2024年12月29日(日)降誕後第一主日
メッセージ「イエスは知恵が増し」 田淵 結 牧師
聖 書 ルカによる福音書2章41~42節
●新約聖書の最初に四つの福音書という書物があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四人の作者によるイエスについての記録ですが、イエスの誕生についてはマタイとルカによるものしか記録がなく、イエスの少年時代のことについてはルカにしか記されていません。イエスの生涯は実はほとんど知られておらず、福音書の記録は思い彼の十字架の死に至るまでの数(3)年ぐらいのものが断片的に記されているにすぎません。
●今日の聖書の箇所は、ほとんど知られざるイエスの少年時代の絵p-ソードですが、それが歴史的に事実であったなどを確かめる術もありません。ルカが福音書にそう記しているだけですから。この記事、エルサレム神殿に長男イエスを連れて行った両親ヨセフとマリアが、イエスが迷子になり、数日間かかってそれを見つけるというお話。イエスは神殿の学者や有力者たちと宗教的な議論をして、人々はイエスに驚いたと言います。神童(まさに文字通り神の子)だったのですね。
●この記事の締めくくりにイエスはますます「知恵が増し」と記されていますが、それは決して両親の教育によるものでもなく、周囲の影響などでもなかったでしょう。イエスはずっと両親に仕えて育っていたようですが。その知恵、それは誰かに教えられたものではなく、自分が神様との関係のなかで気づき、認め、受けいれ、それとともに育ってきたものでしょう。神についての知恵、神の知恵、それは自らが神とともに生き、育つなかで備えられ与えられ育まれていくものであることを教えられます。新しい一年に向けて、私たちがそんな知恵を確かなものとする毎日を歩みたく思います。
●祈りましょう、イエス・キリストを私たちのもとに贈ってくださった神様、あなたの知恵に私たちが気づき、それを受けいれ、私たちのうちに豊かに育まれつつ生きるものとさせて下さい。あなたの支配される2025年への祝福を祈ります。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年12月22日(日)待降節第四主日 クリスマス礼拝
メッセージ 「マグニフィカート」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書1章39~55節
●今年もクリスマスです、と言っても今日の日曜日は厳密にはアドベントの第四日曜日、そして25日がクリスマスです。ですから今日のルカによる福音書のテキストもマリヤがイエスの母となることを受けいれて、そこで神様をたたえる詩を詠うというところで、マリアの賛歌として良く知られた箇所です。
●ラテン語でのその最初がMagnificatという言葉で始まるので、教会の礼拝でもマグニフィカートというひとつの作品として繰り返しうたわれます。Maginificat anima mea Dominum. 私の霊は主を偉大なものとうたいます。とくにアニマという言葉ですが、アニマルの語源となる言葉ですね。それは私たち人間が)自分の理性や判断によってではなく、動物と同じようにそのようなものとして造られて与えられているものです。
●神様を賛美する、といことは私たちが自分で考えて、自分で判断して、あるいは強いられてのものではなく、ある意味本能的に、内発的になされるものですし、それを自覚している人々はまさに人間が自己中心的に自分の権力を乱用し、弱い人々を抑圧することなどありえないのです。イエスの誕生の夜天使たちが神様を賛美したこと、地には平和とうたうのは、私たち人間が本来そのように作られた存在だということを指示しているのです。
●祈りましょう、神様、クリスマスだからこそ、私たちが自分自身の本来のあり方を見つめる者となれますように。ベツレヘムに生まれられた私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りします、栄光が限りなくあなたにありますように、アーメン
2024年12月15(日)待降節第三主日
メッセージ 「わたしたちはどうすればいいのですか」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 3章7~18節
●アドベント(クリスマスへの準備をする4週間、待降節)の第三の日曜日になりました。どんどんクリスマスが近づいてくるのに、聖書日課ではますます厳しい問いかけの言葉が続きます。イエスの先駆者となったバプテスマのヨハネは人々に、「蝮の子らよ!」と厳しい言葉を投げかけますし、行いを改めなけれはとても厳しい審きが待っているなどと告げます。
●クリスマス、それは楽しく喜びの時なのですが、その準備期間にこんな厳しい言葉を読むなんて、だから聖書や教会の教えは…というような気持ちもしてきます。でも私たちの求める喜び、楽しさって本当に心からのものなのでしょうか。クリスマスにもらったプレゼント、それがその後一生にわたって私たちが感謝し続けるだけのものでしょうか。あるクリスマスの絵本に、クリスマスの翌日のゴミ捨て場に、子どもたちが前にもらったクリスマスプレゼント捨てられている場面が描かれていました。
●私たちの生涯を通じて抱き続けるだけの感謝や喜び。それは今までの自分自身を深く問い直し、その自分自身を変えるだけのものを与えられることによって本物となります。そのためにバプテスマのヨハネは私たちに、私たちの本当の姿を鋭く見つめるよう問いかけます。その私たちのもとに、イエス・キリストが生まれられる、それがクリスマスのもっとも中心的なプレゼント、メッセージなのです。
2024年12月8日(日)待降節第二主日
メッセージ 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 3章1~6節
●ルカによる福音書の特徴のひとつ、それは福音書の記事を当時の世界的政治状況、具体的にはローマ帝国やユダヤ王国の支配者と結びつけようとするところがあります。今日の箇所でも当時の皇帝、ユダヤ総督、さらにはその傀儡王権であったユダヤ王国の王、さらにユダヤ教の中心人物の存在まで紹介しています。そしてそれらの名前はやがて福音書の動きへの大きな伏線となっています。
●一番有名なのは総督ピラトでしょう。イエスを十字架刑に処したのはピラトですし、その時ユダヤ人の総督やユダヤ教の高僧たちがそれを仕掛けました。その人々が権力を握っていた時代にイエスは登場するのですが、その活動の最初にバプテスマのヨハネがイエスの活動全体をここで預言します。曲がった道、でこぼこの道が整えられると。
●この部分は作曲家ヘンデルの代表作「メサイア」の最初でも歌われますが、イエスが現れたことの意味、それは地上の為政者の悪政、失政を整えることでしたが、政治的にではなくその悪政のゆえに苦しむ人、悲しむ人、虐げられた人たちへの福音を語ることでした。大きな政治の動きに注目するとき、そのなかで生きる一人一人の存在が見失われてしまうのです。イエスの福音、それはその一人への喜びの報せとして語られたのです。
●祈りましょう、愛する神様、私たちはアドベント第二週目、平和を祈ります。世界の平和という大きな言い方のなかで見過ごされるひとりひとりの方々にあなたの平安がありますように。平和の君、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年12月1日(日)待降節第一主日
メッセージ 「アドベントが始まる」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 21章25~36節
●いよいよアドベント、クリスマスを待ち望み、準備をする待降節の四週間のスタートです。その四週間、毎日曜ごとに一本ずつロウソクを灯していきますが、最初のロウソクは希望、二本目は平和、三本目は喜び、ソ最後の一本は愛をあらわすとされています。ということで第一週のテーマは希望なのですが、今日の聖書の箇所はなにやら恐ろしい、おどろおどろしいことが記されています。「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」。
●でも私たちが希望を持つことの意味を真剣に考えたいのです。今もちゃんと過ごせるけれど、もっとよくなればいいのに、というのは希望とは言えないでしょう。今でもなんとかなるのですから。そうではなく本当にこれからどうなるんだろうか、どうしていいかわからない。私はもう終わりだ、という状況のなかでこそ希望は真剣に語られるはずなのです。
●そのとき希望がもてなくなってしまえばまさに絶望に打ちひしがれてしまう、そのときにパウロの言葉によれば「希望は失望に終わることがない」(ローマ5:5 口語訳)のです。クリスマスの準備、その最初は私たちの現在の本当の姿を見つめること。何とかなるではなく、本当にどうしていいかわからない自分自身の弱さ、重荷、苦しみを率直に実感するなかから、その重荷を共に追うためにイエスが来られたことを確認する、それがアドベントの最初に私たちが気づくべきことなのです。
●祈りましょう、神様、アドベントを迎えます。私たちがなすべき準備を心して行い、希望、平和、喜び、愛に満ちたクリスマスを迎えることができますように。私たちいま切に待ち望む主、イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
2024年11月24日(日)終末主日 収穫感謝礼拝
聖書 ヨハネによる福音書 18章33~37節
メッセージ 「私の国は」 田淵 結 牧師
●言葉が通じない、という経験をよく味合わされます。ヨハネによる福音書に登場する人々でイエスと会話をしているけれど、同じ単語をお互いに使いながら、まったく言葉が通じていないということがよくあります。今日の個所は十字架につけられる直前にイエスがローマの総督ピラトから尋問される場面です。そこでピラトはイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねるのですが、その王をめぐって会話は全くかみ合わなくなってしまいます。
●私たちの日本語の聖書の翻訳ではあいまいになってしまうのですが、その後のイエスの「私の国」もギリシャ語で読めば王国で、やはり王の権力が話題となる言葉です。でもイエスはその王国がこの世には属していないと繰り返し語ります。王とか王国という言葉を使うと、私たちは実際に地上に存在する国の支配者をイメージしてしまいます。ところがイエスがその言葉を使うときに、本当に私たちの生きざま、生き方を、心のうちまでも私たちの歩みを左右される現実について語ります。地上の王は私たちの体を滅ぼすことができますが、私たちの魂をどうすることもできません。しかしイエスが王、支配者を語るとき私たちの魂をも左右される存在を語るのです。だからこそイエスはピラトもその背後にあるローマ皇帝をも恐れずに語られたのです。
●今日は教会のカレンダー一年の最後の日曜日、来週から新しい一年の始まりをアドヴェントとともに迎えます。私たちは今まで毎日、私たちのより良い在り方を求めて歩み続けてきたはずですね。でもその良さというのは、体のことでしょうか、魂のことでしょうか。そしていろんなことがあるなかでもなお、私たちは平安、安らぎを感じつつ今の時を迎えているでしょうか。何か不安がある、どうもすっきりしない、そのとき私自身もまた魂の平安を求めてこなかった反省が浮かびます。むしろその平安があるとき、それ以外のものを不安がること、落ち着かなくなってしまうことなどはあり得ないのです。改めてイエスの言葉を味わうときに、私たちは神様の支配のなかにあるという一点をもう一度見つめ続けたいと思います。
●祈りましょう、神様、この一年もあなたの守りの中に今日までを送れましたことを感謝します。しかしそのときに私たちが祈りのなかでなお、神様との言葉のすれ違いを持つことを恐れます。あなたの平安のみを見つめ続ける者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年11月17日(日) 三位一体主日
メッセージ 「まだ世の終わりではない」 田淵 結 牧師
●It is not the end of the world. ときどきこの言葉は英語の会話で使われるフレーズですね。まだ詰んではいない、まだ大丈夫、ということでしょうが、だからこれからも今のままでいい、ということでは決してありません。改めて自分のいままでを振り返り、本当にどうすべきかを考える、今週のマルコによる福音書記事は、私たちにreflectionを求めているのです。
●11月はキリスト教のカレンダーで一年の終わり、11月24日は終末主日、そして収穫感謝の日曜日です。この一年神様が私たちに下さった豊かなものに感謝しつつ、クリスマスの準備(アドベント)とともに新しい一年をスタートさせるのです。そのことをしっかりと覚えないでクリスマスを迎えるときに、クリスマスの本当の意味を私たちは理解できずに過ごしてしまいます。
●終末、世の終わり、それは時には最後の審判のイメージで語られることがあります。でもそれに惑わされることなく、どんなときも神様が私たちを守り、イエスとともに私たちを愛していてくださることを信じるとき、社会不安、災害、私たちの予期しない出来のなかで、落ち着いて、安心して、感謝しつつ過ごすことができることを、あらためてこの時私たちはしっかりと覚えていたいと思います。
●祈りましょう、神様、私たちのこの一年もあなたの守りの中で今日まで過ごすことができていますことを感謝します。イエスがいつも私たちともにおられることを信じつつ、よき一年の締めくくりと新しい一年、アドヴェントを迎えることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします、アーメン。
2024年11月10日(日)
メッセージ 「レプトン銅貨二枚」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書 12章38~44節
●教会というのは地上の人間の組織ですから、それを維持するの経済的な活動が不可欠です。旧約聖書の時代、イスラエル民族は12部族に分けられそのうちのひとつレビ族が祭司の部族とされ、ほかの十一部族は収入の十分の一をレビ族に与え、それによってレビ族は宗教的な活動を行っていたのです。教会にとって献金は、まさに教会という宗教的な制度と活動を支えるための費用を負担するという意味が大きいのです。
●使徒パウロは自分の伝道活動の費用を、テントづくりという仕事を果たすことによって賄っていたといわれますが、それでも多くの教会からの献金というサポートを受けていたはずです。ただし人間の社会は決して平等ではなく、豊かな人もあればその日の生活に労苦するという人たちもいます。そしていつしか多く献金できる人がより大きな祝福を受けられるとか、教会という組織のなかで発言力を持つなどの状況も生まれていました。
●今日の聖書の箇所で、イエスご自身は「一人の貧しいやもめ」の献金に注目し、彼女が最もたくさんの献金をしたと評価します。聖書事典的に説明すると彼女は当時の成人男性の一日の収入の74分の一をささげたということで、当時としては本当にわずかな額でしたし、それが彼女の生活費全てだったと言われます。ここでイエスは献金の額ではなく、その人にとっての献金の意味を問いかけます。生活費全部をささげるということは、まさに「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛」する(マルコ12:30)行為であり、生活費すべてをささげてもなお、神様が彼女とその家族を守り支えてくださるという信仰の証だったからです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたを信じるということの本当の姿をこの女性から教えられます。私たちがあなたを愛する一人としての生き方を知り、学び、行う者となることができますように。主の御名によって祈ります、アーメン
2024年11月3日(日)
三位一体節主日 メッセージ 「愛神愛隣」 田淵 結
聖書 マルコによる福音書 12章28~34節
●来年創立150周年を迎える西宮市の神戸女学院の学院(永久)標語は「愛神愛隣」とされています。ちなみにこの学校の設立団は同志社と同じアメリカン・ボードによるもので創立年も同じです。その学校でのこの言葉の解釈は同校ホームページででも確認してくださるとして、ここでイエスは聖書の中の一番大事なおきてについて尋ねられて、ここでは彼は第一と同時に第二のものも示し、それが同等であることを語ります。
●最初は旧約申命記6章からのもので全身全霊をもって神を愛すること、第二はレビ記19章の言葉です。神を愛し隣人を愛すること、それがキリスト教の教えの根幹にあるのです。この言葉をしっかりと理解するために、大きな前提があることも見逃してはならないのです。まず「自分を愛するように」というところです。私たちは本当に自分を愛しているでしょうか。それが隣人を愛すること同じレベルで。愛するということは独善的ではなく、本当に相手のことを考えることですが、そこに自分自身をしっかりと理解し、自分へのリスペクトがあってこそ他者を愛することが可能なのです。
●そして大前提として、神さまが私たちを愛してくださるという現実のなかで、この二つの掟は意味を持ちます。私たちがどのように愛するか、それは私たちが神様から愛されているその愛が基本となるからです。そのことを忘れるとき、それはまさに独善的、自己中心的な愛となってしまうのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたに愛された者であるからこそ、その愛に応えて日々を生きるものとさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年10月27日(日)三位一体節主日
芦屋キリスト教会メッセージ 「キリエ・エレイソン」田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書 10章46~52節
●偉人の言葉、名言などが集められて人々に繰り返しいろいろな思いを与えていますが、イエスの言葉ももちろん含まれているでしょう。しかし聖書の名言というのはイエスやモーセ、パウロなどの「有名人」の言葉だけではなく、今日のマルコ福音書のなかにある「私を憐れんでください」という物乞いの言葉も、おそらくキリスト教のなかではもっとも有名な言葉として記憶されているでしょう。とくにカトリック教会では。
●カトリック教会のミサの一番最初に唱えられる言葉は「キリエ・エレイソン」というこれはギリシャ語です。「主よ憐れんでください」、道端に座って通り過ぎようとするイエスに向かってこの物乞いのひとりが熱心に訴えかけた言葉が、毎週全世界の教会の礼拝で繰り返されているのです。
●その言葉こそ、私たちにとってもっとも重要で、なすべき、最初の祈りのことばでしょう。私たちはイエスの憐みなくしては毎日を過ごせない、この物乞いこそ自分にとってまず第一にイエスに求めるべきものを訴えたのです。私たちがイエスの愛を求めるのは、自分だけでもなんとかやれるけれど、それがあればもっといい、というものではないのです。まずそれがなければ私たちは本当に無力で先の見えない、不安な存在だ、ということから私たちの祈りが始まるのです。
●主よ、憐れんでください。まずあなたの憐みのなかではじめて私たちの歩みの第一歩が踏み出せることを常に覚えさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年10月20日(日)三位一体節主日
芦屋キリスト教会メッセージ 「仕える者になる」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書 10章35~45節
◆今週のお話は先週の復習のようなもので、先週はある一人の(青年)がすべてをすててイエスに従うことができなかったのを見た弟子たちが、自分たちはすべてを捨てて従っているかどうなのか、とイエスに質問したというものでした。今週は、弟子たちのなかで誰がイエスの右、左に座ることができるか、と話している二人の弟子のことを聞いたほかのでしたちが腹を立てた、というものです。やはり弟子たちも人の子、出世欲というか承認欲求が旺盛というか、とにかく自分たちの立場をより高いもの、良いものにしたかったのでしょうか。
◆それに対してイエスは彼らにイエスが飲むべき杯を飲むことができるか、と尋ねますが、だからそれでイエスの右や左に座ることが決定されるのではないと伝えます。つまりそれは必要条件であっても十分条件ではなかったのでしょう。そして弟子たちは、本当の所自分たちが何を答えているのか分かっていなかったのです。福音書の最後の受難物語のなかで、逮捕されたイエスを弟子たちみんなは、イエスを捨てて逃げ去ったのですから。
◆そして私たちもイエスの言葉を理解するのに、この弟子たちと五十歩百歩というところではないでしょうか。私たちはイエスが言う「仕える者になる」ことが出来ている、いやできるのでしょうか。仕えるーServiceをする、しかも神様に仕える=礼拝をする、ということも、自分たちができる範囲で、できるだけ、そして関西弁でいうと「考えとく」という程度になってはいないでしょうか。すべてを捨てて仕えることの厳しさ、むつかしさ、過酷さ、イエスの十字架はそれを表しています。この言葉の前で私たちは自分の弱さ、小ささに気づかされるのです。さて私たちはイエスの右、左に座ることが出来る一人なのでしょうか。
◆神様、あなたに真に仕えるひとりとなることができますように。私ひとりの思い込みではなく、イエスの十字架を見上げつつ、わたしにできる形でのサービスをあなたに捧げることが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
聖2024年10月13日(日)三位一体節主日
芦屋キリスト教会メッセージ 「何をしたらよいでしょうか」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書 10章17~31節
●キリスト教の信仰のややこしさ、というか面倒臭さというのは、何をすればよいのかはっきりしないというところがあります。明治期に日本にキリスト教が広まる中で、最初の指導者たちは江戸時代の知的な人々が多かったし、特に指導者たちはそれが顕著でした。しかしその人たちは、キリスト教の教えを自分たちがそれまで慣れ親しんできた論語に通じるようなものとして受け入れた面が強く、どうしても道徳的、倫理的な傾向が強かったようです。しかも、特にプロテスタント的な教えというのもやはり善い行動を奨励するものであったので、ますますキリスト教は道徳的に厳格な、善行をすすめる教えとして受け止められたようです。
●今日のマルコによる福音書のなかでも、ある人が「何をしたらよいか」とイエスに尋ねます。するとイエスは全財産を投げ捨ててイエスに従うことを求めると、その人は悲しみながら立ち去ったようです。この人は全てを捨てることなどできなかったのです。そこで、イエスはあなたの持ち物全てを捨てればよいと考えてしまうと、イエスの言いたかったことがきちんと受け止められなくなります。すべてを捨てればいい、ということではなく、すべてを捨てるととしても私たちには神様がともにおられるのだ、そのことをわかっているかどうか、が問われているのです。
●主の祈りで「日ごとの糧を与えたまえ」=毎日のパンをください、と祈ります。神様は、そしてイエスはそれらのものが私たちにとって必要であることをご存じです。でもそれらのものを、私たちはつい「自分のもの」、私物化してしまい、与えてくださった方への感謝を忘れてしまうのです。自分たちが何か善いことをできるから、という以前に神様がどんな状態にあっても私たちとともにいてくださること、その一点に感謝しつづけるものでありたいと願います。
●祈りましょう、神様、私たちが自分の正しい行いを誇ろうとするとき、私たちをいましめてください。それができるからではなく、私たちがどんな時もあなたに愛されている一人であることのゆえに、私たちの毎日を平安のうちに過ごせることを覚えさせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年10月6日(日)三位一体節主日
メッセージ 「神の国を受けいれる」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書 10章2~16節
●マルコ福音書には「神の国」という言葉が繰り返し用いられます。マタイ福音書は同じ文脈では「天(の)国」となっています。ただしそ「国」という言葉の意味は「主権」「支配権」という意味で、私たちが死んで天国へ行くというようなものでは全くないのです。むしろ今この世界の中で、人間がそれを支配していると思っているなかで、いや神様が支配をしておられることに気づくか、知っているか、信じるかということなのです。そして神様の支配は、人間の支配とは全く違いますし、それは人間の常識などでは通用しないということです。
●その具体的な問題として、離婚ということが話題となります。そしてモーセはそれを認めたことに対し、イエスは「離してはならない」と語るのです。ただしそこで問題はさらに再婚問題となりイエスはそれに厳しい言い方をします。ただしそこで決定的な基準は、神が合わせられた結婚なのか、人が合わせたものなのか、ということですが、私たちは結局人が合わせた結婚しかできない現実のなかに生きざるを得ないのです。だから人間の結婚生活は所詮不完全な形なのだ、ということを意味しているわけではありません。
●神の国を信じる、神の支配を受けいれる、ということは、それによって自らの不完全さ、未熟さ、キリスト教的に言うと罪深さを見つめながら、その弱さのなかでなお、神様がそれをゆるし、守り、支えてくださることを信じることなのです。私たちの生活がどのような形となっていこうとも、なお神様は私たちの理想的なモデルとなるべき神の国でのあるべき姿を示し、私たちをそこに導き続けてくださるのです。
●祈りましょう、神様、私たちの毎日の生活、その現実を見つめながら、なお私たちはそこにあなたの導きを信じます。私たちがどうあろうとも、そのときあなたの示されるあるべき姿を常に求め続ける一人としてください。御名によって祈ります、アーメン。
2024年9月29日(日)三位一体節主日
メッセージ 「キリストの弟子」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書 9章38~50節
●ヨハネによる福音書の最後に、ペトロがイエスにほかの一人について、この人はあなたの弟子となるのかと尋ねる場面があります。そのときイエスは「(それが)あなたに何のかかわりがあるのか」(ヨハネ21:22)と答えられます。私たちは、自分がイエスに従う一人であることを強く意識すればするほど、自分がその代表、基準であって、ほかの人は大丈夫なんだろうかと思い込んでしまうのかもしれません。
●このマルコ福音書の記事でも、弟子たちは自分たちとは違った仕方でイエスに従い、イエスの業をなそうとするほかの人たちをみて、それは大丈夫なのかと思ってしまいましたが、イエスはそれを止めませんでした。それ以上にイエスを信じる「小さな者をつまづかせる者」への厳しい罰を宣言します。
●その罰は、地獄の苦しみが与えられるというものですが、古いギリシャ語本文でもその地獄の描写を行う節が記されていないものもあるのは、その罰が人間には口にできないほどのものだからでしょうか。その小さな者もまた、実はその人自身の最大限の仕方がでイエスに従おうとするイエスの弟子の一人なのです。ところが自分がよりイエスに近い弟子だと思い込んでいる私たちが、その小さなひとりを躓かせ、イエスから遠ざけてしまっているのです。そして互いに平和に過ごす生き方を見失っているのです。
●祈りましょう、神様、私たちがそれぞれにそれぞれの仕方であなたを求め、信じ、従っているひとりびとりとして、それぞれのあり方への理解と敬意を持つことができますように。そのなかでともに平和に生きる日々を与えてください。御名によって祈ります、アーメン。
2024年9月22日(日)三位一体節主日
メッセージ 「誰がいちばん偉いか」 田淵 結 牧師
マルコによる福音書9章30~37節
●私は知事だぞ! と自らの存在を高言された方が身近におられるようですが、どうも私たちの周囲には、ある役職に就くということについて勘違い、思い違いをしておられる方が多いようです。もう死語に使い言葉に「公僕」というものがあります。官僚は公への僕だということ。だから私は知事だ!とおっしゃるとき、私はあなたのためにどんなサービスをしたらいいでしょうか、ということをおっしゃって初めて本物の知事さんではいのでしょうか。少なくとも聖書やキリスト教ではそうなのです。
●誰が一番偉いか、という議論をイエスの隣で弟子たちが始めてしまいました。それを耳にされたイエスが弟子たちに何を話しているのかと尋ねても、みんなが黙っていたのは、あ、マズイとみんなが思ったからでしょうか。イエスに従うということのなかで「誰が一番偉い」という問いかけは、どういう意味なのでしょう。偉くなるということは、誰が神様に一番褒められるか、最初に天国に行けるか、幸せになれるか、ということなのでしょうか。そうなったとき、その人は一番偉くなって、どうしたいのでしょう。本当に神様に褒められる、というのは何をすればいいのでしょうか。
●それはもっとも自分を小さくして、低くして隣人に仕え、隣人を愛することです。徹底して、自分がされる立場ではなく、自分がする立場に立てるかどうかでしょう。そしてその行動を最後まで貫かれたのがイエスご自身でした。私たちのために十字架の死を選ばれたのです。そのイエスのまえで、私が一番偉い!と自分を誇れる人が本当にいるのでしょうか。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたの目に偉くなることの難しさを思います。どうぞ私たちをゆるし、導き、用いてくださいますように。弱い私たちをお許しください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年9月15日(日)三位一体節主日
メッセージ 「イエス・キリスト」 田淵 結 牧師
マルコによる福音書8章27~38節
●神学部で学ぶ最も基本的な論題は「キリスト教は何を信じるか」ということで、ここから神学論的教科書風に言うと、イエスをキリストだと信じる、ということが正解となる。でもそんなことを言われても多くの方には、それがなんや?ということになるだろう。でもそれが神学論争の神学論争そのもの。その根拠となるのが、今日の聖書の箇所、マルコによる福音書8章の「キリスト告白」と呼ばれる部分です。でもこの箇所に「キリスト」ということばは出てきませんよね。
●それは翻訳の問題で、私たちがいつも使っている「新共同訳聖書」が、原文の新約聖書ギリシャ語本文にある「キリスト」という言葉を「メシヤ」と翻訳した結果です。ここからお話がどんどん長くなるので、簡単に言えば、イエス(という人物)がユダヤ教で救い主、解放者と期待されていたメシヤ(これはヘブル語の言葉でギリシャ語に翻訳するとキリストとなる)だと、弟子のペトロが告白したのです。
●ところがそれがユダヤ人の解放者、救い主ということだったので、何か圧倒的な政治力、軍事力で自分たちを幸せにしてくれるという期待がイエスにも寄せられでしまうところで、イエスは自分は十字架の死を通じて神様の愛を伝える存在だ、ということを語ったところペトロがイエスの言葉を信じなかった、つまり自分の理想や期待をイエスに求め、神様の愛の証としてのイエスを理解できなかったのです。
●祈りましょう、神様、私たちは自分たちの願いのためにあなたを求めてしまいます。あなたの御心を、あなたのご計画が実現するために私たちが招かれ、用いられるいことを常に覚え続けさせてください。キリストであるイエスのお名前によって祈ります、アーメン。
2024年9月8日(日)三位一体節主日
メッセージ 「エッファタ:開け」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書 7章24~37節
●今日のマルコによる福音書の記事は、よく注意して読まなければなりません。ひとりのギリシャ人の女性が娘の病気を癒してほしいとイエスに懇願します。ところがイエスはつれなく、それを拒否するような態度を見せます。しかしその女性が熱心に願いつづけるのでそれを聴き入れ、娘は癒されたのです。そのときにイエスはこの女性を「子犬」と例えますが、それは決して愛くるしい動物ではなく、ユダヤ人には嫌われる存在でした。
●後半はイエスのホームグランドであるガリラヤ湖で耳が不自由で会話も難しい人をこちらは無条件で、ただ「エッファタ」と語られて癒す物語です。イエスはギリシャ人を差別したのでしょうか。しかしこの耳の不自由な人には誰にもこのことを話すなと告げるのですが、人々は黙ってはいませんでした。
●ユダヤ人たちはこの人の障害を治すことを願い、それがすぐに聞き入れられ、イエスの奇跡を言い広めました。女性はイエスに受けいれられなくても熱心に願い続けます。どちらがイエスへの強い信仰を持っていただのでしょうか。熱心に祈っていたのでしょうか。神様への願いや祈り、それは結果が与えられるための手段でも道具でもなく、私たちの信仰が試される機会です。本当に信じて祈るとき、その結果が与えられること以上に私たちが本当に神様を信じているのかが、実は強く問われているのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたに祈るとき、あなたへの信仰を確かめる祈りを捧げさせてください。自分たちの問題の解決を願う自分たちのことしか思えない弱さをおゆるし下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年9月1日(日)三位一体節主日
メッセージ 「不浄な手」 田淵 結 牧師
●日本的な宗教信仰を端的に示すことばに「禊(みそぎ)」というものがあります。神道では「お祓い」をし、仏教でも「厄除け、厄払い」が大切担っています。汚れを払い、厄を落とし、とにかく不浄なもの、汚れたものを私たちの身体から拭い去る、それによって私たちは清められるのですね。伊勢神宮の参拝案内には「内宮への入口、五十鈴川にかかる宇治橋を紹介します。⽇常の世界から神聖な世界を結ぶ架け橋を渡り、五十鈴川で身も心も清めてからお参りしましょう。」と記されています。
●ユダヤ人たちのなかにも浄・不浄の思いは強く、汚れに触れることを極端に避けていました。旧約の律法に従うものですが、一番有名なものは豚肉でしょうか。そして身体に障害を持つ人は汚れた存在とされてしまったのです。ところが一つの矛盾がそこにあります。「不浄な手」ですが、それがいかに汚れていると言っても、自分の大切な身体の一部分です。それを取り去ることなどできませんし、それによって私たちは毎日の生活を送っているのです。
●イエスが、浄・不浄の思いにこだわるユダヤ人たちを、そして穢を払えると思いっている私たち自身を、偽善者と呼ぶのは、自分から取り去ることのできないその部分に目をつぶって、自分たちは清い存在だと思いこんでいるところです。イエスの生涯は、まさに罪人、汚れた霊につかれた人たちと向き合い、その人たちとともに生きる毎日出会ったことを思うと、穢を取り除くこと以上に、拭い去れない汚れ(キリスト教的に言うとそれが私たちの「原罪」)を負いつつ生きざるを得ない私たちを神様が愛されていることを示し続けられたのです。
●祈りましょう、神様、私たちの本当の姿を見失うことなく、その私たちをあなたがつねに愛し、まもり、活かし続けてくださることを感謝する毎日を過ごさせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年8月25日(日)三位一体節主日
メッセージ 「父が与えてくださった者」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 6章56~69節
●話がかみ合わない、そんな経験をときどきさせられます。あるいは相手の方にもそう思わせてしまっているのかもしれません。イエスはここでパンの話をします。聞いている人たちは、毎日の食事のことを考えていました。ところが「人はパンだけで生きるものではない」と語られたイエスは、ここでは霊的なパン、人間が生きるにとても重要な霊的な食べ物について話していたのですから、話がかみ合わなかったのです。
●そんなときに私たちはどんな態度をとるでしょうか。かみ合わない話をなんとかかみ合わせようとするか、相手は何を言っているのか理解しようとする、というのが一つです。もう一つは、もういい、お前の言っていることはおかしい、と言って会話を打ち切るか、今日の聖書のように去っていくかです。そして残念ながら後者の場合がとても多いようです。ということは私たちはいつも、自分中心でモノを受け止め、判断しているのでしょう。
●イエス。キリストの「父が与えてくださ」る事、それは私たちにとって決して私たちにとって都合のいいものではありません。あるいは自分にとって都合のいいものだけを受け止めようとする姿勢、それは結局自分のことしか考えることをしなくなっています。本当に相手の言葉にアーメン(これはヘブライ語で『そのとおりです」)と言えるのは、そんなに簡単なことではないし、そこで実は自分が試されるのです。私は神様を中心に生きているのか、あくまでも自分中心にいるのか、です。イエスを信じる、それはまさに私自身への深く鋭い問いかけを続けていくということなのです。
●祈りましょう、神様、私たちをあなたに従い続けるものとしてください。あなたが教えてくださった祈り「御心がなりますように (Your will be done)」と真剣に祈らせてください、そして私たちの祈りに応えてくださいますように、主の御名によって、アーメン。
2024年8月18日(日)三位一体節主日 メッセージ 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 6章51〜68節
●セザール・フランクという作曲家によるミサ曲のなかに、「パニス・アンジェリクス」という小さな楽曲があります。詳しくはネットで調べていただければと思いますが、私もとても好きな作品です。よく「天使のパン」と訳されるのですが、ラテン語の正確な意味としては「天使に属するパン」「天使のものであるパン」だそうです。旧約聖書詩編の78編25節には「人は天使のパンを食べた」(口語訳聖書、新共同訳では「人は力ある方のパン」)という言葉があり、フランクがこれをミサ曲として作曲しているところにとても意味があります。
●ミサということばは、一般にはキリスト教の礼拝を表すように用いられていますが、厳密にはカトリック教会における聖体拝領の儀式を指します。ですからミサ曲とはその儀式のためのもので、その全体を通じてその儀式、さらにそこで拝領されるパンとブドウ酒の意味を伝えます。そこでのパンこそカトリック教会では「聖体」であって、普通のパンがその儀式のなかで聖変化、十字架につけられたイエスの身体そのものつまり聖体になり、ワインが十字架で流されたイエスの血と変わるのです。私たちプロテスタント教会ではそれは聖餐式であって、パンはあくまでも普通のパンだけれど、それがイエスの身体を象徴(シンボル)していると理解します。
●いずれにしても重要なのは、形式的にパンとブドウ酒を「拝領」することが重要ではなく、それが神様からのパン、それによって私達が「永遠に生きる」希望を与えるもの、だからこそ神様とのつながりを常に持ち続けること、聞き、賛美し、願い、感謝をし続けながら毎日を生きる人、つまり日々祈り続けて生きることがあって意味を持つものでしょう。天使のパンを食べることが重要ではなく、それによって私達の祈りの確かさを感じることに意味があるのです。
●祈りましょう、神様、私たちにあなたのパンを与えてください。それが私たちの毎日の祈りのなかで用意されていることを覚え続けることができますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年8月11日(日)三位一体節主日 メッセージ
「それを食べるもの」 田淵 結 牧師
●イエスとはいったい誰か、新約聖書の4つの福音書はそれぞれの著者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の独自の仕方でこのテーマに応えようとしてます。ヨハネによる福音書は、いくつかのキーワードでそのことを説明しようとします。光、ブドウの木、水、パン、これらの単語は当時の人たちにとって、いや今も私たちにとっても、とても身近なもので、しかも内容の深い、私たちにじっくりとその意味を考えさせるものとなっています。
●パン、それがなければ人間は生きられない、と同時にパンが私たちにとって当たり前のもの、とくにありがたさを感じないものとなっているとき、そのパンの「意味」などを改めて考えることなどなくなっています。それを口にすることのできるありがたさ、それがなければ生きられないという切実感、と同時にそれを口にすることができる者の使命や責任というもの、そんな面倒くさいことなど感じることなく、私たちはそれらを当たり前のように口にしています。
●イエスが命のパンである、というときにそのイエスによって私たちは神様のもとに導かれ、ただ生きるということ以上に、生かされている、しかも神様の愛に包まれていることを示されるのです。「いつまでも生きる」「死ぬことはない」、でもその命は、私たちが自分が満足し、自分自身のために生き続けるのではないのです。神様の愛に包まれているからこそ、その愛をより多くの人と分かち合い、神様とともに生き、働きくためのものです。つまり私たちが生きつづけるためではなく、神様の思いを生かし続けることのために、イエスは私たちのためのパンとして来られ、ご自身を私たちのために捧げてくださったのです。
●祈りましょう、神様、今日もイエスが教えてくださった祈りを祈ります。私たちのに日ごとの糧をお与えくさい。Give us this day our daily bread. それは私のためではなく、私たちのため、そしてあなたの御用を行うためのものであることを教え続けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年8月4日(日)三位一体節主日
メッセージ 「天からのパン」田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書6章24~35節
●イエスが伝道活動を始める前にサタンの誘惑を受けられたときに、空腹のイエスにサタンが石をパンに変えよというと「人はパンだけで生きるものではない」とイエスが答えたのはとてもよく知られています。そしてこのヨハネによる福音書の記事でも、イエスは肉体的な空腹を満たす以上のパンについて語ります。
●そこで旧約出出エジプト記のマナとよばれる天からのパンが紹介されます(出エジプト記16章)。確かにこのマナは、砂漠を歩んでいたイスラエル人の空腹を満たしたのですが、それはその日の分だけしか与えられなかったのです。翌日にそれが与えられるかどうか、それを与えてくださる神を信じることなくして明日の希望は生まれなかったのです。
●イエスの言葉、働き、愛の業を信じることこそが、私たちの明日への確かな希望を約束される、ということを語ります。大切なのはその日にパンが与えられるということ以上に、明日もまたその次の日も神様がそれを備えてくださること、そしてイエスを信じるなかで、私たちに必要なものがすべて整えられていくことを確信することなのです。
●祈りましょう、神様、どうぞ日ごとの糧をお与えください。あなたがイエスを通じて私たちにそれを約束してくださっているからこそ、私たちは今日からの日々を安心して過ごすことができることを感謝します。御名によって祈ります、アーメン。
2024年7月28日(日)
三位一体主日 メッセージ 「舟は目指す地に着いた」 田淵 結 牧師」
聖書 ヨハネによる福音書6章1~21節
●ヨハネ福音書ではガリラヤ湖のことをティベリアス湖と呼んでいますが、四つの福音書すべてにその湖面が荒れて、イエスと弟子たちの乗った小舟が難破しそうになる、という記事があります。この記事への解釈で、その難破しそうになった小舟が教会の姿だとされることがあります。教会こそ、社会の荒波の中でほんろうされ、もう沈みそうになる経験を繰り返してきています。
●私たちの芦屋キリスト教会の99周年の創立記念の礼拝でこの記事を読み直すと、まさに私たちの教会の歩みそのものを表しているように思えます。教会の歴史を読むと、教会創立当時の芦屋教会の活動は目を見張るものがあります。多くの会員が集い、様々な集会や特別礼拝も行われ、またいくつかのブランチ(枝)の集会から今は独立されている教会も生み出していました。パン五つと魚二匹で5000人が養われるような教会活動が展開されていました。
●太平洋戦争期を超えて戦後のキリスト教ブームのなかでも芦屋打出教会の活動も活発でしたが、やがて1970年代ごろから教会内で問題が生じ、事実上教会分裂も起こり、その後単立教会としての芦屋キリスト教会の「教勢」は振るわず、残されたわずかな方々が集い、その間の教会活動を支え抜いて下さり、現在を迎えます。この小さな舟はどこを目指しているのでしょうか。
●それは実は私たちにはよくわかりません。それよりもとにかくこの教会が難破しないように必死になっているだけのようにも思います。その時私たちはイエスを迎えること、イエスが私たちと共におられることを見失っているかもしれません。だからこそ、今私たちがなすべきことは、自分たちで教会をなんとかすることより前に、そこにイエスがともにいてくださることをしっかりと見つめ、確かめ、その愛を感じることが求められます。そう思うと、今本当に小さな群れとなってしまった私たちの教会が、やがて100周年を迎えようとすることができること、そこにイエスの私たちへの働きを深く思い起こすのです。
●祈りましょう、イエス・キリストの父なる神様、私たちの今を感謝します。そしてこれからをあなたに委ねます。どうぞ私たちと共に歩み続けてくださいますように。あなたの御名によって祈ります、アーメン。
2024年7月21日(日)
三位一体主日 メッセージ 「イエスの働き」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書6章30~34,53~56節
●最近もいろんな選挙があって話題となっていますが、それが最大得票者が当選となります。ただしある評論家の指摘によると、現在の私たちの選挙制度が決して民主主義的ではないということも考えなければならない、ということのようです。なぜその方が最大得票数を獲得できたかという理由が、ある種の人気、ブーム、社会現象によって。あるいは人間関係やその他の「忖度」であって、その方の主張が十分に理解され、対立候補との比較や吟味の結果ではない、ということだそうです。
●イエスのガリラヤの活動は、とてもたくさんの人たちの注目の的になったようです。ですから弟子たちもゆっくり休む暇がないほどだった、と言われるのです。そしてガリラヤ湖の反対側にわたっても、またそこで人々が押し寄せてきた、というところもすごいものだったと予想されます。その人々を見てイエスは「飼う主のいない羊」と呼ばれたのも、何かイエスの評判に左右される人たちの姿を現しているのでしょう。ただしその人たちがどれだけイエスとはだれか、そのことを理解していたとも思えないのですが。
●イエスがその人々をみて「深く憐れ」まれたのは、まさにその人たちが、その社会の動きのなかで振り回されてしまっている状況、本当に自分が何を求め、何を信じるべきかなどについて深く思いめぐらすこともなく「(付和)雷同」させられている様子をご覧になったからでしょう。でもイエスはその人々を受け入れ、しかし彼らのために祈られたことでしょう。その人たちもまた神様の愛の中にあること、だからこそその人たちが神様の導きをしっかりと見つめながら、自分たちの行動を律してゆくひとりとなるべきことを祈られたはずです。
●祈りましょう、主イエス・キリストの父なる神様、私たちがイエス様を求めようとするとき、私たちがイエス様に従おうとするとき、何よりも私自身が神様にイエス様を通じて愛され、かけがえのない一人としてみとめられていることを見させてtください。主の御名によって祈ります、アーメン
2024年7月14日(日)
三位一体主日 メッセージ 「欲しいものがあれば何でも言いなさい」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書6章14ー29節
●イエスの教えのなかに一切誓うな、というものがあります(マタイ福音書5章34節)。でも私たちは、自分にできもしないことを、できると思い込んで誓ってしまうのです。聖書のなかにもそんな物語がたくさんあります。旧約聖書士師記11章でイスラエルのリーダー(士師)エフタは敵に勝利をして帰ったら、家から最初に出てきたものを神にささげる誓いを立て、凱旋します。さて最初にできてたのは何だったでしょうか。
●今日のマルコ福音書の物語もヘロデ(大王の息子)が、義理の娘サロメの舞のすばらしさに、なんでも褒美を与えると誓い、彼女はバプテスマのヨハネの首を求めます。それはヘロデにはまったく思いもよらないものでしたし、その背後にあった陰謀にはめられてしまい、彼はそのことによって暴虐な王として歴史に名前を残しました。
●私たちが誓おうとするとき、その結果を自分の予想できる範囲のなかに収めようとします。自分で解決可能だという判断があるのでしょう。でも本当にそうでしょうか。私たちはそれほど自分自身を、自分の未来を、自分の可能性を理解しているのでしょうか。私たちが誓いを立てるということは、その結果を神様がともに受け止めてくださるという確信がないかぎり、立てることのできなもののはずなのです。
●祈りましょう、神様、あなたへの信頼の中に私たちのこれからの歩みを続けることができますように。常に弱い私たちを支え続けてくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年7月7日(日)
三位一体節 主日 メッセージ
「杖一本のほか何も持たず」田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書6章1~13節
●マルコによる福音書でイエスの伝道活動について読んでいますが、それはいつも順調というわけではなく、イエスのメッセージがすぐに人々に理解されるということばかりではなかったようです。そしてキリスト教の伝道活動というものは、実はそれが普通だったのかもしれません。
●そのような社会に対するイエスの態度は、その状況にある意味冷静に対応することを指示しています。変な言い方ですが人々の冷たい態度に憤激するのでもなく、そのままそこを去ればいいということですね。毅然とした態度です。伝道の姿勢の基本、それは人々に媚びることでもなく、威圧的になることでもなく、自分の活動の結果をそのまま受け入れるということです。
●そのような伝道の姿勢のなかに、とても重要な信仰理解があるはずです。つまりそれは神様の御心を行う、つまり自分の思いや計画ではないということです。それがうまくいくことが決して自分自身の満足や達成感ではなく、神様の働きが実現することに感謝すべきなのです。謙虚さと従順、それが伝道という活動の核なのです。私たちの教会に今もそれが求められています。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたの御心に従う群れであれますように。御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ、アーメン。
2024年6月30日(日)
三位一体節 主日 メッセージ
「タリタ、クム」 田淵 結 牧師
マルコによる福音書5章21~43節
●イエスの奇跡物語の代表的なものは病人を癒すというもので、今日のマルコ福音書では二つの癒し物語がからみあっています。長年婦人病で悩んでいる女性と、ヤイロという軍人の娘が死にそうになっていた、その二人をイエスが癒したのです。
●イエスはヤイロの娘が危篤状態にあることを聞いて彼の家に急いでいる途中、一人の女性が彼に触れたことに気づかれて、一刻を争うなか、群衆のなかにいるその女性を探し始めます。ヤイロにすれば気が気ではなかったかもしれません。その女性が癒されてから、イエスはヤイロの家に向かいましたが、その娘はもう息を引き取っていたのです。あの女性さえ邪魔をしなければ、とヤイロは思ったことでしょう。
●結果的にはその娘も癒されるのですが、イエスにとってそれは順番をつけるということではなかったようです。どちらの一人も、今その時にイエスからの癒しを求めていましたし、イエスはそのときにそれぞれの求めに応えたのです。誰が先かではなく、そのときにこそその人の求めに応える、それが彼の愛の働きのカタチだったのでしょう。
●祈りましょう、神様、私たちが求めるその時、あなたはそれにこたえてくださっています。常にその時の重さを私たちが感謝できますように。御名によって祈ります、アーメン。
2024年6月23日(日)
三位一体節 主日礼拝メッセージ
「イエスは眠っておられた」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書4章35~41節
●イエスのホームグラウンドはイスラエルという国の北ガリラヤでした。その中央にはガリラヤ湖があり、弟子たちもまたもともとその湖での漁師でした。その湖はまた大切な交通路ともなっており、イエスも伝道活動の途中、その湖をなんども船で横切っていきました。
●その途上、湖が突然荒れだし舟が沈みそうになり、弟子たちはパニックになりますが、イエスは眠っておられました。ところで福音書のなかでイエスが眠っておられたという記事をみなさんいくつご存じですか。私が思いつくのはこの記事以外には二つの記事しか思い出せません。飼い葉おけのなかと墓のなか、だけです。その三つの記事は実は同じことを私たちに訴えています。
●眠るイエスを取り巻く世界の荒々しさ、そして眠るイエスご自身の無防備さです。イエスはその荒々しい世界に全く無力のように思えるのです。しかしそれがもっとも力強く確かなイエスの姿なのでしょう。つまりすべてを父なる神の守りに委ねきっておられるのです。そこにイエスの働きの原点があったのです。
●祈りましょう、神様、私たちをお守りください。私たちが無力で何もできないときにこそ、そこにあなたの愛と守りに気付かせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします、アーメン。
2024年6月16日(日)
メッセージ 「からしだね」
聖書 マルコによる福音書 4章26~34節
田淵 結 牧師
●前回の礼拝、6月9日の日曜日の礼拝では二つ目の讃美歌として236番「ちのえにまことの」を歌いました。この曲の作詞・作曲者はウィリアム・メレル・ヴォーリズ、何度もご紹介したミッショナリー・アーキテクト(宣教建築家)と呼ばれるアメリカ人です。最初英語教師としてアメリカより近江八幡に着任、しかし当地の商業高校を解任され、近江兄弟社を組織、その後全国的に目覚ましい活躍をしました。重要文化財の神戸女学院や関西学院も彼の作品です。
●日本における彼の活動を支えたのが、今日のマルコによる福音書のことば「からしだね」でした。最初はほんの小さな種がやがて鳥が来て宿るほどに成長する。彼はその言葉を確信して活動し、その実現を見たのです。でも彼が見ていたのは、成長した種の結果だったのでしょうか。
●ヘブライ人への手紙11章で、パウロは「信仰とは…見えない事実を確信する」と記します。つまりそこにある一粒の種そのものにその種に宿っている未来を事実として認めるということです。可能性の結果を待つのではなく、そこにある可能性を見ているからこそ、ヴォーリズをはじめとする信仰者たちは、その生涯のミッション(宣教)を果たすことができたのです。彫刻家が原石のなかに完成された作品を見ている、まさにそれこそが信仰的な姿勢なのです。
●祈りましょう、神様、私たちに託されていることがらを事実、出来事としてとらえ続けることができますように。それを保ち続ける信仰を強めてください。御名によって祈ります、アーメン。
2024年6月9日(日)
メッセージ 「神の御心を行うひと」
聖書 マルコによる福音書 3章20~35節
田淵 結 牧師
●私たちは過去の出来事の結果を知っているところでその出来事を考えるので、その時代の人たちの感じ方を誤解してしまいます。例えばその時代の人々にイエスとは誰か、というようなことです。神の子だ、キリスト(救い主)だ、というのはイエスよりかなり後の人たちが初めて受け入れたことなのです。
●そこで、イエスは反対者たちからは悪魔の手先だとか、家族からは自分の家族の一人だ、とかそんなレベルで理解されてしまっていたところもありました。そんな中でイエスの本当の意味を理解した人たちがやはりいたのです。イエスとの出会いのなかで、神様からの愛が自分に向けられていることを実感し、それを自らも実行していった人たちです。
●ヨハネの手紙の言葉で要約されているように、私たちが愛し合うのは神様が私たちを愛してくださったから(ヨハネ一4:11)。そのことを教えと行いによって示されたのがイエスだったからです。神の御心を行う人、それは神の愛のなかに生きる人、イエスのなかにその可能性を見出した人たちなのです。
●祈りましょう、神様、あなたの愛を私たちに満たしてください。その愛が私たちからあふれることによって、あなたの愛が私たちの隣人にそれが広がっていきますように。主の御名によって祈ります、アーメン
2024年6月2日(日)
主日メッセージ 「安息日に善を行う」
聖書 マルコによる福音書 2章23節烏~3章6節
●先週の日曜日礼拝でお話したように、教会のカレンダーでは一年の後半、教会の半年を迎えました。これから毎回教会の働き、私たちの教会生活、私たちの課題・使命(ミッション)などを考えながら過ごしましょう。その最初が今日の聖書の言葉の中にある「安息日」ということです。
●神様が天地を造られたとき、六日間ですべてのものを造り、七日目は休まれたということから、ユダヤ教では一週間の七日目を休むべき日と定められました。より厳密に言うと「休まねばならない日」でした。それ以外のことはすることができませんでした。このようなおきては結果を主張しますが、なぜという理由を語りません。とにかくそうするしかないのです。
●イエスはそのおきてを前に、なぜ私たちは「休むべき」なのか、理由を問います。それは人を人としてあらしめる、人間として本来の生き方を確認するためでした。それは礼拝の日であり、私たちを造られた神様とともにあることを確かめ合うべき日、そのとき神様の前に愛し合う仲間とともに生かされていることを思う日なのです。その中に自然い「善を行うこと」も当然になされるべきことなのです。
●祈りましょう、神様、私たちの一週間の歩みを整えてください。あなたを礼拝する日こそ、あなたと私たちがともに過ごす一日であることを思わせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
◆2024年5月
2024年5月26日(日)
三位一体主日メッセージ 「風は思いのままに吹く」
聖 書 ヨハネによる福音書 3章1~17節
●今日は芦屋キリスト教会では聖霊降臨日(ペンテコステ)の礼拝をいたしますが、教会のカレンダーでは三位一体の主日ともなっています。三位一体ということは神学論争でも様々に議論され、それがもとで今の西ヨーロッパの教会と東ヨーロッパの教会の意見の分裂が生まれたというほどに複雑なものです。使徒信条ではイエス・キリストは「天にのぼり、全能の父なる神の右に座し」と、神様とキリストとの働きが一つであることを告白していますし、聖書の物語としてはイエスが天に昇られた後、地上の弟子たちに聖霊が注がれた、つまり神とキリストの霊が私たちに働くかけたペンテコステの出来事を通じて、神とキリストそして聖霊の働きがひとつであることが語られています。
●と言ってもやはり「ややこしい」議論かもしれません。でも私たちがイエスの働きと言葉によって神様の愛を実感し、その愛を私たちの間で示そうとすることこそ、私たちの間に働く聖霊の力だと考えることもできるでしょう。
●三位一体というのは、(西方)キリスト教の基本的な考え方ですが、それを私たちの議論で説明しようとすればするほど、ニコデモとイエス様との対話のようになってしまいかねませんし、ニコデモにイエスがある種の失望を覚えられたようなことが起こってしまいます。
●風は思いのままに吹く、風、それはギリシャ語では聖霊と同じ言葉です。それを私たちが感じるとき、そこに神様の息吹を受け止め、イエス様の愛を思い起こし、私たちのなすべきことに気づく、そのような感覚の鋭さを持つこと、そこに三位一体という言葉が私たちにとって現実のものとなるのです。
●祈りましょう、神様、私たちにあなたの息吹を吹きかけてください。知識、議論のためにではなく、イエス様が私たちを愛し、私たちに隣人を愛することを教えてくださったように、私たちの生活が整えられていくことができるために、主の御名によって祈ります、アーメン。
5月19日(日)聖霊降臨日(ペンテコステ)主日
メッセージ 「真理の霊ーその方」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 15章26~27、16章4b~15節
●今日は教会にとってクリスマス、イースタオと並んで三つの大きな祝日のひとつ聖霊降臨日(ペンテコステ)です。でもあまりそのことは知られていません。使徒言行録の1章に、復活したイエスが40日後天に帰られ、地上に残された弟子たちの上に聖霊が炎のように降ったという出来事を記念する日で、その聖霊によって弟子たちは彼らが自らイエスの教えを世界中に伝道し始めたということで、キリスト教伝道の出発点、教会の誕生日とも呼ばれます。
●しかし「聖霊」ということはつかみどころのないようなものという感じがします。でも実は私たちにとって一番身近なものであるのです。イエスが私たちと今もともにおられるということを実感させるのが聖霊の働きですし、私たちがひとりではなく多くの仲間とともにイエスを信じる(教会のひとりである)ということを気付かされるのもまた同じです。
●キリスト教の信仰を持つこと、それは自分自身が大きく変化して新しい可能性や力を自分のなかに与えられるということではなく、その聖霊の働き、導きに素直に従って歩む一人となるということでしょう。イエスが「その方」と呼ばれた真理の霊を通じて、私たちは神様、そしてイエスの愛を実感するのです。ということは私たちがそのような愛を感じるとき、そこに聖霊がともにあるということなのです。
●祈りましょう、神様、あなたが送ってくださる真理の霊が常にともにあることを、私に送り続けられていることを常に感じさせてください。こうして私たちが祈ることができるそのことが、まさに聖霊の導きに私たちが従っていることに気づかせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン
5月12日(日)復活節第7主日メッセージ 「世から選び出された者として」
聖書 ヨハネによる福音書17章6-19節
●教会のカレンダーでは今日が復活節の最後の日曜日となります。もう一度イースターとは何なのかということを考えてみると、それは「選ばれた人」に起こった出来事だったということがあります。パウロの言葉にも復活のイエスと出会うことができたなかで一番小さな一人として自分を紹介しています(コリント一15章)。
●選ばれるということはその人に与えられた特権であると同時に、そこで責任が与えられるのです。それはこの世に属していない一人としての役割を果たすことです。それは決して楽に果たせるミッションではなく、かえって厳しい現実に直面させられているということもあります。でもそのとき、自分自身にとってもっとも重要なことを教えられるのです。
●もし私たちが神に選ばれた一人であるのなら、そのとき私たちが「神様のもの」であることを知るのです。私たちが直面する厳しい現実と向き合うときはじめて、わたしたちではなくイエス。キリストの守りと導き、支えを実感するのです。復活後イエスが地上での働きを離れて天に昇られるとき、私たち自身が改めてイエスから与えられたミッションを思い起こしたいのです。
●祈りましょう、神様、復活節の歩みを終わろうとするとき、これからの私たちの歩み方をどうぞ教えてください。あなたに守られ、愛された一人として、私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年5月5日 復活節第五主日メッセージ 「わたしの愛にとどまりなさい」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 15章9~17節
●先日あるパーティにお招きを頂きました。主催された方とはお友達ということでとても楽しいひとときでしたが、お集りの方々にはあまり面識がありませんでした。つまり教会やキリスト教関係の方がほとんどおられなかったのです。そこでもキリスト教の世界の小ささというものを少し感じさせられました。なかなか日本の社会にキリスト教が浸透していかない現実は今でもあるようです。
●その一つの理由に「隣人愛」という言葉があるように思えるのです。あなたの隣人を愛しなさい、という言い方なのですがどこかに自分は愛する側、あなたは愛される側という立場がい垣間見えるのです。つまり私たちが「いい人」なんだ、という上からの物言いを感じさせてしまうのです。
●ただしそれは私たちの勝手な思い込みです。私たちがイエスの愛にとどまる(つながる)というのは、イエスが僕の形をとり、十字架の死に至るまで従順であった、生涯を通じて隣人に、他者に、弱き人に仕え抜かれた生きざま、上からではなく相手に僕となって、へりくだって仕える姿勢、それこそイエスの愛にとどまる者の生きざま、姿勢、ほんとうの愛の姿なのです。
●祈りましょう。神様、もう一度私たちの愛の形を問い直させてください。仕える者として、僕として生きる生き方を、改めて教えてください。私たちの生のあり方を示されたイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
◆2024年4月
2024年4月28日 復活節第五主日
メッセージ 「わたしはまことのぶどうの木」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 15章1~8節
●ここ数週間の聖書日課はヨハネによる福音書のなかの有名なものが続きます。先週は「わたしはよき羊飼い」、今週は「まことのぶどうの木」です。私が神学部で学んでいたころ、必修ではなかったラテン語のクラスで唯一覚えたのがin vino veritas、酒(ワイン)のなかに真理あり、でした。ただし私はお酒は飲めませんが。
●このヨハネの記事で強調されることばが「つながる」で、それは「(わたしの愛に)とどまる」と実は同じ言葉です。よい木の枝として私たちはつながっていたいと思います。しかしいつしかよい木であってもその葉も実も枯れてしまいます。ワインというのはその年のその木の最高の実りの豊かさを留めておくものでもあるのです。
●ヨハネ福音書では有名なカナの結婚式でイエスが水をワインにかえるという奇跡物語があります。そして最後の晩餐ではワインこそイエスの十字架上の血として記念されます。それは決して単なる飲み物として以上に深い宗教性を持つ、イエスと私たちとのつながりの証としてキリスト教では扱われてきたことのようにも思えます。
●祈りましょう、神様、私たちが今豊かにいかされていることそのものがイエスとのつながりのあることを改めて気付かせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年4月21日 復活節第四主日
メッセージ 「わたしはよい羊飼い」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 10章11~18節
●最近あるインターネット上の教会を運営しておられる一人の方が、ご自身の呼び方を「牧仕」と記しておられました。「師」ではなく「仕」という表現は、ご自身が前に立って導く指導者ではなく人々に仕えて生きるという非常に謙遜な思いを表明されているのでしょう。では私たちの教会ではどうしましょうか。今までの牧師という呼び方を改めるべきでしょうか、その根拠や理由はなんでしょう。
●最近リーダーシップという言葉とならんでサポーターズシップという言葉が語られるようになりました。またガバナビリティ「統治能力」という言葉の意味が、みしろどのように人々が自ら支配されるべきかを考える視点から語られることもあります。でもいずれにしても、それはリーダーの存在を否定するものではなく、よきリーダーとしての働きが実現されるためのメンバーのあり方を語るものです。牧師は決して支配者ではなく、できるかぎりよきリーダーとして語り、教え、まとめるという働きを通じてメンバーに仕えているのです。そのもっとも大切な使命は、メンバーのために自らの命を捨てるということもあるでしょう。
●この有名なよき羊飼いの聖句をイースターの季節に受け止めること、それはイエス様ご自身がその養われる羊たちのために命を捨てられたこと、しかしその命は取り去られ奪い去られたものではなく、神様からイエスご自身のうちに留まるものとであったこと、つまりーダーとして神様の命のなかで私たちに仕え続けておられることを思い起こさせるのです。神様からの命(Life)がイエスへの命(Mission)であったことを、日本語の「命」ということばが示しているのはとても興味深く思わされます。
●祈りましょう、神様、あなたがイエス様を通じて私たちに示される生き方を覚えます。私たちに仕えるためにあなたから受けられた命の尊さに私たちが感謝し続けるものであらせてください。イエス。キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
4月14日(日) 復活節第三主日
メッセージ 「あなたがたは 証人となる」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書24章36b~48節
●福音書のイエスの復活物語はいくつかの場面に従って展開されます。日曜日の朝早く女性たちがイエスの墓を訪れる、そのニュースをほかの弟子たちに伝える、その後イエスが弟子たちに現れる、その間に例えばルカによる福音書ではエマオに向かう弟子たちの物語がはさまれます。今日の聖書の箇所は弟子たちのもとに復活したイエスが現れたというもので、ヨハネ福音書にも似たものがあります。
●復活後のイエスと出路たちの再会の物語に共通するひとつのjことは、最初弟子たちは復活のイエスを信じられなかった、それを疑ったということです。空っぽの墓を訪れた女性たちがイエスの復活を信じたのはとても対照的です。その弟子たちにイエスは、食事までしてご自身を示されます。その復活が肉体をもともなった、まことの人としてのモモであったことも示されたのです。
●その弟子たちにイエスが命じられたこと、それは彼らが復活のイエスの「証人となる」ことでした。イエスが旧約聖書の言葉を成就するメシアであること、それを神学的な言葉だけではなく彼らの復活のイエスとの出会いの出来事、最初それを全く信じられなかったという経験をも踏まえ、しかし彼らがそれを深く信じるに至ったこと、そのすべてを含めて復活の出来事について語ることを求められたのです。彼らが語るべきことは、自分たちの欠け、弱さそれらをすべて含めてイエスに用いられるということ、それはイエスの死に挫折を感じていた彼らが、改めてもう一度用いられるという、まさに彼らにとっての復活経験なのでした。
●祈りましょう、神さま、私たちがイエスの復活の力強さによってゆるされ、招かれ、用いられている一人であることを教えてください。その喜びのなかでこれからの毎日の歩みを続けることができますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年4月7日(日) 復活節第二主日
メッセージ 「見ずして信じる」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書20章19~31節
●先週の日曜日、イースターサンデーは今年二年目となりますがDon先生のリードとれいこさんのお働きにより、朝からイースターエッグハンティング、20人ぐらいのこどもたちが原っぱで駆け回りました。そのときに通りがかりだったのですが、二人の男の子と一緒に歩いておられたお母さんが弟さんがトイレをしたいということで門を入ってこられました。神戸から芦屋のおじいちゃん、おばあちゃんのところに行く途中だそうです。トイレを済ませて門までやってきた弟君ははらっぱのエッグハンティングをみながら、自分もやってみたそう。お兄ちゃんは遠慮気味、しかし一緒にやってみると楽しそうにひととき過ごしていかれました。
●その二人のご兄弟にとっては教会なんて、イースターなんて、エッグハンティングなんで初めてのこと、でも意味も分からないけれどみんなが楽しそうに走りまわっているのをみて、最初の不安がなくなっていく。それが実は最もシンプルな意味でのイースター体験だったでしょう。今まで自分が知らなかった場所、経験、それにしり込みしていたり、そんなことはアカンとおもっていると、そこから広がる新しい世界を知ることも、初めての友達に出会うことはないのです。まさに弟子トマスがそうでした。イエスはそのトマスに「見ないのに信じる人」、それはそこで新しい一歩を踏み出せる人ということでしょう。
●イエスの釘跡を見ないと信じない、というのはイエスの復活を自分の知っている経験や知識のなかでしか受け止めないということです。イエスの復活はそれを打ち破り、越えてゆく出来事でした。復活の日の朝、イエスの墓をふさいでいた大きな石が脇へ転がされていたように。イエスを包んでいた亜麻布がそこに置かれたままになっていたように、今までのものがそれを覆うことはもはやできないのです。復活のイエスとの出会い、その経験こそ私たちに復活というリアリティをもたらしてくれるのですし、あのお二人の兄弟はそのイエスに招かれて教会の門をくぐられたのでしょう。
●祈ります、神様、私たちをもう一度あなたの御子、復活の主イエス・キリストとの出会いを確かなものとさせてください。その招きをすなおに感じ、それに応えさせてくださいますように。復活の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
◆2024年3月
2024年3月31日(日) イースター主日
メッセージ 「亜麻布が置いてあった」 田淵 結 牧師
●イースターおめでとうございます。長かったレントや受難週のシーズンを過ごし、今年も春の訪れとともに主イエスの御復活をお祝いできることを深く感謝したいと思います。最近は日本でもイースターも「社会的認知」を得てきましたが、まだまだクリスマスほどの「盛り上がり」はありません。でもイースターの本当の喜びに触れることがなければクリスマスの喜びも本物ではないようです。
●イエスの誕生物語、つまりクリスマスストーリーとイエスの死と復活の物語とは強いつながりがあります。イエスの最期のとき、その十字架上に掲げられた札には「ユダヤ人の王」(マタイ27:37)と書かれていました。この言葉こそ東方からの学者たちが求めていた存在でした(マタイ2:2)。そして誕生後まもなく幼子イエスは布にくるまれて(ルカ2:7)飼い葉おけに寝かされましたが、十字架上の死の後、イエスの体は布にくるまれ(ヨハネ19:40)墓に納められました。イエスの生涯はそこで閉じられたように思われたのです。
●しかしイエスは地上の生涯に閉ざされてはいませんでした。十字架上の死の三日後、その墓を訪れた女性たちが目にしたものは、彼の身体を覆っていた亜麻布だけでした。イエスの歩みは私たちの思いを越えて続けられたのです。そしてそこからのイエスの地上の歩みの本当の意味を私たちに明らかにするのです。イエスが行われた教え、奇跡、愛の行動は人間としての枠を超えた、真に神の子としての働きでした。だからこそ私たちは今日から、改めて聖書を、福音書をイエスの復活の輝きのなかで読み返しましょう。それは愛に満ちた真の人であり真の神の働きだったのです。
●祈りましょう、神様、今年も私たちはイエスの復活をお祝いしようとしています。しかしそれは一年に一度のお祭りではなく、聖書のすべの言葉の背後にある大きな土台であることを見出すことができますように。復活の主、イエス。キリストによってお祈りいたします。アーメン
2024年3月24日(日)
受難節第五主日メッセージ(棕櫚の主日) 「受難週のメッセージ」 牧師 田淵 結
聖 書 マルコよる福音書15章1~39節
●今日からの週はHoly Week、イエスがいよいよ十字架につけられ処刑される毎日を覚えます。音楽の父バッハの最も代表的な作品である「マタイ受難曲」はその当時までにこの一週間に行われていた礼拝の形をそのまま作品の枠組みとしています。それは福音書に描かれるイエスの受難物語を、そこに登場する人物の役割を決めて読み進めていくという形です。最も古い形の受難曲は聖書の物語だけをテキストにしていましたが、バッハの時代にはその間にその場面にふさわしい宗教的詩による独唱や合唱曲、それにそこにともにいる会衆たちの思いを代表する讃美歌(コラール)が加えられ、全体で3時間に及ぶ作品となっています。
●受難週のメッセージを聞くこと、それはまさにこの福音書の物語をご自身でお読みになることです。その言葉が何を意味するかという解釈をするのでははなく、もしあなたがその人物だったら、どんな思いや気持ちでその言葉を口にしているのか、その人になりきってみることです。あなたが総督ピラトによる裁判のときに、イエスを「十字架につけよ」と叫んだ群衆のひとりだとしたら、なぜあなたはそう叫んだのでしょうか。また十字架につけられたイエスに向かって、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」となぜ人々は、そしてあなたは叫んだのでしょう。
●もしあなたがそれまでのイエスと何らかの関わりがあり、その教えにふれ、病気を癒され、様々な悩みから解放される経験があったのなら、あなたは群衆と一緒にこんなことばを叫ばなかったでしょう。しかし大勢の群衆はそんなイエスの本当の姿などまったく知らず、その場の勢いに自分もまきこまれることしかしなかったのです。イエスの愛は、ひとりひとりとのかかわりの中で示されたもので、何か多くの大衆全体を一度に動かす熱狂的なものではなかったのです。彼が神に「お見捨てになったのですか」と問いかけるなかで、そこまでの苦しみをご自分に負わるかたちで神に従いその死を迎えられたからこそ、そこに居合わせた全く神への信仰をももたなかったひとりの口から「本当にこの人は神の子だった」と言わしめたのです。あなたもその言葉を語ることができますか。
●祈りましょう、神様、今秋私たちは福音書の物語によってイエスの歩みに伴います。どうぞその場面場面での私たちの思いをより深いものとしてください。私たちが十字架のあなたを見上げる一人とならせてください。御名によって祈ります、アーメン。
2024年3月17日(日)受難節第五主日
メッセージ 「栄光のとき」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書12章20~33節
「栄光のとき」
●「栄光」という言葉は、日本語ではもはやその実感がなくなってしまったようにも思えます。2004年のアテネオリンピックのイメージソングは「栄光の架け橋」でしたが、その言葉の意味はどう説明されるのでしょうか。金メダルを獲得することが「栄光」なのでしょうか。
●それは本来宗教的な言葉で、神様の輝き、荘厳さそのものを示す意味ですから、金メダル獲得者程度のものではないはずです。クリスマスの夜羊飼いが突然この栄光に接して「非常に恐れた」のです。そしてイエスご自身も十字架の死を前にして、今神様の栄光がご自身に現わされることを祈りました。それに「すでに現した」と答えが聞こえます。イエス様の生涯においてそれが示されてきたのです。貧しい人々、差別された人々、病気の人、悲しむ人、そのような人々との出会いのなかで現わされたのでした。
●そして「再び現わそう」と語られるとき、それは地にまかれた一粒の麦が死ぬことによってより多くの実を結ぶこと、十字架の死とそれによってもたらせる復活への希望なのでしょう。イエス様の生涯の一つ一つの業が、多くの人々、私たちにまったく見過ごしてきた栄光のひとつひとつであり、そのすべてのものが結実するときとして十字架の死と復活があること、そのときまさに私たちにとってもっとも大きな希望と喜びがあたえられるのです。
●祈りましょう。神様あなたの栄光を私たちに示して下さい。すでに現されているものを見過ごしてきた私たちの目を開いて、十字架と復活の深いメッセージを受けとめることができますように。御名によって祈ります、アーメン。
2024年3月10日(日)受難節第四主日
メッセージ 「ヨハネ3:16 (John3:16)」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書3章14~21節
●イエスに(旧約)聖書の戒めのなかでもっとも大切なものは何か、と問いかける物語があります(マルコ12:38)。では新約聖書ではどうでしょう。その有力な候補は今日のヨハネによる福音書の記事、特に3章16節ではないかとよく言われます。かつてオリンピックなどのスタンドで「John 3:16」というプラカードを掲げて座っている人がテレビ画面に映りこんでいました。クリスチャンとしてのアピールだったのでしょうか。
●そこでイエスが私たちに神様から遣わされたのは、それが私たちを神様からの愛そのものであったということですが、その愛はここでは私たちに具体的な生き方を求めます。光のなかを歩むことです。創世記で一番最初に創造されたものが光でしたが、その明るさによって私たちは世界の、そして自分自身のありのままの姿がしっかりと見えてきます。暗闇のなかにまぎれてしまわない自分の姿、そこには強さや美しさもあり、弱さや醜さもはっきりと見えてくるのです。私たちは見たくないものを暗闇のなかであいまいにして、ある意味自分をごまかしてきているのかもしれません。
●イエスが十字架を負って歩まれるその歩み、それが私たちのためだった、ということもまた私たちが自分たちのありのままの姿をしっかりと見つめることによってはじめて受け止められるのでしょう。知られたくないこと、隠しておきたいこと、なんとか過ぎ去らせてしまいたいこと、それらを見つめるしんどさ、私たちが自分で負うべき重荷があることを自分たちが正直に認めることによってはじめて、イエスが私たちの負うべきその重荷、十字架を代わって負っていて下さることが理解できるのです。
●神様、この受難節の時期にこそ、私たちが自分自身の本当の姿をしっかりと見つめる者となれますように。イエスの十字架の苦しみが、その私たちのためであることを深く覚えさせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
●2024年3月3日(日)受難節第四主日
メッセージ 「神殿を建てる」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書2章13~22節
●今からもう50年以上も前のお話ですが、私が大学生として学んでいたころ、ある意味社会は騒然としていました。私の世代の方には懐かしい、学生紛争、大学紛争が日本各地で吹き荒れ、私の学年では東京大学の入試が中止になりました。あの安田講堂事件のときですね。その影響は日本のキリスト教界にも波及し、ちょうど1970年の大阪万博(千里)にあたってキリスト教館の出展反対運動も盛んでした。その動きは聖書の読み方にも影響を与え、特にイエスとは誰だったかという主張のなかで「革命家イエス」像も主張されました。今日の聖書の箇所で、イエスがエルサレム神殿を商売の巣窟にしてしまっている業者たちを追放した、まさに宮潔めは過激な行動で、弟子たちもそれが理解できなかったということです。
●今でもイスラム教勢力などで原理主義、急進派などと言われる動きが警戒されています。そんな実力行使や破壊活動を簡単に容認などできませんが、このイエスの行動のなかにイエス自身が当時の社会の動きへの感覚を失っていった人たちへの憤りがあったようにも思えます。エルサレム神殿はイエスの時代から35年後にローマ帝国によって徹底的に破壊されます。イエスの時代までに46年もかけて建てられた神殿はその後35年で破壊されてしまったのです。イエスの預言者的な時代理解のなかで、いかに豪壮に見える建物であっても不確実なものでしかないのに、そんなもの頼って生きる人々への強烈な警鐘としての宮潔めの行動だったのでしょう。
●私たちが求めるべき信仰、神様との出会い、それは大規模な工事などによって建てられてもやがて破壊されてしまうようなものではなく、キリスト教の中心的な信仰であるイエスの復活を信じる信仰から与えられるべきこと、目に見えるものが失われていくにしても、私たちとイエス・キリストを通じて与えられる神様との交わりは途絶えることのないことを、イエスは徹底して語ります。どうしても目に見えるもの、それがすばらしいものであればあるほどそれを求めようとする私たちにとって、イエスの十字架は躓きのように思えます。でもそこに神様の私たちへのかかわり、愛が示されていることを見出すときにはじめて、私たちへのほんとうの平安、希望が生まれるのです。
●祈りましょう、神様、受難節の毎日、私たちにとってもっとも確かな土台、足場としてのイエスの歩み、十字架を見つめ続けることができますように。その毎日の大切さを思わせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
◆2024年2月
●2024年2月25日(日)受難節第二主日
メッセージ 「自分の十字架を負う」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書8章31~38節
●受難節のメッセージというと、変な言い方ですが「教科書的」「模範的」「出来上がった」内容になりがちです。自分の十字架を負ってイエスに従う。自分の命を救うのではなく、自分を捨てること、どこか自己犠牲的、献身的な信仰のあり方が強調されがちです。でもそのような聖書の読み方は、どこか一面的なところが生まれがちではないでしょうか。最も根本的な問いは、そんな信仰生活が私たちに本当にできるのか、というところなのです。
●中世のカトリックのひとりであったトマス・アケンピスという人が「キリストに倣いて」という書物を遺しました。ラテン語ではImitatio Christiなのですが、そう私たちがキリストのイミテーション(日本語での感覚では模造品、まがい物のような感じのことばですが)となることへの勧めのように聞こえます、逆に言うと私たちはイミテーションになることが精いっぱいなのかもしれません。でもそれが現実です。私たちが努力をすればキリストのように生きられるというのはどこかに思い上がりがあるのです。
●イエスがここで「自分の」十字架を負うということは、イエスと全く同じ歩みをすることではなく、自分なりにイエスに従いつづけるなかで自分の限界、弱さ、頼りなさ、まさに罪に気づくためでしょう。そのときその弱い私たちのためにイエスが、私たちに代わって本物の十字架を負ってくださること、私たちの弱さをゆるし、その私たちに希望と勇気を与え続けて腐ることを知ることなのでしょう。まさにペトロは、自分だけの思いのなかでだけイエスの歩みを受け止めようとしたのでしょう。
●祈りましょう、神様、受難節の歩みのなかで、どうぞ私たち自身が自らの本当の姿を見つけ、そのなかでイエスとともに生きること、イエスが私たちのために十字架を負い続けてうださることの大きな意味を受けとめることができますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
・2024年2月18日(日)受難節第一主日
メッセージ 田淵 結 牧師
●先週の日曜日にもお話しましたが2月14日は、バレンタインデー以上に教会のカレンダーとしては灰の水曜日として大切な日でした。まあ聖バレンタインもカトリックの僧侶でしたが。灰の水曜日、それはイエスが十字架の死にかかって死なれ、3日目に復活されたということを記念するシーズン(受難節)最初の日、四十日にわたって教会としてはクリスマスのように喜びとかお祝いではなく、静まってイエスの死の意味を考え、今日の聖書、ペテロのことばのように、「不義なる人々の…罪のゆえに死なれた」ことを考える時なのです。
◆キリスト教が日本社会でいつまでたっても人気がない、広まらないのはこんな時期を大切にするからです。そんなことよりももっと楽しいこと、みんなに受けることを考えないと、というところもありますが、でもイエスの十字架と復活がなければキリスト教は成り立たないのです。だから日本では人口の1%しかクリスチャンがいない、でもその現実こそがある意味本当の教会らしい、教会のあるべき姿かもしれません。
◆旧約聖書創世記のノアの洪水の物語、世界中の人たちが大洪水で亡くなっていったなかで、神様の警告に聞き従ったノアの家族だけが救われました。私たちの社会の現実の問題に注目する人はわずかなのです。でもその人たちの働き、訴えがこの社会の本来のあり方を私たちに気づかせます。教会とは、社会のために、世界のために、そこに苦しむ人たちのために祈るために、神様から選ばれた小さな集団で、イエス。キリストご自身がそのリーダーとして、私たちのあるべき姿を示されたのです。
◆祈りましょう、神様、受難節を迎えます。この時期こそ、私たちがあなたに従うひとりとしてあるべき姿、歩むべき方向を示してくださいますように。どうぞ毎日あなたの十字架を見上げつつ送らせてください。主の御名によって祈ります、アーメン
・2024年2月11日(日)山上の変容の主日
2024年2月11日(日)山上の変容の主日
メッセージ 「これに聞け(Listen to him) 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書9章2~9節
●トンチンカン、という言葉がありますが今日のマルコ福音書の記事のなかでペトロが口走ってしまった言葉こそ、まさにトンチンカンでした。イエスが宣教の活動を続けているときに、ある山に登りその姿が神々しいものに変わったので、そのときペトロが何かを言わなければと「三つの小屋を建てよう」と叫んだのです。
●ところがイエスの姿が神々しく変容したそのとき、雲の中から神の声が響きました「これは私の愛する子、これに聞け」(英文では"Listen to him")。この記事はイエスの働きの核心を示します。イエスの言葉こそ神の言葉として私たちがそれに聞き従うべきものだ、ということです。私たちが何かを言い、提案しということでは全くないのです。私たちはひたすらイエスの語る言葉に集中し、それを聴き続けるのです。
●私たちは毎日いろんな言葉を発し続けます。でもその言葉に、どれだけの意味、大切さ、価値があるでしょう。実はそのたくさんの言葉によって、結局自分の思いを私たちの相手に押し付ける、自分の確かさ、優位性をなんとか訴えようとしているのです。イエスの言葉、それは私たちを造り、生かし、愛される神様の言葉なのです。聖書を読む、イエスの語りかけを耳にする、それは自分たちの思いを脇に置いて、ひたすら神様の言葉を聴き受け止める、その言葉に服従する姿勢を身に着けるための一歩なのです。
●祈りましょう、神様、私たちはあなたに聞き従います。私たち自身の思いを第一にするのではなく、あなたに聞き従う生き方を求めさせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
・2024年2月4日(日)顕現後第五主日
メッセージ 「みんなが、あなたを捜しています」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書1章29-39節
●先週に引き続き今週も悪霊の物語です。当時の人々には悪霊の存在が信じられ恐れられていおり、それが病気や障害を引き起こすこと、だからこそイエスがその悪霊を払ってくれる、エクソシスト的な働きが期待されていたのでしょう。ですからイエスは多くのひとに期待され、捜し求められていたのでしょう。
●遠藤周作という作家が、イエスのそのような奇跡手的な行動への疑問を投げかけています。イエスの弟子となったシモンの姑が熱をだしていたところ、イエスが彼女の手をとるとたちまち熱が引いた、そんなことがあるのだろうか、と。自らもカトリック(夙川教会)の信者であって遠藤氏のこの問いかけは、当時大きな波紋を生みました。
●遠藤氏がこの物語で考えたこと、それはイエスがこの女性の病気を癒したことの前に、その女性の病床の傍らにとどまって、彼女のために祈り続けたことだ、むしろそれが奇跡だ、というのです。悪霊につかれた人、精神的、肉体的な疾病や障害などをもち「悪霊に憑かれた」人たちは、当時の社会の中では疎外され、差別され、孤立していました。その人たちとともにイエスは生きたのです。悪霊の働きとは多くの「普通」の人たちの持つ偏見、差別のなかにもみられるのです。イエスと悪霊の戦いは、まさに私たちの中にある問題との戦いでもあったのです。
●祈りましょう、神様、私たち自身を振り返ります。私たちのうちなる思いのなかの問題こそが、イエス様が問いかけ、戦い続けられた現実です。私たち自身を新しくしてください。そんな私たちをなお、あなたがイエス様を通じて愛し続けてくださることに感謝する者であらせて下さい。主の御名によって祈ります、アーメン
◆2024年1月
2023年1月28日(日) 公現後第四主日
メッセージ 「かまわないでくれ」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書1章21ー28節
●福音書にはイエスと悪霊との闘いの物語がいくつも出てきます。当時悪霊の存在こそ、私たちの平常、日常性、社会性健康や健全さを脅かす存在として信じられ、恐れられており、イエスは悪霊払いの能力を持つことでも人々に受けいれられていたところがあります。
●その存在はただ古代の人たちの迷信だとも言い切れない側面があります。その霊に取りつかれた人に「(わたしに)かまわないでくれ」と語らせることです。人と人とのつながりの否定、近代の思想家は「疎外」という言葉で表現した現実です。人間社会が複雑化すればするほど、私たちはひとりでいることに逃げ込もうとし、そこで人間としてもっとも重要な愛されること、愛することを拒否してしまうのです。
●愛されることの拒否、それは他者の存在の尊さ、重要性、意味をも否定することです。そこから生まれる社会の荒廃が実は私たちの周囲にも生まれつつあるのではないでしょうか。イエスが悪霊に対して非常に厳しい言葉で叱責することの背後に、私たちが神様から隣人から愛されて生きる者であることを気付かせる促しがあるのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたに生かされ、愛されている一人であることの大切さを常に感じ続けさせてください。御名によって祈ります、アーメン。
2023年1月21日(日) 公現後第三主日
「人間をとる漁師」 田淵 結 牧師
聖 書 マルコによる福音書1章14~20節
●毎週私たちの教会では世界的な聖書日課(Lexionary)を用いていますが、クリスマスから新年にかけてずっと、イエスの伝道活動の最初のところ、弟子たちを招くということがテーマになっています。先週はフィリポとナタナエル、今週はシモン(ペトロ)とアンデレ、ヤコブとヨハネが招かれました。
●この四人はイスラエル北部ガリラヤ湖の漁師だったのですが、「人間をとる漁師」としてイエスに従ったのです。福音書で彼らのその後を見ていくと、彼らは最後まで実はイエスの深い理解者となったかどうかは疑問で、ペトロは最後にイエスを裏切ってしまいます。いろんな失敗がつづき、決して立派なお弟子さんにはなれなかったのでしょう。
●その彼らが「人間をとる漁師」とされるのは、そんな彼らがそれでもイエスに従っていったところでしょう。つまり私たちイエスを信じて生きるひとりひとりの模範、といっても立派なではなく、私たちがそのありのままの姿でイエスに従い続けることを示し、私たちをイエス様のもとに近づけてくれた存在だった、ということでしょう。長谷川初音牧師は「クリスチャンは永遠の求道者だ」と言われました。欠けを負いながら、だからこそイエスを求め続けるひとりとして、私たちの新年の歩みを踏み出しましょう。
●祈ります、神様、私たちをそのままで受け入れ、愛してくださることを感謝します。私たちの毎日が、あなたの愛を示すものとなりますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
2023年1月14日(日) 公現後第二主日
聖書 ヨハネによる福音書1章43-51節
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」 田淵 結 牧師
●今日の聖書の物語の主人公はナタナエル人です。しかしこの人は、やがて人の子の上に天使が上がり下りするのを見ると言われながら、以後聖書では復活後のイエスとガリラヤ湖で出会うことしか登場しません。そして彼がよく知られるのは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と語ったことにあります。
●イエスが処刑された十字架には「ナザレのイエス」という言葉が記されていたように、このナタナエルの言葉は彼がイエスに何にも期待しないと語ったように思われます。しかし実はこのナタナエル本人はイエスが最初の奇跡をおこなったガリラヤのカナ出身であって、むしろ自分への「評価」を示すものかもしれません。ユダヤでも首都エルサレムからみると、ガリラヤという地方出身者は見下げられていたのです。
●そのナタナエルに対してイエスは「まことのイスラエル人」と語ります。イエスはその人の背景ではなくその人自身の「『素』質」(本来の人間性)に注目されたのです。自分自身の素のあり方をしっかりと認められたこと、そこにナタナエルは感動し、イエスを「神の子」と告白します。ナタナエルもまた初対面のイエスの本質を、まず感じとったのでしょう。神の子、それは人間からかけ離れた存在ではなく、私たちひとちひとりが本来もっている良さをしっかりと認め、私たちに気づかせる存在なのです。
●祈りましょう、神様、新しい年のスタートに、私たちひとりひとりがあなたから頂いてる良さをまずしっかりと認め、感謝した一歩を踏み出すことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年1月7日(日) 公現後第一主日
「あなたはわたしの愛する子」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書1章4~11節
●2024年をいかがお迎えになられましたでしょうか。ところがk年のスタートは思いがけない大事件、事故の連続でした。ところがどうも私たちのそれらの出来事への向き合い方、いやほとんどきちんと向き合っていない私たちの姿勢を痛感させられたのです。
●能登半島の大地震、その本当の被害が明らかになったのは二日以後ですが、そのときには羽田の事故のせいかその大きさはきちんととらえられませんでした。大地震と津波に襲われてたくさんの方がなくなっておられたことすら、そこが遠隔地であるためにマスコミなどに知られることなく、まったく救助などが届かなかったのです。羽田の事後はネットなどでも同時中継で報じられました。私たちは目にすることのできるものだけにしか向き合っていなかったのです。
●バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、イエスに対して「これは私の愛する子、私の心にかなうもの」と声がした、と言われますが、当時の人々はその後のイエスの活動には無関心、無理解でした。自分たちの目にはイエスはそれほどはなばなしい、目に留まるようなものではなかったからです。でも「私の愛する子」と言われたイエスの働きは、その神様の愛を人々に伝え、それを実感させたのです。私たちに求められていること、それは目に見えるものだけではない、私たちの見えない背後にある、真実さであり、それを読み取ることのできる想像力なのです。震度7に襲われた場所で起こること、そのことを阪神淡路大震災を経験した私たちなら容易に考えることができるはずなのです。
●祈りましょう、神様、いま大きな出来事の中にある人たちにどうぞ平安をお与えください。私たちが今見つめるべきものをしっかりと受け止めることができますように。主の御名によって祈ります、アーメン。