2022年8月7日 芦屋キリスト教会 三位一体節第九主日
説教:「権威に従う」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 13章1~7節
◆昨日は8月6日、広島に原子爆弾が投下されて77年目の慰霊の日でした。実はその日はまた阪神大空襲があり139名の方が御影から芦屋、西宮にかけて亡くなられました。私たちのj全身芦屋打出教会会堂は消失を免れたのですが、かえって「敵性宗教の耶蘇(キリスト教)だから攻撃されなかったのか?」とスパイ視されるような言葉を投げつけられたそうです。戦争を引き起こすのは国の権力者たちであり、今この瞬間もその状態は同じです。そして犠牲となるのは「敵」と決めつけられる人たちだけでなく、私たちも同じです。
◆今日のローマ人への手紙の言葉はその意味では大いに議論され、平和主義の立場からは「都合の悪い」ものです。権威者は神に建てられており、それは善を行うためなのだ、と。本当にそうなのか、パウロは結局権力者にすり寄っているのか、という批判も投げかけられます。しかしここで丁寧に聖書の言葉に注目すると、パウロは決して無批判に「権力」に従えとは言っていません。権威です。本当に権威あるもの、善を実現するために神によって建てられた「権威」を見極めることを求めているのです。
◆宗教と政治との関わりが大きな話題となっていますが、政治が「まつりごと」と言われるように、それは神による権威を持つべきものとして行われる事、しかしそれがただ一部の権力者の野心の実現のためのものとなっていること、だからこそ私たちの信仰的な思いのなかで現実の社会を見つめるべきなのです。
◆祈りましょう:神様、私たちの為政者のために祈ります。あなたの真理と善を実現するための使命を果たさせてください。それを成しえない状況を、あなたが正してくださいますように。主の御名によって、アーメン
2022年8月14日 芦屋キリスト教会 三位一体節第十主日
説教:「イエス・キリストを身にまとう」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 13章8~14節
◆アンデルセンの童話として紹介しなくても、誰もが知っている「裸の王様」のお話。今日のローマ書の言葉のなかで「主イエス・キリストを身にまといなさい」という一句を読みながら、ついそのお話を思い出しました。逆説的ですが、私たちがキリストをまとっていると思っても、それほ本当なのか、大丈夫なのか、そう思い込んで、実は自分の弱さを晒しながらいるのではないか、ということです。
◆「イエス・キリストを身にまとう」、別の言い方をすればイエス・キリストの愛に包まれた日々を送る、ということです。それをまとうとくことで、自分が何か特別な権力や能力を与えられるということではありません。私たちは常に私たち自身のままなのです。しかし、それでも、いやそれだからこそ私たちはキリストをまとうことによって、本来の私たちではなしえない、愛を全うすることができるのです。
◆中世の有名なキリスト教作品の一つに、トマス・アケンピスの『イミタチオ・クリスティ』、つまりキリストのイミテーションになろう、という書物があります。ここでイミテーションとは、「偽物」ではなくて「似せもの」の意味でしょう。私たちがつねに本物であることに近づく思いを持ちづけるなかで、私たちが何を身にまとっているかがより確かに示されるでしょう。
◆祈りましょう:愛する神よ、私たちがイエス・キリストをみにまとう生活のなかで、あなたから愛されたその愛を、隣人と分かち合う一人であらせてください。主によって祈ります。アーメン
2022年8月21日 芦屋キリスト教会 三位一体節第十一主日
説教:「私たちは主のもの」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 14章1~12節
◆リテラシーという言葉があります。何かのことを扱える常識的前提とでもいうのでしょうか。そして私たちの社会には宗教に対するリテラシーがなさすぎるように思えます。最近話題の宗教団体がさかんに「サタン」「罰」「報い」などを主張しており、そのことにおびえてたくさんの方がその宗教から抜け出せなくなってしまい、多額の献金を「強制」される事実は本当に悲しいことです。最大の問題はその方々が、その教団の聖書の読み方しか聞かされていないということです。もし一度でも私たちの教会にその方が来てくださっていれば、あるいは聖書へのリテラシーを持っておられれば、そんな悲劇は避けられたはずです。
◆今日の聖書の箇所のなかでパウロは、「わたしたちは主のものです」(8節)と語ります。その私たちに神様がサタンを送るということがあるのでしょうか。むしろ私たちのあるがままを受け止め、イエス・キリストの愛と復活の希望によって生かしてくださる、それがパウロの基本的姿勢としたら、その団体の主張の「おかしさ」などまったく相手にもしないはずなのですが。
◆私は日本社会の宗教的な不作為をいつも感じています。一般の教育のなかで宗教的リテラシーを学ばせない、信じるかどうかという以前に聖書の基本的な立場「神は愛である」という一点でも伝えることができることが、今私たちが目にする状況への解決があるのです。
◆祈りましょう:神様、私たちの弱さをあなたがそのままに受け入れてくださることを信じて感謝します。そのゆえに常に愛であるあなたのみに従い、あなたの守りのなかで日々を過ごせますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
2022年8月28日 芦屋キリスト教会 三位一体節第十二主日
説教:「互いに裁き合わないように」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 14章13~23節
◆最近「論破」という言葉をよく耳にします。議論をしていて最終的に相手の論を打ち負かしたときに使われるようですが、その言い方は必要なのでしょうか。一方の論だけがすべて正しいなどということは実はないのです。論破されてしまった側にも、考え方のひとつとして大切な論点の可能性を含んでいることもあるでしょう。
◆パウロはローマの教会で、自分たちが正しい信仰生活を送っているという人たちが、結果としてそれ以外の立場の人たちを論破(批判)し、否定する結果をもたらしている状況を憂いています。清い食べものとは、ユダヤ教でとくに議論されてきたことですが、パウロは自分が何を食べようと、それを神様の前に確信をもって行うならば問題はない、むしろ各自の食事の習慣がお互いの愛と信頼関係を損なってしまうことが問題なのです。
◆私たちにとってとても重要なことは、私たちが何をしようと、それが神様の前に確信をもって行うこと、ということはほかの人もまたほかの人として神様の前に確信をもっていることを尊重する、という姿勢です。それらの結果が、私たちの社会を愛で満たし、向上させることになることをこそ、私たちの信仰生活の軸となるのです。
◆祈りましょう:神様、私たちがあなたの前でのみ自らを振り返ることに努めることができますように。ほかの人もまたあなたが私たちと同じように愛し、導かれていることをしっかりと覚えさせてください。主のみ名によって祈ります、アーメン。
2022年9月4日 芦屋キリスト教会 三位一体節第十三主日
説教:「忍耐と慰めの歩み」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 15章1~6節
◆最近の日本社会の状況を見ていると、宗教、信仰についての大きな誤解、思い違い、あるいは私たちの抱える問題を効果的に解決できるというな変な決めつけがあります。なぜ莫大な金額を捧げてもそんな宗教に留まるのか。その背後にはその方々が抱えられている生活上の不安や苦しみから解放されたい、というとても強い願いがあるからでしょう。またその不安をさらにあおりつつそこから逃れられるという安易な期待を人々に持たせることも、ある意味卑劣だとしか思えません。
◆第二次大戦中にナチスに抵抗したドイツ人牧師、神学者であるボンヘッファーが「高価な信仰、安価な信仰」について語りました。私たちの悩みや不安を即効的に解決し希望を与えるような教えこそ安価でなものでしかない、ということです。逆に、私たちが直面する社会や生活のさまざまな問題をしっかりと見つめ、そのなかで神様の導きを信じて生き続ける、「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」生き方こそ「高価」で真実な信仰だというのです。
◆キリスト教信仰は、私たちの抱える現実から目をそらし逃避するものではなく、それをイエス・キリストが十字架に向かって歩み続けられたように、そこに神様の導きと支えを信じながら進むもので、ときにその歩みをともにすることなのです。それは同情のようなものでなく、ともに重荷を担いあう、ともに問題に取り組む積極的で力強い生きざまなのです。
◆祈りましょう:忍耐と慰めの源である神様、私たちの生活のなかで、それを避けること、逃げだすことなく、あなたがともに歩んでくださる信仰によって、あなたの与えられた場で歩み続けることができますように。神様、どうぞ私たちと共にいてください。インマヌエル、アーメン。
2022年9月11日 芦屋キリスト教会 三位一体節第十四主日
説教:「忍耐と慰めの歩み」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 15章7~13節
◆新年からローマの信徒への手紙を考えてきましたが、いよいよ終わりにちかくなって、パウロはもう一度「ユダヤ人」「異邦人」というテーマを取り上げます。それだけローマの教会ではその問題が大きかったのでしょうし、それが教会内部の一致を妨げていたのかもしれません。もちろんパウロはそこになんの区別もなく、お互いは神様の前に、イエス・キリストの愛のなかで同じなのだ、ということを繰り返します。つまり教会という組織にとって、最初で最大のテーマは「一致」ということなのでしょう。
◆ただし「一致」という言葉を安易に使うとそこに大きな問題が起こります。なによりも私たち人間は一人びとり個性的な存在です。顔かたち、人間性、考え方、それぞれが違うからこそ豊かな社会が作られているのです。そこで「一致」を声高に叫び始めると、それぞれの個性を無視し抑え込んでしまうことになります。創世記1章の天地創造物語ですが、なぜ神様はいろんな生き物を作られたのでしょう。お互いに違った種類の生き物がお互いの命を支えあう必要があるからです。大地に草が生え、草が動物を支え、動物が人間を生かす、それぞれの違った生き物全体が、神様の世界を支えあうために創られているのです。
◆ローマ教会のなかにあるいろんな人たち、それがお互いのそれまでの生き方、考え方、イエス・キリストとの出会い、その一つ一つを通じて神様の働きの全体、イエス・キリストの愛の大きさが、多面的に、立体的に示されるのです。私たちの教会にたくさんの方々がおられることによって、そこに自分にはない他の人たちのすばらしさに気づき、お互いに学びあい、深め合うことができるのです。私たちは正しく、相手はダメだ、と決めつける生き方は、まさに聖書の示す信仰の大きさを失わせてしまうのです。
◆祈りましょう。神様、どうぞあなたの大きさに気付かせてください。どうぞ私たちの自分の狭さのなかにとじこもりながら生き続けるその姿勢を打ち砕いてください。お互いがお互いのすばらしさによって支えあい、祈りあえますように。主の御名によって祈ります。アーメン
2022年9月18日 芦屋キリスト教会 三位一体節第十五主日
説教:「キリストの福音を宣べ伝える」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 15章14~21節
◆ローマの信徒への手紙の締めくくりに、パウロは自分のこれまでの生涯を簡単に振り返りながら、この手紙を書いた彼の意図を改めてはっきりと告げます。彼は「キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、・・・働かれ」「キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」と語ります。ただし彼が伝えたのは「イエスの福音」ではなく「キリストの福音」だというところに少し注意する必要があります。
◆イエス・キリストという言い方をするとき、イエスは神の国の福音を宣べ伝えたのですが、キリストとは復活を通じて神の独り子としての私たちの救い主なのです。パウロはイエスに出会ったことはありません。それまでのパウロは「キリストの迫害者」であったのですが、突然に復活のキリストと出会いによって「キリストの使徒」とされたのです。その出会いによって、彼は今までのすべてをゆるされ、人生の大転換のなかで彼の人生への希望と新しい出発を与えられたのです。キリストの復活こをパウロの原体験そのものなのです。
◆キリストの福音、それはイエスの死と復活を通じて私たちに与えられる神様のゆるしそのもので、彼が生涯にわたって異邦人への福音を語ったのは、まさに彼自身がキリストの福音こそが、世界中すべての人に対する神様の愛を語り、それぞれの人生への希望と新しい出発を常にもたらしてくれるという確信があったからでしょう。
◆神様、私たちは改めて、私たちにあなたの独り子イエス・キリストとの出会いを確かなものとしてください。そのなかで私たちが常に希望を与えられ、私たちのゆくべき道を示され、私たちの周囲の人々とともに愛に満たされた歩みを続けることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン
2022年9月25日 芦屋キリスト教会 三位一体節第十六主日
説教:「イスパニアへ」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 15章12~33節
パウロはローマの教会への手紙の締めくくり近くに、彼自身ローマを訪ねたいという計画を記します。私たちが毎日曜読んでいる聖書は「新共同訳聖書」ですが、そこにも「ローマ訪問の計画」と小見出しがつけられています。でもそれは必ずしも正確だとは言えません。彼はイスパニアにゆく途中にローマを訪ねたかったからです。
◆いまのスペインですが、そこは当時のローマ帝国にとっても辺境というよりもその先の地であったようです。そこがパウロにとって遣わされるべき最後の地のはずでした。彼の伝道の姿勢、それは世界の中心と呼ばれ、人々の注目が集まる場所、そこにはすでに教会もあり、様々な問題を抱えつつもキリスト教が定着しつつある場所ではなく、まったくキリストの福音に触れたことのない人々への伝道そのものでした。
◆ある意味そこに、私はキリストの使徒であり、神に選ばれ導かれたイスラエルの祖アブラハムの信仰の継承者、ただし彼は狭い民族的な意味ではなく、彼が今やイエス・キリストの父なる神を信じるすべてのひとたちの「信仰の祖」であることを確信しているのです。彼は神の召命によってそれまでの人生を捨てて新たな地に赴き、そのなかで甥ロトとの土地をめぐる論争のなかで豊かな土地(低地)にとどまりませんでした。「行く先も知らずに」歩み続けたのです。パウロの生涯は、まさに神様に召され、導かれ続けた歩みなのでしすし、そこにイエス・キリストの父なる神を信じる者の生き様が示されているのです。
◆祈りましょう:イエス・キリストの父なる神様、私たちの人生をあなたが導いていて下さること、そのことに私たちを従順に従わせてください。あなたのみこころのままに、私たちを生かし、用いてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン