第37回 忘れる事のできない記憶
2010年8月8日、函館競馬場にミホノブルボンが来場しました。
血統だけ見れば短距離馬のミホノブルボンでしたが、故戸山調教師の馬はハードに鍛えて強くなる
という身上を見事に証明した馬であり、1992年の皐月賞、ダービーを圧倒的な強さで逃げ切りました。
栗毛の馬体の美しさよりも、坂路調教で鍛え上げられたトモの厚さに目を引かれたものです。
ミホノブルボンを私が初めて見たのは、2戦目の東京競馬場のパドックでした。
500kg前後とは思えない大きく見せる馬体が非常に目立ち、
特にトモに関しては見た事ないものでした。
俗に言う「トモの張り」という言葉では表せないもので、通常の馬は後ろから見るとトモの筋肉が
2枚に割れている所が、ミホノブルボンは4枚に割れていて、その1枚1枚がパンパンに膨らんでいました。
まさに規格外の馬体であり、レースぶりも規格外の強さでしたね。
常に楽な手ごたえで、特に逃げている時、これほど安心して見ていられる馬は
ミホノブルボン以外にはおりません。
ミホノブルボンで忘れる事のできない出来事がございます。
当時、競馬仲間の一人で毎週のようにつるんでいた者がおりました。
初めてミホノブルボンを見た東京競馬場にも彼がおりました。
その日はスプリングSの日で、同じ日に関西では毎日杯が行われます。
後楽園に行く道すがら、彼は毎日杯はヒシマサルとファンタジースズカで鉄板だと言い、
今日は勝負と私に盛んに語ります。
確かに2頭だけが力が抜けているように見えます。
配当は全く期待できませんが、私は彼の言う鉄板に賛同しました。
9Rくらいに後楽園に着くと、その日はいつもより混雑していて、
モニター観戦する事すら困難なほどでした。
馬券を買うだけ買って、車で見る事にしようと、マークシートを塗りつつ長い列の後ろに並びました。
彼は阪神で行われる毎日杯の1-5を3万円買うと言い、マークシートに記入し馬券を買いました。
行列は思いのほか長く、時間がかなり掛かり、出走の時刻が迫っております。
オッズも確認せず買った馬券をポケットにねじ込み急いで車に戻ると、
スプリングSのファンファレーが鳴りちょうど発走時間でした。
結果はミホノブルボンの大楽勝で、2番人気の評価が不思議で強さだけが際立っていました。
2着は大穴のマーメイドタバンで馬連は相当付きそうです。
二人でミホノブルボンの強さを話していると、いよいよ毎日杯が始まりました。
ヒシマサルは3角から4角において、騎手の指示を全く無視する馬で
虐待のようなムチをくれて直線に入ってくるのが常でしたが、この日もそうでした。
しかし直線を向くと、なにかを思い出したように猛然と追い込みこちらも楽勝でした。
狙ったファンタジースズカには伸びがなく3着で、代わりに先行して粘ったホクセツギンガが2着でした。
いわゆる1着3着です。二人はフロントガラスを殴りながら悔しがりました。
なにか気晴らしにでも行こうと、私がエンジンをかけた時、彼が絶叫しました。
駐車場で窓が開いていたのもありますが、そこにいる人間が全員、注目するほどの絶叫でした。
なんだよっと彼に聞くと、馬券を握り小刻みに震えております。
彼は度胸だけで生きているような人間でしたから、震える姿など見たことありませんし、
驚きのあまり目の焦点が合わず、放心状態の彼の姿は私にも恐怖を感じました。
まずは窓を閉めろ、タバコをくれとだけ言い、深いため息とともに煙をくぐらせている彼が
落ち着いて話し出すのを待ちました。タバコを続けて3本吸い終わると、落ち着きを取り戻したようで
私に、スプリングSの配当はいくらだと聞いてきました。
確か万馬券だったがはっきりとした金額は分からないと言うと、そうかと彼は言い、馬券を私に見せました。
私は1-5と書いてある馬券を見ながら、さっき見ただろ、外れたろ、と言いました。
すると彼は、それは阪神だろ、馬券をよく見ろ、中山になっているんだ、
当たっているんだよ、と一際、大きな声で叫びました。
馬券を良く見てみると確かに中山11R、1-5、30000円と印刷されています。
馬券を買う時に慌てた彼は、阪神と中山を塗り間違えていたのです。
当時、関西のレースはメインレース(重賞)のみの販売で、関東の競馬場との
マークシートの塗り間違いが非常に多かったのですが
まさか彼の外れた馬券が一転、的中となるとは。私も思わず叫びました。
配当は万馬券に間違いありません。最低でも100倍×30000円で300万です。
彼は私に配当を確認してきてくれと言います。携帯電話など無い時代ですから、
私は公衆電話に走り、テレフォンサービスで配当を確認すると、衝撃の54780円です。
彼の元に戻り伝えると、彼はまた小刻みに震え、パニック状態になりながら
この30000円はいくらになるんだと私の胸倉を掴みながら聞いてきます。
私も知らない桁の掛け算ですから、すぐに回答する事ができず、新聞に赤ペンで子供の様に
計算しました。またもや衝撃です。16,434,000円です。さっきまで紙くずだった馬券が
郊外なら家が買える位の価値を持ってしまったのです。私もパニックになりました。
当時、免許も取立てくらいの小僧の頃です。小僧には衝撃的過ぎる出来事です。
親が死んだ時だって泣かなかった彼が、わんわん泣いています。
自律神経が崩壊し始めているのが分かりました。
もうガランとした駐車場に男二人が車に乗っていて、しかも助手席の男は号泣しています。
なんども警備員が様子を伺いに来ますが、あまりにも不気味なようで話し掛けて来る事はありませんでした。
傍から見ればゲイの別れ話にしか見えませんからね。
それでも、かれこれ3時間も経ったでしょうか、彼がやっと正気を取り戻すと
この馬券をどうすれば良いかと聞いてきます。
私は、土日に換金するのは目立ちすぎるから平日で、それも明日、早速換金するべきだと言いました。
彼は私の意見に同意し、追い剥ぎが多数の場合、恐らくやられるだろうから
おまえも武装して一緒に来てくれと言いました。続けて、家に帰って泥棒でも入られたら、
火事にでもあったら大変だから、一緒に居てくれと言われて、一晩中、車を走らせていました。
今、考えたら、徹夜で走っている方が命に関わると思うのですが、この時は若さですね。
命より金だったのですね。
翌日、早速、後楽園に行き換金しました。
換金は思ったよりドライなもので、お金を封筒に入れてもらい終わりました。
二人とも、すでに長くした特殊警棒を片手に持ち、彼にいたっては、サバイバルナイフまで
背中に隠し持っていました。今なら警棒だけで銃刀法違反で捕まりますよね。
しかし、そのくらい危ない所もありましたし、金額が金額ですから、さらわれる事まで
想定しての行動でしたね。とにかく無事換金し、私は仕事料と口止め料としては破格の
帯封一つをいただきました。
小僧がなんの苦労も無く得てしまった大金です。しかも買い間違いという実力が
一切伴わない的中から得た大金です。彼はご多分に漏れず、狂いました。
高級車を買って、全身、ブランド物で身を包み、くだらない物を買い漁っても、まだ1000万近く残ってます。
酒と女には狂う事はなかった彼が、次に狂ったものは博打でした。
毎日、公営ギャンブルに入り浸り、夜は怪しい賭場に出入りするようになりました。
初めは限度額を決めて打っていたようですが、マンションカジノ(違法カジノ)でバカラに
はまると彼の人格が崩壊し、別人のようになってしまい、私は自然と距離を置くようになりました。
的中から2ヵ月経った頃、彼は一度だけ、私を訪ねてきました。
結局のところ、金の無心であの時にあげた金を返してくれと言われました。
私は彼から貰った金をなぜか使う気になれず、家にそのまま置いてありました。
彼に金は返すからもう来ないでくれと言い、続けて100万は手切れ金にしてくれと
言ってしまいました。
博打に取り憑かれていて冷静な判断もつかなくなっている彼の姿を見たくもなかったし、
何より金で付き纏われるのが許せなかったのです。
帯封を彼のポケットに突っ込み、私は無言で家に入りました。
日が経つにつれ、私自身の発言に後悔しました。
彼は非常に勝気な性格で、人に頭を下げるという事は人生の負けだと、よく言っておりました。
負けを承知で、私に頭を下げた彼。
人生を賭けて頭を下げた彼の心情を、汲み取れなかった事が私を苦しめました。
自分を殺して、私に頼みに来たという事は、私に救って欲しかったというサインだったのではないか。
それを私は彼の姿だけで判断し、話すら聞かなかった。
博打に採り憑かれながらも、最後の望みを無下にも打ち砕かれた彼のその後の消息は掴めません。
噂を聞くこともなく現在に至ります。
どこかで生きている事を願うだけです。
彼は1600万という大金を手にして、たった1600万で人生が大きく狂いました。
たまたま、偶然中の偶然の中で転がり込んだ1600万は果たして良かった事なのか。
負の偶然中の偶然もやって来るくらいなら、当たらなければ良かったのに。
一生遊ぶには少なすぎますが、何でも買える1600万です。
しかし一人の小僧の値段にしては大幅に安すぎますし、1600万では買えるものではありません。
確かに金は人間が生きていくのに大変、重要なものです。
多くの人間が、競馬は少ない金を増やすためにやるのです。
負けることが多いですが、一攫千金の要素が十分にあります。
1600万位、当たる事だって競馬をやる人間には十分あるのです。
でも、それが幸せな事なのかどうかは・・・。
当たるだけが、金が増えるだけが、幸せではないと私は知っています。
ミホノブルボンが函館競馬場に来場の記事を見て
あの時、彼が馬券の間違いに気付いていなかったらと思った18年前の出来事でした。
2010年8月10日