2026年5月31日(日) 三位一体主日礼拝
聖書 マタイによる福音書 28章16~20節
説教 「すべての民をわたしの弟子に」 田淵 結 牧師
16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
●先週は全世界の教会の誕生日といわれる聖霊降臨日、ペンテコステでした。その日天から降ってきた炎のような聖霊を受けたでしたちが、突然世界中の言葉を語り始め、それによって今日のマタイ福音書のイエスの派遣の命令のように、すべての民を私の弟子にしなさい、という言葉に従って世界中にイエスの福音の伝道を開始し、その結果として私たちの教会も今ここに立っているのです。でもこのイエスの派遣の言葉は、何よりもキリスト教自身によって大きく誤解されてしまう危険性を持っていたのです。つまりキリスト教が世界を征服し、それを治めるための宗教組織だと思い込んだところです。特に中世になってカトリック教会がヨーロッパで絶対的な立場を獲得していくと、11世紀に起こった十字軍で、それを主導しようとした教皇ウルバヌス2世は「神がそれを望みたもう」とイスラム圏へのキリスト教の侵略を正当化しました。
●果たして今日のマタイによる福音書のイエスの派遣命令は「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教える」ためのものでした。つまり隣人を愛し、隣人に仕え、すべての人が神に愛されている存在であることを知らせることだったはずですが、教会はいつの間にか隣人に仕える団体から隣人を支配する組織へと変質してしまったのですし、その原因はある意味教会が聖霊の導きによること以上に、自らの権威、組織の判断に人々を従わせる制度を作り上げることに関心を集めてしまったからです。
●イエスが私たちに聖霊を通じてゆだねられた業、それはイエスの十字架の死によって示された神様の意志への従順さと他者への奉仕です。そのことをキリスト教が見失ったとき、教会は自らの権威、正しさ(誤りのなざ)、優越感などを主張し始めたのです。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。教会の誕生日を祝うこと、それは教会の本来の使命を再確認することですし、芦屋キリスト教会の101年目からの新しい働きのスタートラインを確認しあうことが求められているのです。
●祈りましょう、神様、どうぞ私たちの小さな群れを、あなたの御用のためにお用いください。あなたに教えていただいたことをひとつひとつ思い起こし、それを果たし続ける群れとしての歩みを整えさせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2026年5月24日(日) 聖霊降臨日主日
説教「その人の内から生きた水が川となって流れ出るように」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 7章37~39節
●今日はキリスト教の三つの大きな祝祭(お祭り)のひとつ、ペンテコステです。ペンテコステというギリシャ語の意味は単に「五十日目」ということで、もともとユダヤ教ではエジプトから脱出したイスラエル人たちが紅海の奇跡(海が二つに分かれる)から50日目を記念する意味があり、その後春の大麦の収穫の祭りから50日目という意味も込められていたようです。ですからその日本語訳としては「五旬節」のほうが元の言葉の意味を表しています。その日にキリスト教では使徒言行録2章に記される、イエスを天に送った弟子たちの上に天から聖霊が炎のように降るとい事件が起こったことで、聖霊降臨日として祝うようになったのです。先々週のヨハネによる福音書の記事のなかで、イエス様が語られた「真理の霊」が弟子たちに与えられたということなのでしょうか。
●今日のヨハネ福音書の記事でも霊について語られていますが、やや不思議な表現、イエス様がまだ栄光を受けておられない、だからまだ霊が降っていない、というものがあります。この言葉を私たちが不思議に思うのは、栄光とか霊ということばを自分のイメージだけでとらえようとするからかもしれません。栄光、輝かしさ、すばらしさ、あの預言者イザヤが神殿のなかで神様とであったときのような圧倒的な、強烈な体験のようなものもあるでしょう。しかしヨハネによる福音書では、それはイエス様の十字架の死という私たちにはむごたらしく、目をそむけたくなるような苦しみを通じてまで私たちを愛し抜かれたイエス様の姿なのです。
●そのイエス様の姿のなかにある私たちへの愛に気づかされること、目をそむけたくなるようなイエス様の姿に私たちを向き合わせる力、それがここでヨハネが訴える霊なのでしょう。ただ十字架にかけられ死んでゆかれたイエス様の姿は、パウロの言葉でいうと「滅んでいく者には愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」という現実です。私たちの心が渇く、それはまさに自分自身が滅んでいくような絶望的な渇きのなかで、その私たちをいやす、生きた流れとなる」ことでしょう。イエスを天に送り、地上に自分たちが取り残されてこれから福音を世界中に広める使命を与えられるなかで自分たちの無力さを痛感していた弟子たちが、その霊を受けることによって、神様の力に触れることによってキリスト教の歴史は大きく変わりました。そこでキリスト教はその日を教会の誕生日として記念し続けているのです。
●祈りましょう、神様、私たちにあなたの霊が、力が与えられていることを感謝します。そのなかで、私たち一人一人がそれぞれあなたから与えられている使命を果たしてゆくものとしての自覚を、今日のペンテコステの日に新たにすることができますように。復活の主、イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
2026年5月17日(日) 復活節第七主日
メッセージ 「天に昇り、神の右に座し給えり」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書17章1~11節
●「父よ、時がきました」 5月10日からの週はキリスト教のカレンダーでいうと、主の昇天記念日、つまりイエス様が復活後40日間の地上での活動を終えて、天に昇って行かれたことを覚えるときでした。復活後の40日間、ご自身が「まことの人」として復活されたことを人々に示されたイエスが、天に昇り「まことの神」としての座につかれる、使徒信条の言葉でいうと「神の右に座したまえり」ということが実現されたことを教会は毎年この時に覚えるのです。
●イエスの昇天の事は使徒言行録の1章に記されるていますが、今日のヨハネによる福音書はそのことを、天地創造のときにイエスがおられた場所に帰られたということを語ります。マルチン・ルターの作ったクリスマスの讃美歌の「高き天より私は来た」(私たちの讃美歌101番「いずこの家にも」)で歌われている天の高みにイエスは帰って行かれたのですが、そのことはまさにあの飼い葉おけでのイエスの誕生のときからの地上の生涯を通じてイエスは「まことの神」であられたことを強調します。そしてそのイエスが私たちに語られた言葉を聞いた私たちによってイエスの栄光(すばらしさ、輝き、文字通り神々しさ)が明らかにされるということも訴えています。
●私たちのつとめ、それは私たちがイエスから示された神様の愛、私たちへの語りかけを通じて、イエス様の栄光を証しし続けること、それを賛美しほめたたえ続けること、それによって天に帰られたイエスの存在の大きさ、意味、そしてそのあとに残された私たちにイエスによって与えられたすばらしさを感謝し続けることなのです。イエスは天に帰られたのですが、そのイエスが私たちに与えられたもののすばらしさは永遠に私たちのうちにとどまり、そのすばらしさを私たちが常に実感し続けるなかで、私たちは天上の、神様の右に座しておられるイエス様と共に生き続けるのです。
●祈りましょう、神様、私たちがイエス様からの豊かな賜物を日々感謝し、そのすばらしさをほめたたえつつ生きるひとりひとりであらせてください。私たちの賛美が、私たちの世界に満ち溢れますように、主の御名によって祈ります、アーメン。