2023年1月1日 芦屋キリスト教会 降誕後第一・イエス命名日・元旦 主日礼拝
説教「1月1日日曜日の三つの意味」 田淵 結 牧師
聖書 ●クリスマス後第一日曜日のために:ヘブライ人への手紙2章10~18節
●イエスの命名日のために:ルカによる福音書2章15~21節
●元旦のために:マタイ福音書25章31~46節
●ヨハネ黙示録21章1~6a節
◆あけましておめでとうございます。さて2023年、芦屋キリスト教会の毎週の礼拝では世界的に用いられている聖書日課 (Lexionary: Reproduced from Revised Common Lectionary Daily Readings, 2005 Consultation on Common Texts admin. Augsburg Fortress.Year A)に従って聖書の箇所を読んでいきますが、1月1日の日曜日には三つの意味が重ねられています。第一はクリスマス後最初の日曜日としてヘブライ人への手紙2章10~18節、第二はイエスの命名日のルカによる福音書2章15~21節、三つ目は元旦としてマタイ福音書25章31~46節およびヨハネ黙示録21章1~6a節、とそれぞれを考えるための聖書の箇所が選ばれていました。
◆ヘブライ人への手紙は、イエスが私たちのもとに来られたことのもっとも大きな意味は、十字架の死を通じて最もはっきりと示される贖罪者、つまり私たちの弱さと罪をご自身で負われたということが強調されています。ルカによる福音書では羊飼いたちが見聞きしたことが天使の告げた通りであったこと、そして8日目にマリアが天使に告げられたように「主ヤハウェはわが救い」という意味の「イエス(ヘブライ語ではヨシュア)」と名付けられたことが語られます。元旦のための聖書記事は、私たちのこの新しい一年間、イエス・キリストに仕えることを日常の生活でどのように具体的に行うべきか、そのための大きなヒントが語られています。
◆みなさんは今年の1月1日の日曜日をどんな日曜日として迎えられますか? やはり元旦でしょうか。でも今日の三つの日曜日の意味のどれを読むにしても、そこに共通するものは、クリスマスに私たちがお迎えした幼子イエスこそが、私たちにとってもっとも親しく、つねにともにおられて、神様の私たちに対する愛、かかわり、導き、そしてゆるしを常に示し続けてくださる方であることを、2023年のスタートに改めて心に刻むことなのです。
◆祈りましょう:神様2023年が始まりました。西暦が実はA.D.(Anno Domini: 主が支配される)と呼ばれることの大切さを私たちが改めて覚えつつ、この一年の歩みを始めることができますように。あなたの導きと支えとを祈ります。ベツレヘムに生まれられた主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
2023年1月8日 芦屋キリスト教会 待降日後第二・イエス受洗日 新年礼拝
説教「わたしの心に適う者」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書3章15~27節
◆改めましてあけましておめでとうございます。この一年が皆様にとって祝福に満ち、豊かなものとなりますように心からお祈りいたします。さて、キリスト教のカレンダーでは1月の最初、いろんなことを記念する日が連続します。1日はイエスの命名日でしたが、6日は降現日(エピファニー、東のからの学者たちがイエスを礼拝した日)、8日はイエスの受洗の日となっており、今日の礼拝はそのことを覚えてのものですが、それをクリスマスの流れのなかでお祝いすることはやや違和感も感じます。マタイによる福音書は1章から2章までがイエス誕生つまりクリスマスの物語で、3章からイエスの伝道活動が始まります。イエスご自身の生涯で考えると、2章と3章との間には30年ほどの時間の開きがあり、その3章にイエスの受洗について記されるとういうことは、それはクリスマスの出来事とは別のことのように思えるのです。
◆洗礼というのは、実は旧約聖書では見られず、今日のヨハネについての記事が聖書では最初です。ここでヨハネはユダヤ教によって生きて来た人たちに、今までの歩みのなかでの問題点を指摘し、それを改めて、これまでの過ちを流し去り、水のなかに身を沈めて古い自分に死に新しく生まれ変わることを求めて洗礼(バプテスマ)を人々に求めました。そこにイエスが登場し、彼から洗礼を受けたいということを申し出ます。洗礼を受けたのち、イエスがヨルダン川の流れから上がると、天から「「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響きました。イエスが神の子であるという宣言がなされたのです。
◆ひとつクリスマスのことを考えてきた私たちがこの言葉を読むと、イエス誕生の知らせを羊飼いたちに告げた天使たちが「地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ福音書2:14)という言葉が思い出されます。私たちが神様のみ心に適うということは、何よりもイエスご自身がそうであり、私たちのモデルというか原型として私たちのあるべき生き方を示されたのでしょう。その最初が洗礼を受けるということ、それは今までの古い自分からまったく新しい生き方へと踏み出すための第一歩であることを、まずイエスは私たちに示されたのです。
◆祈りましょう:神様、クリスマスを迎え、新年を始めようとするとき、どうぞ私たちが今までとは違った新しい第一歩を歩みだそうとしていることを強く思い起こすことができますように。あなたに愛され、あなたの御心に適う生き方、それを求め続ける一年の歩みをなさせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2023年1月15日(日)芦屋キリスト教会日曜 顕現後第三主日 メッセージ
メッセージ 「神の子羊」 牧師 田淵 結
聖書 ヨハネによる福音書1章29~42節
◆先週の日曜日はイエスの受洗日で、マタイによる福音書からその出来事を考えました。今日のヨハネ福音書はそのことをめぐるヨハネとヨハネの弟子たちのお話ですが、そこで話題となるのは、イエスとは何者か、「神の子羊」「聖霊に洗礼を授ける人」「神の子」さらに「メシア」とヨハネとその弟子たちが語ります。その一つ一つがキリスト教にとって重要な意味をもつ言葉ですが、ここでは「神の子羊」がほかのすべての言い方のなかで大きな意味をもっているのでしょう。
◆「世の罪を取り除く神の小羊」(ラテン語でAgnus Dei, qui tollis peccata mundi
カトリック教会のミサでも毎回唱えられる)は、当時のユダヤ人たちの宗教的儀式において犠牲の捧げものされるもの、ヨハネが考える「神の子」「メシア」が福音書の冒頭ですでに十字架の死が予告されるのです。マタイ福音書のクリスマス物語でも、東方の学者たちが新しく生まれたイエスを「ユダヤ人の王」と呼びますが、その言葉こそイエスの十字架に掲げられた称号でした。
◆クリスマスが「喜び」の時であること、それはまさにわたしたちの弱さ、過ち、そして罪を共に担うために、キリスト教独自の言い方では「贖う」ために来られたことがとても大きな意味を持ちます。だからこそクリスマスから始まるイエスの生涯が、私たちに希望と慰め、そして希望と深い喜びを与えるものとして、一年を通じていつも覚え続けられ、祝い続けられるべきものなのです。
◆祈りましょう:神様、あながた私たちのためにイエス・キリストを遣わされたこと、そのイエスと共に歩み、イエスに聞き、学び、従う一年を歩ませてくださいますように。主の御名によっていのります、アーメン。
2023年1月22日(日)芦屋キリスト教会日曜 顕現後第三主日 メッセージ
メッセージ 「二人はすぐに」 牧師 田淵 結
聖書 マタイによる福音書4章12~23節
◆クリスマスから新年の聖書の日課はイエス様の受洗そして伝道活動のはじまり、今日は弟子を招かれた物語です。「人間をとる漁師」としてシモン・ペトロとアンドレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ(洗礼者ヨハネとは別人)がまず招かれました。彼らはガリラヤ湖の漁師であったようですが、イエスに声をかけられると「すぐに」従った、と記されています。ただし彼らがなぜそうしたか、ということは一切かかれていません。
◆イエスに従う、教会的な言い方をすればキリスト教の信仰を持つ、ということをどう皆さんはお考えになりますか。この四人のように「すぐに」決断おできになりますか。個人的なご事情、ご家庭の状況、さらに現代では「宗教」への警戒心、こうして現在日本のキリスト教全体での「信者数」はかなり減少してきています。その反面、ある意味「熱心」な活動を展開する宗教団体への入信者はかなりおられるようですが。
◆イエスの弟子となる、それは非常に単純なことなのでしょう。迷いや疑いなどにとらわれるということはやはりイエスの招きに応えられないということでしょう。ただし福音書を読むと、イエスに従おうとした人たちややがてイエスのもとを去ります。この四人もイエスが逮捕されるときイエスを見捨てます。ただし本当にイエスに従うかどうかは、それからなのです。イエスとともに歩むことに招かれた私たちは、それでもイエスに招かれ続けている、ゆるされ、愛され続けているのです。私たちの側がどうであろうとも。
◆祈りましょう:主イエス・キリストの父なる神様、あなたが私たちを選び、招き、そしていつまでも愛し続けてくださることを感謝します。どうぞいつもあなたの愛のうちに留まる一人とならせてくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
2023年1月29日(日)芦屋キリスト教会日曜 顕現後第四主日 メッセージ
メッセージ 「幸いなるかな」 牧師 田淵 結
聖書 マタイによる福音書5章1~12節
◆聖書を日本語に翻訳するとき、どうしても日本語らしい文章とするために原文の言葉の位置が変わってしまいます。今日のマタイ福音書も、原文は「幸いなるかな」で文章が始まります。意味が通じれば同じというところですが。
◆条件があって結果がある、こうすればあなたはこうなる、となると条件のほうに重みが出てしまいます。でもまず結果として、あなたは幸いだ!といわれることで私たちは勇気づけられるのです。幸いだ、だからこう生きるのだ、ということですね。
◆私たちの毎日はどこかで、こうすればこうなる、という条件づくりにあくせくしてしまいます。そしてやっぱりそれはできない、とあきらめがちです。でも聖書を通じて語られるイエス・キリストのメッセージの基本は、あなたは神様に愛されている、だからこういう生き方ができるのだということなのです。問題は私たちがその「幸い」に気づいているか、なのですが。
◆祈りましょう:主イエス・キリストの父なる神様、何よりもあなたが私たちをまず愛してくださることを感謝します。だからこその毎日の生活、生き方へと導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2023年2月5日(日)芦屋キリスト教会日曜 顕現後第五主日 メッセージ
メッセージ 「地の塩であること」 牧師 田淵 結
聖書 マタイによる福音書5章13~20節
◆あいつは右だ、こいつは左よりだ、などいう言い方が盛んに交わされます。ではイエスはどちらでしょう。ユダヤ教への批判を続け、やがて十字架刑に処せられるというところは、ユダヤ教から見れば革新派でしょうか。でもイエス自身はその働きをユダヤ教の律法を「廃止するためではなく、完成するため」だと宣言します。むしろユダヤ教の主張を徹底しようとする姿勢は、徹底的に保守的ですね。
◆なぜそのイエスがユダヤ教から否定されるのは、ユダヤ教全体のあり方が中途半端になっている、自分たちに都合よく解釈してやり過ごす姿勢にあったようですし、イエスの批判はそこに向けられています。私たち自身の姿勢もそうで、私たちは右か左かということではなく、自分にとって都合よく暮らしています。それは現実的な生き方ですし、私たちはお互いへのレッテルを張りあう前に、自分たちの姿です。その私たちにイエスのメッセージが語りかけられるのです。
◆「地の塩、世の光」というシンプルなたとえですが、塩が塩であり続けるという単純な事実からこそ、塩の役割が確実に発揮されるのです。私たちがイエスに招かれ、愛され、従い続けるというその部分において、私たちはもっとも保守的であるべきことをイエスは強調します。
◆祈りましょう:主イエス・キリストの父なる神様、何よりもあなたが私たちをまず愛してくださること、その単純な事実を今日も感謝します。だからこそれにふさわしい毎日の生活、生き方へと導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。