開教宣言 大正14(1925)昭和元(1926)年
献堂式に満堂の来賓を迎えて出発した教会は、8月1日に最初の委員として平沢八重姉、岡巍氏を選び伝道態勢に入った。
これより前、新会堂竣工直後の7月2日に最初の祈祷会を開いて祝福を祈った。二十二名の来会者であった。更に7月5日最初の聖日礼拝を行ったが、三十九名の出席があって、この日を長く教会創立記念日とした。
献堂記念伝道は8月17日より三日間に七回の集会を「新時代聖書講演会」と銘うって帰朝草々の賀川豊彦氏の来訪をそのまま講師として行った(まだ会員もないので相談も何もない)。延八百九十三名の来会者あり、決心者五十七名を得るという真に華々しいスタートであった。
9月27日第一回の洗礼聖餐式を行ったが、この日の受洗者並に入会者の使命をあげてこれを覚えたい。
受洗者 外山ユキ、村上里、渡辺友子、渡辺ふさ子、清水英二郎、上田みつえ、伊庭寿子の七名
転入者 前迫夏実、藤田信一、藤田敏子、藤田富士郎、小泉秀吉、小泉初瀬、井上俊孟、斉藤正吉(会堂建築監督者)、斉藤花子、岩鶴一良の十名に長谷川敞牧師夫妻を加えて十九名となった。越えて10月11日には岩橋美蔵一家(五名)が転入されたが、内次男克己氏は母型の平沢姓名乗り関西学院に学び童話作家として又岡本教会最初の伝道者として活動された。
秋季伝道には畠中博牧師を迎えて三度にわたる特別集会を営み大いに気勢が上がった。小集会の開催は之を培うに大いに力があった。クリスマス礼拝には六十二名、同祝会には二九二名の用事を招くという最初の半年思にまさる恩寵の下に送り、希望の第二年目を「力行」という標語をかかげて迎えた。
第二年目は更に激しい伝道体勢をととのえて内外に向って働きかけた。長谷川牧師は遠く台湾、北海道にまで応援の旅に上り、近くの教会の求めには応じきれない程であった。
6月には今井氏の紹介で内村鑑三先生の聖書講演会を開催した。この時は随分入場者の制限を加えたが二百余名が殺到した。7月の設立一周年記念伝道には海老名弾正先生を迎えて二百五十七名、翌聖日の感謝礼拝にも二百二十二名の出席者を見るという大盛況であった。
この年迎えた特別伝道講師陣には、長坂鑒次郎氏、村島帰之氏、菅原菊三氏、平賀徳造氏、木村清松氏の名があり、一般諸集会には入間田悌吉、三田谷啓、水谷央、西坂保治、錦織貞夫、塚田喜太郎の諸先生に御来援を受けている。生れ出たばかりの教会の為にかく多くの方々の御助けを頂いた事を感謝し、これに応えたいと一同は祈った。
伝道開始一年半にして開催された第一回教会総会には凡ての点に恩寵溢るる報告がなされた。
一、 受洗者 二九、信仰告白 三、転入者 三六、減 一〇、差引 五八名
二、 朝拝 六四、 夕拝 三一、 祈会 二〇、 日曜学校 五九(教師一二)
三、 収入合計 3,307円、 支出合計 3,228円
この年間の受洗者中には土居真俊氏(神学博士)、志村卯三郎氏(原元標教会牧師)、故橋本鑑氏(47頁参照)の名が見える。
井上益三氏等による音楽会、婦人会によるバザーは地域の人々との親しみを増し、その益金は建築会計の不足を補った。
今一つ類例の少ない事業として婦人会売店を隣家を借りうけテストケースとして行ってみたが、色々な点で理想と現実とが一致せず、僅か一年ほどで閉鎖してしまった。