9月21日(日)三位一体節第十五主日
説教 「忠実さ」 田淵 結 牧師
聖 書 ルカによる福音書 16章1~13節
●今日の聖書の箇所は何とも不思議というか、そんなんでええの? と関西弁で言いたくなる内容ですね。「不正にまみれた冨で友人を作りなさい」。イエスは不正な富を認めているのでしょうか。そうだと思えますね。主人の財産をごまかしていた管理人(番頭)が、それがばれても自分を助けてくれるようなつながりを作っておこうと手を打っておいた、そのやり方を主人がほめたのです。じゃあ私たちも、適当に会計をごまかし、私欲を満たしながら生きていけばいいということなのでしょうかねぇ。
●そのように書いてありますが、もうひとつひねった言葉もあります、「不正にまみれた冨について忠実でなければ・・・本当に価値かるものを任せるだろうか」。イエスの指摘は、私たちの根本的な姿勢のようです。つまり不正な富を用いてでも自分が助かることに必死となれる人は、不正な富に必死になっているのではなく自分の命を守ることに集中している。そうなると本当にその不正な富が最後まで自分を救ってくれるのか、それ以上により確かで信頼できる「救い」に気づくとき、最後にそれを求めるのではないかという指摘です。だから究極の問として神か富か、という表現にたどり着きます。
●その管理人が不正に手を染めたのは、そのときに自分の欲を満たしたいということからだったでしょう。でもそれは満たされたのでしょうか。不正な富を使って得た友人たちは本当に永遠の住処を与えてくれるのでしょうか。そのような関係が与えてくれる友情ってどこまで確かなのでしょう。おそらくこの管理人はそのときうまくいったとしても、ただ生きるためだけにそれを繰り返すことの虚しさを痛感させられることになるのでしょう。主人がほめたのは、不正ではなく本当に助かりたいという彼の気持ちだったかもしれませんね。そのときごめんなさいと言わなかった、言えなかったにしても、彼はなんとか助けを、救いを求めている、その生きざまが認められたのでしょうか。
●祈りましょう、神様、私たちは様々な誘惑のなかに暮らしています。そのなかであなたは「試みにあわせず、悪より救い給え」といのることを教えてくださいました。試みのなかでしかし、あなたの身を見上げ、その救いを信じて歩み続けることができますように。その祈りを教えてくださった主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします、アーメン。
9月21日(日)三位一体節第十五主日
説教 「忠実さ」 田淵 結 牧師
聖 書 ルカによる福音書 16章1~13節
●今日の聖書の箇所は何とも不思議というか、そんなんでええの? と関西弁で言いたくなる内容ですね。「不正にまみれた冨で友人を作りなさい」。イエスは不正な富を認めているのでしょうか。そうだと思えますね。主人の財産をごまかしていた管理人(番頭)が、それがばれても自分を助けてくれるようなつながりを作っておこうと手を打っておいた、そのやり方を主人がほめたのです。じゃあ私たちも、適当に会計をごまかし、私欲を満たしながら生きていけばいいということなのでしょうかねぇ。
●そのように書いてありますが、もうひとつひねった言葉もあります、「不正にまみれた冨について忠実でなければ・・・本当に価値かるものを任せるだろうか」。イエスの指摘は、私たちの根本的な姿勢のようです。つまり不正な富を用いてでも自分が助かることに必死となれる人は、不正な富に必死になっているのではなく自分の命を守ることに集中している。そうなると本当にその不正な富が最後まで自分を救ってくれるのか、それ以上により確かで信頼できる「救い」に気づくとき、最後にそれを求めるのではないかという指摘です。だから究極の問として神か富か、という表現にたどり着きます。
●その管理人が不正に手を染めたのは、そのときに自分の欲を満たしたいということからだったでしょう。でもそれは満たされたのでしょうか。不正な富を使って得た友人たちは本当に永遠の住処を与えてくれるのでしょうか。そのような関係が与えてくれる友情ってどこまで確かなのでしょう。おそらくこの管理人はそのときうまくいったとしても、ただ生きるためだけにそれを繰り返すことの虚しさを痛感させられることになるのでしょう。主人がほめたのは、不正ではなく本当に助かりたいという彼の気持ちだったかもしれませんね。そのときごめんなさいと言わなかった、言えなかったにしても、彼はなんとか助けを、救いを求めている、その生きざまが認められたのでしょうか。
●祈りましょう、神様、私たちは様々な誘惑のなかに暮らしています。そのなかであなたは「試みにあわせず、悪より救い給え」といのることを教えてくださいました。試みのなかでしかし、あなたの身を見上げ、その救いを信じて歩み続けることができますように。その祈りを教えてくださった主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします、アーメン。
9月14日(日)三位一体節第十四主日
メッセージ 「失われた一つ」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書15章1~10節
●今日のルカによる福音書15章は全体で「失われたものを見つけ出す」というテーマで4つのたとえ話が集められており、前半の2つは比較的短く、後半に有名な「放蕩息子」の物語が続きます。いわば今日の聖書個所は後半への序文となっているのかもしれません。最初は100匹のなかで失われた1匹、二つ目は10枚の銀貨のなかの1枚、それらが失われたということで、持ち主がそれを一生懸命探して見つけるということですね。後半は二人の兄弟のうちの一人が家出をしてしまう、ということはよくご存じでしょう。
●ルカ福音書15章のこの3つのお話を読みながら、いつも考えさせられるのが分数という発想です。最初は100分の1、二つ目は10分の1、そして最後は2分の1。パーセントで表すと1%、10%そして50%です。そして私たちはその分数の分母が大きいほど分子が同じ1であることの大切さ、意味を感じられなくなってしまうのではないでしょうか。でもどれだけ分母が大きく、自分は全体の1%でしかなく思われても失われた当事者?にとってはすべて、100%なのです。イエス様がこの三つのたとえ話を並べておられるのも、私たちがつい全体の何パーセントという発想にとらわれて物事をとらえることへの警告をしておられるのでしょう。
●私たちの社会はつい多数決ということ、数は力ということがいわれます。そのことに対して100匹の羊たちは同じように大切な存在である1匹が100集まっているはずですし、1枚の銀貨の価値はほかの9枚の一枚一枚と同じです。1匹ぐらい、一枚ぐらいいいじゃないか。まだほかにあるから、という考えは実はとても危険だし、もし一人ぐらいということであなたが無視され忘れ去られることは、私たちとしては受け入れられないはずなのです。小さきもの、少数者、そのひとりの大事さが見失われることの恐ろしさがこのテキストには込められています。
●祈りましょう、神様、私たちがそれぞれにあなたに愛され、守られている一人であることを覚え続けられますように。その一人ひとりの集まりとしての私たちの群れ、教会をあなたが導いてくださいますことに常に感謝し続けられますように。幼子を、弱きものを。小さいものを慈しみ愛された、主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
9月7日(日)三位一体節第十三主日
メッセージ 「すべてを捨てる~自分の十字架を負う」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書14章25〜33節
●「あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、 30『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。」 まさに今日の聖書の箇所も今の私達の教会のために選ばれた言葉かもしれません。毎週毎週、聖書日課の不思議さ、本当にその日に、その時の私達にとってふさわしいみ言葉が選ばれていることに驚かされます。ただし今日のメッセージは、私達が新しい礼拝堂を建てるために十分な予算があるか、その蓄えは大丈夫か、ということではないのです。むしろそのために、私達の思い、行い、旧約聖書の言葉を借りれば「思いをつくし、心をつくし・・・」て、そのために努力しているのか。そのときにそれ以外のことに心を奪われて、本当に大事なことに集中できなくなっていないか、という問いかけです。
●わたしたちの財産をことごとく捨てきる、実は結構新興宗教などでこのような教えが強調されることがありますし、その結果でしょうかそれらの教えはとても見事な宗教施設、礼拝所、モニュメントを作っておられます。イエスはそのことを言われたのでしょうか。財産を捨てる、それによってイエスは私達になにか素晴らしい「ご利益」を約束してくださるのでしょうか。そうではなくそれは「自分の十字架を負う」ためだとされます。自分の人生には、それぞれに神様から与えられた使命(ミッション)があります。しかしそれに本当に気づくことは難しいし、気づいたとしてそれを実行することはさらに難しく、それを成し遂げることも確かではないのです。その難しさをもたらすもの、そのひとつが財産なのでしょう。財産がなければ安定した生活ができないのですが、その生活は実は自分自身のミッションを達成するためのもののはずですが、いつしか財産形成が目的化してしまう、ということが多すぎるのです。新興宗教的な教えが多額の献金によってより幸せな生活を約束する、大きなご利益を見せつけるというのも結局より大きな財を築く手段となってしまっています。
●財産を捨てて、しかしそれはなんのためでしょう。そのことでよりクリアに自分のミッションを明確にするため、そしてその実行のために自分が神様から与えられている豊かさをより正しく、賢く使うことができているのかを常に自分に問い続けることがもとめられているのです。私達はより立派な礼拝堂を建てることを目的とはしていませんし、資金的にもそれは無理です。でもそこで常に神様に私達ひとりびとり生き方、目的、ミッションを問い続け、その実現のために神様の導きと励ましを与えられるための場として、まさに「礼拝」堂を立てようとしているのです。
●祈りましょう、神様、私達ひとりびとりにそれぞれのミッションを示し、気づかせてください。それを最大の課題として進み続ける者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
8月31日(日)三位一体節第十二主日
メッセージ 「上席をもとめる」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 14章1,7~14節
●私が父から戒められたことのひとつに、手紙をもらったらすぐに返事を書きなさい、というものがあったのに、私はそれがなかなかできず、よくとても失礼で無作法なお付き合いをしてしまうことになったのです。何かをしてもらったらお返しをする、私たちの人間関係のスムーズにするための基本なのですが、イエスはそのような関係のなかで、そこで作られている関係に含まれる私たちの「真意」、その本質的な問題を指摘しています。つまりそこで自分自身の立場をすこしでも良くみせること、人々にそうみられることから得られるいろんなメリットを求めている、ということです。
●たくさんの人々の前で上座につく。それだけ人々の注目を集め、自分の高い地位を主張することができあます。でもその席が実はあなたにふさわしくないものであることを知らされる時、今度は人々のまでの大恥をかかされることになります。面目をつぶされるのですね。それが結婚式だとすいると、結婚をしようとするカップルを祝福するための場が、いつしかひそかに自分は人々から高く見られて当然だという自尊心を満たすための場となっているのです。昔読んだ倫理学の書物に、あなたが善行をするのはそれであなたがより高い評価を得るためだ、と記されていたことを思い出します。
●イエスが、むしろ返礼のできない人を招け、というのはあなたが催しているその集いは、本当にたくさんの人と楽しく過ごすこと、その喜びを分かち合うことなのか、あなたが人々に注目され、感謝され、よりよく評価されるための手段なのかが鋭く問われます。私たちはその場の人々の注目を得ることよりも、むしろ神様からの注目、評価を求めるべきなのです。
●祈りましょう、神様、私たちがいつも自分の立場がより高く評価されることを求め続けています。そのような人々の目ではなく、あなたの目から認められるべき生き方をなす者とならせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします、アーメン。
2025年8月24日(日) 三位一体主日第十二主日
メッセージ 「安息日にイエスは教えておられた」
聖書 ルカによる福音書 13章10~17節
●「主はすべて虐げられている人のために、恵の裁きを行われる」(詩編103:6) 今日の聖書日課の詩編の言葉です。旧約の神は審きの神であり、新約の神はゆるしの神だ、という言葉が言われます。どうもそれは一面的な理解でしかなさそうです。旧約聖書にも神様が人々を愛し、恵み、ゆるし、支えられるという言葉がたくさんあります。今日のルカによる福音書の記事はイエスがユダヤ人の礼拝所でもある会堂(シナゴーグ)で教えておられたところから始まります。イエスが会堂で教えるのは当然聖書(旧約)に基づいてのことでしょうから、その日イエスはおそらく愛の神、ゆるしの神について語られてていたことでしょう。だからこそ、イエスはそのとき会堂にいた18年間も病気に苦しんでいた一人の女性に目をとめ、彼女を癒されたのです。つまり彼の教えを実行されたのでしょう。
●「ところが」(14節)そのイエスの行為に会堂長が腹を立てました。その行為が、ユダヤ教では一切の行為が禁止されている安息日になされたからです。ほかの日ならいいけれど、というのがこの人の主張だったのです。ただしイエスが会堂で教えていることはゆるされているのです。でももしイエスの教えが単に言葉だけのものではなく、その内容を行動で示すということだったとしてもそれは許されないのでしょうか。教えは言葉だけという狭い考え方にこの会堂長は陥っているのです。ということはユダヤ教の教えは、言葉だけのもの、悪く言えばその場限りの口先だけのものに終わってしまうかもしれませんが、イエスはそのようには教えられなかったのです。
●律法主義、つまり旧約の掟の言葉だけにとらわれる立場をイエスは鋭く批判されました。この女性が生涯のかなりの部分を病気で苦しみ続けていることを目にして、神様はこの一人の女性にも憐れみ深いということを実際に示すこと、それこそ最大の教えのはずです。となると「教え」という言葉は、もっと内容のある、意味の深い言葉のはずなのです。イエスご自身の行いのすべてが彼の教えそのものだったのです。マルコ福音書が、まさにイエスの働きの全体を「福音=良い訪れ、よい教え」と示したのも当然なのです。
●祈りましょう、どうぞ私たちがみ言葉を、私たちの狭い思いのなかでとらえることがありませんように。その言葉の意味の広さ、豊かさ、深さに気づく者であらせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
8月17日(日)三位一体節第十主日
メッセージ 「分裂をもたらすために」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 12章49~56節
●いつもメッセージのタイトルは、その日の聖書の言葉から選んでいますので、今日は少しドキッとするような、厳しいものとなってしまいました。それを選んだのはやはり、私たちの教会の100年の歴史を考えるときに、どうしてもその言葉を避けて通れないところがあるからです。1960年代後半から70年代の前半にかけて、芦屋キリスト教会、当時の日本基督教団芦屋打出教会は分裂の危機に直面しました。そのことをさてどのように私たちの教会の歴史に記録すべきか、とても悩ましいところですが、事実としては当時の田淵薫明牧師に対する解任決議があり、それを田淵牧師が拒否をされると日本基督教団という全国的教派から除名処分を受けます。その後結局田淵牧師を支持する教会員の方々によって日本基督教団から教会は離脱、結果どの教派組織にも属さない単立の芦屋キリスト教会としての歩みが始まります。なお田淵牧師の解任を求められた方々はその教会を去って別の教会を組織されています。その後の芦屋キリスト教会の歩みは低調となり、田淵薫明牧師逝去後は牧師不在(無牧教会)としての歩みが続くことになりました。
●そのような悲しむべき教会の状況の原因や評価をすることは決して簡単なことではありませんが、そのような時代をこの教会が経験したことの意味を考えさせられるとき、やはり今日の聖書での「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」というイエスの言葉に注目させられます。教会もやはり人間が造る組織ですから、人間的な思いのなかでの分裂が生まれます。当事者たちはそれぞれの立場から自分の正当性を主張し相手を否定しますが、そのときその分裂の痛みを一番強く感じられていたのがイエスご自身だったということに、懺悔、後悔とともに感謝を覚えます。つまりそんな人間的な弱さのぶつかり合う教会をも、イエスは見捨てられなかったし、そののちの教会を導き続けてくださったからこそ、この100周年を迎えることができたのです。
●今の時を見分ける、それは今が平和か争いのときか、といういわば表面的な時の動きにとどまらず、そのなかでイエス様が私たちとともに苦しんでおられる時だということに本当に気づくことができるのか、ということが問われています。そのとき分裂の苦しみを避けるのでも、見過ごすのでもなく、私たち自身がその苦しみのなかで、イエスとともに歩み続ける、そのイエスに祈り続ける存在であるべきことが強く問われているのでしょう。
●祈りましょう、神様、私たちには様々な分裂、亀裂があります。そこであなたがともに苦しんでいてくださることから目を背けずに、そのなかに私たちのあるべき道、行くべき方向をあなたが示してくださることを信じる者とならせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年8月10日(日) 三位一体節第九主日
聖書 ルカによる福音書12章32~40節
メッセージ 「ちいさな群れよ」 田淵 結 牧師
●ここ数週間同じようなメッセージを書いているような気がしますが、今週のルカによる福音書のことばも、まさに今の私たち、芦屋キリスト教会のために得らればれているような神様の導きをちつよく感じさせられます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」 そのとおり私たちの教会はとても「小さな群れ」でしかありません。でもその私たちに神様が「神の国をくださる」と語られているのです。でもそれは決して無条件でとか、私たちが何もしないでいて、ということでは決してありません。
●結論を先に言えば「用意していなさい」、神様の約束がいつ実現されてもよいような「用意」準備、そのことへの強い意識と感覚を持ち続けることが求められているのです。100周年の記念礼拝を済ませ、新しい会堂建築への見通しが立つと、どこかでホットしてあとはしばらくどなたかにお任せして夏休み、と私自身思ってしまっています。でもその時にこそ、今日のルカ福音書のなかで示されるように私たちの富のあるところに私たちの心もある、とされると、今私たちは私たちに与えられている冨、豊かさをどこに向けるべきでしょうか。
●これは決して牧師だけに任せておけばいいというものでもないでしょう。むしろこれから芦屋キリスト教会にかかわってくださろうとする皆様への問いかけでもあるようです。個人的な信仰を持たれることと教会にかかわられること、それはかなり違います。信仰は個人的なことであり教会は組織的です。その組織がどのようにひとりびとりの信仰生活に意味を持っているのかをぜひ考えていただきたいし、まさにそれがあるからこそ、これからの芦屋キリスト教会の歩みが、新しい礼拝堂を私たちが持つことの意味、それを見失わないでいるときにこそ、私たちが行う礼拝(Service)が本物とされるのでしょう。
●祈りましょう、神様、私たちの新しい時代に向けてのありかたを整えさせてください。あなたに仕え続ける小さな群れを、主イエス・キリストの導きのもとに歩ませてくださいますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年8月3日(日) 三位一体節第八主日
メッセージ 「愚かな者よ」 田淵 結牧師
聖書 ルカによる福音書 12章13~21節
●先週の日曜日に、神様の導きと皆さんのお支えによって芦屋キリスト教会の創立100周年記念礼拝と、新礼拝堂の起工式を行うことができました。本当に感謝なことです。私たちは今、100年を振り返りながらこれからの時代に向けての歩みを始めようとしていますし、新しい礼拝堂の建設はそのスタートラインを整える作業でしょう。重要なのはそこからどんなスタートを切り、どのような方向を目指すのかということですね。だからこそ私たちの教会のこれから、将来が実はとても気になるし、不安を思わされることもあります。次の世代を担う牧師のこと、それをどう会計的、財政的に支えていけるのか、そして教会の組織やメンバーシップをどうすべきか、簡単ではない課題が山積しています。だからそのために十分な準備をして置かなければと思いがちです。でもそれが新しい教会のあるべき姿でしょうか。
●今日のルカによる福音書に出てくる農夫は、思いがけない収穫を与えられて、それをしまっておく場所の心配をし、それができればこんごずっとなんの不安もなく暮らせることを期待しました。そこで神様は「愚かな者よ」と彼を呼びます。もし今夜あなたの命が取り去られたら、あなたの準備したものは誰のものになるのか。これからのことをしっかりと計画し、そのための準備を整えたとしても、結局それは人間の業でしかありません。それが本当にそのままうまくいく保証がどこにあるのでしょうか。まさに2025年の社会の動きの混乱のなかで経済状況の不安定さが露呈していますし、これからそれが落ち着くかどうかなど誰にもわからない状態です。
●そのなかで私たちは新しい教会のあり方を模索しようとしています。そのときもっとも重要なのは、遠い将来への確実な計画や準備の前に、その時々において神様が本当に必要なもの、神様の眼からみて必要なものとを備えてくださることを信じて進むということでしょう。なんと無謀な、そんな甘い考え、と思われるでしょうか。でも私たちの教会はそんな歴史を100年間紡いで来たはずです。だからこそこの農夫は思いがけない収穫を神様に感謝することよりも、それによって自分の将来を確実にすることだけを考えてしまい「愚かさ」を示してしまったのです。まず「神の国と神の義とを求める」群れ、それによって芦屋キリスト教会の第二世紀を歩み始めましょう。
●祈りましょう。神様、どうぞ私たちのこれからがあなたのみ心のうちにあることを信じて、この100年間とおなじようにあなたの導きのなかに歩ませてください。教会の頭なる主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年7月27日(日) 三位一体節第七主日
芦屋キリスト教会創立100周年記念礼拝
説教 「だからあなたがたはこう祈りなさい」 田淵 結 牧師
聖書 ハガイ書1章8節 ルカによる福音書 11章1~13節
●神様の導きということを実感されたことがありますか。私は毎週日曜日の教会メッセージを書くたびにそれを強く感じています。毎週日曜日、どんなメッセージをと思うとき、もちろんまず聖書日課を確認するのですが、本当にそのときにふさわしいテキストがいつも与えられていることに、驚きと感謝を覚えさせられるのです。そして今日の教会創立100周年記念礼拝では、ルカ福音書11章の主の祈りの箇所でした。本当のところ、私たちはどう祈るべきかわかっていない、だから「こう祈りなさい」とイエス様が教えてくださることは、私たちにとって何よりも重要なことでしょう。
●今日ここで主の祈りの解説をすることはできませんが、そこに「求めなさい、そうすれば与えられる」というメッセージが含まれていること、まさに私たちの教会の100年の歩みを支えてきたのがこの一言だったのかもしれません。今日私たちの新しい礼拝堂のための起工式を行いますが、そのときに読まれる旧約ハガイ書1章8節の言葉、これはまさに100年前に私たちの先達が、最初の礼拝堂を建てようとするときに「与えられた」言葉だそうです。そのときの芦屋組合教会には十分な資金もなく、メンバーもなく、あったのはここに教会を建てようとする志のあった人々の祈りでした。
●創立100周年を記念して、私たちも今日から新しい礼拝堂の建築を始めますが、まさに資金も乏しく、メンバーも少ない、しかも今や芦屋市にはキリスト教の教会が10ぐらいありますから、なにも私たちの教会がいまさら新しい礼拝堂を建てなくても・・・というところでしょう。でもこの教会を必要としているのは誰でしょう。誰がそれを実行されるのでしょうか。私たちだけの希望、満足、願いではまったくありません。ハガイ書に語られる神様の命令、バビロン捕囚という異国での苦しい状況から帰還したばかりの、本当にみすぼらしいイスラエルの民に神様が神殿建設を求められたのです。だからこそ、私たちは建物としての教会を建てはじめるのではなく、改めて神様からの求めがあるからこそ、神様の意思がそこあるからこそ、まさに「みこころをなさせたまえ、という祈りのなかで、新しい礼拝堂建設への業を始めるのです。
●祈ります、神様、この100年にわたってあなたは私たちを導き、支えてくださいました。同じようにこれからも私たちがあなたの導きを信じ、それに従い続ける群れであらせてください。建築の業を、その工事の安全を守ってください。それに携わるすべての人をあなたが守ってくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン
2025年7月20日(日) 三位一体節第六主日
メッセージ 「良い方を選んだ」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 10章38~42節
●先週のよきサマリヤ人のお話しでは、何もせずにケガ人を見捨てた人が批判され、今週のマルタとマリヤのエピソードでは「何もしない」とされたマリヤが良い方を選んだとイエスにほめられます。なんだか矛盾しているようにも思えますね。
●てもケガ人を見捨てた人とマルタとは、とても共通したふるまいをしているようです。彼ら彼女は自分の思いを中心にして、その場でそのように行動していたようです。私はこうすべきだ、それが当然だと。しかしそのとき、神様の思いを軸にしてみると、その結果はとても違ったものになっていたかもしれません。神様の思いを中心に考えたらどうすべきなのだろうか。
●マルタが「自分だけが」と思いこんだとき、それが自分だけがイエスの世話をさせられていると思うのか、自分だけがイエスの語りかけを聞けていないと思うのか、その違いがとても大きいのです。たくさんのことが気になるのですが、それはまさに自分のことしか見えなくなっていたのです。そのときにこそ神様の語りかけに向き合う時なのですし、だからマリアは「良い方を選んだ」のでしょう。
●祈ります、神様、私たちが何かをなそうとするとき、あなたの思いからもういちどそのことをとらえなおすことができますように。そのとき、私たちのなすべきことを教えてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年7月13日(日) 三位一体節第五主日
芦屋キリスト教会メッセージ 「宿屋の主人」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 10章25~37節
●よきサマリヤ人のお話は、もう何度も何度も皆さんも聞き、考えられてきたことでしょう。私自身ももうこれ以上ここで何をお話すればと悩んでしまいます。私たちもよきサマリヤ人のように、相手の立場にとらわれないで、助けを求めている隣人を助けましょう、ということで十分なのかもしれません。
●この物語の登場人物のなかで、実は今まで私もまったく気にもかけていなかった人の存在に気づかされます。宿屋の主人です。この人はおそらくユダヤ人だったと思われますが、その人がある種差別感情を抱いているサマリヤ人の要求に応じて重症の人を介抱したのですね。うちはサマリヤ人なんかのいうことを聞かないぞ、他に行ってくれともいわずに。それは彼がビジネスマンだったからでしょう。
●ハラリさんの著した『ホモサピエンス』という書物に、中世イタリアでは、イスラムの発行した金貨をイタリア商人たちはよろこんで受け入れたことが記されています。でも本当のビジネスマンシップというものは、相手の人柄や民族、文化などの差別なく、利益というところでお互いを平等に台頭に見る関係なのでしょう。だからこそビジネスの利益が、もっとよりよい社会建設のためにこそ、用いられるべきなのでしょう。メソジスト教会の創立者ウェスレーの言葉に、「精一杯稼げ、精一杯貯めよ、そして精一杯捧げよ」という言葉を思い出します。
●祈りましょう、神様、本当に相手の立場を超えて隣人を愛するということのできる私たちにしてください。そのことを実現するための知恵をお与えください、主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年7月6日(日) 三位一体節第四主日
芦屋キリスト教会メッセージ 「私たちの名が天に記されるということ」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 10章1~11,16~20節
●イエスと弟子たちの関係は、どこかスムーズにいかないところがあったようです。なかなかイエスの思いが弟子たちに伝わらないというところがあり、ある聖書学者はそのような状況を「弟子の無理解」と記しました。今日の福音書の記事でも、弟子たちはイエスの権威によって活動しようとし、ある程度うまくいったようです。
●しかし、イエスが弟子たちを派遣したとき、それがとてもよい結果をもたらす時もあり、そうできないときもありました。その弟子たちにイエスが語った言葉、それはその働きの成功を喜ぶことではなく(うまくいかないことに腹を立てることではなく)、彼らの名前が天に記されることを求めなさい、ということでした。
●私たちの教会の100年の歴史を見ると、最初の30年間はとても活発な伝道活動を展開し、かなりの成功を収めたようです。しかしその後その活動は停滞してしまいました。そのなかで私たちは100周年を本当に祝えるのか、と考えてしまいます。でもそのとき、私たちの礼拝の歩みがいかに小さくとも、それが神様に受け入れられ、覚えられていることを信じること、そのことを感謝したいと思います。教会の活動の成功は、まさにそこにかかっているのです。
●祈りましょう、神様、私たちの歩みをあなたが覚えていて下さることを信じて感謝します。そのことを固く信じることのなかで、私たちの教会の業をあなたが変わらず導いてくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年6月29日(日)三位一体節第三主日
メッセージ 「イエスに従うということ」田淵 結
聖書 ルカによる福音書9章51~62節
●あなたのプライオリティ(優先順位)はどうなっていますか。あまり聞かれたくない質問ですが、今自分が一番最初にこれはやるべきだ、と思っていることって何だろうかということですね。家族のこと、仕事のこと、友人のこと、あるいは健康のこと、社会のこと、政治のこと、ときには趣味のことなどのなかで、一番最初に考えるべきことは? そしてそのなかでイエス様のことはどうなんでしょう。
●今日のルカによる福音書の記事は、まずは人々がイエスを歓迎しなかったことに弟子たちが腹をたて、恐ろしい提案をイエスにしてしまいます。そのとき彼らのプライオリティは、そのような提案(をする自分たち)がイエスに評価されることを期待していたのでしょうか。そしてイエスはそれを戒められるのです。あなたが本当にまずなすべきことはそんなことなのか、ということでしょう。イエスに従いたいと申し出た人が、自分の家族の弔いをしてからというのも、日本人の感覚では当然のことかもしれません。
●「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)イエスのプライオリティのとらえ方、それは私たち自身が自分たちなりに考えること以上のことなのです。自分のことを、自分に焦点をあてて、自分を中心に考えるということよりも神様を中心に、そこに焦点を定めて自分の優先順位を考えてみる、祈りながらそれをとらえなおす、ということのなかで私たちのイエスへの従い方が示されるのです。
●祈りましょう、神様、私たちの毎日の生活のなかで常にあなたに従うことを中心に考える一人であらせてください。まず私たちが求めるべきものを、つねに見定めるひとりであれますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年6月22日(日)三位一体節第二主日
メッセージ 「What is your name?」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 8章26~39節
●福音書にはイエスが人々にとり憑いていた悪霊を追い出すという奇跡を起こした記事あります。今日の記事も、マタイやマルコ福音書にも記された有名な出来事でした。レギオンと呼ばれるこのひとからイエスは悪霊を追放するのですが、その悪霊の働きによって、彼が墓場を住処とし、行動も粗暴で人々がそれを抑えることすらできなかったのです。ところがイエスがこの人と出会ったとき、ごく当たり前のことながら周囲の人々がまったく考えもしなかったアプローチ(質問)を投げかけます。「名前は何というのか」です。
●相手の名前を聞く、それは相手との関係を作るための第一歩です。イエスはその人の名前を聞き、そののち、その人から悪霊を追放する、つまりその人が抱えている問題を取り除こうとされたのですが、その前にこのレギオンは、イエスが自分にもっとひどい目に合わせるのではと恐れもします。ずっとそのような扱いを周囲から受けてきたのでしょう。
●そして彼から悪霊が追放された後、イエスは彼に「自分の家に帰りなさい」と告げます。さて、今までそんな生活をしていた彼に帰る場所などあるのでしょうか。そこで彼の生涯がこうなってしまった大きな原因が明らかになります。彼の家族、友人、周囲の人々の彼に対する態度です。彼はその後、自分に対する神様の業、愛の働きについて語り始めます。まさに彼を取り巻く人々への悔い改めの勧めでした。それによって彼は本当の家族、家を取り戻すことができたのでしょう。
●祈ります、神様、このレギオンをあなたが愛された物語を通じて、私たちは自らを振り返ります。あなたのように私達自身がレギオンを愛することが出来ないできたことを強く思います。どうぞ私たちがまず、悔い改める一人とならせてください。主の御名によって、あなたのゆるしと、励ましとを祈ります、アーメン。
2025年6月15日(日)三位一体主日
メッセージ 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 16章12~15節
●あまり個別的な話題をしない方がと思いつつ、今日の聖書の箇所を読んでいてふとハーバード大学のことを思いつきました。といっても日本でも時々目にすることのできる同大学のTシャツに描かれたロゴ、そこにラテン語でVeritasと記されていることです。つまり真理、最高の学問の府として同大学が目指すものがこうして明示されている。欧米の大学の成立は神学部からというのが定石、ということでこのロゴの言葉の意味もまた聖書的な背景から理解することもできるのでは。
●ここで考えさせられるのは、真理について私たちが自分で理解することはできない、真理の霊によってはじめてそれが可能ということが語られていること。そこで一つには、今の大学というか、学術的な科学的な真理は人間の努力によって得られるという思い上がりへの戒めがあるようです。
●私たちの社会を覆うおちつかなさ、不安定な状況こそ、私たちが自分で、自分の判断ですべてを解決しようとして、それに行き詰まっている結果ではないでしょうか。社会が不確実だといわれるのは、私たちがいかに科学的、学術的に努力をしたとしても、不完全なものをしか得ることができないからでしょう。私たちに求められるのは、それを私たちに与えてくれる真理の霊、神様が私たちに与えてくださる最も確かな導きを待ちのぞむことなのでしょう。
●祈ります、神様、私たちに真理の霊をお与えください。それによってより確かに、安心して、私たちの未来への歩みを続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年6月8日(日) 聖霊降臨日(ペンテコステ)主日 説教 「わたしもあなたがたのうちに」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 14章8~27節
●5月後半からずっと教会の礼拝では、イエスが、十字架刑、埋葬、復活ののち、弟子たちと再会し、40日間を地上で過ごされ、そして天に帰られてゆくというなかでの、イエスが地上の弟子たち、そして私たちに遺されたメッセージを考えてきました。互いに愛し合いなさい、イエスの平和を受けて止めなさい、一つになりなさい、そして今日はその最後に神様がイエスのうちにおられ、イエスが私たちのうちにおられるということを語られました。
●旧約聖書創世記の最初に人間が土から造られたとき、神様は「命の息」を吹き込まれたので、私たちは「生きる者」とされたのです。私たちは生きているのではなく、神様の息吹をそのうちにしながら生かされているのです。使徒言行録2章の聖霊降臨の出来事はまさにそのことを改めて私たちに確信させるものでした。そのことを深く私たちが覚え続けるからこそ、私たちはイエスの残された教え(Testament)を実行することができるのです。
●パウロは私たちを「土の器」と呼びましたが、そのなかに偉大な宝を秘めていること。だから私たち自身の欠けの多さ、弱さ、罪深さにもかかわらず、私たちは今日の聖書でも教えられるように、もっと大きな業を行うことができ、願うことが何でもかなえられるのです。芦屋キリスト教会の100年の歴史が、まさにこのことによって支えられ、今日を迎え、第二世紀に向かって歩みだすことができることを感謝し、ともに祈り続けましょう。
●神様、私たちは今日、弟子たちの上にあなたの聖霊が注がれたこと、それによって彼らが世界中にむかって福音を語り始め、教会の礎が築かれたことを改めて覚えました。そのひとつの枝として私たちの教会があることを、その一人として私たちが今生かされていることを感謝します。あなたのさらなる導きと支えとを祈ります、教会の主、イエス・キリストによって祈ります、アーメン。
2025年6月1日(日) 復活節第七主日
説教 「かれらが一つになるために」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 17章20~26節
●ヨハネによる福音書17章は、イエスがユダヤ人たちにとらえられ、十字架刑につけられていく直前のイエスの祈りの言葉となっており、そこでイエスは、後に残される弟子たちを神様が守ってくださるようにと祈ります。それは弟子たちひとりひとりを守るため、というよりもかれらが「一つであるために」と語られています。一致団結、などという言葉にもあるように、一つになることが、後に残される仲間や集団をより強くすることになるというのはよくわかりますが、その一つになるという言葉を、私たちはよく注意して考えなければなりません。
●聖書のなかで「一つ」という言葉がかたられるとき、それは私たちが考える者とは全く逆の意味、つまり私たちひとりひとりの多様性、違い、独自性を発揮するため、というところがあるのです。決してみんなが同じユニフォーム(一つのフォーム)となることではないのです。パウロは私たちの体が一つであるということを語るとき、そこに目、耳、手、足、それぞれに違った働きを持っていることをしっかりと認めています(コリント一12章)。それぞれが多様性を発揮するときに、それぞれに「分裂が起こらず、互いに配慮しあう」ことによって全体が一体であることができるのです。
●まさにイエスを天に見送った弟子たちは、ペンテコステの経験をしたのち、それぞれの個性を発揮してイエスの教えを世界中に伝えました。前にお話をしたトマスはインドまで出かけたとされていますが、それぞれがそれぞれの仕方で、しかし一つのイエスの福音を語り続けたのです。パウロのように復活のイエスと出会うという彼独自の体験から福音を語り続けました。それが教会という場所の原点です。キリスト教全体もそうですが、私たちはそれぞれ一見するとバラバラのように見えてきます。しかしそのすべてが神様に愛され、イエス様の働きを担いあうというときに、それぞれの違いを尊重しあい、受け止めあい、ときには容認しあうことのなかで、教会が一つであることが確かめられるのです。そしてその一つであることを実感するとき、そこで私たちはイエス様の教えの確かさ(=真理)を実感するのです。
●祈りましょう。神様、私たちはすぐる木曜日に、あなたが天に帰ってゆかれたことを覚えました。いよいよ私たちが地上において、あなたのおられる天を見上げながら、私たちの務めを果たしてゆくことになります。それぞれに与えられた賜物、可能性を生かしながら、私たちなりにそれぞれがなしうるあなたへの奉仕、礼拝を続けることができますように。その私たちすべての者とともに、同じ一人の主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年5月25日(日) 復活節第五主日
メッセージ 「わたしの平和を与える」 田淵 結 牧師
聖書 新約 ヨハネによる福音書 14章23~29節
●キリスト教のカレンダーでは、イエスは十字架の死からよみがえって弟子たちと40日の間を地上ですごし、その後天に昇られたということで、今年は5月29日がイエスの昇天日になります。『私は去っていくが』という言葉の意味を改めて考えさせられます。復活のイエスが地上から去る、ということは弟子たちにとっては再び大きな不安を思わされることでした。十字架の死でイエスを失ったあの思いがまた、という感じですね。
●そのときイエスは「平和を与える」と語られます。ここでの平和の意味は戦争や社会的なものだけでなく、私たちにとって自分の中にある不安、個人的な思いわずらいをも含んでいるようです。イエス様がいてくださればまだなんとかなるのに、そのイエス様が去って行かれてしまったら、と思うだけで不安ですね。その私たちにイエスは「平和を」と語られるのです。
●そんな不安を覚える私たち、それはまさに今まで語られてきて、聴かされてきたイエス様の言葉への信頼を持ち切れていないのでしょう。イエス様が山上の説教で「思いわずらうな」(マタイ6:25-)と教えてくださっているのに、それ信じられないのです。私たちがいつも不安を感じる、落ち着かないその状態こそ、私たちがイエス様を見失っている姿なのでしょう。だからこそそのとき、私たちはイエス様への語りかけ、祈りが求められるのです。
●祈りましょう、神様、どうぞ私たちにイエス様が与えてくださった平和をしっかりと受け止める一人としてください。だからこそ祈り深く日々を過ごすことができますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年5月18日(日) 復活節第五主日
メッセージ 「互いに愛し合いなさい」 田淵 結 牧師
新約 ヨハネによる福音書 13章31~35節
●「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」今日の聖書の箇所について、こんなに基本的なことについてこれ以上なにをお花すればいいのでしょうか。キリスト教が隣人愛の教えを中心とするというとき、もう私たちはそのことを十分に理解できている、・・・のでしょうか?
●今日のヨハネ福音書の記事には、つい私たちが読み落としてしまう部分が含まれています。『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』のです。つまりイエスが私たちのもとから去って行かれるということのなかで、隣人愛について語られているのです。イエスが私たちの身近におられないときに、私たちの間でイエスの存在を確かなものとして受け止めるために、私たちはお互いに愛し合うのです。
●イエスの教える隣人愛は、私たちがそれぞれの自分なりの思いのなかで愛し合うことではなく、イエスが人々を愛されたように愛し合うことなのです。だからこそ私たちは聖書を読み、それに学び、教えられ、そして私たちの行いを祈りのなかで正され続けるべきなのです。
●祈りましょう、神様、私たちがお互いに愛し合うというもっとも基本的な行いのなかで、なによりもあなたに従うひとりであることを覚えることができますように、どうぞお支えください、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年5月11日(日) 復活節第四主日
メッセージ 「小羊をよぶ声」 田淵 結 牧師
新約 ヨハネによる福音書 10章22~30節
●今日は母の日です。教会ではアキ子先生によるバイリンガルのプログラムが予定されています。5月の第二日曜日を母の日とする習慣は、19世紀にアメリカでアンナ・ジャービスさんという一人の女性が、なくなった母親を記念するためのプログラムを、母親が好きだったカーネーションを飾って教会で行ったことに由来すると言われます。イギリスでは確か2月にMothering Sundayを祝っていたと思います。そしてもちろん聖書のなかには母の日などについての記事はありませんが、今日のヨハネ福音書の箇所はどうもこの日にちなんで選ばれているようにも思えるのです。
●教会の右側に「良き羊飼い」の大きな絵がかけられていますが、イエスが小羊を胸に抱いて歩まれる姿は私達にとってもおなじみです。今日の聖書で注目されるのは、そこに導かれている羊たちの姿です。その羊は羊飼いの声を知っており、その声に導かれてゆくのです。その声を理解し、信頼して。ところがイエスを取り巻いていたユダヤ人たちは、イエスの声を聞いてもその声を信じて聞き従うということをしないままで、結局イエスとは誰かということも全く理解できないでいたのです。ということは、まさにイエスを通じて語られた神様のメッセージにも耳を傾けずにいたということです。
●誰かがいかに立派なことを語り、訴えても、その声を受け止めることができるのは、それを語る人、それ以上にその人を通じて私達に語りかけようとされる方への信頼がそこにあり、それに従うことのなかで神様の守り、イエス様の愛を確実なものとできることを知っているからです。その信頼のないところで語られる言葉とは、パウロの言い方を借りれば「さわがしいシンバル」にしかすぎないのです。私達が母親から聞かされてきたその言葉の確かさ、愛情深さを改めて思い、感謝したいと思います。
●神様、私たちがあなたによって与えられた母親を通して聞かされた言葉の本当の大きさ、確かさを改めて思い起こします。その言葉が今の私たちのよって立つ場所を確かなものとして築いていることを感謝します。私たちも、そのような言葉を語る一人であることができますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
長谷川初音牧師が作詞された母の日の讃美歌をご紹介します(437番)
1.こをおもう 心ひとつに 生きたもう 母にささぐる 歌はあらぬか。
2.母を呼ぶ 声ぞ歌なる、あめつちの みなぎりわたれ、母を呼ぶこえ。
3.あざやかに とこよの愛を あらわせる 母ごころにぞ 神のさちあれ。
2025年5月4日(日) 復活節第三主日
メッセージ 「あなたは私を愛するか」 田淵 結 牧師
新約 ヨハネによる福音書 21章1~19節
●今日のヨハネ福音書の後半の記事は、私の愛唱聖句のひとつです。キリスト教の信仰とは、自分がまずイエス・キリストを信じるというところに中心点があります。と同時にそれが自分ひとりの勝手な思い込みなどではなく、多くの人に共有される「公同性」を持つものでもあるのです。私の信仰と公同の信仰、その二つの側面を今日のヨハネ福音書の記事から教えられます。
●最初の記事はペトロがティベリアス湖で漁をしている、つまりもうイエスの弟子であることをやめて元の生活に戻っていたことをしるしており、そこに復活のイエスが表れてもペトロにはそれが誰かもわからなかったということです。そして漁をしてみるとおびただしい魚が捕れた、あのルカによる福音書5章の、ペトロとイエスとの出会いの出来事が再現されるのです。その記憶もあって、ペトロはほかの弟子たちとともに復活のイエスに出会うのです。ともに復活のイエスを信じたのです。
●そのペトロにイエスは、自分を愛するか、と三度質問されペトロは確信をもってそれに答えます。そしてふと近くにいたもう一人の弟子のことが気になったのですが、イエスはその人がどうであろうと、あなたは私に従ってきなさい、と宣言されるのです。確かにともに復活のイエスを信じる仲間であるということですが、そのひとりびとりがどのようにイエスを信じ、イエスとつながっているかはその人とイエスだけの関係なのですね。まず何よりも自分自身がイエスとつながっているか、私がイエスから愛されているか、それを確信することのなかで、私たちの仲間もまた「同じように」イエスとつながっていることを知ることができるのです。
●祈りましょう、神様、私たちがそれぞれに、それぞれの仕方で復活のイエス様とお出会いすることができますように。そのことを通して、私たちがともにイエス様に愛されている仲間であることを確かめあうことができますように。復活の主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年4月27日(日) 復活節第二主日
メッセージ 「弟子トマス」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 20章19〜31節
●イエスの十二人の弟子たちについて、ペテロのようによく知られている人もあれば、あまりそうでもない一人もあり、そのひとりがトマスですね。彼はヨハネ福音書には何度か登場しますが、ほかの福音書には現れません。しかしヨハネ福音書ではかなり「熱い一人」としても描かれます。そしてイエスの復活も、すぐには認め(信じ)られなかったのです。
●ところが、その後キリスト教が世界的に広がりを見せ始める中で、彼についての伝説はとても興味深いものです。彼はやがて中近東からインドにまでイエスの教えを広めたとされるのです。今でもインドのキリスト教にとってトマスの存在はとても大きいものとされています。
●復活の不思議さについて、先週のイースターの礼拝でもお話をしましたが、イエスの復活をすぐに受け入れられなかった彼にとって、それをいったん受け入れるということが、その後の彼の生涯を支えるものとなったのです。復活とは、自分がすぐに理解できるものを超えるもの、だからそれまでの自分を打ち砕いて新しい自分を創り出す力となったのです。
●祈りましょう、神様、復活を私たちの知識のなかではなく、私たちの存在すべてを導く力として受け止めさせてください。主の支えと導きを、復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年4月20日(日) 復活主日(イースター)
メッセージ 「復活の朝」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 24章1〜12節
●イースター、おめでとうございます。実は先週も私たちにとって受難週だということがどれほどリアリティがあるのかな、とお話をした続きですが、受難週、そして受難日(イエスの十字架の死)のリアリティが薄ければ、またイースターも同じことでしょう。そういえば今年はあまり街中でイースターにちなんだ広告などを見かけないようです。でもそんな感覚は現代の私たちだけではなく、イエスの弟子たちの間でも「それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」のです。
●しかし復活の日の朝、イエスの墓を訪れた女性たちと復活を信じなかった弟子たちとの間には大きな違いがありました。福音書によると弟子たちはイエスが逮捕された後、イエスから離れてしまっていましたが、女性たちは、先週みなさんで読んだ聖書(ルカ福音書23章)の通り、群衆がイエスを「十字架につけよ」と叫ぶなかで、その事態を遠くから見守り、そしてイエスの遺体が十字架から降ろされたときイエスの埋葬を見届け、その葬りのための用意を整えていたのです。
●最近、私たちの周囲でよく耳にする言葉に「不確実性(uncertainty)」ということばがあります。まさに弟子たちにとって、イエスの逮捕、十字架上の死はこれまでのイエスへの信頼を失ない、不確実さのなかに投げ込まれる思いだったのでしょう。しかしそんな状況のなかで彼女たちは、なおイエスを信じ、そこに確かさを感じ取っていたのでしょう。イエスのそばから離れずにいること、それがどんなに苦しい状況のなかでも、彼女たちにとってなすべきこと、それによってイエスとのかかわりが途切れることがないことを信じたのです。彼女たちこそ、生前のイエスの言葉を身をもって受け止めていたのでしょう。
●祈りましょう、神様、イースターの不思議さを感じるとき、それを超えて私たちにその確かさを、それを通じての喜びと感謝とを与えてください、復活の主、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年4月13日(日) 棕櫚の日曜日
メッセージ 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 23章1〜56節
●いよいよ長い40日間の受難節のシーズンも13日から最後の一週間、受難週となrます。イエスが最後の晩餐を弟子たちとともにし、ゲッセマネの園で祈っているところに、イエスを裏切ったイスカリオテのユダに率いられた群衆が押しかけ、イエスを捕らえ、最初は大祭司カヤパによって、次にローマの総督ピラトのもとで尋問され、十字架によって処刑されることになります。その後イエスは自ら十字架を背負ってゴルゴダと呼ばれる刑場に行かされ、磔刑に処せられ息を引き取ります。その後イエスに従っていた女性たちによって墓に納められるところで受難週の物語は終わります。
●今日の聖書の記事は、その展開の一部ですが、その物語で中心的な役割を果たすのが、ピラトでもバラバでも、クレネ人シモンでもなく、群衆なのです。ユダヤ人の指導者たちに扇動されて熱狂化してしまった群衆の動きに、ローマ総督も逆らえなかったのです。もし反乱や暴動でも起きれば、彼の責任を厳しく追求されるからでしょうか。その群衆の叫びのなかでイエスは十字架に押しやられ。群衆は最後までイエスを罵り続けるのです。
●私たちは、ではそんな群衆の前でイエスのために弁護をしたり、イエスをかばったりできるでしょうか。むしろ自分たちも袋叩きにされてしまうのを恐れて、黙って状況を見守るしかないでしょう。それが私たちの罪の現実です。私たちは熱狂する群衆を批判することなどできずに、その行動の前に無力さを感じるのでしょう。群衆の動きの恐ろしさ、、だからこそそのなかに巻き込まれずに、でもそれを黙認しないで、ということの重要性を問われ、そのなかで自分の無力さに向き合う、それが受難週なのでしょう。ドイツの受難週に歌われる讃美歌、「人よなんじの罪の大いなるを嘆け」こそ、私たちの現実を映し出すのです。
おお人よ、お前の数々の大いなる罪を嘆け・・・
定めの時が迫り、
私たちの犠牲となられる時が来て、
私たちの罪の重い荷を背負われた。
十宇架に架けられたまま、長い間。
●祈りましょう、神様、私たちの弱さ、罪を強く思い起こします。そんな私たちのために十字架に架かられたイエス・キリストを見上げつつ、この一週間を歩ませてください。主よ、あわれんでください、アーメン。
2025年4月6日(日) 受難節第六主日
メッセージ 「三百デナリオンの香油」 田淵 結 牧師
聖書 ・新約 ヨハネによる福音書 12章1~8節
●今年の3月1日から10日間、アメリカ、ユーヨーク市を訪ねました。8年ぶりでしたがいろんな変化に驚かされながら、しかしとても楽しく、収穫の多い旅行でした。その帰国の前日、最近話題になっているコロンビア大学近くの聖ヨハネ教会でバッハ作曲のマタイ受難曲の演奏会に行きました。ちょうどその週の水曜日から受難週(イエスの十字架の死を覚える40日間)が始まったので、まさにこの季節にふさわしいプログラムでした。
●受難曲も、この曲ではマタイによる福音書のイエスの十字架の死への物語を読みながら、讃美歌や宗教的な独唱をまじえて、全体で3時間にわたって演奏されますが、その最初の壮大な合唱の後に歌われるのが、今日の聖書の場面、ナルドの香油の物語でした。マタイによる福音書では、福音が語られるところではどこでもこの女性がしたことも記念として語られるとイエスは告げます。その通りヨハネもその福音書でこの記事を記しています。
●この庶民が一年かかって稼げる金額(300デナリ)分の香油をイエスに注いだ女性の行為を無駄だ、と批判した弟子の主張は誠にもっともなものです。貧しい人に施せば、と正論を語ります。ただしこの女性は自分にとってイエスとは、まさにイエスこそ、私たちの最高のささげものを受けるべき方だと、その行為を通じて告白したのです。私たちのまずなすべき礼拝は、私たちを十字架の死に至るまで愛してくださったイエスこそメシア=キリストだと証しし、告白すること、それ以上に大切なものはないのです。
●祈りましょう、神様、私たちの礼拝(サービス)の中心こそ、あなたの子、私たちの主イエスこそ、私たちの救い主・キリストであることを確信し、告白すること、その大切さを常に思わせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年3月30日(日)受難節第四主日
メッセージ 「彼は我に返って」 田淵 結 牧師
聖書 新約 ルカによる福音書 15章1~3、11b~32節
●今週の聖書の箇所は、ルカによる福音書のなかではもっともよく読まれるイエスのたとえ話のひとつ、放蕩息子の物語です。真面目な兄と放蕩に陥った弟、ところが父親は弟をゆるし、むしろ兄の弟への態度をたしなめます。なんだかとても不公平というか、兄にとっては納得できない内容になっています。
●こうしてこの物語は弟がゆるされたところに注目が集まりがちですが、受難節という季節でこの物語を考えると、もっと別のところ、つまり弟が放蕩の末に破滅的な状態に陥って、豚の餌を食べながら過ごすという状況にこそ目を向けたいのです。つまりその姿こそが、私たちの姿そのものなのです。
●私たちは、今自分が置かれている環境を当然のこととしてそれを好き勝手に使ってしまい、環境を破壊し、自分たちの勝手な主張を権利として主張し、神様の眼からみればどうしようもない状態に陥ってしまっていることに気づかずにいるのです。この弟はその問題に気づき、「我に返り」こころから悔い改める、つまり父親つまり神様との新しい関係のなかに生きようとするのです。受難節だからこそそこに私たちは注目したいのです。
●祈りましょう、神様、私たちが今どんな状況の中に毎日を過ごしているのか、そのことを教えてください。そのなかで真に感謝し、安心して生きる生き方を教えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年3月23日(日)受難節第三主日
メッセージ 「今年もこのままに」 田淵 結 牧師
聖書 新約 ルカによる福音書 13章1~9節
●イエス様がおられた時代のイスラエル、それは決して安定した毎日が過ごせる状態ではありませんでした。なによりもイスラエル人にとってはローマ人の支配のもとで、総督ピラトの蛮行のようにいつ何をされるかわからない不安がつきまといますし、自然災害もありました。
●社会不安のなかで、人々はいつしかその原因を求めますし、それを誰かのせい、犯人がいるはずだとその責任を押し付けようとします。誰かがスケープゴーツ(犠牲の山羊)にされてしまうのです。そのときイエスは、そこに生きるすべての人の中にある問題を指摘します、悔い改めのなさ、です。
●私たちは何を悔い改めるのでしょう。それは私たちが本当に確かなものをよりどころにしないままに毎日を過ごしていることに気づくことです。不安定だからこそ、それをすぐに解決、解消しようとして浮足立った行動をするのです。でもこの園丁はイチジクの実が必ずなることを信じて待ち続けるのです。結論を急ぎ、すぐに答えをだそうとする姿勢のなかで、私たちの不安定さ(罪深さ)がますます深まってゆくのです。
●祈りましょう、神様、私たちが本当に確かなもの、あなたを信頼して生きることのなかに、私たちの落ち着きを取り戻させてください。イエス様の愛の中に生きる安らぎを与えてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年3月16日(日)受難節第二主日
メッセージ 「きょうもあすも」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 13章31~35節
●私が神学生のころ、あるアメリカ人宣教師で新約学の先生から、ヨハネ黙示録から説教をしないようほうがいい、ということを言われました。その書物は聖書の最後の書物で、内容は世界の終わり、最後の審判などの記述にあふれていて、それが私たちにどんな意味があるのかすぐに読んでもよくわからないところがあり、それをとても極端に解釈することになってしまいがちだからだそうです。
●今日のルカによる福音書の記事もある意味黙示録的で、イエスが自分の教えを拒否する人たちへの厳しい審きが下ることが語られているのですが、ではイエスを信じている私たちは大丈夫、それでいい、と簡単に解釈してしまえないところがあります。私たちは常に、イエス様の招きに応えて、その翼の下に集まっているでしょうか。私たちは確実に、イエス様に毎日お会いできているのでしょうか。
●受難節(レント)の期間、毎日私たちとイエス様との出会いを確かめつつ過ごす毎日を過ごすときなのです。今日はどんなところで、どんな形で私たちはイエス様とともに歩んだのでしょうか。そしてどこで「主の名によって来る者に祝福あれ」とイエス様に語り掛けたでしょうか。イエス様がエルサレムに入城されたとき、人々はこの言葉によって歓迎しましたが、すぐにその人々が十字架に架けられたイエス様を罵ったのでした。
●祈りましょう、神様、どうぞ私たちが日々、イエス様の出会いを確かめつつ過ごす毎日を過ごさせてください。イエス様の愛を確かに感じつつ、受難節を過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年3月9日(日)受難節第一主日
メッセージ 「神様を信じるとは」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 4章1~13節
●今週から受難集が始まりました。今年は4月20日となるイースターまでの40日間、イエスの十字架への歩みと死を覚えながら過ごす期間です。その最初の日曜日の聖書は荒野の誘惑。イエスが伝道活動を始める前に四十日四十夜、サタンとの闘いのなかで過ごされたすのです。その間断食をされたということから、ある意味イエスの修行の記録ともいえるでしょう。
●普通の人間だったら精神的にも参ってしまいそうな空腹のなかで「人はパンのみにて生くるにあらず」という有名な言葉を語られるのすが、この記事のポイントはイエスが、サタンの誘惑を拒否されたということは、つまり最後まで神様に従いぬかれたことを語るのです。そしてイエスにとっては神に従うか、サタンに従うかという選択の問題ではなかったはずです。彼は神の子として私たちのところに来られたのですから。
●どちらに従うか、という言い方は実は自分中心の考え方です。つまり自分が選ぶわけですから。私たちが神様を信じるというのは、決して選択の問題ではありません。むしろ神様が私たちの前に私たちを選んでくださった、愛してくださっている(ヨハネの手紙一4:10)そのことにどう応えて生きるかということなのです。信じることの反対語、それは自己中心、自分が絶対という思いなのでしょう。
●祈りましょう。神様、私たちの罪、常に自分だけを中心として物事を考える生き方を悔い改めさせてください。あなたの愛を信じて毎日を生きるひとりとならせてください。主イエス/キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年3月2日(日)山上の変容の主日
メッセージ 「山上の変容の主日」 田淵 結 牧師
・新約 ルカによる福音書 9章28~43節
●イエス様の生涯の働きのなかで、なかなか理解しにくいのが「山上の変容」の物語です。教会のカレンダーでは、今日はそのことを記念する日曜日と定められています。ある山上で突然イエスの姿が神々しく変容し、イエスはモーセ、エリヤという旧約の二大預言者たちと話された、というのです。その圧倒的な出来事を目撃した弟子たちは、それを記念した礼拝の仮庵を作るべきではなどと提案しますが、この出来事のポイントは、そのような光景のなかでのイエスの神々しさではなく、イエスがどのように十字架の死を迎えるか、そのための心備えであったはずなのです。
●その光景が消え去ったのち、イエスが歩いておられると一人の男性が自分の子どもが悪霊に憑かれて苦しんでいることへの癒しを求めます。弟子たちにはできなかったようです。まさに弟子たちの姿勢、山上の変容に立ち会ってその光景の素晴らしさを目撃できても、その意味を悟ることもなく、悪霊に憑かれている子どもの苦しみをも癒せない、イエスは「なんと信仰のない」と嘆かれたのです。
●キリスト教、聖書、信仰のとは、私たちがすばらしい出来事や事件に遭遇して感動・感激することではないのです。むしろそのような事件が私たちに語り掛ける意味、だからあなたはどう生き、歩み、隣人と出会うのか、私たちの姿勢が問われているのです。まさに悪霊と呼ばれるまがまがしさがあふれる私たちの社会のなかで、神様の愛を受け止め、それに応えて生きることが問われているのでしょう。
●祈りましょう、神様、私たちはどこかであなたの偉大さを、奇跡的な出来事、私たちの思いを超えたあなたの力などと思い込んでいるのでしょう。むしろその背後にあある、あなたの毎日の私たちへの愛を感じること、それに応えて生きることこそ私たちの信仰の具体的な現われであることを教えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年2月23日(日)公現後第7主日
メッセージ 「敵を愛し」 田淵 結 牧師
・新約 ルカによる福音書 6章27~38節
●キリスト教の教えの基本のひとつ、それは隣人愛と言われますが、あまり正確ではありません、その前に「神を愛する」ということが前提となっています。そして今日のルカによる福音書の教えでは「敵を愛しなさい」と求められています。隣人ではなくて敵を愛する、そこに私たちが考えるべきとても大事なこと、私たちが隣人を愛することを考えるときの落とし穴があるのです。
●隣人、それは私たちと協力し合え、人間関係もでき、よいお付き合いができる人ということをイメージしがちです。そのとき私たちはその方とのつながりのなかで、その人との関係が良好であるから、その人を愛せる、ということになってしまいがちです。良好な、有益な、意味のある人間関係のある人を愛する、それは突き詰めて考えると、その人をではなく自分を愛していることになってしまいがちです。その人との良好な関係、それは自分にとって心地よい、安全な毎日を実現してくれる、つまり自分の安心のための愛ということになっています。
●神様が私たちを愛してくださる、それは私たちがどんな存在、関係、立場にあろうとも関係なく神様が私たちをゆるし、受けいれ、守ってくださる、ということです。しかし私たちは、私たちにとって意味のある人しか愛せない、というのは実は大きな間違い、罪となってしまいます。そんなことできるわけがない、というのが神様の愛の現実です。隣人を愛しなさい、ということ場の前に、私たちが気づくのは私たちの弱さです。敵を愛するということばこそ、私たちの無力さと、神様の愛の大きさとに気づかせてくれるものなのです。
●祈りましょう、神様、あなたの愛の大きさの前に、私たち自身の無力さを覚えます。どうぞそんな私たちをゆるし、受けいれてください、そして隣人を愛するひとりとして用いてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年2月16日(日)公現後第6主日
メッセージ 「平地の教え」 田淵 結 牧師
・新約 ルカによる福音書 6章17~26節
●今日の聖書の箇所は、聖書日課によってルカ福音書の6章ですが、この記事とよく似たものがマタイによる福音書5章に「山上の説教」として記されています。そして内容もそれぞれに違っています。ルカ福音書では、貧しさー富、飢えー満腹、ののしりーほめる、ということがテーマとなっています。そしてその語られた場所も、マタイの言う山上ではなく平地となっています。
●平地、それはただ低い土地という以上に、私たちが生きている場所、長谷川初音牧師の説教でいう「娑婆」なのです。さてそこで生きる私たちを取り巻く環境、状況、イエスはまさにそのことについて語ります。貧しさ、飢え、誹謗中傷に満ちた世界です。それが人間の社会ですね。
●イエスが、あなたの隣人を愛しなさい、と本来あたりまえのことを敢えて強調されるのも、娑婆の現実をご自身も知り尽くしておられ、十字架上でも人々にののしられたからです。だからこそ、そこに私たちは神様の愛、守り、導き、そしてイエスを通しての信仰なくしては生きられないのです。いやそれらがあるからこそ、私たちは毎日を生き続けることができるのです。
●祈りましょう、神さま、私たちとともにいてください。あなたの愛で私たちの歩みを守ってください。イエス様こそ私たちの娑婆での毎日の導き手であることを信じます。主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年2月9日(日)公現後第5主日
メッセージ 「網を降ろし、漁をしなさい」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 5章1~11節
●今日のルカによる福音書の記事は、私にとってはとても思い出深いもののひとつです。神学部の学生であったときに、札幌の北星学園女子中学高等学校で教育実習をさせていただいたときに、一人の中学一年生の女子生徒さんが、この聖書のことばからお話をしてくださったことが、今も強く印象に残っています。近江兄弟社学園の卒業生であった柴田勝先生が担当しておられたその聖書の授業では、この聖書の箇所を絵に描いてみましょう、ということでした。みなさんならどんな絵を書きますか?
●彼女は、小舟の上でイエスが岸辺の群衆に話している横にいたはずの、シモン(ペテロ)を描いたのです。半分ウトウトしながら、イエスが話している横に座り込んでいる姿です。彼女がそんな光景に注目したことなど、とても独創的ですが、おそらくシモンにってそのときのイエスの話などほとんど興味なく、昨夜の不漁の埋め合わせにイエスが小舟の使用料でも払ってくれればということだったのです。
●「網を降ろして」というのはそんなシモンには驚きだったことでしょう。そんなことにして何になる、とムカッと来たかもしれません。でもやってみたところ、小舟が沈みそうになるぐらいの魚が網にかかったのです。イエスのメッセージなど、私たちに無関係、無意味だと思っている私たちに、その言葉に従うときに、私たちの思いを超えた結果、現実を示されるのです。聖書の言葉を難しくしているもの、それは私たちの無関心、無意味だと決めつけてしまう思いそのものなのです。その私たちに、イエスは福音を語り続けられるのです。
●祈りましょう、神様、私たちの心,思いをあなたにむかって開かせてください。私たちの頑なさをやわらげてくださいますように、主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年2月2日(日)顕現後第四主日、イエスの奉献の祝日
メッセージ 「預言者は自分の故郷では…」田淵 結 牧師
・聖書 ルカによる福音書 4章 21~30節
●預言者は故郷では敬われず、という言葉はより広い意味でも受け止められている。自分の昔のことがよく知られているところでは、今は立派なことを言っていても、あいつは、昔はあんな奴だったなどと言われてしまうからでしょう。イエス自身も「大工の子」として神の国の教えなど語れるはずがない、と揶揄されています(マタイ福音書13章)
●私たちの弱さ、罪深さとでもいうのでしょうか、それはその人が何かを語るとき、その言葉そのものの真実性よりも、それを語る人の過去や来歴を取り上げて、その言葉を拒絶しがちなのです。旧約聖書列王記上に登場する預言者エリヤも、当時の王から「イスラエルを悩ませる者」と決めつけられ、迫害されたなかで、彼の言葉を信じたわずかな人が神様の祝福を受けることができたのです。
●イエスが語った福音を拒否した人たちはイエスを崖から突き落とそうとさえしたのですし、その最たるものが十字架でした。そのなかでイエスはそんな人々のために最後まで祈りを捧げ続けました。つまりそんな人たち、いや私たちでさえ神様がゆるし、愛し続けられることをイエスは生涯を通じて示されたのです。そこまで私たちは愛されている一人なのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたに対してどのような姿勢や態度を取ろうとも、それを超えてあなたは私たちを愛し続けてくださいます。私自身がそのような一人であることに改めて気付かせてください。そこであなたに感謝するものとならせてください。御子イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
2025年1月26日(日)顕現後第三主日
メッセージ「貧しい人への福音」 田淵 結 牧師
・聖書 ルカによる福音書 4章14~21節
●先週のUnfinished Communityの礼拝でドン先生が1月20日のアメリカ大統領就任式のことからお話を始められました。トランプ大統領の第二期の政権がスタートするということで、それに批判的な意見も多いようですね。しかしそれは何もアメリカのことだけではなく、世界全体がそのような動きを持っているようです。そんな私たちの世界に対して聖書が語り掛けること、イエスが語ろうとすること「それは貧しい人々に福音を語る」ということなのです。
●福音という言葉は英語ではGood News 良い(福)ニュース(音)なのですが、もともと戦争に勝利した報せを意味します。それを聞くと人々は自分たちの国や社会が敵の軍隊に侵略され、破壊されることを免れたという安心と喜びを心から感じたのです。
●貧しい人々への福音、それは私たちの社会が構造的に作り上げてしまった、強い者、富める者、力ある者が世界を支配するのではなく、その片隅に追いやられている人々もまたともに安心と喜びの中に生きることを確信するというっことですね。今の社会が、知らず知らずのうちにそんな社会ではなくなってしまって、弱い人、少数者と呼ばれるひとが抑圧され虐げられている現実に対して、イエスは語り掛けられるのです。そのためにイエス・キリストは父なる神様から私たちのもとに遣わされたのです。
●祈りましょう、神様、世界の政治家たち、とくに政治に与る人々のために祈ります。その方々があなたの福音を実現する一人であり得ますように。あなたの平和と正義、そして公正さを実現する社会のために私たちもともに働くひとりとならせてください。主の御名によって祈ります、アーメン
2025年1月19日(日)顕現後第二主日
メッセージ 「ぶどう酒がなくなりました」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 2章1~11節
●キリスト教の結婚式で祈られる祈りの言葉に「主イエスがカナにおいて最初奇跡を表されたように、この場にも臨んであなたの栄光を現わしてください」というものがあります。イエスの生涯で行われた最初の奇跡が、この水をブドウ酒に変えるというものでした。私はお酒が飲めないのでワインの美味しさもまたわかりません。でもこの奇跡ではイエスは水を最上のワインに変えたといわれますから、とても美味しいものだったのでしょう。
●ただしこの奇跡の中心は、結婚式のパーティで準備していたワインが尽きてしまったということでした。思いがけずたくさんの参加者があったのか、たくさん人々がワインを飲んでしまったのか、人間の計画、準備したものはやはりどこかで不十分だし、それによってせっかくのお祝い、楽しみの気分も消えてしまいそうになったというところで、イエスがその場の人々の気持ちをさらに大きなものとした、ということなのです。
●私たちの努力や準備、それはどんなに私たちが事前に十分に計画を立てていたとしても結局不完全、失敗してしまうのでしょう。でもその時、私たちがイエスに訴える、まさに祈るということのなかで私たちの不十分さ、弱さ、欠けが神様によって補っていただける、ということなのです。だったら最初から何もしない、というところに奇跡は起こりません。私たちが最残の努力を重ねてもなお不完全なものであることに気づくとき、まさに神様はその私たちを補って、私たちをなお愛し続けてくださるのです。
●祈りましょう:神様、私たちがこの一年様々に計画を立て、特に芦屋キリスト教会の創立100周年をお祝いしようとするとき、私たちがそのために最善・最大の準備をなすことができますように。そしてそこになお残る不完全さ、不十分さをあなたが私たちとともに担ってくださいますように。それによってあなたの栄光が、私たちの教会の働きのなかに示されますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします、アーメン。
2025年1月12日(日)主の洗礼の日主日
メッセージ 「イエスの受洗日」 田淵 結 牧師
聖 書 ルカによる福音書 3章15~22節
●あまり私たちは気にしないで過ごしている教会の習慣に「教会暦」というものがあります。もちろんクリスマスやイースターという季節もこのカレンダーに従っているのですが、もっと細かいいろんなことが、教会では今日は何の日というのが定められています。ただしこれは教会の歴史や伝統からのもので、聖書そのものに起源があるというものではないのですが。でも一年にこのときは、このことを意識して考えましょうというのも大事なことです。そして今日はイエスご自身がヨハネから洗礼を受けられた(だから彼はほかのヨハネという人と区別て「バプテスマ(=洗礼者)のヨハネ」と呼ばれています)ことを記念する日です。
●でもイエスがヨハネから洗礼を受ける、洗礼というのは水のなかに自らを沈め過去に死に新しく生きることを象徴する儀式ですが、神の子イエスがなぜそれをヨハネから受けられたのでしょう。ヨハネ自身も自らはイエスにはまったく及ばない一人だということを強く意識しています。でもその受洗の行為のなかに、イエスの本質というか神の子としての姿が示されているのです。
●パウロの言葉を借りて言えば、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」 真の神とが真の人となられ、そこで本来人間としてなすべき務め(しもべとして隣人に仕える)を示されたのです。クリスマスに私たちが学ぶべきこと、それは神の子イエスが、まことの人として私たちに仕えるために、私たちを愛するために私たちのもとに来てくださったことなのです。
●祈りましょう、神様、私たちが新しい一年の歩みを始めようとするとき、あなたが私たちのもとに来てくださったことへの感謝のなかに第一歩を踏み出させてください。あなたの愛する子、イエス・キリストとのお名前によって祈ります、アーメン。
2025年1月5日(日)顕現日主日
メッセージ「イエスは知恵が増し」 田淵 結 牧師
聖 書 マタイによる福音書 2章1~12節
●明けましておめでとうございます。新年をいかがお迎えになられましたか。今年こそ良い一年となりますように、神様の導きと御祝福を共にお祈りします。教会のカレンダーでは今日はまだまだクリスマスの大切な一日で、1月6日は当方の賢者来訪の祝日と言われており、東欧の教会はむしろこの日がクリスマスにとっては中心的な意味を持っています。
●教会の伝統ではこの賢者は三人で一人がヨーロッパ、もうひとりはアフリカ、そして三人目はアジアを代表しており、全世界の救い主としてのイエスの誕生を象徴しています。この賢者たちがユダヤ人ヘロデのもとに留まらず、それぞれ自分の道を通って帰っていったことこそ、イエスの福音は一つの地域に留めおかれるものではなく、世界中に広められるべきものであることを示しています。
●クリスマスの不思議というか謎、それがまたキリスト教の謎でもあるのですが、なぜユダヤの片田舎に生まれたイエスのメッセージが全世界にひろまり、それが請けいられらたのか、というものがあります。ひとつにはイエスに出会った賢者たちが、そのメッセージに感動し、突き動かされ、それをより多くの人々に伝えるべき使命を強く感じたからなのかもしれませんし、それは人間的な小さな思いを圧倒してしまうものだったのです。
●祈りましょう、神様、私たちに改めてクリスマスの力強いメッセージ、喜び、感動を私たちに満たしてください。それが私たちの新しい一年を支え続ける力となりますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします、アーメン。