昭和16(1941)年
この年大東亜戦争が起こった。それは別の意味でこの年は、日本の基督教会にとって重大な年であった。それは三十有余の日本プロテスタント教会が合同して日本基督教団を組織し、これに参加しない教派教会は結社として扱われるという大編成替が行われた事である。
これらの事は一教会の略史に記載すべきものでないかもしれないが、我らの教会が日本組合芦屋教会から日本基督教団芦屋打出教会と変った事にも関連するので、取上げておきたい。
我国の教会はプロテスタント伝来頭初から無教会主義でのぞむ事になっていたが、来朝の宣教師の背後にある教派団体の事情もあって、いつの間にか教派が生ずるに至った。昭和の初め宣教師連盟より日本基督教連盟に教派合同を促して来た事から幾つかの教派の合同見たが、尚三十余派があり、更に前年発布された宗教団体法によって教会合同を急速に且つ強度に迫られる様になった。初め宗教団体法は基督教会を教団として取扱い、二十三教団は認可すると言明していたのに、後になって教会数五〇、信徒数う五千人以上ある教派でないと教団として認可しない方針だと内示された。この方針に従うと日本基督教会、日本メソジスト教会、日本組合教会、聖公会、バプテスト教会及びルーテル教会の七教派だけとなり、残りの多数の教派は合同するか結社として存続するかの岐路に立たせられた。
これらの事情から二千六百年奉祝全国基督信徒大会の翌日、第一回の教会合同準備委員会が開かれ、十六年三月までに八回の準備委員会を重ねて大綱を決定した。六月時二十四日二十五日に日本基督教団の創立総会を開き成立を見た。これに参加した三十二教派は性質の同型又類似の教派同志を集めて十一の部とし、部制を以て完全合同に至るまで運営するという申合をした。初めは部制解消までには六七年を要するであろうという予想であったが、時局的な面もあって三年ほどで完全解消した。
当時の部制は一部日本基督、二部日本メソジスト、三部日本組合、基督同胞、四部日本バプテスト、五部日本ルーテル、六部聖公会(以下略)であった。
更に今一つの合同の理由として世界教会運動(エキュメニカル・チャーチ・ムーブメント)の影響も見逃してはならない。
日本基督教団芦屋打出教会として認可され発足したのは十七年二月のことである。
教団成立の記念すべきこの年、今一つ憶えねばならない事がある。それは教会創立当初から身は全家族とも大阪天満教会の忠実なる会員であり乍ら、芦屋に居住するの縁故と長谷川敞牧師夫婦に対する主に於ける友情から、終始かわらぬ奉仕を献げ尽された今井安太郎氏が十一月平信徒伝道旅行の途次、京都府殿田で倒れられた事である。敞牧師は同氏追懐の言の中に於て
”私が芦屋に開拓伝道の決意を第一番に持ち込んだのは今井安太郎氏であった。「よし、神様のみわざの為に及ばず乍ら犬馬の労を取りましょう」と共鳴賛同せられてからは、丸で御自身の家でも建てられる様に、否、それよりも熱心に敷地の選定、地上げ、建前、会計と何もかも一手に引きうけてやって下さったー少しも専横らしい所なくーまことに私の芦屋に於ける十七年の伝道の大過なかった事も、又芦屋教会の今日ある事も、故人に負う処が実に多い”といっておられる。