昭和二十四(1949)年
前年あたりからやや健康をそこね乍らも教会の諸行事並に家庭集会数の増加に嬉しい悲鳴をあげている牧師夫妻に、外部からの応援を求められる事しきりですこぶる多忙になって来た。適当な伝道者をという声が役員会ではいつも起り、藤井福一執事は急いで適任者を迎える事を委任された。その藤井執事は七月突如逝去された。氏は十数年執事として信徒総代として、教区議員として又は教団総会議員として目覚しく活躍され、熱心な日曜学校長としても知られていた。教会は多年に亘る忠実な奉仕を感謝して最初の教会葬の礼を以て応えた。
この葬儀の為に告別の辞並に略歴をしたため終られた途端に初音牧師は倒れられた。思いの外重態で半ケ年の静養を要するものと診断され、内外の働きを止めて一心に養生される事になった。そこで教会は愈々曽根教会で牧会中であった田淵薫明氏を招く事になった。
八月戦後第一回の青年会キャンプを広野に於てもった。主に在るよき交りと祈とが与えられ年々多くの求道者の参加を見、その中から可成の受洗者を生むに至った。三回目からはジュニア部にも個別にキャンプを初める様になって、キャンプ修養会は年中行事の一つとなり、教会又これに期待し援助費を計上うぃてこれを助けている。
西暦にして本年は一九四九年に当たり、プロテスタント日本開教九十年になる。又この年はフランシスザビエルが日本に第一歩を印してから四百年に相当する。ローマ教会ではザビエルのミイラになった手を日本中持ちまわって紀念運動を展開した。教団でも東京女子大学日比谷公会堂を会場にして教団教師を一堂に集め、はるばるスイスからエミール・ブルンナー博士を迎えて講師とする盛大な九十年宣教大会を挙行した。この時は田淵牧師のみが参加した。
初音牧師は豊かなる御恩によって思いの外早くいやされ、秋ごろからは存分執筆が出来る様になり、諸雑誌への寄稿、教会信徒用の指導テキスト「アーメン」などを作って文書による伝道を活発にされる様になった。