第十七回 イスラエル どんな意味?
今までイスラエルということばを、別に何の説明もなく使ってきましたが、この言葉は旧約聖書の時代から今日のイスラエル共和国まで(今のイスラエルのあり方にはいろんな問題を考えさせられますが)、少なくとも3000年は用いられ続けている言葉ですね。その旧約聖書で最初にこの名前が登場するのは創世記32章です。これは創世記25章から続くアブラハムの孫のヤコブの物語で、これも読み物としてもとても面白いのでぜひお読みください。その物語のなかで分け合って故郷を離れていたヤコブが懐かしい故郷に明日着くという前の晩、「何者か」(創世記32章25節)に襲われ、取っ組み合いの争いとなります。それにヤコブが勝ちそうになるとその相手はヤコブの「腿の関節」を外すという(26節)や卑怯な手を使ってなんとかその場から逃れようとするところを、ヤコブが食い下がると、その相手はヤコブに「これからはイスラエルと呼ばれる」と告げ、その意味が「神と闘って勝った」(ヘブル語でイッシャラー【勝つ】+エル【神】)だと説明されます(29節)。その名前の意味はそうなんでしょうが、聖書のそれからの物語は、簡単にすでに触れたのですがこのヤコブ(イスラエル)が十二人の子どもの父親となり、その十二人がその後イスラエルという民族を構成する十二の部族の長(族長)となったということで、出エジプト記1章1~2節に「1ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。 2ルベン、シメオン、レビ、ユダ、 3イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、 4ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。」と説明されます。ということでイスラエルという名前は、その民族名となるのですが、さらにその民族がすんだ地域(現在のイスラエル共和国の北部地域)をも指す地域名となります。エジプト脱出を実現し、シナイ山で十戒の板を与えられ、その後四十年の荒野の放浪を経て、このイスラエル人たちはいよいよ神様に約束された土地、乳と蜜の流れる地、彼らの呼び方でいうカナンに入り、ヨシュア記の記す通りその土地を征服してそこに定着、居住を始めます。ところがその土地をめぐって周囲の民族との紛争が起こり、土地を守るための戦いをしなければならないという状況が生まれてきます。カナンの土地に定着した直後のイスラエルは、基本的に十二の部族がそれぞれの自立性をもって生活し、そこで緩やかな部族連合のようなものを形成していたといわれます。ちょうど古代ギリシャの都市連合のシステムに似ていたことから、マルチン。ノートという旧約学者はその連合をアンフィクチオニーと呼びました。そしてその連合のまとめ役というか代表者として「士師」(英語でJudge)と呼ばれる役職が定められました。士師記5章にはデボラという女性の士師が登場し、周囲の外敵との戦いをイスラエル全体に呼びかけますが、その戦いに協力したものは「残った者」(士師記5章13節)だけだったと報告されていますし、それはエフライム、ベニヤミン、マキル、ゼブルン、イサカル、ナフタリという部族(および氏族)だけだったようです。その他のルベン、ギレアド、ダン、アシェルは協力を渋ったようです(士師記5章14~18節)。つまり、カナン定着の初期のイスラエルが「ゆるやかな」連合体というのは、全体を強制して同じ行動をとらせるような権限は士師にはなく、自分にとって関係のないとき、それに協力することが不利な場合など、イスラエルが一致して行動することはなかったようです。そのような各部族の自立性というのは、ノート先生の指摘によると、十二の部族がそれぞれに神様に選ばれて(神様と契約を結び)連合に加わるということで、どの部族も対等の関係であり、例えばその戦いに加わるかどうかの判断もそれぞれの部族が、自分と神様との関係のなかで決定するということだったと説明しています。士師の職務は順番に部族が後退して担うということで、士師記にはたくさんの士師の物語が集められています。そのなか、よく日本でも学校や病院、ホテルなどに聖書を無料配布している団体に「ギデオン協会」がありますが、そのギデオンも士師の一人です(士師記6~8章)。さらにまたもやクラシック音楽の話題で失礼ですが、「メサイヤ」というオラトリオ(聖書の物語を題材にする音楽物語的作品)の作曲家で有名なヘンデルは、この士師記から「エフタ」(士師記3章12~30節)や「サムソン」(士師記13~16章)という作品も残していますし、サンサーンスというフランスの作曲家は「サムソンとデリラ」というオペラを作曲しました。それだけ士師の物語はドラマチックだったのでしょうね。
私たちは士師記の内容をドラマチックだと楽しんでいたれるのでしょうが、当時のイスラエルの人々にとっては結構その状況は大変厳しいものでした。これも前に書いたのですが、ギリシャ地中海からやってきたペリシテ人たちは鉄の武器を持っており、それに対してイスラエルの武器は青銅器がせいぜい、つまり戦っても文字通り刃が立たない、ということでなかなか勝つことができなかったのですね。もちろんイスラエルの神様の励ましがつねにあったとしても、なかなか戦果が上がらない状態がずっと続きました。そうやって時代はサムエル記までやってくると、いよいよ深刻になります。イスラエルの部族連合は実は同じ神様(その名前はヤハウェ、例のヘブル語のBe動詞ハーヤーを語根とする名前で、アルファベットではYHWHと綴られます。ただし出エジプト記者20章十戒の掟の中に、神様の名前をみだりに口にすることが禁じられているので、この四文字を神聖四文字として特別に扱い、その言葉くると別のアドナイ(主人)という読み方をする習慣があって、その発音がこの四文字と混同された結果、神様の名前をエホバと呼ぶということがありましたが、それはヘブル語やイスラエル人の習慣を十分に理解できない、間違った読み方です)をともに礼拝する(契約を結ぶ)部族連合組織なのですが、その連合の象徴として共通の聖所を持ち、そこに例のシナイ山で与えられた十戒が二枚の石の板を収めた「主の契約の箱・神の箱」が安置されており、今回のペリシテ人との戦いは決戦としての意味もあってその箱を携えて出陣していたのですが、ついにそれに敗れたときにその箱までも奪われ、祭司たちも戦士し(サムエル記上4章10~11節そのときに生まれた子どもは「イカボド」(栄光は去った サムエル記上4章19~22節)と名付けられたほどでした。つまりイスラエル部族連合体の存在そのものが危機に陥ってしまったのです。その後神の箱は、神様の不思議な力によってペリシテ人の間にさまざまな災厄をもたらしたので、ペリシテ人はそれを牛に引かせた車にのせてイスラエルに送り返すのですが、それからしばらく放置されたままにされてしまいました(サムエル記上6章)。この敗戦はもちろんペリシテ人との武器の違いも大きかったでしょうが、もうひとつイスラエルが抱えている問題が露呈してしまったのです。つまりデボラのときのように、戦争が起こっても全部族が協力して危機に当たるのではなく、それに消極的な部族の存在などがあり、部族全体の統一性、一体感がまったく発揮されなかったということが大きかったようです。そこでイスラエル人たちは、イスラエルがもっと強力な指導者のもとに一致して危機に対応する組織の必要性を痛感し、そこで周辺の国々で行われているように王による強力な支配を、最後の士師ともいうべき預言者サムエルに要求します。なんとしてでもイスラエルを守ろうという決意をそういう形でしめしたのです(サムエル記上8章5,19節)。ところがサムエル自身はそれに否定的でした。王様がいなければイスラエルは滅びてしまう!ということですが、ではそのイスラエルってなんでしょう。それまでの部族連合では、それを構成する十二部族の立場は対等で、それぞれの部族の意志も尊重されてきました。だからまとまりにかけるということなのですが、強力な王(支配者)が生まれると、今までのイスラエル的な社会のあり方は失われてしまうのです。みんな王の家来(臣下)となり、その命令に従い、王に税を納め、王の命令によって組織される軍隊として徴兵されることになります(サムエル記上8章11~18節)。イスラエルを守るためにそんな社会が実現してもいいのか、とサムエルは疑問を抱くのですが、そんなことを言っていて民族全体が滅ぼては元も子もない、イスラエルの人々はサムエルを押し切り、ついに「他の国のように」(サムエル記上8章5,20節)王様を建てることになり、最初の王サウルが即位します。
私のキリスト教のお話はつい、あちらこちらと話題が飛ぶのですが、前にイエス・キリストのキリストという言葉の意味として、自分たちの危機を救ってくれる人、救済者あるいは解放者だと説明したことを覚えておられるでしょうか。このキリスト、ヘブル語でメシヤの本来の語源は、神様によって特別な権威を与えられる人の頭に「油を注ぐ」(マーシャー)、という意味で、油を注がれた者という名詞がメシヤなのです。その油というのは、実はそれまで士師が選ばれるときに、神様の霊が注がれたということをよりはっきりと見える形で示すもので、以後イスラエルでは王様の即位のときには必ずこの油注ぎの儀式が行われ、さらにキリスト教の諸王国でも王様の即位の際にはそれが行われています(イギリスのチャールズ三世の即位式でも行われました)。そしてなんと、イスラエルで最初に油を注がれてメシヤと呼ばれたのは、このサウル王が最初で、以後旧約聖書には何人もメシヤが登場します。ただしその人々はいわば小文字のメシヤで、イエスこそ大文字の、唯一の(真の)メシヤ=キリストだというのがキリスト教の立場です。またまたお話の流れがごちゃごちゃになってきましたが、要するにペリシテ人に敗れ、神の箱まで奪われたイスラエルは、その存続の危機を王様を建てることで回避しようとした、ということです。そしてそれは見事に成功したのです。ただしサウルの時代はまだまだ不安定でしたが、その後、ダビデその子どものソロモンがイスラエル王となることによって、ペリシテ人の脅威も一掃され、イスラエル王国の黄金時代(ピーク)が到来するのです。もうそのことは何度もお話しましたね。
第十八回 ダビデの即位
さてサウルが王権についたとき、早速に王様の支配の持つ問題が噴出しました。それはサウルを王位に就けた預言者サムエルとサウルとの対立でした。つまり宗教的権威と政治的権威と、どちらが優先するのかということです。サムエルにすればサウルは神様に油を注がれた存在として神様の、ということは預言者であるサムエルの命令に従うのは当然だと考えますが、サウルにすれば自分が軍事力を持っているし、王国を維持するための政治的判断も自分が行うべきだというとでその二人の間に緊張、対立が生じ、結局サムエルは神様によってサウルが王位から退けられた!と宣言します(サムエル記上15章26節 「主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ」)。しかしそう預言者に宣言された後もサウルは実質的に王様としてとどまり、そのなかで結局ペリシテ人との戦いの中で戦死してしまうのです。サムエル記上の物語では、預言者サムエルはサウルの退位宣言を行ったのち、その後継者を探そうして、ベツレヘムという村のエッサイという人の家を訪ます(サムエル記16章4節)、ところが長男から順番にその子どもたちと「面接」をし、どれも有力候補であると考えるのですが、神様はルックスや外面で判断してはいけない、とサムエルを戒めます(サムエル記16章7節)。もうほかに息子さんはいませんか、というと一番下の弟が、外で羊を飼っているということで彼を呼んでもらうと、神様は「立って彼に油を注ぎなさい、これがその人だ」とサムエルに告げますが(サムエル記16章12節)、その弟こそダビデだったというエピソードが記されています(サムエル記16章)。なんだかどこかで聞いたようなお話ですね。本当に選ばれるべき主人公は最初は表舞台にはいない、わたしはどうもシンデレラ姫のおとぎ話の原型を読んでいるような気がします。ただしサムエル記の物語の展開では、むしろダビデはサウルの軍隊に出入りするうちに、徐々に頭角を現してきて、むしろその能力のゆえにサウルから警戒され、ついには殺されてしまいそうになる関係であったようです。もうひとつダビデが戦士としての頭角を現した物語にペリシテ人の大男で歴戦の勇士、負けを知らないゴリアトという兵士がが現れ、イスラエル員と一対一での闘いを求めます。イスラエル人たちはみな尻込みするなかで、羊飼いの少年ダビデがたまたま戦場を訪れその戦いに志願し、ゴリアトの侮蔑にもかかわらず、彼の革製の石投げ道具でゴリアトの眉間に石を命中させて、文字通り一撃で彼を倒したとたいうことも聖書にしるされています(サムエル記上17章)。歴史的なことを考えると、サウルとダビデ、もちろん実力的なものもあったのでしょうが、もうひとつは出身部族の違いがダビデの台頭に微妙に影響していたようです。サウルはイスラエルのなかで最も小さな部族であるベニヤミン族の出身(サムエル記上9章21)でした。ところがダビデは「ユダのベツレヘムの出身」(サムエル記上17章12節)ということなのですが、ユダ族はむしろほかの十一部族が北の方に主中していたのに、南の方の結構広い地域を収める大きな部族をバックにしていました。そしてダビデが王になるということは、それまでどちらかというとイスラエルが北の十一部族がみんなで連合を動かしてきたのに対して、ユダのひとつの部族がイスラエル全体を支配するような状態を招くことなり、彼がイスラエルのなかで南側にあるエルサレムを首都とした、ということはまさにそのことをイスラエル全体に示すことでもあったのです。しかもエルサレムが「ダビデの町」と呼ばれることは、まさにダビデ個人の大きさを誇示するものでした。そのダビデがペリシテ人などの脅威を完全に取り除いたのですから、人々は彼に従わざるを得なかったし、さきほどのダビデが神様に選ばれてサムエルから油を注がれたといいう物語も、その権威をさらに強化するために語られたものだったのかもしれません。もうひとつ、ダビデはサウルが預言者サムエルという宗教的な権威者と衝突したことを踏まえて、彼の王権と宗教的権威との関係をしっかりとつけました。ダビデはまず、それまで放置されていた神の箱をエルサレムに移し、それを収めるため彼の(おかかえ預言者)ナタンに、イスラエルの神様のために神殿(神様の家)をエルサレムに建てたいと伝えるます。神様はそのことは息子ソロモンが実現するだろう、むしろダビデが神様のことを重要視したことを高く評価し、むしろまず神様がダビデの家(王朝)を建てるということをナタンを通じて語ります。そして神様はダビデの息子の「王座をとこしえに堅く据える」(サムエル記下7章13節)と同時に神様は「わたしは彼の父となり、彼は私の子となる」(同14節)とさえナタンを通じて宣言させるのです。ということは、それまでイスラエルは各部族がそれぞれに直接神様を礼拝し契約を結ぶということであったのが、ダビデの子孫が神の子としてイスラエルの王として君臨し、神様の意思は王様を通じてのみ人々に伝えられるという、いわばイスラエル宗教の「中央集権化」が実現したのです。こうなると王の政治的権威とイスラエルの宗教的権威とが一体化され、王様はまさに絶対的権威・権力を手にしたのです。どうしても私の修士論文のテーマがこのあたりのことだったのでお話が細かくなってしまいますが、もう少し我慢してお付き合いをお願いします。本当にすみません。
こうしてダビデはイスラエル王として絶対の権威を手にしようとしていたのですが、「驕れるものは」という言葉どおりの過ちを犯してしまうのです。というのも、彼が王宮にいると、とても美しい女性が水浴びをしている姿を見初め(サムエル記下11章2節)。その美しさに引き付けられて、彼女を自分のもとに招き「床を共にし」、その結果彼女は「子を宿しました」とダビデに告げます(サムエル記下11章4~5節)。ところがこの女性は自分の部下ウリヤの妻バトシェバであったので、なんとダビデはウリヤを戦場の最も危険なところに送り出し、彼を戦死させてしまった上で彼女を自分の妻とすることまでやってのけたのです。バトシェバもウリヤもダビデの権威には逆らえないという立場につけこんだスキャンダルはバトシェバ事件として有名なものでした。そこで生まれた男の子は残念ながら早逝し、改めてダビデとバトシェバの間にソロモンが誕生することになります。先に紹介したようにマタイによる福音書1章の「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」のなかで「ダビデは、ウリヤの妻によるソロモンをもうけ」と記されるようになったのです。聖書というのはとても興味深いのは、いかにダビデが旧約の代表的な人物であったとしても、そのような彼の人間的な弱さを包み隠さず記しているところ、「ダビデのしたことは、主の御心にかなわなかった」(サムエル記下11章27節)とまで記されることが、まさに聖書という書物の特徴を表しているようです。
ただし王としてのダビデの存在はその後の歴史のなかでも高く評価され続け、以後のイスラエルの王様の功績の評価基準としてダビデの治世が引き合いにだされてもいます(列王記上15章3節【王アビヤム】列王記下14章2節【王アマツヤ】、16章2節【王アハズ】、18章3節【王ヒゼキヤ】、22章2節【王ヨシヤ】)。もう一つダビデについて触れておかなければならないのは彼の詩人としての才能です。特に旧約聖書詩編の全150編のうち七十三が彼の作品、ダビデ詩編とされていますし、十三の詩編はダビデの生涯の出来事と関係づけられています(三、七、十八、三十四、五十一、五十二、五十四、五十六、五十七、五十九、六十、六十三、百四十二編)。これもまたダビデに対するのちの人々の高い評価の表れだったのでしょう。
第十九回 ソロモンの栄華
さて イスラエルの王としてダビデが即位して、神様が彼に王朝をみとめ、その子どもたちも神様の子どもとして認められるというように、ダビデの王位は盤石なもののように思われたのですが、バト・シェバとのスキャンダルもあったり、やはりどこか不安定さもつきまとっていました。そのなかで誰がダビデの後継者となるのか、ということで実はバト・シェバよりも前にダビデの妻となっていたマアカから生まれたアブサロムという男子があり、彼もなかなかの高青年だったということで有力な跡継ぎとも考えられていたのですが、このアブサロム自身がスキャンダルを起こしてしまい、失脚。そしてソロモンがダビデの跡継ぎとなるというような(ドロドロした)事情も聖書には記されています。そのソロモンが残した業績というのは、なんと言ってもエルサレム神殿の建築でしょう。その神殿は、当時の贅を尽くした建物だったようで列王記にはその詳細が細かに報告されています(列王記上6〜8章)。ところがそれが立派であればあるほど考えさせられるのは、その神殿のデザイン(スタイル)は何をモデルにしたのでしょう? イスラエルの王国時代については聖書のなかに列王記という書物と、ほぼ同じ内容で違った視点から(おそらく後の時代になって書かれた)歴代誌の具樽があります。神殿の設計ということについて、列王記は何もかたっていませんが、歴代誌はダビデがソロモンにその設計図を手渡した(歴代誌上28章11節)とされています。それにしても、それまでイスラエル人たちは、例の十戒の石の板を収めたと言われる神の箱を安置するという形での聖所を定めていましたが、その場所はいろいろと移動し、その作りは天幕(テント)づくりの簡素なものでした。まさに羊飼いの文化・社会から生まれたものですね。しかしこの神殿は違います。そしてイスラエル人たちには、今まで見たこともないような、初めて目にする建物のはずです。となると、ダビデは、あるいはソロモンはそのモデルをどこから得たのでしょう。彼らのオリジナルだったのならあまり問題ではないということになります。列王記のなかに、のちのイスラエルの王がダマスコにでかけ、そこで目にした祭壇の「見取り図とその詳しい作り方の説明書」をエルサレムに送り、それに基づいて新しい祭壇が作られたという記事があります(列王記下16章10〜11節)。もちろんダマスコの祭壇はイスラエルの神様のためのものではなく、むしろ異教の神々のものだったのでしょうが、おそらくエルサレム神殿そのものも、また周辺の国々の宗教施設のイメージが用いられたと考えるほうが自然でしょう。となると、その神殿がイスラエルはイスラエルの宗教性に大きな問題(変化)をもたらすことになります。つまりイスラエル社会のなかに、他の国の宗教的要素が持ち込まれてきたのです。あの出エジプト記20章の十戒には、イスラエルはヤハウェ以外の神を礼拝することを厳しく禁じられ、またその像(イメージ)を作ることも許されていませんでした(出エジプト記20章1〜2節)。ところがマナセ王の時代には神殿には、異教の祭壇、さらに神の像(=偶像)まで持ちこまれるようになってしまったのです(列王記21章4〜11節)。またその神殿建設のためには、イスラエル人が労役に駆り出されるようにもなり(列王記上5章21節)、かつてサムエルが王様を立てるるといろんな弊害が起こると懸念したことが、一つずつ現実のものとなって行ったのです。
もう皆さんもお気づきのように、イスラエルが王様という政治のかたちを導入したということは、それはまさにイスラエル人の生活、社会的なあり方の根本的な変換となり、それはまさに宗教的にも変質したものと言えるでしょう。そのことはそれ以後のイスラエル人の信仰生活も大きく変化します。というのも部族連合の時代には、各部族がそれぞれに神様を礼拝し契約を結ぶということで、人々にとって神様の礼拝は人々の生活の場と近いところで行うことができました。ところがエルサレムに神殿ができ、そこに例の神の箱(ここでは契約の箱と呼ばれます)が安置される(列王記上8章)と、神殿がイスラエルの宗教活動の中心地化され、人々はエルサレムにやってきて礼拝することが求められるようになります。ソロモンのころにはそこまで礼拝所がエルサレムに集中されることはなかったのですが、のちのヨシヤという王様がイスラエル宗教の改革を行い、王国の各地にあるそれまでの礼拝所(聖所)を廃止、併催して正しい礼拝はエルサレムのみでなされることを宣言しました(列王記下23章)。その宗教改革の根拠となったのがエルサレム神殿で再発見された申命記だったといわれています(申命記26章2節)が、、こうしてますますエルサレムの政治的、宗教的地位は高められていったのです。
ダビデが詩人としての才能を持っていたと旧約聖書で評価されるように、ソロモンも彼の独自の才能によって旧約のなかで記憶されていますが、それが彼の知恵でした。これもイスラエル人たちの信仰生活のなかから生まれた独特のものなのですが、毎日の生活のなかでいろんな困難や試練を回避し、それに耐えるための生き方としての知恵というものが聖書にも記されています。彼が王となったときに神様が彼に望むものを与えようといわれたとき、かれは「正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と祈り、それにこたえて、神様は「今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」として、それが与えられたとされます(列王記上3章)。それによって彼の支配は順調であり、またシェバ(エジプトあるいはエチオピア?)から女王との知恵比べ、それに「大岡裁き」とよく似た二人の母親がどちらの母親かという裁定(列王記上3章16〜27節)などが有名ですね。さらに旧約聖書の文学(ユダヤ教で言う諸書というジャンル)のなかの箴言という書物(31章から構成され、一日一章ずつ読める体裁。生活にも有益な知恵が収められている)は「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」(1章1節)という言葉で始まります。その著者が本当にソロモンなのかどうか、旧約学者たちには議論がありますが、ユダヤ人の伝統のなかに、知恵といえばソロモン、と相場が決まっていたのでしょう。紀元前2世紀ごろにギリシャ語で書かれた「ソロモンの知恵」という書物、カトリック教会ではこの書物も(第二)正典として聖書のうちに含めています。
さてイエス様に「栄華を極めたソロモン」と言われたその時代も彼の死で終わりますが、その死後、イスラエルのなかでまたもや後継者争いが起こり、初代のサウル王を支持した北のイスラエルの各部族と、ダビデを支持してきた南のユダ族との争いという形で衝突が起こり、ついに王国は分裂して、北にはヤロブアムという人物を王とする北イスラエル王国が、南にはレハブアムを王とする南ユダ王国が成立します。それ以後は南北二つの王国がそれぞれに並存するのですが、どちらの国の王様もなかなかイスラエルの神様の眼に叶うような政治を行わず、結局まず北イスラエルがアッシリア帝国によって、その後南ユダ王国がバビロニア帝国によって滅ぼされて、王国の歴史が終わってしまったのです。私はつい、自分の関心がこの王様の時代にあるもので、もっといろいろ書きたいこともあるのですが、もういい加減にして、サムエル記、列王記をみなさんにお読みいただくことをおすすめします。面白いですよ。
第二十回 預言者の主張