いていたのはいいとしても、なぜ別の会社である博文館の雑誌「冒険世界」にも書くようになったのか、そのあたりは不明である。しかし、いくつかのヒントはある。

まず、雑誌「雄弁」には、「冒険世界」の記者である河岡潮風が創刊号から執筆していた(※22)。このことは、雑誌「帝国文学」の巻末に掲載された「雄弁」の広告からもわかるのだが、河岡は創刊号には「雄弁我観」、第2号には「風雲児馬場辰猪伝」、第4号には「小野梓」といった記事を書いている。井沢弘は編集助手として原稿集めもしていたというから、当然、河岡潮風とも接触があっただろう。

なお、雑誌「帝国文学」は、大日本図書という会社が発行していたが、「雄弁」も、明治43(1910)年の創刊から明治44(1911)年10月までは、大日本図書から発行されていた(大日本雄弁会は「雄弁」の編集を担当)。同じ会社の雑誌ということで、「帝国文学」に「雄弁」の広告が掲載されても不思議はないのだが、もしかしたらその縁から、井沢衣水の短歌が「帝国文学」に掲載されることになったのかもしれない。

それはともかく、河岡潮風との交流から、井沢弘が「冒険世界」に執筆するようになったというのは、ありそうなことである。

本州横断徒歩旅行は明治44(1911)年の8月のことだったが、同じ年の11月、「冒険世界」の主筆だった押川春浪は、「野球害毒論」の問題から博文館を退社する。しかし、河岡潮風は博文館に残った。井沢弘も、本数こそ少なくなったが、「冒険世界」に記事を書き続けた。このことは、一緒に本州横断徒歩旅行をした天狗倶楽部のメンバーとのつながりよりも、河岡潮風とのつながりのほうが強かったことを示しているのかもしれない。なお、押川春浪が新たに発刊した雑誌「武侠世界」に井沢が記事を書いたかどうかは、「武侠世界」の目次が一部しか入手できなかったため、詳細は不明である。

井沢弘の経歴

ここであらためて、井沢弘の経歴を見てみよう。『アジア・太平洋戦争辞典』の「井沢弘」の項によると、次の通りである(※23)。

いざわひろし 井沢弘 一八八九-一九六七 大正・昭和期のジャーナリスト。一八八九年、栃木県生まれ。東京朝日新聞社文化部記者、東京日日新聞社学芸部課長を経て、一九三一年から読売新聞社論説委員。四一年、斎藤忠、花見達二、西谷弥兵衛を同人として、日本世紀社を結成。

(中略)

主要著作に『日本の理想』(四二年、国民評論社)、『反共世界戦争』(四二年、亜細亜学会)、『ユダヤ論攷』(四四年、旺文社)などがある。六七年八月十四日没。七十七歳。

いくつか補足すると、井沢弘は早稲田大学に入学したはずだが、早稲田大学の同窓会名簿を見る限りでは、卒業はしなかったようである(※24)。また、大正12(1923)年頃、井沢弘はフランスに留学し、東京日日新聞社記者としてパリから報道している。そして第二次大戦後は、戦時中の戦争協力を咎められたためか、新聞社には所属せず、評論家として活躍した。

井沢弘が亡くなったのは昭和42(1967)年8月14日で、翌8月15日の読売新聞朝刊に、訃報記事が掲載されている(※25)。

井沢衣水と井沢弘が同一人物であるなら、著作権は死後50年の平成29(2017)年の12月末まで継続しているので、「本州横断 痛快徒歩旅行」も、現時点(平成29(2017)年11月15日)では、まだ著作権が生きている。著作権が切れて公開できるのは、平成30(2018)年1月1日からということになるだろう。

まとめ

「本州横断 痛快徒歩旅行」の井沢衣水は、ジャーナリストの井沢弘である可能性が高い。

井沢弘が亡くなったのは昭和42(1967)年なので、青空文庫で「本州横断 痛快徒歩旅行」が公開できるのは、著作権が切れた平成30(2018)年1月1日からということになるだろう。

※2018年1月14日追記

その後、「本州横断 痛快徒歩旅行」は、2018年1月3日に青空文庫で公開されました。

また、「本州横断 癇癪徒歩旅行」と「本州横断 痛快徒歩旅行」に出てくる地名をGoogle Mapに入れて、本州横断旅行の地図を作ってみました。

※1 Internet Archveには、掲示板「こもれび」の一部保が存されていて、2012年5月から6月にかけての投稿(題名のみ)は、次のURLから閲覧することができる。

https://web.archive.org/web/20120703131409/http://hpcgi1.nifty.com/hongming/komorebi/wforum.cgi

※2 金子. “「冒険世界」の井沢衣水について”. 北原尚彦の書物的日常—掲示板. 2012-05-27. http://6242.teacup.com/kitaharanaohikoweb/bbs/692, (参照 2017-11-15).

※3 北原尚彦. “RE:「冒険世界」の井沢衣水について”. 北原尚彦の書物的日常—掲示板. 2012-06-06. http://6242.teacup.com/kitaharanaohikoweb/bbs/693, (参照 2017-11-15).

※4 青空文庫の「本州横断 痛快徒歩旅行」の作業状況は、次のURLから確認することができる。

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/list_inp228_1.html

※5 青空文庫の押川春浪著「本州横断 癇癪徒歩旅行」は、次のURLで公開されている。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000077/card449.html

※6 「冒険世界」記者の河岡潮風は、自著『怪男児快挙録』のp140-152に「四快男児の野宿遠征」と題して、「本州横断 痛快徒歩旅行」の内容を、吉岡信敬のエピソードを中心にして紹介している。この『怪男児快挙録』は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、以下のURLから閲覧することができる。http://dl.ndl.go.jp/pid/885809/1/80

※7 ”雑誌別著者名索引”. 東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫所蔵雑誌目次総覧. 第78巻. 大空社, 1995.9, 巻末p1-34.

※8 青年機關新聲, 第 14 巻、第 1~6 号. Googleブックス. https://books.google.co.jp/books?id=B80xAQAAMAAJ, (参照 2017-11-15).

尾上柴舟. 歌. 新声. 1906.6, 14(4), p36-40.

※9 Teikoku bungaku, 第 17 巻、第 5~6 号. Googleブックス. https://books.google.co.jp/books?id=8nE-AQAAIAAJ, (参照 2017-11-15).

卯月集. 帝国文学. 1911.4, 17(4), p65-66.

皐月集. 帝国文学. 1911.5, 17(5), p73-74.

短歌. 帝国文学. 1911.7, 17(7), p80.

※10 女學世界 – 第 11 巻、第 1~2 号. Googleブックス. https://books.google.co.jp/books?id=U0I1AQAAMAAJ, (参照 2017-11-15).

※11 Gakkō kyōiku. Googleブックス. https://books.google.co.jp/books?id=GZ7SAAAAMAAJ, (参照 2017-11-15).

“第五編 整備期 第三章 高等教育 注”. 日本近代教育百年史. 4. 国立教育研究所編. 教育研究振興会, 1974, p1274-1278.

※12 ”校風問題起こる”. 嗚呼玉杯に花うけて : 写真図説 第一高等学校八十年史. 西沢佶編. 講談社, 1972, p43.

※13 石塚義夫. “第2編 職歴 第1章 鉄道官僚時代”. 石塚義夫 鶴見祐輔伝. http://tsurumiyuusukeden.web.fc2.com/2-1tetsudoukanryoujidai.html, (参照 2017-11-15).

※14 植田康夫. WEB連載「日本の出版」 : 第10回 日本に広く弁論の風を―雑誌『雄弁』誕生物語①. 潮出版社. http://www.usio.co.jp/html/syuppannomirai/10_yubentanjou1_2.html, (参照 2017-11-15).

※15 ”明治四十二年”. 講談社の歩んだ五十年. 明治・大正編. 講談社社史編纂委員会編. 講談社, 1959, p17-32. より抜粋。

※16 同上。

※17 野間清治. “一日に五十何回の演説”. 私の半生. 野間清治著. 講談社, 1959, p210-212. より抜粋。

※18 詳細については、以下の文献を参照のこと。

“明治四十年度”. 真岡高等学校70年誌. 栃木県立真岡高等学校編. 栃木県立真岡高等学校, 1972, p14-16.

篠崎寛. “「社会主義事件」のいきさつ”. 真岡高等学校70年誌. 栃木県立真岡高等学校編. 栃木県立真岡高等学校, 1972, p24-26.

深谷成一. “廿世紀の偏文明”. 真岡高等学校70年誌. 栃木県立真岡高等学校編. 栃木県立真岡高等学校, 1972, p27-28.

※19 野間清治. “大隈伯を訪問す”. 私の半生. 野間清治著. 講談社, 1959, p216-221. より抜粋。

※20 ”明治四十三年”. 講談社の歩んだ五十年. 明治・大正編. 講談社社史編纂委員会編. 講談社, 1959, p33-80. より抜粋。

※21 ”明治四十四年”. 講談社の歩んだ五十年. 明治・大正編. 講談社社史編纂委員会編. 講談社, 1959, p81-116. より抜粋。

※22 「雄弁」創刊号の「発刊の辞」は、河岡潮風が原稿を書き、姉崎正治が手を加えたものである。これは、河岡潮風が「雄弁」に深く関わっていたことを示すものだろう。くわしくは 野間清治. “「雄弁」創刊号の陣容”. 私の半生. 野間清治著. 講談社, 1959, p208-210. を参照のこと。

※23 佐藤卓己. “井沢弘”. アジア・太平洋戦争辞典. 吉田裕[ほか]編. 吉川弘文館, 2015, p32.

※24 早稲田大学校友会会員名簿. 大正14年11月調. 早稲田大学校友会, 1915. http://dl.ndl.go.jp/pid/910567, (参照 2022-12-21).

※25 井沢弘氏. 読売新聞. 1967.8.15 朝刊, 15面.