天野宗歩と大橋宗桂の逸話

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はじめに

森銑三の『人物逸話辞典』(※1)には、天野宗歩と大橋宗桂の逸話が収められているので、その出典を調べてみた。

天野宗歩

『人物逸話辞典』上巻のp.23-24に、天野宗歩(1816-1859)の項がある。

これは、幸田露伴の「将棋雑話」からの引用だが、「将棋雑話」は『露伴叢書』と『碁と将棋』に収録されていて、いずれも「国立国会図書館デジタルコレクション」で読むことができる。

幸田露伴著. 露伴叢書, 下. 博文館, 1902.6

幸田露伴著. 碁と将棋. 国史講習会, 1922.6 (文化叢書, 第10編)

また、テキスト化されたものは、http://shogikifu.web.fc2.com/essay/essay013.html にあり、現代語訳(すべてではない)は将棋雑話対訳集で読むことができる。

大橋宗桂

『人物逸話辞典』上巻のp.167に、大橋宗桂の項があり、逸話が2つ掲載されている。

1つは朝川善庵の『楽我室遺稿, 巻3』に収録された「賜將棊所宗桂法印大橋君追福碑」からの引用で、もう1つは大伴大江丸『俳懺悔』からの引用である。

賜將棊所宗桂法印大橋君追福碑

「賜將棊所宗桂法印大橋君追福碑」は、初代大橋宗桂(1555-1634)の二〇〇回忌を追悼する碑文で、朝川善庵(※2)により天保2(1831)年に書かれた。この「賜將棊所宗桂法印大橋君追福碑」は『楽我室遺稿, 巻3』に収録されているが、『楽我室遺稿』は『崇文叢書』に収められていて、「国立国会図書館デジタルコレクション」で全文を読むことができる。

崇文院編. 崇文叢書, 第2輯之52. 崇文院, 1932.3 (43-46丁参照)

俳懺悔

『俳懺悔』は、大伴大江丸(1722-1805)による俳文集で、1790(寛政2)年刊。春夏(上巻)の中に、大橋宗桂は其角(1661-1707)の「すきこそものの上手なりけれ」の歌が好きだったということが書かれている。この「俳懺悔」は、「愛知県立大学図書館貴重書コレクション」で原文を読むことができる。また、翻刻されたものは『日本俳書大系』に収録されていて、「国立国会図書館デジタルコレクション」で全文を読むことができる。

回心斎旧国[大江丸]著. 俳懺悔. 1790(寛政2) (春夏の12丁参照)

勝峰晋風編. 日本俳書大系, 第10巻. 日本俳書大系刊行会, 1937.2 (p.146下段参照)

実は、この『俳懺悔』に書かれた逸話は、淡々編『其角十七回』からの引用なので、『人物逸話事典』は孫引きということになる。

『其角十七回』は、其角の十七回忌の時に弟子の淡々によって作られた本で、これも「愛知県立大学図書館貴重書コレクション」で原文を読むことができる。

淡々編. 其角翁十七回忌. 1723(享保8) (1(半巻)の10丁裏参照)

『其角十七回』は、『享保俳諧集』に翻刻が収録されているので、該当箇所を引用する。

一、晋子常にいへるは、「初心のうちよりよき句せんと案る事有まじ。只達者に句はやくすべし」とぞ。

器用さとけいことすきと三つのうち

すきこそものゝ上手なりけれ

と口ずさみられけるが、将碁の宗匠宗桂もこの狂哥を折ふしずしられけるとぞ。共に二本榎上行寺の塵下苔露の友とはなり給ひぬ。

(鈴木勝忠, 白石悌三校注. 享保俳諧集. 集英社, 1972.3, p.125, (古典俳文学大系, 11))

「晋子」とは其角のことで、「宗匠宗桂」は、其角(1661-1707)の年代から考えると、五代大橋宗桂(1636-1713)のことと思われる。これが「好きこそものの上手なれ」ということわざの、もっとも古い用例らしい(※3)。

其角の墓は上行寺(今は神奈川県伊勢原市だが、当時は江戸の芝二本榎)にあるが、大橋宗桂など大橋家の墓もこの上行寺にあり、それで「共に二本榎上行寺の塵下苔露の友」なのだろう。

2014年6月6日作成/2016年8月28日修正

※1 森銑三編. 人物逸話辞典, 上巻. 東京堂, 1963.4

※2 朝川善庵(1781-1849)は、王将と玉将について随筆を書いており、そのことは露伴の「将棋雑話」でも言及されている。

※3 日本国語大辞典, 第7巻. 第2版, 小学館, 2001.7, p.861にある「すき」の項目より。

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