2026年
メッセージ
メッセージ
1月25日 芦屋キリスト教会
メッセージ 「天国は近づいた」 田淵 結 牧師
●よく「一言でいうと」という要約の仕方をします。その議論の中心的なポイントはこれで、ここだけはしっかりとわかってほしい、ということなのですが。ではイエス様の教えを一言でいうと、となるとおそらくものすごい議論が巻き起こることでしょう。そんななかで20世紀最大の神学者の一人といわれたカール・バルトは「インマヌエル(神共にいます)」だと主張していますが、それがキリスト教全体で認められているわけもありません。わたしはそれは今日の聖書の箇所の「天国は近づいた」ではないか、と私なりに思っています。なによりも福音書のなかでイエスの最初の教えとして記されているからです。
●天国、あるいはマルコによる福音書では「神の国」となっていますが、私たちの日本人的にはそれは私たちに約束されている死後の世界と勝手に思い込んでいますが、イエス様が意味されているところは全く違います。ここでいう「国」ということばは「支配される」とか「治められ方」(そんな日本語があるのでしょうか)という意味です。例えば今の日本は政治権力を握っている総理大臣?によって「治められ」「支配され」といるのです。イエス様の時代にはローマ帝国がユダヤを治めていましたが、そのなかでイエス様は「神の国」「天国」、つまり神様がわたしたちを治められる世界を訴えられるのです。その世界は神様の支配ですから、人間的な考え方、価値観とは全く違います。人間の価値観では富める人、地位のある人、(人間的な)権威のある人などなど、身分格差があり、その上位の人、多数者が支配していますが、神様の前ではその序列は通用しません。その世界の中心的な考え方は、神様に愛されて生きる、ということで、ひとりひとりがそれぞれに神様に独特の仕方で愛されているのですから、序列や比較ではありません。イエス様が問われた「あなたはわたしを愛するか」(ヨハネ福音書21章)という問いかけのなかで「私に従いなさい」ということばによって私たちが生きることが求められているのです。
●西暦2026年と言いますが、それはイエスの誕生から数えて2026年目ということ以上にA.D.つまり「主(イエス)が支配される」何年目という意味を持ちます。私たちがこの新しい年に生きるということは、今の世界で、日本社会で生きるということと同時に主の支配される時を生きている、ということを覚えるべきでしょう。だから常識的な価値観ではない、神様の愛を基準(ものさし)とする考え方、生き方を求められ、招かれていることを覚えたいのです。そのような招きに最初に答えたのが、ガリラヤ湖で働く漁師たちだったのです。
●祈りましょう、神様、私たちがいまどんな時代を生きているのか、私たちがそのなかで中心とすべき行き方を続けることができますように。あなたの愛に従う生き方を、イエス様の生涯を通して示し続けてくださいますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
聖書 マタイによる福音書 4章12~23節1月18日 芦屋キリスト教会
メッセージ 「神の小羊」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 1章29~42節
●私の神学部恩師である城崎進先生は、毎年新年の講壇ではその年の干支にちなんだお話をされていました。今日の日課は残念ながら馬ではなく「小羊」です。ちなみに聖書のなかで馬はあまり高く評価されることはなく、戦いのための乗物としても恐れられていたようです(ゼカリヤ書9:10)。イスラエル民族はマックス・ウェーバー的に言うと「ベドウィン:小家畜飼育者」と言われ、決して大型の家畜馬、牛、ラクダなどを扱うほどの経済力はなかったようで、羊の群れを率いて生活を営んでいました。だからこそ聖書の主人公は羊飼いが多いですし、イエス様もご自身を「わたしは良い羊飼い」と語られていますし、バプテスマのヨハネはイエスを見て「神の小羊」と呼び掛けています。
●今日の聖書の箇所は、先週もマタイによる福音書で示されたイエスの受洗物語ですが、その洗礼を受けられたイエスに対してバプテスマのヨハネは、イエスが自分より偉大な存在であり、「神の子」、そして「神の小羊」と語ります。聖書のなかで、とくに旧約の背景のなかで「小羊」は、出エジプト記の記述のなかで、イスラエル人に降りかかろうとする災厄を自ら身代わりとして受ける意味で代贖の犠牲として殺される存在で、ヨハネにとってイエスの偉大さ、神の子性はイエスの死の意味を見通してのことだったのです(ヨハネによる福音書19章)。キリスト教においてイエスを神の子、キリストとして受け止める第一の、そして最大の理由はこの点にあります。だから建物としての教会にとっても「十字架」を掲げることが必須となります。
●イエスが私たちの罪のために十字架にかかられた、というその中心的なメッセージですが、カトリックのミサ(聖餐式)という典礼の最後に唱えられる祈りの言葉が、まさに「世の罪を取り除く神の小羊」ラテン語で"Agnus Dei qui tolis peccata mundi"なのですが、その祈りには"Dona nobis pacem"という言葉が続きます。私たちに平和を(pacem= pax= peace)与え給えと閉じられます。イエスの十字架の死、それは私たちに真の平和・平安を与えるものだったということです。新年の最初、私たちのこれからの一年を考えるとき、わたしたちにまさにその平和が与えられていることを、イエスが私たちの「罪:不安、思い煩い、悩み、苦しみ、恐れ」などを追ってくださったという事実に目を向けることによって、まさに安心して、平安のなかに過ごすことができることを、その意味で私たちも心のうちに十字架を掲げながら歩みたいと願います。
●愛する神様、新年のこのときに、わたしたちにとってのイエス様の存在の大きさを改めて覚えます。どうぞそのイエス様と共にこの一年の歩みを続けることができますように。わたしたちがまたその十字架を共に掲げつつ過ごすひとりであらせてえください。十字架の死に至るまであなたに従順であり、私たちを愛してくださった主、イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
1月11日(日) 公現後第一主日
聖書 マタイによる福音書 3章13~17節
●キリスト教のカレンダーでは1月6日がもうひとつのクリスマスの重要な祝日、オーソドックス教会と呼ばれる東ヨーロッパの教会ではこの日をクリスマスとしてお祝いするほどで、それはイエスが東方からの学者たち(伝説によると三人で、一人はヨーロッパ、一人はアフリカ、もうひとりはアジアからやってきたと言われ、それぞれ名前も伝えられている)ということで、つまりユダヤ人以外の世界の人々に救い主が示されたことを記念してエピファニー(公現日)とされている。そして今日はイエスが成人して後バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた日として記念されています。この日からイエスの公生涯(宣教活動)が開始されたことを覚えるのです。
●バプテスマのヨハネからの洗礼については、例えば遠藤周作さんという作家は、イエスはもともとこのヨハネの弟子あるいはヨハネが主宰する団体(教団・教派)に属したのではという推察をしておられるが、ただし聖書の記述からすればむしろヨハネはイエスの偉大さを理解しており、洗礼を施すことにためらいながらそれを行っています。そしてイエスがヨルダン川から上がられると「天が開け、神の御霊がはとのように・・・下って」来たとされます。そして天からの声「これはわたしの愛する子、私の心にかなう者」という声が響いたということで、この洗礼はまさに神様のみこころのうちになされたことが語られます。
●この洗礼がイエスの公生涯(伝道活動)の始まりを画するということのなかで「わたしの心にかなう者」という言葉をうけとめるとき、それはただイエスが人々に神の国の教え、福音を語り、人々を癒し、慰め、受け入れ、愛されたことに続いて、十字架の死をもその中に含まれていることを私たちは見逃してはならないのです。この日、神様がイエスにその生涯にわたるミッションを与えられたのでしょうし、それはまさに十字架の死に至るまで神様のみこころに従いぬくことの宣言出会ったのです。クリスマス、それはまたイエス様の生涯のはじまりとして私たちも覚えるべきなのです。
●祈りましょう、神雅、私たちの教会にとって新しい一年のスタートのその日、イエス様がまた、十字架の死に至る生涯の最初を記されたことを覚えます。そのようにしてイエス様が私たちと共にこの一年を歩み続けてくださることを信じ、私たちのこの一年の業に取り掛かることができますように。常に私たちの同伴者となってくださる主、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします、アーメン。
1月4日 降誕後第二主日
メッセージ 「世は言葉によって成った」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 1章(1~9)、10~18節 John 1:(1-9), 10-18
●2026年あけましておめでとうございます。私たちは当たり前のように新年「おめでとう」とご挨拶をしますが、実は何がおめでたいのか、そんなことをつい考えてしまうのは、私の癖かもしれません。日本的な習慣では毎年新年新年に歳をひとつ取るということで、お年玉のお祝いもこれにちなむのでしょう。数え年ですね。あるいは今年こそ、去年よりいい年、明るい、希望に満ちたとしとなることを確信して、そんな新しい一年のスタートをお祝いするのでしょうか。小林一茶さんではありませんが「めでたさも中くらいなり」でもいいので、ぜひ昨年よりも今年がいい年でありますように、とお祈りしたいところです。
●今日の福音書の言葉、聖書日課として与えられたヨハネによる福音書の最初の言葉も、ある意味新年にふさわしいように思われますが、そこでは初めに言葉があった、とあの有名な宣言で始まります。もちろんここでは神様の言葉ですから、私たちが口にする言葉も、神様の言葉にならうもの、人を活かし、愛し、勇気づける言葉であるべきなのですが、さてどうも普通に聞こえてくる言葉は、まったく反対の、人を批判し、貶め、傷つけてしまうようなものが溢れています。いわゆるネガティブキャンペーンです。なぜ自分の正しさを訴えるのに、他のひとが間違っていることをあげつらわなければならないのでしょうか。むしろあの人はこんなに素晴らしい、でも私もこんないいところがある。みなさんはどう思いますか、というようなメッセージがなぜ聞こえてこないのでしょう。
●今年がいい年であるのかどうか、それは私たちが語る言葉そのものが、神様の言葉にどれだけ近いものなのかを問い直すところから始まるのでしょう。そのためにこの一年、私たちもイエス様の言葉を学び続けたいのです。人の思いを暗くするのではなく、明るく勇気づける言葉、私たちを勇気づけ、さあこの一年もみんなで、元気に頑張っていこうと力づける言葉、それこそ精霊の私たちへの働きかけを感じる中で口にする言葉でしょう。2026年がどんな一年になるのか、それはまさに私たちに神様を示してくださったイエス様のことばにどれだけ耳を傾けているか、それにかかっているのです。
●祈りましょう、神様、あなたのお恵のうちにクリスマスと新年を私たちは迎えさせていただきました。この一年、どうぞ私たちの教会のミッションを、また私たちの歩みをどうぞ整えてくださり、あなたの導きのなかに日々を送ることができますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします、アーメン。