東蕗田天満社のご祭神・ご由緒

主祭神

菅原道真公/菅公(すがわらのみちざねこう/かんこう)】

平安時代前期に学者・政治家として活躍されました。承和12(845)年に京都の菅原院にて生誕され、5歳の時に和歌、11歳の時には漢詩を詠み、幼い頃から天才ぶりを発揮しています。常に真摯に「和魂漢才」の精神で猛勉を重ね精進し、最年少で方略試という最高至難の国家試験にも合格し、33歳で文章博士になり、宮中の教官として活躍して当代随一の大学者として尊敬されました。その後も異例の速さで昇進し、右大臣に任命され従二位を授けられるに至ります。しかしながら、そのことを快く思わなかった藤原氏により太宰権帥(だざいごんのそち)として九州に左遷されてしまいました。大宰府(現在の福岡県太宰府市)に赴かれてからは、身を慎まれ必ずや冤罪が晴れることを信じましたが、その地で延喜3(903)年2月25日に59才で亡くなられます。

薨去後間もなく神として奉祀され、農耕の神(雷神)・学問の神・道徳の神・文道の大祖・詩歌や和歌の神・書道の神・芸能の神と仰がれ、学業成就や無病息災を願う神としても大きな信仰を集めております。

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配神

【天児屋根命(あめのこやねのみこと)

天児屋根命は神様の国である高天原で、天照大御神に仕えて、主に祭祀を担当された神様です。天照大御神が天岩屋戸にお隠れになった際、天児屋根命を始め神様達は、どうにか太陽の神様である天照大神に洞窟から出ていただこうと洞窟の前でお祭りをします。天児屋根命は自慢の美声で祝詞(のりと)を奏上し、神様達は踊り歌い、その賑やかな様子を覗おうとしたところを洞窟から引き出され、再び高天原は明るい豊かな国に戻ったという神話のエピソードがあります。

その後、天孫降臨に随伴して国土経営にも大きく貢献され、中臣連などの祖となり、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰されてきました。

祝詞の神・出世の神ともいわれ、国土安泰・産業(農工商)繁栄はもとより、家内安全・子孫繁栄・交通安全・厄除開運などに御神徳がございます。

金山彦命(かなやまひこのみこと)】

神産みにおいて、伊邪那美命が火の神・迦具土神を産んで火傷をし、病み苦しんでいる時に、その嘔吐物(たぐり)から化生した神様です。

ご神名の通り金山(鉱山)を司り、鉱物を火で溶かした様が吐瀉物に似ていることから、剣・鏡・刀などの鍛冶業や、荒金を採る鉱業、そして金属に関する全ての技工を守護する神様とされています。また古来より金・銀・銅の金属は通貨として用いられてきたことから、お金の守護神・商売繁盛の神ともいわれております。

全国最古の鉄工の守護神として、金属業・農土木産業などの事業に対する御神徳、また商売繁盛・社運隆昌の御神徳は誠に威大であります。

由緒沿革

古くより「元法印正善の時『小字本田に小祠あり(口傳)』」とあり、当神社は現在の処より北にあったといわれております。また近くに成就寺という寺があり、蕗田家の祖である元法印正善は住職と神官を兼ねていました。その後の代の法印善海が「東蕗田の地に菅原道真公をお祀りするお社を造るように」という霊夢の物語を京都北野梅松院に奏上したことにより、其の事を白川家に懇請し、勅宣を以って北野天満宮より御霊を分祀し、東蕗田の地に正応元年(1288年)2月18日に創建されました。

明治40(1907)年には神饌幣帛料供進神社に指定され、長き歴史を経て東蕗田の天神様として親しまれております。

略年表