(2025年10月5日(日) 香川県小豆島 神戸YMCA余島キャンプ場での日曜日の朝の礼拝でのお話です。 このキャンプ場は75年にわたって活動をしてきましたが、来年3月をもって神戸YMCAキャンプ場としては閉場することになり、4日の土曜日には神戸YMCAのみなさんによって閉場セレモニーが行われました。その日の夜からこれまでキャンプ場で活動してきたスタッフ、リーダー、ディレクター、OBGのみなさんが、これからのことを一緒に考える企画をされ、翌日の日曜日の礼拝に私を招いてくださいました。)
讃美歌 444番 「よのはじめ さながらに」
聖書 出エジプト記3章10~12節
10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
11モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
12神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
お話 「エクソダス Exodus」 田淵 結(単立 芦屋キリスト教会牧師)
おはようございます
芦屋キリスト教会の牧師の田淵です。みなさんと今日この礼拝をご一緒できることをとても感謝しています。
実はYMCA余島キャンプのことは、私は子どものころから知っていました。もう70年以上も前の話です。でも昨日初めてやってきました。こんないいところだったんだと思わされています。ダイレックスさんの駐車場に車をとめてキャンプ場に電話をすると、桟橋に来てください、と言われたのですが、桟橋? それどこ?ということで、YMCAの看板がありますよ、と言われるとすぐ見つけました。その看板に「YMCA余島キャンプ場」と書いてあったのを読みながら、さて来年この看板の文字は残っているのだろうか、と船を待ちながら考えていました。(もう出だしから大失態、帰りがけにもう一度小豆島側の桟橋でその看板をみたら、「YMCA余島センター」と書いてあり、「キャンプ場」ではない。そのことをスタッフの阪田さんに連絡、お詫びメールを送ったら「メタファーとして全く問題ありません」というありがたいお返事、ということでもうそのままで行きます)。そして昨日の夜のミーティングや懇親会に参加させていただきながら、またその看板のことを考えていました、「YMCA余島キャンプ場」。来年も残るのはまず余島というところですね。何があろうと来年も余島は必ずあります。所有者がどうだこうだ、というところですが。YMCAという四文字はどうでしょう。もちろん神戸YMCAはちゃんと来年もあるでしょうが、この看板にそれが書かれているかな、ということですね。昨日の夜のお話でそれが消えても構わないようにも思えたのです。ただしみなさんは新しい意味でAを残すというか、続けようとされいるのですね。アソシエーション。それが協議会なのか財団法人なのかはともかく、みなさんのつながりはこれからもしっかりと新しい形で持ち続けようということでしたね。ではYは? つまりヤングだけではなくジュニアからシニアまで、だれでもがここにかかわるという意味でもうYだけではないでしょう。M メンズ? 女性はどうでしょう。今日はYWCAの方もおられますね。LGBTQという議論はともかく、Mだけでどうするということもないでしょう。私は牧師ですからCは残ってほしいと思います。75年前にこのキャンプ場を開かれた、今井先生や武田先生たちの思いを支えたものを受け継ぐということは、ぜひ新しいAでも受け止めてほしいと思います。キャンプ場は、よくわかりません。やり方によっては残るかもしれないし、まったく無理かもしれない。でもキャンプという言葉は私は残るべきだろうと思うのです。場が使えなくなったとしても。
なぜそんなことをいろいろ考えてしまったのか、というと、今日の聖書の箇所、これは旧約の出エジプト記3章というところですが、そのときエジプトという巨大帝国のなかの奴隷であったイスラエル人たちを、突然神様がモーセという人に、お前がイスラエル人たちを奴隷から解放し、エジプトを脱出させて、新しい約束の地に連れていけと、とんでもないミッションを与えるのです。そのときモーセは貧しい羊飼い。聖書には羊飼いがよく登場しますが、それは貧しく、無力な人たちを表しています。そんなモーセが絶対的な力をもっているエジプトの王(ファラオ)のところへいって交渉して、ミッションをクリアしろ、というのですね。そんなん無理や、できへん。まず何よりも相手にもしてもらえへんやろう、というお話ですね(つい関西弁で、すんまへん)でも神様は私がお前と一緒にいるから大丈夫!というわけです。モーセにしたら、というか私なら、そんなら神様が自分でやってください。私はほっといてください、というかもしれませんが、神様はお前にやれ!と言われるのです。みなさん、昨日の夜の協議会のお話、まさにこの聖書のお話そっくりだと思いませんか。とても大きな会社がこの余島を買ってしまう。それを何とか自分たちで買い戻したい、でも最大5億円近いお金が必要。じゃあ今からここにいるみんなで5億円集めてきてと坂田さんや山本さんやガクさんの三人がそういわれて、すぐに可能でしょうか? またこの余島を新しくアレンジしなおして運営を続けていく、とすれば5億円では足りないかも。お前、それをやってこい、でも正直そんなお金もない、でも阪田さんの昨日のお話のなかで、あきらめてしまうんか?と子どもたちから言われた、というところがとても印象的でした。さあどうします。モーセはそのミッションを引き受け、ほんまに無茶苦茶しんどい目をしながらそれに取り組むのです。ようやるわ、というところですね。そして何とかエジプトからイスラエル人を脱出させるのですが、それはまだ目標の半分ぐらい、そこから神様が約束してくれた新しい土地にイスラエル人と一緒に歩んでいくのです。
実はそれもまた結構たいへん。何よりもイスラエル人から不満が出ます。なんでこんなしんどいことせなあかんのや。食べるものもなくなってきた、もう歩かれへん。こんなことせんかったらよかった。昨日のお話でも、新しいプロジェクトに賛成する人もあれば反対する人もある。まさに。反対する人も私たちの仲間のなかからも出てくるかもしれないということですね。そのときモーセはその人たちを説得するよりも神様にお祈りするんですね。聖書ですから。そしてモーセは神様からのミッションを実行しているし、神様が一緒にいると約束してくれたのですから。すると神様は天からパンを降らせて人々に食べさせるという、まさに聖書らしい奇跡も起こります。そしてその後どうなったと思います? そのミッションは実現するんです。聖書ですから。神様の約束は大丈夫、しっかりと実現しますよということなのですが、ただしそのために40年間かかったということです。新しい約束の土地を目指すのに、結局砂漠というか荒野を放浪、さまよいながら。その間に最初にエジプトから逃げ出した世代は次第に亡くなり、最後はモーセも、もうこの川を渡れば目的地というところで亡くなります。その次の世代が神様の約束の実現を体験するのですね。昨日ガクさんがおっしゃっていた、この計画は長期的なものというのはどのぐらい長期的なのでしょうか。聖書では40年ということです。私は今から40年後は115歳。阪田さんで80歳代、山本さんは永遠の青年だから大丈夫かな。若いスタッフリーダーのみなさんでも60代ですね。でどうします? そんなプロジェクトをやりますか?
皆さんにお願いしたいことの一つは、このプロジェクトをやるかやらないかという以上に、40年後、2065年、まだ令和が続けは48年でしょうか。ぜひ余島に来てください。そのときここがどうなっているかを見てほしいのです。余島は確実にありますね。あの看板のほかの文字はどうなっているのでしょうか。そしてもうひとつの皆さんへのお願い、これはまさに部外者的なやや無責任な発言ですが、来年の夏、どんなキャンプをしますか? 考えてください。みなさんは余島が75年受け継いできたキャンプのすばらしさを体で知っているから今日もここにおられるのですよね。確かに来年余島でキャンプができるかどうか、それはわからない。でも皆さんが余島を通じて知っているキャンプのすばらしさが皆さんの中に息づいているのなら、それを単なる思い出にしてしまわないで、余島のキャンプをとりあえず来年どんな形で、どこで実現できるのかを真剣に考えてほしいし、それが続けられる中で、40年なんてわかりませんが、この余島ででみなさんがやりたい、やるべきキャンプがちゃんと行われるはずです。40年、長い時間のなかで、日本の社会状況、経済状況、そしてこの島の所有される方の考え方もどうなっているでしょう。モーセがとても頑固だったエジプト王ファラオの考え方を変えさせたようなことが起こるでしょう。聖書的な言い方をすれば、神様が皆さんと一緒にいてくださるから。そして神様が一緒にいてくださらなかったら、まさにやっとられんことなのかもしれませんが、これから余島キャンプを続けていかなければと思うのですね。続かなければ、将来の余島キャンプは本当に消えて無くなってまうでしょう。だから(余島)キャンプという文字は消えないのです。
確かに今みなさんは余島にとって大きな転換点に立たされているのです。だからこそ、皆さんがこれからどうするのか、今日ここにおられるということは、そのことを神様からひとりひとり皆さんに尋ねられているのです。最後にこの物語をひとことで表す言葉をぜひ覚えてください。エクソダスという言葉です。EXODUS 英語の聖書をみると日本語聖書の出エジプト記という本の名前がEXODUSです。でもこれはもとともギリシャ語でエックスとホドスという二つの言葉からできていて、ホドスとは道、生き方、やり方、も意味します。エックス、それは離れるとか出るとか、だからイスラエル人はエジプトというホドス(場所)からエックス(脱出)したわけです。でもそれは単に場所ではなくそこでの生き方、自由もなく奴隷として、誰かによっかかって生きている生き方から、自分たちで生きる、自由な生き方へと歩み始めたわけですね。それがどんなにしんどくても、新しい生き方を彼らはもとめたのです。私は阪田さんから今日の礼拝でお話を、といわれたときに、このエクソダスという言葉がすぐ頭に浮かびました。今日の日は余島キャンプの終わりの日ではなく、エクソダスの日なんだということを覚えてください。さあ皆さん約束です。40年後、余島に来てください。そのとき桟橋にどんな看板が立てられているでしょうか。いや皆さんがどんな文字をその看板に書かれるのでしょうか。必ずAと余島、キャンプという文字、できればCもと願っています。お祈りしましょう。
神様、今日こうして余島で日曜の朝の礼拝をともに捧げることが出来て、ありがとうございます。私たちは今、新しい出発をしようとしています。どうぞ今までの75年間神様が私たちの先輩たちと共に歩んでくださったように、これからも私たち、そして私たちの後に続くひとたちと共に歩み、様々なむつかしい課題に向き合わせてください。それによって、私たちの目指すべき場所に、あなたが導き、たどり着かせてくださることを信じます。今までこの余島キャンプ場を支えてこられた方々、今、私たちのこの場所での活動をいろんな形で支えてくださる方々に感謝します。私たちがこの場所で与えられた多くの大切なものを、さらに次の世代に伝えるひとりひとりであることが出来ますように。私たちの主、イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
讃美歌21 467番 「われらをみちびく」