昭和6(1931)年
神の国運動第二年目、これに沿うて教会の標語が「聖国」で心を一つにして御国を来らせ給えと祈るべく示された。この運動は賀川、岩橋両師を中心講師として日本中に展開され各地に於て多くの魂をゆりうごかした。
長谷川牧師又本運動講師として或は独自の立場から東奔西走された。この間母堂梅子姉の召天などの事もあったが、この一年間における成績は、一二九回の集会に二三、四二二名の聴衆を得、一三九〇名の決心者を起している。子女の成長につれて初音牧師又各地に講師として臨む事が多くなって来た。教会は前年同様多彩なプログラムで伝道に励んだが、その講師陣は大体同じ顔ふれであった。
奈良市に於て二宮誠之助氏宅(当教会員)を開放してもらって出張伝道を試みつつあった。時の奈良女高師教授越智キヨ女史が女高師学生に福音を伝えたいという祈りから、土地百坪を提供されたので、牧師夫妻は全国の知己から三十円の前香典を貰って聖堂と牧師館を建てた。芦屋教会をそのまま小さくしたような、それでも百人を容れられる。敞、初音牧師が交互に出張し大きな成果を期待され、女高師生の清く明るい讃美と祈りがきかれたが、奈良市民に直接訴える事少なく卒業と共に各地に散り行く学生伝道は戦争末期には学徒動員等で数を減じて行った。終戦後は田淵牧師が初音牧師に代って担当今日に至っているが、前記の様な事情と牧者の定住しない出張伝道では消長がはげしく、十分な結果を期待出来ず、小数の学生有志を相手に続けている。その会員の一人島田学園長が十数年不動の熱心によって学生の教導に当られているのは感激である。
明治36(1903)年以来使用してきた讃美歌集が詞にも曲にも改訂の必要が起り、昭和2(1927)年来鋭意準備中であったが十二月完成出版を見た。交読文に聖歌隊用聖歌も加えられた画期的なもので一般に歓迎された。わが教会は約半年後の五月一日から集会に用いた。