菅原道真公とは

菅原道真公(845~903年)は、平安時代前期に学者・政治家として活躍されました。 承和12(845)年に京都の菅原院にて生誕され、5歳の時に和歌、11歳の時には漢詩を詠み、幼い頃からたたぐいまれなる文筆の才能に恵まれ、天才ぶりを発揮しています。文化的にも、幼少より歴史や文学に精進されて、日本の学問、文芸の発展に偉大な業績を刻まれ、詩作においては中国使節の応対で、大使より「白楽天の詩文に優る」と賞賛されたほどでした。

また、歴史的には、自ら遣唐使の停止を上申することによって、日本独自の文化の発展に大きく貢献し、常に真摯に「和魂漢才(わこんかんさい)」の精神で猛勉を重ね精進し、最年少で方略試という最高至難の国家試験にも合格し、33歳で文章博士になり、宮中の教官として活躍して当代随一の大学者として尊敬されました。

その後政治家としても異例の速さで昇進し、右大臣に任命され従二位を授けられるに至りますが、そのことを快く思わなかった藤原氏により太宰権帥(だざいごんのそち)として九州に左遷されてしまいました。大宰府(現在の福岡県太宰府市)に赴かれてからは、身を慎まれ必ずや冤罪が晴れることを信じましたが、その地で延喜3(903)年2月25日に59才で亡くなられます。

それでも、その死後において民衆の中では「天神様」として、学問の神・誠心の神として「天神まいり」の伝統は今に続いています。菅原道真公は天神信仰と結びつき、日本のあらゆる文化現象と関連しあいながら発展してきました。菅公ゆかりの地をはじめとする全国各地に建てられた天満宮及び天神社は、現在一万二千社にものぼるといわれています。2002年で、菅公の死後1100年目にあたった訳ですが、そこまで長きに渡って信仰されてきた天神信仰の力とは一体どのようなものなのでしょうか。

天神信仰とは、天神(及び雷神)に対する信仰のことであり、現在では特に菅原道真公―――菅公のことを「天神様」として、畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいいます。

ですが、本来ならば「天神(てんじん)」とは天津神(あまつかみ)を指して言う言葉であり、特定の神を指していう言葉ではありませんでした。私達の祖先は、山や木や岩、あるいは風や火や水といった自然の現象の中に神の存在を感じて畏れ敬い、そして部族の者達が飢え苦しむことの無いように、農耕や狩猟や漁業の収穫を、そうした自然の神に祈ったのです。これが天神様の原型です。やはり農耕民族にとってとりわけ大切なのは、農作物を作る上で最も欠かせない天候の問題―――すなわち雨の有無。その雨を降らす雷様を、古代人は「天神様」として崇拝したのでした。

菅公の生まれる前から、こうした農耕神としての天神様をお祀りするお社が全国にあった形跡が残っていたようです。当社、東蕗田天満社も、神社が創建される前には天神様を祭る小祠とご神木があったといいます。もともと東蕗田の地は雷の通り道であったらしく、よく木に雷が落ちて、雷に打たれて焼けた木を丁重に祀っておりました。小祠はもうありませんが、末社の「雷電社」としてその名残を残しております。やはり地域的に、関東平野の農村地帯に位置する神社として、菅原道真公をご祭神に据える前から、天神様―――農耕神としての尊崇があったことが窺えます。

今となっては、「天神様」イコール「菅原道真公」の図式が出来上がり、「天神様」と言えば菅公となりましたが、それは何故かというと、それは平安時代盛んであった「御霊信仰」と、菅公の悲劇的な死との結びつきが関係するからなのです。

菅原道真公は、無実の罪で藤原時平の讒言により左遷された九州の大宰府で、その生涯を閉じます。

そして菅公が亡くなった後の京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に加担したといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、更に日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害を始め、疫病などが次々に起こったことから、世の中の人々は不安に陥りました。また、延長8年(930年)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしている際に、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫が死亡し、平希世は負傷するという事件が起こります。その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んでありましたので、菅公の怨霊の仕業ではないかとの噂が広まり、これらが祟りだと恐れた朝廷は、菅公を天神として京都・北野の地にお祀りし、菅公の罪を晴らすと共に贈位(正一位太政大臣/位階の最高位)を行ったのです。

このように、清涼殿落雷の事件から徐々に菅公の怨霊は雷神と結びつけられていきました。元々京都の北野の地に火雷天神という地主神が祀られていたこともあり、菅公が怒りを鎮められ、安らかに眠っていただく為にも、朝廷はここに北野天満宮を建立して菅公の祟りを鎮めようとし、菅公が亡くなった太宰府にも太宰府天満宮を建立しました。

引き続き菅公には987年に「北野天満宮大神」の神号が下され、また天満大自在天、日本太政威徳天などとも呼ばれることにもなり、恐ろしい怨霊として恐れられたのです。

しかしながら、平安時代末期から鎌倉時代ごろには、怨霊として恐れられることは少なくなりました。この時代には天神様は慈悲の神、正直の神として信仰されるようになっていきます。菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰―――つまり藤原氏の一部をはじめとする都の貴族達には、菅公(天神)は恐怖と畏怖の念で捉えられておりましたが、一般農民にとっては、水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)様として、稲の実りを授ける神、恵みの神と捉えられたからです。農民達にとって、雨の多少は死活問題でしたし、雷を伴って雨をもたらすと考えられた雷神(天神)様は、彼等には生活を支える信仰の対象となりました。また、「雷の落ちた田には稲がよくなる」という経験則も、これに関係しているようです。

また、今日天神様として祭られる菅原道真公自身、讃岐守時代には雨を願って雷神様に祈りを捧げた記録が残されています。

その後、天神信仰は、藤原氏や鎌倉幕府、足利将軍や豊臣秀吉・秀頼父子などの時の権力者の庇護のもとに更に強大なものとなり、仏教とも関わって地方にも広まることになりました。

また、広く民衆の間にまで浸透した天神信仰はやがて、恐ろしい怨霊から、菅公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、【農耕の、慈悲の、神】【学問の神】【正直・至誠の神】【冤罪を晴らす神】【文道の大祖】【詩歌・和歌の神】【書道の神】【芸能の神】【唐渡天神】として崇められるようになっていきます。

このような変遷を遂げていきながら、各地に天神講などが普及し、全国の津々浦々に、天神様を祀る天満社・天神社が建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されていき、広く全国に崇敬されていきました。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われ、かくいう当社、東蕗田天満社も1288年に北野天満宮より御霊分けされてご鎮座なさっております。

菅公の御神徳は数えつくせませんが、主なものは次の通りです。

【農耕の、慈悲の、神】

前述しましたが、菅公は雨と水をもたらす雷神(天神)と重なり合い、いつしか雷神そのもの、農耕の神として崇められるようになりました。やがて天神様として、慈悲の神などとして信仰に広がりをもっていきます。

【正直・至誠の神】

当代随一の学者・政治家であった菅公は、天皇さまより厚い信任を受け、日本の発展のため誠心誠意尽くされ、多くの人々に尊敬されました。その後、政略により無実ながら大宰府に左遷されましたが、皇室のご安泰と国家の平安、またご自身の潔白をひたすら神々にお祈りされました。それはお詠みになった 「海ならずたたへる水の底までも清き心は月ぞてらさむ」―――こちらの御歌にも表れています。

また、「9月10日」の詩・「恩賜の御衣」に象徴されるのは忠誠心。天皇さまから賜った御衣を毎日捧持し、余香を拝された菅公に至誠の権化として神格の一面を見ることができます。

【冤罪を晴らす神】

薨去されて後、菅公の無実が証明され、冤罪は晴れました。このことから無実の罪に泣く者達を救って下さる神、との信仰があります。

【文道の大祖】

北野天満宮開創後約四十年、当時文人として名高かった慶滋保胤(よししげのやすたね)が、北野社に捧げた願文に「天神は文道の祖、詩境の主」と仰ぐと認めて文にしたためたことに由来し、特に文章を嗜む人には利益があるとしています。

また、代表的な漢学者であった大江匡衡(おおえのまさひら)の願文にも「文道の太祖、風月の本主」とあり、同じように敬っていたことが窺えます。やはり、十代の始めに詩人として認められ、元慶元年(八七七年)には文章博士となった道真にあやかろうということなのでしょう。

【詩歌・和歌の神】

菅公は、住吉・玉津島と共に和歌の神と仰がれ、柿本人麿(かきのもとのひとまろ)、山部赤人(やまべのあかひと)と並んで和歌三神と呼ばれています。そのような訳で、北野天満宮では鎌倉時代から室町時代にかけて、法楽として連歌や田楽などの芸能が頻繁に催されており、『小倉百人一首』を選んだとされる藤原定家が、北野社に歌一巻を奉納している事からも、天神様が歌聖として信仰されていたことが窺えます。

【書道の神】

これは、江戸時代に広まった寺子屋の影響を受けているようです。命日の二月二十五日、毎月の二十五日には、天神講が行われ、天神像を祭壇に掲げ、神酒、菓子、餅などを供え、書道の上達と学業成就を願ったと言います。道真の墨跡そのものは伝わっていませんが、空海や和風書体の創始者とされる小野道風と並んで、「三筆」と呼ばれている程です。

略年表