御城碁と御城将棋の開催日

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御城碁と御城将棋

御城碁とは、江戸時代、将軍の御前で行なわれた囲碁の対局のこと。これと同様に、御城将棋は、将軍の御前で行なわれた将棋の対局のこと。

御城碁の開催日は、瀬越憲作等編『御城碁譜. 巻之1』に掲載された、「德川幕府御城碁年表」に書かれている(※1)。

これによると、御城碁は江戸初期の寛永3(1626)年から幕末の文久元(1861)年まで開催され、文久2(1862)年と文久3(1863)年は下打のみ。日付をみると、最初のうちはバラバラだが、享保元(1716)年以降はほとんど11月17日になっている。

一方、御城将棋の開催日は、『御城将棋. 第1-5巻』(※2)と、付録の「古棋書会報」に掲載された「御城将棋目録. 1-3」(※3)に書かれている。

これらの資料によると、御城将棋の記録は御城碁の記録より少なく、延宝8(1680)年から文久元(1861)年までで、文久2(1862)年と文久3(1863)年は「御城将棊無之」となっている(※4)

御城碁と御城将棋の開催日を年代順に並べると、表1のようになる。

表1 御城碁と御城将棋の開催日

(◆寛永3(1626)年9月17日の御城碁は、二条城での対局)(◆元禄元(1688)年12月11日の御城将棋は、日付のみで対局なし)

開催日を比較すると、次のようになった。

 (安政2(1855)年は、安政大地震のため御城碁・御城将棋とも中止)

このうち、開催日が一致しない10件(比較1=×)は、御城碁と御城将棋が別々の日に開催されたという可能性もあるが、開催日が一致するほうが圧倒的に多いことから、記録の誤りと考えたほうが自然かもしれない。

また、御城碁のみ開催が32件あるが、そうなった理由は次の二つのようである。一つは、御城将棋の古い記録が残っていなかったため。もう一つは、囲碁家が四家(本因坊家、安井家、井上家、林家)あるのに対して、将棋家は三家(大橋家、大橋分家、伊藤家)で、対局の都合がつかなくなる割合が囲碁家より多かったためである。

徳川実紀

一方、御城碁と御城将棋のことは、幕府による歴史書として有名な『徳川実紀』にも書かれている。

『囲碁年鑑. 1995』に掲載された、水口藤雄、堀田トヨ編「徳川将軍と御城碁および京都碁界に関する史料集」は、『徳川実紀』や『続徳川実紀』などから、囲碁に関する記事を抜き出している(※5)。そのうち、寛永元(1624)年以降で「碁將棋御覽あり」「碁將棊のものをめして。其技を闘しめらる」など、江戸城での御城碁と思われる記事は、『徳川実紀』で63件、『続徳川実紀』で26件、計89件である。これを年代順に並べると、表2のようになる(『徳川実紀』は天明5(1785)年までで、天明6(1786)年以降は『続徳川実紀』)。

なお、『徳川実紀』や『続徳川実紀』に開催日がある場合は、原文を参照できるように、国立国会図書館デジタルコレクション『新訂増補国史大系』(国立国会図書館/図書館・個人送信限定で公開)に収録された、『徳川実紀』『続徳川実紀』の該当ページへのリンクを追加した。


表2 徳川実紀と続徳川実紀にみる御城碁開催日

この表2に、表1のデータをあわせて開催日を比較したのが表3である。


表3 御城碁・御城将棋と徳川実紀の比較

(◆寛永3(1626)年9月17日の御城碁は、二条城での対局)(◆元禄元(1688)年12月11日の御城将棋は、日付のみで対局なし)(◆『徳川実紀』は天明5(1785)年までで、天明6(1786)年以降は『続徳川実紀』)

このうち、安政6(1859)年に注目する。「徳川将軍と御城碁および京都碁界に関する史料集」のp.397をみると、安政6(1859)年11月16日の記事を掲載しているが、この記事をよく読むと、翌17日の碁将棋手合は延期になった、と書かれているようである。

そこで、『続徳川実紀』を確認したところ、11月16日の記事のほかに、同じ年の12月4日に碁将棋上覧の記事をみつけることができた(※6)。この12月4日は御城将棋の開催日と一致するので、安政6(1859)年は11月16日ではなく、12月4日に御城碁と御城将棋が開催されたようである。

江戸幕府日記

さて、最近では『徳川実紀』の元になった江戸幕府日記(※7)が電子版で公開されている。

ここでいう江戸幕府日記は、『柳営日次記』や『柳営日録』などを含めた総称だが、これらの本をみると、『徳川実紀』では1行のみの記述だったのが、江戸幕府日記では対局者の名前があるなど、『徳川実紀』よりくわしく書かれていることがあり、非常に興味深い(※8)。

また、江戸幕府日記は、基本的に毎日の記録が書かれていて、前後の関係から日付の確認ができるので、囲碁家や将棋家に伝わった記録より、日付の誤りが少ないのではないかと思われる。

そこで、御城碁、御城将棋、『徳川実紀』、『続徳川実紀』にある開催日について、江戸幕府日記と照合してみた。

今回は、国立国会図書館デジタルコレクション『年録』(国立国会図書館所蔵)を中心として照合し、『年録』で欠けている部分は、国立公文書館デジタルアーカイブ『江戸幕府日記』『柳営日次記』『柳営日録』『柳営録』『天寛日記』『三家記』(いずれも内閣文庫所蔵)、そして国書データベース『御日記』(国文学研究資料館所蔵)で補った(※9)。その結果が表4である。


表4 江戸幕府日記にみる御城碁・御城将棋の開催日

(◆寛永3(1626)年9月17日の御城碁は、二条城での対局)(◆元禄元(1688)年12月11日の御城将棋は、日付のみで対局なし)(◆『徳川実紀』は天明5(1785)年までで、天明6(1786)年以降は『続徳川実紀』)

このうち、一番古い寛永8(1631)年6月17日をみると、『徳川実紀』では「碁將棋御覽あり」という簡単な記述になっている。

一方、江戸幕府日記(『天寛日記19』)には、宗桂や宗古、算哲や本因坊といった対局者名や勝敗まで書かれている。

これはおそらく、重要な事項だけを抜き出してまとめたのが『徳川実紀』で、その元になった資料にはより多くのことが書かれている、ということを示しているのだろう。

もちろん、正保元(1644)年11月2日の、『徳川実紀』は「碁象戯御覽あり」、江戸幕府日記(『年録. [7]』)は「御黒書院囲碁象戯勝負」のように、どちらも簡潔な記述という場合もある。

また、江戸幕府日記にある対局者名や勝敗などの記録と、御城碁や御城将棋の記録は、一致する部分もあるが、一致しない部分もあるようである(当方はくずし字が判読できないこともあり、くわしいチェックはしていない)。

これについて、当該年月の江戸幕府日記が複数ある場合は、それらをすべて調査した上で検証する必要がありそうである。

なお、江戸幕府日記には、御城碁や御城将棋の記録だけでなく、4月の御目見や12月の褒美、あるいは家督相続に伴う御目見など、さまざまなことが記されているので、他の調査にも役立つと思われる。


表4のうち、表1で御城碁と御城将棋で開催日が一致しなかった10件(比較1=×)に注目してみる。すると、元禄3(1690)年(※10)を除く9件については、江戸幕府日記の日付が御城碁か御城将棋のどちらかの開催日と一致している。つまり、江戸幕府日記という別の証拠によって、どちらの開催日が正しいか決定することができたと思う(表5)。


表5 御城碁と御城将棋の開催日が一致しないもの

(◆元禄元(1688)年12月11日の御城将棋は、日付のみで対局なし)(◆『徳川実紀』は天明5(1785)年までで、天明6(1786)年以降は『続徳川実紀』)

また、御城碁のみ開催で、江戸幕府日記の開催日と一致しない4件(比較3=×)に注目してみる(表6)。

このうち、慶安2(1649)年は、御城碁が2月17日、江戸幕府日記(『年録. [19]』)が11月17日とあるので、これは縦書きの漢数字「一一」を「二」と誤読して、11月を2月にしてしまったのかもしれない。


表6 御城碁のみ開催で江戸幕府日記と一致しないもの

御城碁と御城将棋の開催日がなく、『徳川実紀』と江戸幕府日記に開催日がある10件(比較3=☆)と、江戸幕府日記のみ開催日がある2件、そして慶安元(1648)年の、御城碁は開催日不明で『徳川実紀』と江戸幕府日記に開催日がある1件をあわせた13件は、御城碁・御城将棋の開催日が判明といえそうである(表7)。


表7 御城碁と御城将棋に開催日がなく江戸幕府日記に開催日があるもの

まとめ

『徳川実紀』の元になった江戸幕府日記を調べることで、御城碁と御城将棋に関する情報を得ることができた。江戸幕府日記によ御城碁と御城将棋で一致していなかった開催日を9件決定することができたのは、大きな成果だと思う。また、江戸幕府日記によって、新たに開催日が13件判明したと思う。

ただし、当方は日付の部分しか調べていないので、対局者名などの情報については、ほかの方による調査に期待したい。その際、当サイトの「江戸幕府日記」総索引国立国会図書館所蔵『年録』索引ご活用いただければ幸いである。

2022年12月22日作成/2023年4月25日修正

表計算データ

御城碁と御城将棋の開催日

※1 "德川幕府御城碁年表". 御城碁譜. 巻之1. 瀬越憲作等編. 御城碁譜整理配布委員会, 1951, p.16-45. https://dl.ndl.go.jp/pid/2465189/1/13 (参照 2022-12-22)
この本のp.15には、「御城碁以前の御前碁年表」掲載されている。また、『御城碁譜』には、1978年に誠文堂新光社から出版された復刻版がある。
この年表と似たものとして、安藤如意の『坐隠談叢』に掲載された「徳川家御城碁年表」がある。
"徳川家御城碁年表". 坐隠談叢 : 囲碁全史. 安藤如意原著, 渡辺英夫改補. 新編増補. 新樹社, 1955.7, p.167-197. https://dl.ndl.go.jp/pid/2476190/1/105 (参照 2022-12-24)

※2 御城将棋. 第1-5巻. 古棋書復刻委員会, 1970.5-1973.1. ([古棋書撰集])
くわしくは、「古棋書撰集」と「古棋書会報」参照のこと。

※3 古棋書復刻委員会編. "御城将棋目録. 1". 古棋書会報. 古棋書復刻委員会, 1970.5, No.6, p.12-15
古棋書復刻委員会.編 "御城将棋目録. 2". 古棋書会報. 古棋書復刻委員会, 1970.10, No.8, p.14-16
古棋書復刻委員会編. "御城将棋目録. 3". 古棋書会報. 古棋書復刻委員会, 1970.12, No.9, p.5-6
御城将棋については、三宅青夢の「日本將棋史稿 1-14」「間違った御城将棋」など、一連の著作も参考にした。これらの資料の書誌事項は、将棋史研究家・三宅青夢の「三宅青夢の著作リスト」を参照のこと。
また、ネットでは、温故知新管理人. "御城将棋全局集". 温故知新. http://onkotisin.org/osiro/osiro.htm (参照 2022-12-22) を参考にした。
なお、増川宏一著. 〈大橋家文書〉の研究 : 近世・近代将棋資料. 法政大学出版局, 2021.7 には、延宝2(1674)年11月24日など、初期の御城将棋の記録が掲載されているが、今回の表には含めなかった。

※4 "文久の頃". 御城将棋. 第5巻. 古棋書復刻委員会, 1973.1, p.156, ([古棋書撰集]) による。

※5 水口藤雄, 堀田トヨ編. "徳川将軍と御城碁および京都碁界に関する史料集". 囲碁年鑑. 1995. 日本棋院, 1995.5, p.390-401 (棋道, 71巻5号臨時増刊)

※6 "昭德院殿御實紀 安政六年十二月四日". 国史大系. 第50巻. 黒板勝美編. 新訂増補. 国史大系刊行会, 1935.9, p.651. https://dl.ndl.go.jp/pid/3431638/1/338 (参照 2022-12-22)

※7 江戸幕府日記と『徳川実紀』の関係は、小宮木代良著. 江戸幕府の日記と儀礼史料. 吉川弘文館, 2006.4 にくわしく書かれている。

8 『徳川実紀』や江戸幕府日記(『江戸幕府日記 姫路酒井家本.』)に御城碁に関する記述があることは、秋田昇一著. 囲碁文化の歴史を尋ねる. 誠文堂新光社, 2021.1 にも書かれている。

※9 国書データベースによる目録データは次の通り。

『江戸幕府日記』(別書名:御日記)  https://kokusho.nijl.ac.jp/work/110418
『柳営日次記』(別書名:年録)  https://kokusho.nijl.ac.jp/work/1050948
『柳営日録』 https://kokusho.nijl.ac.jp/work/1050915
『柳営録』 https://kokusho.nijl.ac.jp/work/4233221
『天寛日記』 https://kokusho.nijl.ac.jp/work/3460820
『三家記』 https://kokusho.nijl.ac.jp/work/2765153

※10 元禄3(1690)年の開催日は、御城碁では12月8日、御城将棋は12月18日となっている。また、 増川宏一著. 将棋の歴史. 平凡社, 2013.2 (平凡社新書, 670) のp.123によると、大橋家文書には12月15日開催と書かれているそうである。

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