昭和二十一(1946)年
戦争の跡に来るものは飢饉と道徳の混乱とは昔からいわれている通りであるが、敗北と戦災を初めて蒙った日本に於ては、最初の苦い経験であった。戦争から生ずる食糧不足に打ちつづく全国的な不作で、国民は庭の空地を畑にし、道端まで土を積んで菜葉を作り芋を植えたが知れたもの、リュックサックを背負って買出しに行く筍子生活、経済界の変動は驚くべきインフレーションとなり、百倍二百倍と物価は上って行く、新円切換、街頭に靴を磨く児に食を乞う浮浪児、青少年の恐るべき犯罪、デモにストライキ、どこにも希望の色もない悪夢に襲われた様な状態であった。
かゝる混乱は子供達の世界をも必然的に暗いものにした。歌を忘れた幼児等に希望を与えたい、笑を取戻させたいとの願いから、復員早々の佐野俊夫氏と長谷川治子姉(現田淵夫人)とが子供会を計画した。これに村上弘、長谷川滋両氏が加わって開いたのが意外の成功をおさめ、引続き活発な日曜学校再開と云う誠に喜こばしい結果となった。爾来藤井福一、原田庚子郎、千葉正一の三氏が相ついで校長として奉仕され、現在十六名の教師が之を助けている。
終戦直後東久邇内閣成立の時、顧問に招かれた賀川豊彦氏が一億総懺悔を国民に訴え、教会にキリスト運動五ヶ年計画をうながされた。教会は一斉に立ち上がろうとしたが都市の教会の多くは罹災して会堂がない。信者には聖書がない。大衆は霊肉に飢えているといった時に、海の彼方より救援物資として、数万冊の聖書賛美歌が未見の友から贈られた。幾つかの焼失教会の為には、コンセットハットかぽポータブルハウスが献げられた。間断なく停電する中ではありながら教会は徐々に集会を正常に守れる様になり、来会者も殖え讃美歌にも明るく力強いものが感じられる様になった。
この頃の青年をアプレゲールと呼んだが、大体、共産主義に走る者、虚無主義に陥入る者と心の糧と光を宗教に求める者との三種に大別する事が出来るともいわれた。その中で一番多く捕えたのが前者、後者は全体の数からすれば少ないものであった。