昭和二十三(1948)年
前年来教勢は順に上り、記念礼拝には補助椅子をもち出すほどになったが、これは早天祈祷会が成長した事にも力があったと思われる。終戦以来毎金曜日早朝、牧師夫妻と藤井執事の三人が寒中も火の気一つない部屋で祈り初められたものが二人三人と殖えこの年の平均出席十三人という数字にまでなった。決して驚くほどの数字ではないが、三人で祈り初めたものがここまでもり上り教会の諸活動の原動力となった事は争われない。
この頃から初音牧師は再び文筆活動を始められた。これは藤井氏の強い慫慂によるものであって「いちじく」「ぼろ哲学」(一篇刷)等月刊の個人誌を発行して、教友、求道者に呼びかけられた。半年位はガリ版だったが、購読者利用者が多くなったので活版印刷にまでなったが一年半ばかりで病気その他の事情で自然休刊になって惜しまれた。毎金曜日婦人聖書研究会も戦時中は消ゆるに垂々としたが、終戦後またもち直し浜教会建設後も引きつづき初音牧師が担当して今日では四十名乃至五十名の出席を見ている。
六月盲人基督者として著名な好本督氏が英国から来朝されたのを期として、当時点字毎日新聞主筆である大野加久二氏が奔走されて初の盲人集会を催した。これは同時に世紀の奇跡人といわれるヘレン・ケラー女子の来日に備える為のものであった。これがきっかけとなって偶数月第一日曜に例会をもつ様になり、関西盲人信仰会と発展し、殊に夏期収容会、クリスマス祝会には遠く北陸四国からの参加者を迎え、海の彼方にまで伝えられるに至った。教会並に婦人会は毎回これに対して奉仕を捧げて今日に及んでいる。小さき業ながら長く続けられ、恵まれざる盲人の方々の心に福音の燈火をいささかでも照らして差上げることが出来たことは感謝である。
この間、昭和二十五年四月身体障害者福祉法実施に当たり大野氏は多年にわたる身体障害者福祉運動の功労者として厚生大臣より表彰をうけられた。