昭和7(1932)年
前年度から執事安東忠次郎一家を中心にして阪急岡本に伝道の手がのばされていたが、集会所の必要切なるものがあり、岡氏の祈と犠牲とによって1月21日起工式をあげ、陽春4月に完成を見た。7月より伝道師平沢克己氏専らこの地の伝道にあたる事になった。
尚この年は教会が社会問題を取上げて芦屋の純潔を保つ大きな活動をした記念すべき年でもあった。かつて昭和3(1928)年にも一度芦屋市の発展の美名のもとに発案されて我らの反対で軽く消えた芸妓置屋設置問題の再燃である。前回の失敗にこりて極めて慎重に事を進め、知事の認可を得んとしている事を知った教会は、灘購買家庭会、市婦人会、学校の父兄会、他教会、婦人会等々に呼びかけ、猛烈な反対運動を起した。朝日新聞又これを取上げ側面より世論を起し全市民の反対署名をw集め、遂に知事を動かして事なきを得た。
同年8月芦屋六麓荘にダンスホールを開設しようとする者のあるを知り、これにも反対意見を陳情して又不許可に終らしめた。これは後年芦屋市並びに市警がパチンコのない芦屋市を守りつづけた事と共に大きな社会的意義をもつものといえよう。