2022年5月29日 芦屋キリスト教会 復活節第七主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 8章26~39節
説教:「私たちのためのとりなし」 田淵 結 牧師
「聖書」の「聖」(ヘブライ語で‟カドーシュ”)という言葉の感覚は、「清純」の「清」とはまったく違います。預言者イザヤが神様の「聖さ」に触れ「わたしは汚れた唇の者」(イザヤ6:5)と叫びます。彼が感じたのは神との絶望的な隔たり、神の前に立つこともできない無力さでした
人間の社会というのは何とかなっていると思い込んでいますが、無力な者の集団で、無数の苦しみや悲しみに満ちています。今日の聖書で、「引き離す」と繰り返されます(35,39節)が、私たちが神様から「引き離」されてしった状態のままだということでしょう。 パウロはそれを強く感じながら、ここで信仰の原点を語ります。私たちが神様を求めるのではなく、神様が私たちを愛されることがなのです。
その時に神様の私たちの思いは、私たちが目にし経験するどのような困難「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(35節)もなんの妨げにもならない、というのです(39節)。では、私たちはそのような神様の私たちへのかかわりを実感できているのでしょうか。来週はペンテコステの日曜日となります。それが教会の誕生日といわれるのは、聖霊の働きこそが、私たちに神様の思いを深く気付かせるものだからですし、教会の働きはまさにそのためにあるのでしょう。
祈りましょう:神様、復活のイエスは弟子たちに「聖霊を受けよ」と告げられました。私たちにもあなたの息吹を吹きかけ、あなたの真実な愛を実感させて下さいますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン
2022年5月22日 芦屋キリスト教会 復活節第六主日礼拝 本日の礼拝録画
聖書:ローマの信徒への手紙 8章18~25節
説教:「待ち望む信仰」 田淵 結 牧師
共産主義の提唱者であるマルクスは「宗教はアヘンだ」と主張しました。宗教が様々な問題の解決を未来に先送りすることで、現実の問題解決を麻痺させるというのす。でもマルクスの主張が現在私たちが抱える諸問題を即座に解決したわけでもありません。彼の主張に従って成立した国家も結局立ち行かなくなりましたし、彼もまた自分の理想の実現を未来に期待し続けるしかありませんでした。
確かにパウロも今日の聖書箇所でも「現在の苦しみ」「将来…の栄光」と語ります。ただしパウロの確信のなかには、私たちが今すでにイエス・キリストの復活という事柄を示される、「“霊”の初穂をいただいている」がその未来に繋がっていることを語るのです。「産みの苦しみ」という表現はまさにすでに与えられている生命が私たちの世界のなかに現れようとする、未来の誕生は今私たちのなかに与えられていることがらからから始まっているのです。
私たちがもつ希望とは、何かまだ曖昧で不確実な思いからではなく、私たちが復活のイエス・キリストと出会っているという事実から始まる確実さを持っています。私たちの信仰は、アヘンのように現実を逃避させるものではなく、今私たちにある確かなものをしっかりと見つめながら、そ個から開かれる未来への希望をしっかりと与えてくれるものなのです。
祈りましょう:神様、どうぞ私たちがあなたから未来への希望につながる確かなものを日々思いつつ過ごすことが過ごすことができますように。あなたの導きと支えを祈ります。主の御名によって、アーメン
2022年5月15日 芦屋キリスト教会 復活節第五主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 8章1~17節
説教:「神をよろこばせる」 田淵 結 牧師
私たちが何か他の人に指導をするとき否定的な言葉を使うか肯定的に言うか、というポイントがあります。「ダメ!」というのか、「もっとこうしたらいいよ」というかです。今日のローマの信徒の手紙のなかでも、パウロはどちらかというと否定的な表現を多く使っているように読めます。「罪と死との法則から」「肉に従って歩む者」というように私たちの生き方の一面が強く否定されています。しかしその文章をよく読むと、パウロは否定的な表現のなかに、まさに否定的な表現を「否定する」肯定的というか、なぜ私たちがそうすべきなのか、ということの原点ともいうべきもっとも重要なポイント、理由をはっきりと示しているからです。
いつも教会で読んでいる日本語の聖書は新共同訳聖書(1987年刊行)ですが、私自身が幼い時から馴染んできた口語訳聖書(1951年刊行)の表現が私にはぴったりくるのですが、8節の「神に喜ばれるはずがありません」が口語訳では「神を喜ばせることができない」とされています。微妙な違いですが私たちがイエス・キリストによって「霊に従って歩む」は、私たち自身がそれによって平安な生活を与えられる以上に「神様を喜ばせる」ことなのです。そして私たち自身が「神の子供」「神の相続人」であるという、自分自身が何者かということをしっかりと覚えるということから始まるのです。
否定的な表現はほかの人の欠点をとらえて低く評価することですが、パウロはその表現のなかにその理由として私たち自身が最も肯定的な、高く評価され、神様と隣人を喜ばせるために生きる大きな目的をもった存在だということをはっきりと指摘しています。そのようなひとりであるのに、肉に従っていきるというのは自分で自分の大切さ、重要性を知らずにすごしているということではないでしょうか。
祈りましょう:神様、あなたは私たちをあなたの似姿として創られました。しかし私たち自身が自分の大切さ、私と同じように創られている隣人の大切さに気付かずに過ごしていることを悲しく思います。あなたを愛し隣人を愛するという生き方に私たちを導き、励ましてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン
2022年5月8日 芦屋キリスト教会 復活節第四主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 7章7~25節
説教:「望まないことを行う」 田淵 結 牧師
聖書の中の「罪」という言葉について、私たちが根本的に理解できていないことがあるようです。それは、私たちが自分の意識や行動、ふるまいをすべて自分で制御できるという思い込みから始まります。でもそれは私たちの思い込みにならないのです。心理学という学問は、本来人間とは何かという哲学的な問いから生まれたものですが、心理学でも人間の自己意識を超える現実というものへの理解が大きな課題となっていますし、すでにパウロは「わたしの五体にはもう一つの法則があって」(23節)とそれを「罪の法則」(25節)と呼んでいるのです。ですからパウロの言う「罪」とは、人間が自分の努力でそれを克服できるものではないことを確信しています。
このことは、彼が自分の人生を振り返るなかで、彼自身に対して確信したことなのでしょう。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 19わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 」(18節) パウロは最初非常に熱心で、ほかのユダヤ人仲間に劣ることのないユダヤ教徒でした。だからもっとも神に忠実に、真剣に使えようとします。その結果、彼はユダヤ教の核心である律法を軽視する態度をゆるすことはできず、結果クリスチャンたちを迫害し、処刑することにさえ賛成していたのです(使徒言行録9:1-2)。律法には隣人への愛が最も重要なこととされいてるとすれば、実は彼自らが最大の律法の違反者であり続けたのです。
自分が正しいと思うことを貫く結果が「悪を行っている」(19節)こと、それは彼自身のなかにある罪深さだということ。今まで自分のなかにあった確信が崩れ去る経験。自分ではどうすればいいかわからない挫折、そのなかで彼は復活のイエスと出会ったのです(使徒言行録9:3-9)。自分の思いを超えて、イエスを絶望の死から復活させられた神を信じることのなかで、初めて彼は自分にとっての善を行うこと以上に、神様の求められる義しさのために生きることの意味を知ったのです。
祈りましょう:神様、「御心をならせたまえ」、私たちの思いのみを実現しようとする生き方ではなく、あなたの思いに従って生きる者とならせてください。そこにある私たちの大きな過ちー罪をお許しください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2022年5月1日 芦屋キリスト教会 復活節第三主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 7章1~6節
説教:「神に対して実を結ぶ日々」 田淵 結 牧師
新約でも旧約でも結婚がひとつの大きなテーマとなっています。何よりも最初の人アダムがエバとの生活が結局二人で神の命令に背く結果を招いてしまったのですね。そして何よりもそこでの夫と妻との関係そのものが神様と人間の関係を象徴するということですね。まさに神様が私たちを愛し、私たちが神様を愛する、ということが信仰生活の基本とされているのです(ヨハネの手紙一4章10節)。
パウロもまた聖書の考え方に従って、結婚が私たちの信仰のひとつの形だと訴える中で、ユダヤ教からキリスト教への展開を、人間が律法とではなく復活のイエスを信じる信仰との結婚生活が始まっているという仕方で、当時のローマの社会のなかでも、ある意味私たちにとっても非常にわかりやすく語ります。ただし現代の私たちにとって律法にあたるものは、私たちがつい慣れ親しんでしまう社会的な価値観、習慣なのでしょう。
本当に私たちの人生を豊かにするパートナーとの出会いによる豊かな人生、まさにキリスト・イエスがその死と復活によって与えてくださった「“霊”に従う新しい生き方」のなかで私たちはそれを実感することができるのです。
祈りましょう:神様、イースターの季節のなかで私たちは、私たちのうちにあなたの新しい命の息吹を受け止め、あなたと共に生きる喜びで私たちの毎日を満たしてください。どうぞあなたの導きのなかで、あなたがこの世界のなかにあなたの平和をもたらしてくださることを信じます。主のみ名によって、アーメン
2022年4月24日 芦屋キリスト教会 復活節第二主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 6章12~23節
説教:「復活:新しく生きる」 田淵 結 牧師
芦屋キリスト教会では本日イースター礼拝をおこないます。福音書でイエスの復活の物語を読んでいくと、イエスの近くで過ごしてきた人たちのなかでも、その復活を最初から信じた人たちはいなかった、ということが記されます。ヨハネ福音書20章のデドモと呼ばれるトマスに代表されるように、ほとんどがそれを疑っていたのです。
パウロにとって、イエスの復活を疑うということは私たちがなお「罪の奴隷」(17節)としてとどまっている、言葉を変えると、まったく自分自身が新しくされようとしているときに、結局今までの自分のあり方にこだわりつづけている、ということを意味しました。人間は実はとても保守的な、新しいことを受け入れることを拒む存在なのです。その私たちにパウロは、その今までの生活が、本当にあなたを豊かにし、平安を与え、あなたの世界を幸せにしているのだろうか、とさらに問いかけます(21節)。
私たちの世界が戦いがあり、恐れがあり、多くの悲劇をもたらしているのは、現代社会のなかで復活という出来事に真剣に向き合い、その意味を求めようとする人たちが少ないことの結果なのでしょう。「敵を愛」せ(マタイ5:44)という言葉、それは復活によって私たちが完全に新しくされている、ということを受け止めることのなかではじめて実現してゆくものなのです。
祈りましょう:神様、私たちが復活を過去の出来事としてだけ考え、私たち自らが変えられることとして受け止めきれない弱さを覚えます。復活を信じることによって、新しい私たち自身の姿に気づくことができますように。勇気と希望をお与えください。主の御名によって祈ります。アーメン
2022年4月17日 芦屋キリスト教会 復活祭(イースター)主日
聖書:ローマの信徒への手紙 6章1~11節
説教:「新しい命に生きる」 田淵 結 牧師
イースターのお喜びを申し上げます。英語でイースターカードに”Happy Easter!"と記されています。今年、このままこのカードを送っていいのかどうかと考えさせられてしまいます。コロナで亡くなられ、あるいは戦争の犠牲と今なっておられる方々が多くおられるなかでの、イースター。それでも”Happy”と言っていいのか。この時に”Joyful, Joyful”という歌うことはどうなのか、とも。
そのようなとまどいは、イースターのもっとも深い意味をきちんと受け止められていないからくるのでしょう。パウロはイエス・キリストの復活が、その十字架の死とのつながりのなかで、その死が私たち人間にとって古い自分、罪のからだからの解放であり、そこで新しい命に生かされること、そこで真にキリストと共に生きる者となることができることを訴えます。しかもその死は私たちの肉体的な死、イエス・キリストが十字架で迎えられた人間としての完全な死を意味します。そのイエスが死を負われたことによって、それが私たちの存在の終わりではなくそこから「キリストと共に生きる」(7節)ことの始まりとなったのです。
私たちが毎日数字で見せつけられてしまう多くの方々の死、それぞれの方々の死の場面においてイエスがそこでお一人びとりと共に生き、神様に対して新しい命を生きてゆかれることを信じること、そこにイースターがすべての人にとってより深い幸せを思い起こさせ、喜びを与えてくれるものとなるのです。
祈りましょう:神様、私たちの復活の主を信じることによってこそ、私たち人間がもたらしてしまっているこの混乱と恐ろしさの現実の中で、あなたが私たち一人ひとりの命を生かしてくださることをしっかりと受け止めることができますように。主よ、生きるとき、死に臨むときも常に私たちと共にいてくださいますように。御名によって祈ります、アーメン
2022年4月10日 芦屋キリスト教会 受難節第六主日
聖書:ローマの信徒への手紙 5章12~21節
説教:「イエスの十字架」 田淵 結 牧師
キリスト教のカレンダーで今週はもっとも厳粛な一週間「受難週」です。福音書に記されるイエスの苦しみを憶え、15日の金曜日が「受難日」、イエスが十字架につけられ息を引き取られたその日となります。キリスト教が十字架をシンボルとするのは、まさにこのイエスの死を忘れないということですね。
しかしパウロはこのイエスの死こそ、「一人の従順によって多くの人が正しい者とされ」(20節)るための「正しい行為」だったと宣言します。受難週にドイツの教会で歌われる讃美歌のひとつに「人よ汝の罪の大いなるを嘆け」という曲があります。イエスを十字架に追いやった「アダムからモーセまでの間」(14節)の人間の罪を思い起こすべきだというときに、パウロはそこに神の恵み、愛に目を向けることを訴えます。
私たちの生活の厳しさ、今世界の動きのなかで見せつけられる残酷な現実、そこにしかし神のかかわりがあること「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれ 」る(20節)ことを信じ続けることができるのか、私たちの信仰がもっとも鋭く問い直される一週間なのです。
祈りましょう:神様、私たちの毎日のなかで、真剣にあなたの恵みを確かめ続けられる一人であれますように。あなたの平和を与えてください。Dona Nobis Pacem, 主のみ名によってアーメン。
2022年4月3日 芦屋キリスト教会 受難節第五主日
聖書:ローマの信徒への手紙 5章1~11節
説教:「苦難・忍耐・練達・希望」 田淵 結 牧師
ローマの信徒への手紙でもっとも有名な言葉は「苦難は忍耐を、 4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5希望はわたしたちを欺くことがありません」(5:3-4)でしょう。でも有名ということと、その現実性が受け止められているということは全く違います。ウクライナのことをまた思わされるのですが、まさにその激しい戦いのなかにある人たちこそ、この言葉の真実さを問い続けられているのでしょう。
パウロがローマの教会に対して「苦難」という言葉を用いるのは、彼らに対する社会からの冷たい視線、迫害が迫りつつあったのでしょうか。聖書の言葉は、その実現を命がけで求め、祈り続けた人々によって語られ、書かれたからこそ、今本当に苦難のなかにある人々の希望となるのです。
イエス・キリストが十字架の死によって私たちと神様とを和解させ、私たちが神様に愛され続けているということの真実さのなかで、私たちは平和を求める祈りを祈り続けるべきなのです。Dona Nobis Pacem! その祈りが真実なものとなること、それは私たちが多くの人々の苦難を覚えつつ毎日を歩むことからしか始まらないのです。
祈りましょう: Dona Nobis Pacem、平和を与えてください、と今週も私たちは祈ります。私たちが真剣にその祈りを祈るれるために、戦いの中にある人たちの不安、恐怖、痛みを自分のこととして受けとめる者とならせてください。主の御名によって。アーメン