大正13(1924)年 芦屋開拓伝道のはじめ
大正13年4月3日、日本組合教会に属する大阪兵庫両部会に於て、阪神間の精道村芦屋開拓伝道の一項が審議された。村とはいえ地の利はよし、人口既に2万人余、人を得るなら有望な開拓伝道地である。至急にとの声が盛んにあげられた。
調査委員は熱心にその実現に努めたが、実際に当っては思わぬ支障もあり、わけても芦屋ならばありそうなものと思った伝道艇身者がなかなか与えられないので、前途を暗くしていた。委員等は止むなく阪神間在住の牧師教師方の応援をうけて、芦屋にいる信者の宅で出張伝道を行いつつ、時期をまとうという事に大体おちついたが、これはいつその幻が実現されるわからない状態であった。
丁度この頃、神戸雲内教会で有力な牧会伝道をしておられた長谷川敞夫妻は、先人が礎を置いた教会に安住するのでなく、未開拓の地に新しく一個の教会をうちたてたい、この教会を以て生きた福音の証としたいという聖なる野心を抱き、常に開拓伝道の幻をもち上よりの黙示を祈りもとめつつあった。そして今の日本伝道は余りにも都市中心ありすぎる、将来の日本伝道は郊外から次第に地方に向って進むのでなければ、基督教会は堅実な発展は望み得ないとの強い確信をもって、日本の基督教会の為に何処かに布石をおく事を神は望み許し給うかを待っていた。
この様な真剣な求めの時に示されたのが芦屋の地であった。芦屋は未見の地ではない、芦屋人の風俗習慣から考えると、最初から会堂をもっていなければ効果的な伝道牧会は出来ない。然し実際問題として一人も信者をもたないで、どうして会堂を建てる事が出来ようか。外国ミッションに頼るには日本人の伝道は日本人の手でという日頃の主張と信念がこれを許さない。迷わざるを得なかった。が祈の中に導かれた結論は、伝道は人の計画によって行う業ではないという事であった。私達のうちに働く神の力によって、私達が求め又願う所より遥かにすぐれて大いなる御業をなし給う者の御名によって立ち上がる事、この御約束を信ずる事によって力と希望が与えられ、志を人々に語った。
この事は、忽ち色々な反響を呼び起こした。或る人々は期待と頼母しさを覚えたが、他の人は如何に牧師経験を持つとはいえ、一人の信者もなく一回の集会をもたない前から会堂建築を目論むなど非常識すぎるといった。冒険的信仰も一歩誤るなら神を試みる冒険となると忠告する者もあった。その世評は間違ってはいないが、然し手を鋤につけて後ろをみる者は我にかなわずとある。只前進あるのみ、祈は更に燃やされた。
エホバエレ、神備え給う。同年再び開かれた兵庫大阪両部会はこの長谷川牧師夫妻の決心を知って後援しようと決議し、本部もこれを助け、更に芦屋在住の組合教会関係者信徒有志も手伝しましょうという事になった。長谷川牧師の祈は外部からの助はこちらからは求めないという方針であったが、この時の助は神からのものであり、摂理の御手によるものと信じ心からの感謝をもってこれに従った。
凡ての事に於て主なる神は牧師夫妻の開拓伝道の精神を奮起せしめ給い、又牧師夫妻の祈りは教会と多くの人々の心を動かすにいたった。