礼拝メッセージ(ビデオ)
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9月21日(日)三位一体節第十五主日
(本日のビデオはUnfinished Communityのご厚意で提供させていただきます)
聖 書 ルカによる福音書 16章1~13節
●今日の聖書の箇所は何とも不思議というか、そんなんでええの? と関西弁で言いたくなる内容ですね。「不正にまみれた冨で友人を作りなさい」。イエスは不正な富を認めているのでしょうか。そうだと思えますね。主人の財産をごまかしていた管理人(番頭)が、それがばれても自分を助けてくれるようなつながりを作っておこうと手を打っておいた、そのやり方を主人がほめたのです。じゃあ私たちも、適当に会計をごまかし、私欲を満たしながら生きていけばいいということなのでしょうかねぇ。
●そのように書いてありますが、もうひとつひねった言葉もあります、「不正にまみれた冨について忠実でなければ・・・本当に価値かるものを任せるだろうか」。イエスの指摘は、私たちの根本的な姿勢のようです。つまり不正な富を用いてでも自分が助かることに必死となれる人は、不正な富に必死になっているのではなく自分の命を守ることに集中している。そうなると本当にその不正な富が最後まで自分を救ってくれるのか、それ以上により確かで信頼できる「救い」に気づくとき、最後にそれを求めるのではないかという指摘です。だから究極の問として神か富か、という表現にたどり着きます。
●その管理人が不正に手を染めたのは、そのときに自分の欲を満たしたいということからだったでしょう。でもそれは満たされたのでしょうか。不正な富を使って得た友人たちは本当に永遠の住処を与えてくれるのでしょうか。そのような関係が与えてくれる友情ってどこまで確かなのでしょう。おそらくこの管理人はそのときうまくいったとしても、ただ生きるためだけにそれを繰り返すことの虚しさを痛感させられることになるのでしょう。主人がほめたのは、不正ではなく本当に助かりたいという彼の気持ちだったかもしれませんね。そのときごめんなさいと言わなかった、言えなかったにしても、彼はなんとか助けを、救いを求めている、その生きざまが認められたのでしょうか。
●祈りましょう、神様、私たちは様々な誘惑のなかに暮らしています。そのなかであなたは「試みにあわせず、悪より救い給え」といのることを教えてくださいました。試みのなかでしかし、あなたの身を見上げ、その救いを信じて歩み続けることができますように。その祈りを教えてくださった主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします、アーメン。
9月14日(日)三位一体節第十四主日
●今日のルカによる福音書15章は全体で「失われたものを見つけ出す」というテーマで4つのたとえ話が集められており、前半の2つは比較的短く、後半に有名な「放蕩息子」の物語が続きます。いわば今日の聖書個所は後半への序文となっているのかもしれません。最初は100匹のなかで失われた1匹、二つ目は10枚の銀貨のなかの1枚、それらが失われたということで、持ち主がそれを一生懸命探して見つけるということですね。後半は二人の兄弟のうちの一人が家出をしてしまう、ということはよくご存じでしょう。
●ルカ福音書15章のこの3つのお話を読みながら、いつも考えさせられるのが分数という発想です。最初は100分の1、二つ目は10分の1、そして最後は2分の1。パーセントで表すと1%、10%そして50%です。そして私たちはその分数の分母が大きいほど分子が同じ1であることの大切さ、意味を感じられなくなってしまうのではないでしょうか。でもどれだけ分母が大きく、自分は全体の1%でしかなく思われても失われた当事者?にとってはすべて、100%なのです。イエス様がこの三つのたとえ話を並べておられるのも、私たちがつい全体の何パーセントという発想にとらわれて物事をとらえることへの警告をしておられるのでしょう。
●私たちの社会はつい多数決ということ、数は力ということがいわれます。そのことに対して100匹の羊たちは同じように大切な存在である1匹が100集まっているはずですし、1枚の銀貨の価値はほかの9枚の一枚一枚と同じです。1匹ぐらい、一枚ぐらいいいじゃないか。まだほかにあるから、という考えは実はとても危険だし、もし一人ぐらいということであなたが無視され忘れ去られることは、私たちとしては受け入れられないはずなのです。小さきもの、少数者、そのひとりの大事さが見失われることの恐ろしさがこのテキストには込められています。
●祈りましょう、神様、私たちがそれぞれにあなたに愛され、守られている一人であることを覚え続けられますように。その一人ひとりの集まりとしての私たちの群れ、教会をあなたが導いてくださいますことに常に感謝し続けられますように。幼子を、弱きものを。小さいものを慈しみ愛された、主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
2025年7月27日(日) 三位一体節第七主日
芦屋キリスト教会創立100周年記念礼拝
聖書 ハガイ書1章8節 ルカによる福音書 11章1~13節
●神様の導きということを実感されたことがありますか。私は毎週日曜日の教会メッセージを書くたびにそれを強く感じています。毎週日曜日、どんなメッセージをと思うとき、もちろんまず聖書日課を確認するのですが、本当にそのときにふさわしいテキストがいつも与えられていることに、驚きと感謝を覚えさせられるのです。そして今日の教会創立100周年記念礼拝では、ルカ福音書11章の主の祈りの箇所でした。本当のところ、私たちはどう祈るべきかわかっていない、だから「こう祈りなさい」とイエス様が教えてくださることは、私たちにとって何よりも重要なことでしょう。
●今日ここで主の祈りの解説をすることはできませんが、そこに「求めなさい、そうすれば与えられる」というメッセージが含まれていること、まさに私たちの教会の100年の歩みを支えてきたのがこの一言だったのかもしれません。今日私たちの新しい礼拝堂のための起工式を行いますが、そのときに読まれる旧約ハガイ書1章8節の言葉、これはまさに100年前に私たちの先達が、最初の礼拝堂を建てようとするときに「与えられた」言葉だそうです。そのときの芦屋組合教会には十分な資金もなく、メンバーもなく、あったのはここに教会を建てようとする志のあった人々の祈りでした。
●創立100周年を記念して、私たちも今日から新しい礼拝堂の建築を始めますが、まさに資金も乏しく、メンバーも少ない、しかも今や芦屋市にはキリスト教の教会が10ぐらいありますから、なにも私たちの教会がいまさら新しい礼拝堂を建てなくても・・・というところでしょう。でもこの教会を必要としているのは誰でしょう。誰がそれを実行されるのでしょうか。私たちだけの希望、満足、願いではまったくありません。ハガイ書に語られる神様の命令、バビロン捕囚という異国での苦しい状況から帰還したばかりの、本当にみすぼらしいイスラエルの民に神様が神殿建設を求められたのです。だからこそ、私たちは建物としての教会を建てはじめるのではなく、改めて神様からの求めがあるからこそ、神様の意思がそこあるからこそ、まさに「みこころをなさせたまえ、という祈りのなかで、新しい礼拝堂建設への業を始めるのです。
●祈ります、神様、この100年にわたってあなたは私たちを導き、支えてくださいました。同じようにこれからも私たちがあなたの導きを信じ、それに従い続ける群れであらせてください。建築の業を、その工事の安全を守ってください。それに携わるすべての人をあなたが守ってくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン
2025年7月13日(日) 三位一体節第五主日
聖書 ルカによる福音書 10章25~37節
●よきサマリヤ人のお話は、もう何度も何度も皆さんも聞き、考えられてきたことでしょう。私自身ももうこれ以上ここで何をお話すればと悩んでしまいます。私たちもよきサマリヤ人のように、相手の立場にとらわれないで、助けを求めている隣人を助けましょう、ということで十分なのかもしれません。
●この物語の登場人物のなかで、実は今まで私もまったく気にもかけていなかった人の存在に気づかされます。宿屋の主人です。この人はおそらくユダヤ人だったと思われますが、その人がある種差別感情を抱いているサマリヤ人の要求に応じて重症の人を介抱したのですね。うちはサマリヤ人なんかのいうことを聞かないぞ、他に行ってくれともいわずに。それは彼がビジネスマンだったからでしょう。
●ハラリさんの著した『ホモサピエンス』という書物に、中世イタリアでは、イスラムの発行した金貨をイタリア商人たちはよろこんで受け入れたことが記されています。でも本当のビジネスマンシップというものは、相手の人柄や民族、文化などの差別なく、利益というところでお互いを平等に台頭に見る関係なのでしょう。だからこそビジネスの利益が、もっとよりよい社会建設のためにこそ、用いられるべきなのでしょう。メソジスト教会の創立者ウェスレーの言葉に、「精一杯稼げ、精一杯貯めよ、そして精一杯捧げよ」という言葉を思い出します。
●祈りましょう、神様、本当に相手の立場を超えて隣人を愛するということのできる私たちにしてください。そのことを実現するための知恵をお与えください、主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年6月8日(日) 聖霊降臨日(ペンテコステ)主日 説教 「わたしもあなたがたのうちに」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 14章8~27節
●5月後半からずっと教会の礼拝では、イエスが、十字架刑、埋葬、復活ののち、弟子たちと再会し、40日間を地上で過ごされ、そして天に帰られてゆくというなかでの、イエスが地上の弟子たち、そして私たちに遺されたメッセージを考えてきました。互いに愛し合いなさい、イエスの平和を受けて止めなさい、一つになりなさい、そして今日はその最後に神様がイエスのうちにおられ、イエスが私たちのうちにおられるということを語られました。
●旧約聖書創世記の最初に人間が土から造られたとき、神様は「命の息」を吹き込まれたので、私たちは「生きる者」とされたのです。私たちは生きているのではなく、神様の息吹をそのうちにしながら生かされているのです。使徒言行録2章の聖霊降臨の出来事はまさにそのことを改めて私たちに確信させるものでした。そのことを深く私たちが覚え続けるからこそ、私たちはイエスの残された教え(Testament)を実行することができるのです。
●パウロは私たちを「土の器」と呼びましたが、そのなかに偉大な宝を秘めていること。だから私たち自身の欠けの多さ、弱さ、罪深さにもかかわらず、私たちは今日の聖書でも教えられるように、もっと大きな業を行うことができ、願うことが何でもかなえられるのです。芦屋キリスト教会の100年の歴史が、まさにこのことによって支えられ、今日を迎え、第二世紀に向かって歩みだすことができることを感謝し、ともに祈り続けましょう。
●神様、私たちは今日、弟子たちの上にあなたの聖霊が注がれたこと、それによって彼らが世界中にむかって福音を語り始め、教会の礎が築かれたことを改めて覚えました。そのひとつの枝として私たちの教会があることを、その一人として私たちが今生かされていることを感謝します。あなたのさらなる導きと支えとを祈ります、教会の主、イエス・キリストによって祈ります、アーメン。
2025年6月1日(日) 復活節第七主日
聖書 ヨハネによる福音書 17章20~26節
●ヨハネによる福音書17章は、イエスがユダヤ人たちにとらえられ、十字架刑につけられていく直前のイエスの祈りの言葉となっており、そこでイエスは、後に残される弟子たちを神様が守ってくださるようにと祈ります。それは弟子たちひとりひとりを守るため、というよりもかれらが「一つであるために」と語られています。一致団結、などという言葉にもあるように、一つになることが、後に残される仲間や集団をより強くすることになるというのはよくわかりますが、その一つになるという言葉を、私たちはよく注意して考えなければなりません。
●聖書のなかで「一つ」という言葉がかたられるとき、それは私たちが考える者とは全く逆の意味、つまり私たちひとりひとりの多様性、違い、独自性を発揮するため、というところがあるのです。決してみんなが同じユニフォーム(一つのフォーム)となることではないのです。パウロは私たちの体が一つであるということを語るとき、そこに目、耳、手、足、それぞれに違った働きを持っていることをしっかりと認めています(コリント一12章)。それぞれが多様性を発揮するときに、それぞれに「分裂が起こらず、互いに配慮しあう」ことによって全体が一体であることができるのです。
●まさにイエスを天に見送った弟子たちは、ペンテコステの経験をしたのち、それぞれの個性を発揮してイエスの教えを世界中に伝えました。前にお話をしたトマスはインドまで出かけたとされていますが、それぞれがそれぞれの仕方で、しかし一つのイエスの福音を語り続けたのです。パウロのように復活のイエスと出会うという彼独自の体験から福音を語り続けました。それが教会という場所の原点です。キリスト教全体もそうですが、私たちはそれぞれ一見するとバラバラのように見えてきます。しかしそのすべてが神様に愛され、イエス様の働きを担いあうというときに、それぞれの違いを尊重しあい、受け止めあい、ときには容認しあうことのなかで、教会が一つであることが確かめられるのです。そしてその一つであることを実感するとき、そこで私たちはイエス様の教えの確かさ(=真理)を実感するのです。
●祈りましょう。神様、私たちはすぐる木曜日に、あなたが天に帰ってゆかれたことを覚えました。いよいよ私たちが地上において、あなたのおられる天を見上げながら、私たちの務めを果たしてゆくことになります。それぞれに与えられた賜物、可能性を生かしながら、私たちなりにそれぞれがなしうるあなたへの奉仕、礼拝を続けることができますように。その私たちすべての者とともに、同じ一人の主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年5月25日(日) 復活節第五主日
メッセージ 「わたしの平和を与える」 田淵 結 牧師
聖書 新約 ヨハネによる福音書 14章23~29節
●キリスト教のカレンダーでは、イエスは十字架の死からよみがえって弟子たちと40日の間を地上ですごし、その後天に昇られたということで、今年は5月29日がイエスの昇天日になります。『私は去っていくが』という言葉の意味を改めて考えさせられます。復活のイエスが地上から去る、ということは弟子たちにとっては再び大きな不安を思わされることでした。十字架の死でイエスを失ったあの思いがまた、という感じですね。
●そのときイエスは「平和を与える」と語られます。ここでの平和の意味は戦争や社会的なものだけでなく、私たちにとって自分の中にある不安、個人的な思いわずらいをも含んでいるようです。イエス様がいてくださればまだなんとかなるのに、そのイエス様が去って行かれてしまったら、と思うだけで不安ですね。その私たちにイエスは「平和を」と語られるのです。
●そんな不安を覚える私たち、それはまさに今まで語られてきて、聴かされてきたイエス様の言葉への信頼を持ち切れていないのでしょう。イエス様が山上の説教で「思いわずらうな」(マタイ6:25-)と教えてくださっているのに、それ信じられないのです。私たちがいつも不安を感じる、落ち着かないその状態こそ、私たちがイエス様を見失っている姿なのでしょう。だからこそそのとき、私たちはイエス様への語りかけ、祈りが求められるのです。
●祈りましょう、神様、どうぞ私たちにイエス様が与えてくださった平和をしっかりと受け止める一人としてください。だからこそ祈り深く日々を過ごすことができますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年5月18日(日) 復活節第五主日
新約 ヨハネによる福音書 13章31~35節
●「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」今日の聖書の箇所について、こんなに基本的なことについてこれ以上なにをお花すればいいのでしょうか。キリスト教が隣人愛の教えを中心とするというとき、もう私たちはそのことを十分に理解できている、・・・のでしょうか?
●今日のヨハネ福音書の記事には、つい私たちが読み落としてしまう部分が含まれています。『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』のです。つまりイエスが私たちのもとから去って行かれるということのなかで、隣人愛について語られているのです。イエスが私たちの身近におられないときに、私たちの間でイエスの存在を確かなものとして受け止めるために、私たちはお互いに愛し合うのです。
●イエスの教える隣人愛は、私たちがそれぞれの自分なりの思いのなかで愛し合うことではなく、イエスが人々を愛されたように愛し合うことなのです。だからこそ私たちは聖書を読み、それに学び、教えられ、そして私たちの行いを祈りのなかで正され続けるべきなのです。
●祈りましょう、神様、私たちがお互いに愛し合うというもっとも基本的な行いのなかで、なによりもあなたに従うひとりであることを覚えることができますように、どうぞお支えください、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年4月27日(日) 復活節第二主日
聖書 ヨハネによる福音書 20章19〜31節
●イエスの十二人の弟子たちについて、ペテロのようによく知られている人もあれば、あまりそうでもない一人もあり、そのひとりがトマスですね。彼はヨハネ福音書には何度か登場しますが、ほかの福音書には現れません。しかしヨハネ福音書ではかなり「熱い一人」としても描かれます。そしてイエスの復活も、すぐには認め(信じ)られなかったのです。
●ところが、その後キリスト教が世界的に広がりを見せ始める中で、彼についての伝説はとても興味深いものです。彼はやがて中近東からインドにまでイエスの教えを広めたとされるのです。今でもインドのキリスト教にとってトマスの存在はとても大きいものとされています。
●復活の不思議さについて、先週のイースターの礼拝でもお話をしましたが、イエスの復活をすぐに受け入れられなかった彼にとって、それをいったん受け入れるということが、その後の彼の生涯を支えるものとなったのです。復活とは、自分がすぐに理解できるものを超えるもの、だからそれまでの自分を打ち砕いて新しい自分を創り出す力となったのです。
●祈りましょう、神様、復活を私たちの知識のなかではなく、私たちの存在すべてを導く力として受け止めさせてください。主の支えと導きを、復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年4月20日(日) 復活主日(イースター)
聖書 ルカによる福音書 24章1〜12節
●イースター、おめでとうございます。実は先週も私たちにとって受難週だということがどれほどリアリティがあるのかな、とお話をした続きですが、受難週、そして受難日(イエスの十字架の死)のリアリティが薄ければ、またイースターも同じことでしょう。そういえば今年はあまり街中でイースターにちなんだ広告などを見かけないようです。でもそんな感覚は現代の私たちだけではなく、イエスの弟子たちの間でも「それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」のです。
●しかし復活の日の朝、イエスの墓を訪れた女性たちと復活を信じなかった弟子たちとの間には大きな違いがありました。福音書によると弟子たちはイエスが逮捕された後、イエスから離れてしまっていましたが、女性たちは、先週みなさんで読んだ聖書(ルカ福音書23章)の通り、群衆がイエスを「十字架につけよ」と叫ぶなかで、その事態を遠くから見守り、そしてイエスの遺体が十字架から降ろされたときイエスの埋葬を見届け、その葬りのための用意を整えていたのです。
●最近、私たちの周囲でよく耳にする言葉に「不確実性(uncertainty)」ということばがあります。まさに弟子たちにとって、イエスの逮捕、十字架上の死はこれまでのイエスへの信頼を失ない、不確実さのなかに投げ込まれる思いだったのでしょう。しかしそんな状況のなかで彼女たちは、なおイエスを信じ、そこに確かさを感じ取っていたのでしょう。イエスのそばから離れずにいること、それがどんなに苦しい状況のなかでも、彼女たちにとってなすべきこと、それによってイエスとのかかわりが途切れることがないことを信じたのです。彼女たちこそ、生前のイエスの言葉を身をもって受け止めていたのでしょう。
●祈りましょう、神様、イースターの不思議さを感じるとき、それを超えて私たちにその確かさを、それを通じての喜びと感謝とを与えてください、復活の主、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年4月13日(日) 棕櫚の日曜日
聖書 ルカによる福音書 23章1〜56節
●いよいよ長い40日間の受難節のシーズンも13日から最後の一週間、受難週となrます。イエスが最後の晩餐を弟子たちとともにし、ゲッセマネの園で祈っているところに、イエスを裏切ったイスカリオテのユダに率いられた群衆が押しかけ、イエスを捕らえ、最初は大祭司カヤパによって、次にローマの総督ピラトのもとで尋問され、十字架によって処刑されることになります。その後イエスは自ら十字架を背負ってゴルゴダと呼ばれる刑場に行かされ、磔刑に処せられ息を引き取ります。その後イエスに従っていた女性たちによって墓に納められるところで受難週の物語は終わります。
●今日の聖書の記事は、その展開の一部ですが、その物語で中心的な役割を果たすのが、ピラトでもバラバでも、クレネ人シモンでもなく、群衆なのです。ユダヤ人の指導者たちに扇動されて熱狂化してしまった群衆の動きに、ローマ総督も逆らえなかったのです。もし反乱や暴動でも起きれば、彼の責任を厳しく追求されるからでしょうか。その群衆の叫びのなかでイエスは十字架に押しやられ。群衆は最後までイエスを罵り続けるのです。
●私たちは、ではそんな群衆の前でイエスのために弁護をしたり、イエスをかばったりできるでしょうか。むしろ自分たちも袋叩きにされてしまうのを恐れて、黙って状況を見守るしかないでしょう。それが私たちの罪の現実です。私たちは熱狂する群衆を批判することなどできずに、その行動の前に無力さを感じるのでしょう。群衆の動きの恐ろしさ、、だからこそそのなかに巻き込まれずに、でもそれを黙認しないで、ということの重要性を問われ、そのなかで自分の無力さに向き合う、それが受難週なのでしょう。ドイツの受難週に歌われる讃美歌、「人よなんじの罪の大いなるを嘆け」こそ、私たちの現実を映し出すのです。
おお人よ、お前の数々の大いなる罪を嘆け・・・
定めの時が迫り、
私たちの犠牲となられる時が来て、
私たちの罪の重い荷を背負われた。
十宇架に架けられたまま、長い間。
●祈りましょう、神様、私たちの弱さ、罪を強く思い起こします。そんな私たちのために十字架に架かられたイエス・キリストを見上げつつ、この一週間を歩ませてください。主よ、あわれんでください、アーメン。
2025年3月23日(日)受難節第三主日
聖書 新約 ルカによる福音書 13章1~9節
●イエス様がおられた時代のイスラエル、それは決して安定した毎日が過ごせる状態ではありませんでした。なによりもイスラエル人にとってはローマ人の支配のもとで、総督ピラトの蛮行のようにいつ何をされるかわからない不安がつきまといますし、自然災害もありました。
●社会不安のなかで、人々はいつしかその原因を求めますし、それを誰かのせい、犯人がいるはずだとその責任を押し付けようとします。誰かがスケープゴーツ(犠牲の山羊)にされてしまうのです。そのときイエスは、そこに生きるすべての人の中にある問題を指摘します、悔い改めのなさ、です。
●私たちは何を悔い改めるのでしょう。それは私たちが本当に確かなものをよりどころにしないままに毎日を過ごしていることに気づくことです。不安定だからこそ、それをすぐに解決、解消しようとして浮足立った行動をするのです。でもこの園丁はイチジクの実が必ずなることを信じて待ち続けるのです。結論を急ぎ、すぐに答えをだそうとする姿勢のなかで、私たちの不安定さ(罪深さ)がますます深まってゆくのです。
●祈りましょう、神様、私たちが本当に確かなもの、あなたを信頼して生きることのなかに、私たちの落ち着きを取り戻させてください。イエス様の愛の中に生きる安らぎを与えてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2026年3月16日(日)受難節第二主日
(本日のビデオ前半部音声が聴きとりにくくなっています、申し訳ありません)
聖書 ルカによる福音書 13章31~35節
●私が神学生のころ、あるアメリカ人宣教師で新約学の先生から、ヨハネ黙示録から説教をしないようほうがいい、ということを言われました。その書物は聖書の最後の書物で、内容は世界の終わり、最後の審判などの記述にあふれていて、それが私たちにどんな意味があるのかすぐに読んでもよくわからないところがあり、それをとても極端に解釈することになってしまいがちだからだそうです。
●今日のルカによる福音書の記事もある意味黙示録的で、イエスが自分の教えを拒否する人たちへの厳しい審きが下ることが語られているのですが、ではイエスを信じている私たちは大丈夫、それでいい、と簡単に解釈してしまえないところがあります。私たちは常に、イエス様の招きに応えて、その翼の下に集まっているでしょうか。私たちは確実に、イエス様に毎日お会いできているのでしょうか。
●受難節(レント)の期間、毎日私たちとイエス様との出会いを確かめつつ過ごす毎日を過ごすときなのです。今日はどんなところで、どんな形で私たちはイエス様とともに歩んだのでしょうか。そしてどこで「主の名によって来る者に祝福あれ」とイエス様に語り掛けたでしょうか。イエス様がエルサレムに入城されたとき、人々はこの言葉によって歓迎しましたが、すぐにその人々が十字架に架けられたイエス様を罵ったのでした。
●祈りましょう、神様、どうぞ私たちが日々、イエス様の出会いを確かめつつ過ごす毎日を過ごさせてください。イエス様の愛を確かに感じつつ、受難節を過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年2月16日(日)公現後第6主日
・新約 ルカによる福音書 6章17~26節
●今日の聖書の箇所は、聖書日課によってルカ福音書の6章ですが、この記事とよく似たものがマタイによる福音書5章に「山上の説教」として記されています。そして内容もそれぞれに違っています。ルカ福音書では、貧しさー富、飢えー満腹、ののしりーほめる、ということがテーマとなっています。そしてその語られた場所も、マタイの言う山上ではなく平地となっています。
●平地、それはただ低い土地という以上に、私たちが生きている場所、長谷川初音牧師の説教でいう「娑婆」なのです。さてそこで生きる私たちを取り巻く環境、状況、イエスはまさにそのことについて語ります。貧しさ、飢え、誹謗中傷に満ちた世界です。それが人間の社会ですね。
●イエスが、あなたの隣人を愛しなさい、と本来あたりまえのことを敢えて強調されるのも、娑婆の現実をご自身も知り尽くしておられ、十字架上でも人々にののしられたからです。だからこそ、そこに私たちは神様の愛、守り、導き、そしてイエスを通しての信仰なくしては生きられないのです。いやそれらがあるからこそ、私たちは毎日を生き続けることができるのです。
●祈りましょう、神さま、私たちとともにいてください。あなたの愛で私たちの歩みを守ってください。イエス様こそ私たちの娑婆での毎日の導き手であることを信じます。主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年2月9日(日)公現後第5主日
聖書 ルカによる福音書 5章1~11節
●今日のルカによる福音書の記事は、私にとってはとても思い出深いもののひとつです。神学部の学生であったときに、札幌の北星学園女子中学高等学校で教育実習をさせていただいたときに、一人の中学一年生の女子生徒さんが、この聖書のことばからお話をしてくださったことが、今も強く印象に残っています。近江兄弟社学園の卒業生であった柴田勝先生が担当しておられたその聖書の授業では、この聖書の箇所を絵に描いてみましょう、ということでした。みなさんならどんな絵を書きますか?
●彼女は、小舟の上でイエスが岸辺の群衆に話している横にいたはずの、シモン(ペテロ)を描いたのです。半分ウトウトしながら、イエスが話している横に座り込んでいる姿です。彼女がそんな光景に注目したことなど、とても独創的ですが、おそらくシモンにってそのときのイエスの話などほとんど興味なく、昨夜の不漁の埋め合わせにイエスが小舟の使用料でも払ってくれればということだったのです。
●「網を降ろして」というのはそんなシモンには驚きだったことでしょう。そんなことにして何になる、とムカッと来たかもしれません。でもやってみたところ、小舟が沈みそうになるぐらいの魚が網にかかったのです。イエスのメッセージなど、私たちに無関係、無意味だと思っている私たちに、その言葉に従うときに、私たちの思いを超えた結果、現実を示されるのです。聖書の言葉を難しくしているもの、それは私たちの無関心、無意味だと決めつけてしまう思いそのものなのです。その私たちに、イエスは福音を語り続けられるのです。
●祈りましょう、神様、私たちの心,思いをあなたにむかって開かせてください。私たちの頑なさをやわらげてくださいますように、主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2025年1月26日(日)顕現後第三主日
・聖書 ルカによる福音書 4章 21~30節
●先週のUnfinished Communityの礼拝でドン先生が1月20日のアメリカ大統領就任式のことからお話を始められました。トランプ大統領の第二期の政権がスタートするということで、それに批判的な意見も多いようですね。しかしそれは何もアメリカのことだけではなく、世界全体がそのような動きを持っているようです。そんな私たちの世界に対して聖書が語り掛けること、イエスが語ろうとすること「それは貧しい人々に福音を語る」ということなのです。
●福音という言葉は英語ではGood News 良い(福)ニュース(音)なのですが、もともと戦争に勝利した報せを意味します。それを聞くと人々は自分たちの国や社会が敵の軍隊に侵略され、破壊されることを免れたという安心と喜びを心から感じたのです。
●貧しい人々への福音、それは私たちの社会が構造的に作り上げてしまった、強い者、富める者、力ある者が世界を支配するのではなく、その片隅に追いやられている人々もまたともに安心と喜びの中に生きることを確信するというっことですね。今の社会が、知らず知らずのうちにそんな社会ではなくなってしまって、弱い人、少数者と呼ばれるひとが抑圧され虐げられている現実に対して、イエスは語り掛けられるのです。そのためにイエス・キリストは父なる神様から私たちのもとに遣わされたのです。
●祈りましょう、神様、世界の政治家たち、とくに政治に与る人々のために祈ります。その方々があなたの福音を実現する一人であり得ますように。あなたの平和と正義、そして公正さを実現する社会のために私たちもともに働くひとりとならせてください。主の御名によって祈ります、アーメン
2025年1月12日(日)主の洗礼の日・2025年新年礼拝
聖 書 ルカによる福音書 3章15~22節
●あまり私たちは気にしないで過ごしている教会の習慣に「教会暦」というものがあります。もちろんクリスマスやイースターという季節もこのカレンダーに従っているのですが、もっと細かいいろんなことが、教会では今日は何の日というのが定められています。ただしこれは教会の歴史や伝統からのもので、聖書そのものに起源があるというものではないのですが。でも一年にこのときは、このことを意識して考えましょうというのも大事なことです。そして今日はイエスご自身がヨハネから洗礼を受けられた(だから彼はほかのヨハネという人と区別て「バプテスマ(=洗礼者)のヨハネ」と呼ばれています)ことを記念する日です。
●でもイエスがヨハネから洗礼を受ける、洗礼というのは水のなかに自らを沈め過去に死に新しく生きることを象徴する儀式ですが、神の子イエスがなぜそれをヨハネから受けられたのでしょう。ヨハネ自身も自らはイエスにはまったく及ばない一人だということを強く意識しています。でもその受洗の行為のなかに、イエスの本質というか神の子としての姿が示されているのです。
●パウロの言葉を借りて言えば、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」 真の神とが真の人となられ、そこで本来人間としてなすべき務め(しもべとして隣人に仕える)を示されたのです。クリスマスに私たちが学ぶべきこと、それは神の子イエスが、まことの人として私たちに仕えるために、私たちを愛するために私たちのもとに来てくださったことなのです。
●祈りましょう、神様、私たちが新しい一年の歩みを始めようとするとき、あなたが私たちのもとに来てくださったことへの感謝のなかに第一歩を踏み出させてください。あなたの愛する子、イエス・キリストとのお名前によって祈ります、アーメン。
2024年12月22日(日)待降節第四主日 クリスマス礼拝
聖書 ルカによる福音書1章39~55節
●今年もクリスマスです、と言っても今日の日曜日は厳密にはアドベントの第四日曜日、そして25日がクリスマスです。ですから今日のルカによる福音書のテキストもマリヤがイエスの母となることを受けいれて、そこで神様をたたえる詩を詠うというところで、マリアの賛歌として良く知られた箇所です。
●ラテン語でのその最初がMagnificatという言葉で始まるので、教会の礼拝でもマグニフィカートというひとつの作品として繰り返しうたわれます。Maginificat anima mea Dominum. 私の霊は主を偉大なものとうたいます。とくにアニマという言葉ですが、アニマルの語源となる言葉ですね。それは私たち人間が)自分の理性や判断によってではなく、動物と同じようにそのようなものとして造られて与えられているものです。
●神様を賛美する、といことは私たちが自分で考えて、自分で判断して、あるいは強いられてのものではなく、ある意味本能的に、内発的になされるものですし、それを自覚している人々はまさに人間が自己中心的に自分の権力を乱用し、弱い人々を抑圧することなどありえないのです。イエスの誕生の夜天使たちが神様を賛美したこと、地には平和とうたうのは、私たち人間が本来そのように作られた存在だということを指示しているのです。
●祈りましょう、神様、クリスマスだからこそ、私たちが自分自身の本来のあり方を見つめる者となれますように。ベツレヘムに生まれられた私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りします、栄光が限りなくあなたにありますように、アーメン
2024年12月8日(日)待降節第二主日
聖書 ルカによる福音書 3章1~6節
●ルカによる福音書の特徴のひとつ、それは福音書の記事を当時の世界的政治状況、具体的にはローマ帝国やユダヤ王国の支配者と結びつけようとするところがあります。今日の箇所でも当時の皇帝、ユダヤ総督、さらにはその傀儡王権であったユダヤ王国の王、さらにユダヤ教の中心人物の存在まで紹介しています。そしてそれらの名前はやがて福音書の動きへの大きな伏線となっています。
●一番有名なのは総督ピラトでしょう。イエスを十字架刑に処したのはピラトですし、その時ユダヤ人の総督やユダヤ教の高僧たちがそれを仕掛けました。その人々が権力を握っていた時代にイエスは登場するのですが、その活動の最初にバプテスマのヨハネがイエスの活動全体をここで預言します。曲がった道、でこぼこの道が整えられると。
●この部分は作曲家ヘンデルの代表作「メサイア」の最初でも歌われますが、イエスが現れたことの意味、それは地上の為政者の悪政、失政を整えることでしたが、政治的にではなくその悪政のゆえに苦しむ人、悲しむ人、虐げられた人たちへの福音を語ることでした。大きな政治の動きに注目するとき、そのなかで生きる一人一人の存在が見失われてしまうのです。イエスの福音、それはその一人への喜びの報せとして語られたのです。
●祈りましょう、愛する神様、私たちはアドベント第二週目、平和を祈ります。世界の平和という大きな言い方のなかで見過ごされるひとりひとりの方々にあなたの平安がありますように。平和の君、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年11月24日(日)終末主日 収穫感謝礼拝
聖書 ヨハネによる福音書 18章33~37節
●言葉が通じない、という経験をよく味合わされます。ヨハネによる福音書に登場する人々でイエスと会話をしているけれど、同じ単語をお互いに使いながら、まったく言葉が通じていないということがよくあります。今日の個所は十字架につけられる直前にイエスがローマの総督ピラトから尋問される場面です。そこでピラトはイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねるのですが、その王をめぐって会話は全くかみ合わなくなってしまいます。
●私たちの日本語の聖書の翻訳ではあいまいになってしまうのですが、その後のイエスの「私の国」もギリシャ語で読めば王国で、やはり王の権力が話題となる言葉です。でもイエスはその王国がこの世には属していないと繰り返し語ります。王とか王国という言葉を使うと、私たちは実際に地上に存在する国の支配者をイメージしてしまいます。ところがイエスがその言葉を使うときに、本当に私たちの生きざま、生き方を、心のうちまでも私たちの歩みを左右される現実について語ります。地上の王は私たちの体を滅ぼすことができますが、私たちの魂をどうすることもできません。しかしイエスが王、支配者を語るとき私たちの魂をも左右される存在を語るのです。だからこそイエスはピラトもその背後にあるローマ皇帝をも恐れずに語られたのです。
●今日は教会のカレンダー一年の最後の日曜日、来週から新しい一年の始まりをアドヴェントとともに迎えます。私たちは今まで毎日、私たちのより良い在り方を求めて歩み続けてきたはずですね。でもその良さというのは、体のことでしょうか、魂のことでしょうか。そしていろんなことがあるなかでもなお、私たちは平安、安らぎを感じつつ今の時を迎えているでしょうか。何か不安がある、どうもすっきりしない、そのとき私自身もまた魂の平安を求めてこなかった反省が浮かびます。むしろその平安があるとき、それ以外のものを不安がること、落ち着かなくなってしまうことなどはあり得ないのです。改めてイエスの言葉を味わうときに、私たちは神様の支配のなかにあるという一点をもう一度見つめ続けたいと思います。
●祈りましょう、神様、この一年もあなたの守りの中に今日までを送れましたことを感謝します。しかしそのときに私たちが祈りのなかでなお、神様との言葉のすれ違いを持つことを恐れます。あなたの平安のみを見つめ続ける者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年11月10日(日)
聖書 マルコによる福音書 12章38~44節
●教会というのは地上の人間の組織ですから、それを維持するの経済的な活動が不可欠です。旧約聖書の時代、イスラエル民族は12部族に分けられそのうちのひとつレビ族が祭司の部族とされ、ほかの十一部族は収入の十分の一をレビ族に与え、それによってレビ族は宗教的な活動を行っていたのです。教会にとって献金は、まさに教会という宗教的な制度と活動を支えるための費用を負担するという意味が大きいのです。
●使徒パウロは自分の伝道活動の費用を、テントづくりという仕事を果たすことによって賄っていたといわれますが、それでも多くの教会からの献金というサポートを受けていたはずです。ただし人間の社会は決して平等ではなく、豊かな人もあればその日の生活に労苦するという人たちもいます。そしていつしか多く献金できる人がより大きな祝福を受けられるとか、教会という組織のなかで発言力を持つなどの状況も生まれていました。
●今日の聖書の箇所で、イエスご自身は「一人の貧しいやもめ」の献金に注目し、彼女が最もたくさんの献金をしたと評価します。聖書事典的に説明すると彼女は当時の成人男性の一日の収入の74分の一をささげたということで、当時としては本当にわずかな額でしたし、それが彼女の生活費全てだったと言われます。ここでイエスは献金の額ではなく、その人にとっての献金の意味を問いかけます。生活費全部をささげるということは、まさに「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛」する(マルコ12:30)行為であり、生活費すべてをささげてもなお、神様が彼女とその家族を守り支えてくださるという信仰の証だったからです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたを信じるということの本当の姿をこの女性から教えられます。私たちがあなたを愛する一人としての生き方を知り、学び、行う者となることができますように。主の御名によって祈ります、アーメン
2024年10月27日(日)三位一体節主日
芦屋キリスト教会メッセージ 「キリエ・エレイソン」田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書 10章46~52節
●偉人の言葉、名言などが集められて人々に繰り返しいろいろな思いを与えていますが、イエスの言葉ももちろん含まれているでしょう。しかし聖書の名言というのはイエスやモーセ、パウロなどの「有名人」の言葉だけではなく、今日のマルコ福音書のなかにある「私を憐れんでください」という物乞いの言葉も、おそらくキリスト教のなかではもっとも有名な言葉として記憶されているでしょう。とくにカトリック教会では。
●カトリック教会のミサの一番最初に唱えられる言葉は「キリエ・エレイソン」というこれはギリシャ語です。「主よ憐れんでください」、道端に座って通り過ぎようとするイエスに向かってこの物乞いのひとりが熱心に訴えかけた言葉が、毎週全世界の教会の礼拝で繰り返されているのです。
●その言葉こそ、私たちにとってもっとも重要で、なすべき、最初の祈りのことばでしょう。私たちはイエスの憐みなくしては毎日を過ごせない、この物乞いこそ自分にとってまず第一にイエスに求めるべきものを訴えたのです。私たちがイエスの愛を求めるのは、自分だけでもなんとかやれるけれど、それがあればもっといい、というものではないのです。まずそれがなければ私たちは本当に無力で先の見えない、不安な存在だ、ということから私たちの祈りが始まるのです。
●主よ、憐れんでください。まずあなたの憐みのなかではじめて私たちの歩みの第一歩が踏み出せることを常に覚えさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年10月13日(日)三位一体節主日
芦屋キリスト教会メッセージ 「何をしたらよいでしょうか」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書 10章17~31節
●キリスト教の信仰のややこしさ、というか面倒臭さというのは、何をすればよいのかはっきりしないというところがあります。明治期に日本にキリスト教が広まる中で、最初の指導者たちは江戸時代の知的な人々が多かったし、特に指導者たちはそれが顕著でした。しかしその人たちは、キリスト教の教えを自分たちがそれまで慣れ親しんできた論語に通じるようなものとして受け入れた面が強く、どうしても道徳的、倫理的な傾向が強かったようです。しかも、特にプロテスタント的な教えというのもやはり善い行動を奨励するものであったので、ますますキリスト教は道徳的に厳格な、善行をすすめる教えとして受け止められたようです。
●今日のマルコによる福音書のなかでも、ある人が「何をしたらよいか」とイエスに尋ねます。するとイエスは全財産を投げ捨ててイエスに従うことを求めると、その人は悲しみながら立ち去ったようです。この人は全てを捨てることなどできなかったのです。そこで、イエスはあなたの持ち物全てを捨てればよいと考えてしまうと、イエスの言いたかったことがきちんと受け止められなくなります。すべてを捨てればいい、ということではなく、すべてを捨てるととしても私たちには神様がともにおられるのだ、そのことをわかっているかどうか、が問われているのです。
●主の祈りで「日ごとの糧を与えたまえ」=毎日のパンをください、と祈ります。神様は、そしてイエスはそれらのものが私たちにとって必要であることをご存じです。でもそれらのものを、私たちはつい「自分のもの」、私物化してしまい、与えてくださった方への感謝を忘れてしまうのです。自分たちが何か善いことをできるから、という以前に神様がどんな状態にあっても私たちとともにいてくださること、その一点に感謝しつづけるものでありたいと願います。
●祈りましょう、神様、私たちが自分の正しい行いを誇ろうとするとき、私たちをいましめてください。それができるからではなく、私たちがどんな時もあなたに愛されている一人であることのゆえに、私たちの毎日を平安のうちに過ごせることを覚えさせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年9月22日(日)三位一体節主日
マルコによる福音書9章30~37節
●私は知事だぞ! と自らの存在を高言された方が身近におられるようですが、どうも私たちの周囲には、ある役職に就くということについて勘違い、思い違いをしておられる方が多いようです。もう死語に使い言葉に「公僕」というものがあります。官僚は公への僕だということ。だから私は知事だ!とおっしゃるとき、私はあなたのためにどんなサービスをしたらいいでしょうか、ということをおっしゃって初めて本物の知事さんではいのでしょうか。少なくとも聖書やキリスト教ではそうなのです。
●誰が一番偉いか、という議論をイエスの隣で弟子たちが始めてしまいました。それを耳にされたイエスが弟子たちに何を話しているのかと尋ねても、みんなが黙っていたのは、あ、マズイとみんなが思ったからでしょうか。イエスに従うということのなかで「誰が一番偉い」という問いかけは、どういう意味なのでしょう。偉くなるということは、誰が神様に一番褒められるか、最初に天国に行けるか、幸せになれるか、ということなのでしょうか。そうなったとき、その人は一番偉くなって、どうしたいのでしょう。本当に神様に褒められる、というのは何をすればいいのでしょうか。
●それはもっとも自分を小さくして、低くして隣人に仕え、隣人を愛することです。徹底して、自分がされる立場ではなく、自分がする立場に立てるかどうかでしょう。そしてその行動を最後まで貫かれたのがイエスご自身でした。私たちのために十字架の死を選ばれたのです。そのイエスのまえで、私が一番偉い!と自分を誇れる人が本当にいるのでしょうか。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたの目に偉くなることの難しさを思います。どうぞ私たちをゆるし、導き、用いてくださいますように。弱い私たちをお許しください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年9月8日(日)三位一体節主日
聖書 マルコによる福音書 7章24~37節
●今日のマルコによる福音書の記事は、よく注意して読まなければなりません。ひとりのギリシャ人の女性が娘の病気を癒してほしいとイエスに懇願します。ところがイエスはつれなく、それを拒否するような態度を見せます。しかしその女性が熱心に願いつづけるのでそれを聴き入れ、娘は癒されたのです。そのときにイエスはこの女性を「子犬」と例えますが、それは決して愛くるしい動物ではなく、ユダヤ人には嫌われる存在でした。
●後半はイエスのホームグランドであるガリラヤ湖で耳が不自由で会話も難しい人をこちらは無条件で、ただ「エッファタ」と語られて癒す物語です。イエスはギリシャ人を差別したのでしょうか。しかしこの耳の不自由な人には誰にもこのことを話すなと告げるのですが、人々は黙ってはいませんでした。
●ユダヤ人たちはこの人の障害を治すことを願い、それがすぐに聞き入れられ、イエスの奇跡を言い広めました。女性はイエスに受けいれられなくても熱心に願い続けます。どちらがイエスへの強い信仰を持っていただのでしょうか。熱心に祈っていたのでしょうか。神様への願いや祈り、それは結果が与えられるための手段でも道具でもなく、私たちの信仰が試される機会です。本当に信じて祈るとき、その結果が与えられること以上に私たちが本当に神様を信じているのかが、実は強く問われているのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたに祈るとき、あなたへの信仰を確かめる祈りを捧げさせてください。自分たちの問題の解決を願う自分たちのことしか思えない弱さをおゆるし下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年8月25日(日)三位一体節主日
聖書 ヨハネによる福音書 6章56~69節
●話がかみ合わない、そんな経験をときどきさせられます。あるいは相手の方にもそう思わせてしまっているのかもしれません。イエスはここでパンの話をします。聞いている人たちは、毎日の食事のことを考えていました。ところが「人はパンだけで生きるものではない」と語られたイエスは、ここでは霊的なパン、人間が生きるにとても重要な霊的な食べ物について話していたのですから、話がかみ合わなかったのです。
●そんなときに私たちはどんな態度をとるでしょうか。かみ合わない話をなんとかかみ合わせようとするか、相手は何を言っているのか理解しようとする、というのが一つです。もう一つは、もういい、お前の言っていることはおかしい、と言って会話を打ち切るか、今日の聖書のように去っていくかです。そして残念ながら後者の場合がとても多いようです。ということは私たちはいつも、自分中心でモノを受け止め、判断しているのでしょう。
●イエス。キリストの「父が与えてくださ」る事、それは私たちにとって決して私たちにとって都合のいいものではありません。あるいは自分にとって都合のいいものだけを受け止めようとする姿勢、それは結局自分のことしか考えることをしなくなっています。本当に相手の言葉にアーメン(これはヘブライ語で『そのとおりです」)と言えるのは、そんなに簡単なことではないし、そこで実は自分が試されるのです。私は神様を中心に生きているのか、あくまでも自分中心にいるのか、です。イエスを信じる、それはまさに私自身への深く鋭い問いかけを続けていくということなのです。
●祈りましょう、神様、私たちをあなたに従い続けるものとしてください。あなたが教えてくださった祈り「御心がなりますように (Your will be done)」と真剣に祈らせてください、そして私たちの祈りに応えてくださいますように、主の御名によって、アーメン。
2024年7月28日(日)
教会創立99周年記念礼拝
三位一体主日 メッセージ 「舟は目指す地に着いた」 田淵 結 牧師」
聖書 ヨハネによる福音書6章1~21節
●ヨハネ福音書ではガリラヤ湖のことをティベリアス湖と呼んでいますが、四つの福音書すべてにその湖面が荒れて、イエスと弟子たちの乗った小舟が難破しそうになる、という記事があります。この記事への解釈で、その難破しそうになった小舟が教会の姿だとされることがあります。教会こそ、社会の荒波の中でほんろうされ、もう沈みそうになる経験を繰り返してきています。
●私たちの芦屋キリスト教会の99周年の創立記念の礼拝でこの記事を読み直すと、まさに私たちの教会の歩みそのものを表しているように思えます。教会の歴史を読むと、教会創立当時の芦屋教会の活動は目を見張るものがあります。多くの会員が集い、様々な集会や特別礼拝も行われ、またいくつかのブランチ(枝)の集会から今は独立されている教会も生み出していました。パン五つと魚二匹で5000人が養われるような教会活動が展開されていました。
●太平洋戦争期を超えて戦後のキリスト教ブームのなかでも芦屋打出教会の活動も活発でしたが、やがて1970年代ごろから教会内で問題が生じ、事実上教会分裂も起こり、その後単立教会としての芦屋キリスト教会の「教勢」は振るわず、残されたわずかな方々が集い、その間の教会活動を支え抜いて下さり、現在を迎えます。この小さな舟はどこを目指しているのでしょうか。
●それは実は私たちにはよくわかりません。それよりもとにかくこの教会が難破しないように必死になっているだけのようにも思います。その時私たちはイエスを迎えること、イエスが私たちと共におられることを見失っているかもしれません。だからこそ、今私たちがなすべきことは、自分たちで教会をなんとかすることより前に、そこにイエスがともにいてくださることをしっかりと見つめ、確かめ、その愛を感じることが求められます。そう思うと、今本当に小さな群れとなってしまった私たちの教会が、やがて100周年を迎えようとすることができること、そこにイエスの私たちへの働きを深く思い起こすのです。
●祈りましょう、イエス・キリストの父なる神様、私たちの今を感謝します。そしてこれからをあなたに委ねます。どうぞ私たちと共に歩み続けてくださいますように。あなたの御名によって祈ります、アーメン。
2024年7月14日(日)
三位一体主日 メッセージ 「欲しいものがあれば何でも言いなさい」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書6章14ー29節
●イエスの教えのなかに一切誓うな、というものがあります(マタイ福音書5章34節)。でも私たちは、自分にできもしないことを、できると思い込んで誓ってしまうのです。聖書のなかにもそんな物語がたくさんあります。旧約聖書士師記11章でイスラエルのリーダー(士師)エフタは敵に勝利をして帰ったら、家から最初に出てきたものを神にささげる誓いを立て、凱旋します。さて最初にできてたのは何だったでしょうか。
●今日のマルコ福音書の物語もヘロデ(大王の息子)が、義理の娘サロメの舞のすばらしさに、なんでも褒美を与えると誓い、彼女はバプテスマのヨハネの首を求めます。それはヘロデにはまったく思いもよらないものでしたし、その背後にあった陰謀にはめられてしまい、彼はそのことによって暴虐な王として歴史に名前を残しました。
●私たちが誓おうとするとき、その結果を自分の予想できる範囲のなかに収めようとします。自分で解決可能だという判断があるのでしょう。でも本当にそうでしょうか。私たちはそれほど自分自身を、自分の未来を、自分の可能性を理解しているのでしょうか。私たちが誓いを立てるということは、その結果を神様がともに受け止めてくださるという確信がないかぎり、立てることのできなもののはずなのです。
●祈りましょう、神様、あなたへの信頼の中に私たちのこれからの歩みを続けることができますように。常に弱い私たちを支え続けてくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年6月23日(日)
三位一体節 主日礼拝メッセージ
聖書 マルコによる福音書4章35~41節
●イエスのホームグラウンドはイスラエルという国の北ガリラヤでした。その中央にはガリラヤ湖があり、弟子たちもまたもともとその湖での漁師でした。その湖はまた大切な交通路ともなっており、イエスも伝道活動の途中、その湖をなんども船で横切っていきました。
●その途上、湖が突然荒れだし舟が沈みそうになり、弟子たちはパニックになりますが、イエスは眠っておられました。ところで福音書のなかでイエスが眠っておられたという記事をみなさんいくつご存じですか。私が思いつくのはこの記事以外には二つの記事しか思い出せません。飼い葉おけのなかと墓のなか、だけです。その三つの記事は実は同じことを私たちに訴えています。
●眠るイエスを取り巻く世界の荒々しさ、そして眠るイエスご自身の無防備さです。イエスはその荒々しい世界に全く無力のように思えるのです。しかしそれがもっとも力強く確かなイエスの姿なのでしょう。つまりすべてを父なる神の守りに委ねきっておられるのです。そこにイエスの働きの原点があったのです。
●祈りましょう、神様、私たちをお守りください。私たちが無力で何もできないときにこそ、そこにあなたの愛と守りに気付かせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします、アーメン。
2024年6月9日(日)
田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書 3章20~35節
●私たちは過去の出来事の結果を知っているところでその出来事を考えるので、その時代の人たちの感じ方を誤解してしまいます。例えばその時代の人々にイエスとは誰か、というようなことです。神の子だ、キリスト(救い主)だ、というのはイエスよりかなり後の人たちが初めて受け入れたことなのです。
●そこで、イエスは反対者たちからは悪魔の手先だとか、家族からは自分の家族の一人だ、とかそんなレベルで理解されてしまっていたところもありました。そんな中でイエスの本当の意味を理解した人たちがやはりいたのです。イエスとの出会いのなかで、神様からの愛が自分に向けられていることを実感し、それを自らも実行していった人たちです。
●ヨハネの手紙の言葉で要約されているように、私たちが愛し合うのは神様が私たちを愛してくださったから(ヨハネ一4:11)。そのことを教えと行いによって示されたのがイエスだったからです。神の御心を行う人、それは神の愛のなかに生きる人、イエスのなかにその可能性を見出した人たちなのです。
●祈りましょう、神様、あなたの愛を私たちに満たしてください。その愛が私たちからあふれることによって、あなたの愛が私たちの隣人にそれが広がっていきますように。主の御名によって祈ります、アーメン
2024年5月26日(日)
三位一体主日メッセージ 「風は思いのままに吹く」
聖 書 ヨハネによる福音書 3章1~17節
●今日は芦屋キリスト教会では聖霊降臨日(ペンテコステ)の礼拝をいたしますが、教会のカレンダーでは三位一体の主日ともなっています。三位一体ということは神学論争でも様々に議論され、それがもとで今の西ヨーロッパの教会と東ヨーロッパの教会の意見の分裂が生まれたというほどに複雑なものです。使徒信条ではイエス・キリストは「天にのぼり、全能の父なる神の右に座し」と、神様とキリストとの働きが一つであることを告白していますし、聖書の物語としてはイエスが天に昇られた後、地上の弟子たちに聖霊が注がれた、つまり神とキリストの霊が私たちに働くかけたペンテコステの出来事を通じて、神とキリストそして聖霊の働きがひとつであることが語られています。
●と言ってもやはり「ややこしい」議論かもしれません。でも私たちがイエスの働きと言葉によって神様の愛を実感し、その愛を私たちの間で示そうとすることこそ、たちの間に働く聖霊の力だと考えることもできるでしょう。
●三位一体というのは、(西方)キリスト教の基本的な考え方ですが、それを私たちの議論で説明しようとすればするほど、ニコデモとイエス様との対話のようになってしまいかねませんし、ニコデモにイエスがある種の失望を覚えられたようなことが起こってしまいます。
●風は思いのままに吹く、風、それはギリシャ語では聖霊と同じ言葉です。それを私たちが感じるとき、そこに神様の息吹を受け止め、イエス様の愛を思い起こし、私たちのなすべきことに気づく、そのような感覚の鋭さを持つこと、そこに三位一体という言葉が私たちにとって現実のものとなるのです。
●祈りましょう、神様、私たちにあなたの息吹を吹きかけてください。知識、議論のためにではなく、イエス様が私たちを愛し、私たちに隣人を愛することを教えてくださったように、私たちの生活が整えられていくことができるために、主の御名によって祈ります、アーメン。
5月12日(日)復活節第7主日メッセージ 「世から選び出された者として」
聖書 ヨハネによる福音書17章6-19節
●教会のカレンダーでは今日が復活節の最後の日曜日となります。もう一度イースターとは何なのかということを考えてみると、それは「選ばれた人」に起こった出来事だったということがあります。パウロの言葉にも復活のイエスと出会うことができたなかで一番小さな一人として自分を紹介しています(コリント一15章)。
●選ばれるということはその人に与えられた特権であると同時に、そこで責任が与えられるのです。それはこの世に属していない一人としての役割を果たすことです。それは決して楽に果たせるミッションではなく、かえって厳しい現実に直面させられているということもあります。でもそのとき、自分自身にとってもっとも重要なことを教えられるのです。
●もし私たちが神に選ばれた一人であるのなら、そのとき私たちが「神様のもの」であることを知るのです。私たちが直面する厳しい現実と向き合うときはじめて、わたしたちではなくイエス。キリストの守りと導き、支えを実感するのです。復活後イエスが地上での働きを離れて天に昇られるとき、私たち自身が改めてイエスから与えられたミッションを思い起こしたいのです。
●祈りましょう、神様、復活節の歩みを終わろうとするとき、これからの私たちの歩み方をどうぞ教えてください。あなたに守られ、愛された一人として、私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2024年4月28日 復活節第五主日
聖書 ヨハネによる福音書 15章1~8節
●ここ数週間の聖書日課はヨハネによる福音書のなかの有名なものが続きます。先週は「わたしはよき羊飼い」、今週は「まことのぶどうの木」です。私が神学部で学んでいたころ、必修ではなかったラテン語のクラスで唯一覚えたのがin vino veritas、酒(ワイン)のなかに真理あり、でした。ただし私はお酒は飲めませんが。
●このヨハネの記事で強調されることばが「つながる」で、それは「(わたしの愛に)とどまる」と実は同じ言葉です。よい木の枝として私たちはつながっていたいと思います。しかしいつしかよい木であってもその葉も実も枯れてしまいます。ワインというのはその年のその木の最高の実りの豊かさを留めておくものでもあるのです。
●ヨハネ福音書では有名なカナの結婚式でイエスが水をワインにかえるという奇跡物語があります。そして最後の晩餐ではワインこそイエスの十字架上の血として記念されます。それは決して単なる飲み物として以上に深い宗教性を持つ、イエスと私たちとのつながりの証としてキリスト教では扱われてきたことのようにも思えます。
●祈りましょう、神様、私たちが今豊かにいかされていることそのものがイエスとのつながりのあることを改めて気付かせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
4月14日(日) 復活節第三主日
聖書 ルカによる福音書24章36b~48節
●福音書のイエスの復活物語はいくつかの場面に従って展開されます。日曜日の朝早く女性たちがイエスの墓を訪れる、そのニュースをほかの弟子たちに伝える、その後イエスが弟子たちに現れる、その間に例えばルカによる福音書ではエマオに向かう弟子たちの物語がはさまれます。今日の聖書の箇所は弟子たちのもとに復活したイエスが現れたというもので、ヨハネ福音書にも似たものがあります。
●復活後のイエスと出路たちの再会の物語に共通するひとつのjことは、最初弟子たちは復活のイエスを信じられなかった、それを疑ったということです。空っぽの墓を訪れた女性たちがイエスの復活を信じたのはとても対照的です。その弟子たちにイエスは、食事までしてご自身を示されます。その復活が肉体をもともなった、まことの人としてのモモであったことも示されたのです。
●その弟子たちにイエスが命じられたこと、それは彼らが復活のイエスの「証人となる」ことでした。イエスが旧約聖書の言葉を成就するメシアであること、それを神学的な言葉だけではなく彼らの復活のイエスとの出会いの出来事、最初それを全く信じられなかったという経験をも踏まえ、しかし彼らがそれを深く信じるに至ったこと、そのすべてを含めて復活の出来事について語ることを求められたのです。彼らが語るべきことは、自分たちの欠け、弱さそれらをすべて含めてイエスに用いられるということ、それはイエスの死に挫折を感じていた彼らが、改めてもう一度用いられるという、まさに彼らにとっての復活経験なのでした。
●祈りましょう、神さま、私たちがイエスの復活の力強さによってゆるされ、招かれ、用いられている一人であることを教えてください。その喜びのなかでこれからの毎日の歩みを続けることができますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年3月24日(日)
受難節第五主日メッセージ(棕櫚の主日) 「受難週のメッセージ」 牧師 田淵 結
聖 書 マルコよる福音書15章1~39節
●今日からの週はHoly Week、イエスがいよいよ十字架につけられ処刑される毎日を覚えます。音楽の父バッハの最も代表的な作品である「マタイ受難曲」はその当時までにこの一週間に行われていた礼拝の形をそのまま作品の枠組みとしています。それは福音書に描かれるイエスの受難物語を、そこに登場する人物の役割を決めて読み進めていくという形です。最も古い形の受難曲は聖書の物語だけをテキストにしていましたが、バッハの時代にはその間にその場面にふさわしい宗教的詩による独唱や合唱曲、それにそこにともにいる会衆たちの思いを代表する讃美歌(コラール)が加えられ、全体で3時間に及ぶ作品となっています。
●受難週のメッセージを聞くこと、それはまさにこの福音書の物語をご自身でお読みになることです。その言葉が何を意味するかという解釈をするのでははなく、もしあなたがその人物だったら、どんな思いや気持ちでその言葉を口にしているのか、その人になりきってみることです。あなたが総督ピラトによる裁判のときに、イエスを「十字架につけよ」と叫んだ群衆のひとりだとしたら、なぜあなたはそう叫んだのでしょうか。また十字架につけられたイエスに向かって、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」となぜ人々は、そしてあなたは叫んだのでしょう。
●もしあなたがそれまでのイエスと何らかの関わりがあり、その教えにふれ、病気を癒され、様々な悩みから解放される経験があったのなら、あなたは群衆と一緒にこんなことばを叫ばなかったでしょう。しかし大勢の群衆はそんなイエスの本当の姿などまったく知らず、その場の勢いに自分もまきこまれることしかしなかったのです。イエスの愛は、ひとりひとりとのかかわりの中で示されたもので、何か多くの大衆全体を一度に動かす熱狂的なものではなかったのです。彼が神に「お見捨てになったのですか」と問いかけるなかで、そこまでの苦しみをご自分に負わるかたちで神に従いその死を迎えられたからこそ、そこに居合わせた全く神への信仰をももたなかったひとりの口から「本当にこの人は神の子だった」と言わしめたのです。あなたもその言葉を語ることができますか。
●祈りましょう、神様、今秋私たちは福音書の物語によってイエスの歩みに伴います。どうぞその場面場面での私たちの思いをより深いものとしてください。私たちが十字架のあなたを見上げる一人とならせてください。御名によって祈ります、アーメン。
2024年3月10日(日)受難節第四主日
メッセージ 「ヨハネ3:16 (John3:16)」 田淵 結 牧師
●イエスに(旧約)聖書の戒めのなかでもっとも大切なものは何か、と問いかける物語があります(マルコ12:38)。では新約聖書ではどうでしょう。その有力な候補は今日のヨハネによる福音書の記事、特に3章16節ではないかとよく言われます。かつてオリンピックなどのスタンドで「John 3:16」というプラカードを掲げて座っている人がテレビ画面に映りこんでいました。クリスチャンとしてのアピールだったのでしょうか。
●そこでイエスが私たちに神様から遣わされたのは、それが私たちを神様からの愛そのものであったということですが、その愛はここでは私たちに具体的な生き方を求めます。光のなかを歩むことです。創世記で一番最初に創造されたものが光でしたが、その明るさによって私たちは世界の、そして自分自身のありのままの姿がしっかりと見えてきます。暗闇のなかにまぎれてしまわない自分の姿、そこには強さや美しさもあり、弱さや醜さもはっきりと見えてくるのです。私たちは見たくないものを暗闇のなかであいまいにして、ある意味自分をごまかしてきているのかもしれません。
●イエスが十字架を負って歩まれるその歩み、それが私たちのためだった、ということもまた私たちが自分たちのありのままの姿をしっかりと見つめることによってはじめて受け止められるのでしょう。知られたくないこと、隠しておきたいこと、なんとか過ぎ去らせてしまいたいこと、それらを見つめるしんどさ、私たちが自分で負うべき重荷があることを自分たちが正直に認めることによってはじめて、イエスが私たちの負うべきその重荷、十字架を代わって負っていて下さることが理解できるのです。
●神様、この受難節の時期にこそ、私たちが自分自身の本当の姿をしっかりと見つめる者となれますように。イエスの十字架の苦しみが、その私たちのためであることを深く覚えさせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2024年2月25日(日)受難節第二日曜日
聖書 マルコによる福音書
●受難節のメッセージというと、変な言い方ですが「教科書的」「模範的」「出来上がった」内容になりがちです。自分の十字架を負ってイエスに従う。自分の命を救うのではなく、自分を捨てること、どこか自己犠牲的、献身的な信仰のあり方が強調されがちです。でもそのような聖書の読み方は、どこか一面的なところが生まれがちではないでしょうか。最も根本的な問いは、そんな信仰生活が私たちに本当にできるのか、というところなのです。
●中世のカトリックのひとりであったトマス・アケンピスという人が「キリストに倣いて」という書物を遺しました。ラテン語ではImitatio Christiなのですが、そう私たちがキリストのイミテーション(日本語での感覚では模造品、まがい物のような感じのことばですが)となることへの勧めのように聞こえます、逆に言うと私たちはイミテーションになることが精いっぱいなのかもしれません。でもそれが現実です。私たちが努力をすればキリストのように生きられるというのはどこかに思い上がりがあるのです。
●イエスがここで「自分の」十字架を負うということは、イエスと全く同じ歩みをすることではなく、自分なりにイエスに従いつづけるなかで自分の限界、弱さ、頼りなさ、まさに罪に気づくためでしょう。そのときその弱い私たちのためにイエスが、私たちに代わって本物の十字架を負ってくださること、私たちの弱さをゆるし、その私たちに希望と勇気を与え続けて腐ることを知ることなのでしょう。まさにペトロは、自分だけの思いのなかでだけイエスの歩みを受け止めようとしたのでしょう。
2024年2月11日(日)山上の変容の主日
聖書 マルコによる福音書9章2~9節
メッセージ 「これに聞け(Listen to him) 田淵 結 牧師
●トンチンカン、という言葉がありますが今日のマルコ福音書の記事のなかでペトロが口走ってしまった言葉こそ、まさにトンチンカンでした。イエスが宣教の活動を続けているときに、ある山に登りその姿が神々しいものに変わったので、そのときペトロが何かを言わなければと「三つの小屋を建てよう」と叫んだのです。
●ところがイエスの姿が神々しく変容したそのとき、雲の中から神の声が響きました「これは私の愛する子、これに聞け」(英文では"Listen to him")。この記事はイエスの働きの核心を示します。イエスの言葉こそ神の言葉として私たちがそれに聞き従うべきものだ、ということです。私たちが何かを言い、提案しということでは全くないのです。私たちはひたすらイエスの語る言葉に集中し、それを聴き続けるのです。
●私たちは毎日いろんな言葉を発し続けます。でもその言葉に、どれだけの意味、大切さ、価値があるでしょう。実はそのたくさんの言葉によって、結局自分の思いを私たちの相手に押し付ける、自分の確かさ、優位性をなんとか訴えようとしているのです。イエスの言葉、それは私たちを造り、生かし、愛される神様の言葉なのです。聖書を読む、イエスの語りかけを耳にする、それは自分たちの思いを脇に置いて、ひたすら神様の言葉を聴き受け止める、その言葉に服従する姿勢を身に着けるための一歩なのです。
●祈りましょう、神様、私たちはあなたに聞き従います。私たち自身の思いを第一にするのではなく、あなたに聞き従う生き方を求めさせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
●2024年1月28日
聖書 マルコによる福音書1章21~28節
・福音書にはイエスと悪霊との闘いの物語がいくつも出てきます。当時悪霊の存在こそ、私たちの平常、日常性、社会性健康や健全さを脅かす存在として信じられ、恐れられており、イエスは悪霊払いの能力を持つことでも人々に受けいれられていたところがあります。
・その存在はただ古代の人たちの迷信だとも言い切れない側面があります。その霊に取りつかれた人に「(わたしに)かまわないでくれ」と語らせることです。人と人とのつながりの否定、近代の思想家は「疎外」という言葉で表現した現実です。人間社会が複雑化すればするほど、私たちはひとりでいることに逃げ込もうとし、そこで人間としてもっとも重要な愛されること、愛することを拒否してしまうのです。
・愛されることの拒否、それは他者の存在の尊さ、重要性、意味をも否定することです。そこから生まれる社会の荒廃が実は私たちの周囲にも生まれつつあるのではないでしょうか。イエスが悪霊に対して非常に厳しい言葉で叱責することの背後に、私たちが神様から隣人から愛されて生きる者であることを気付かせる促しがあるのです。
・祈りましょう、神様、私たちがあなたに生かされ、愛されている一人であることの大切さを常に感じ続けさせてください。御名によって祈ります、アーメン。
●2024年1月14日
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書1章43-51節
・今日の聖書の物語の主人公はナタナエル人です。しかしこの人は、やがて人の子の上に天使が上がり下りするのを見ると言われながら、以後聖書では復活後のイエスとガリラヤ湖で出会うことしか登場しません。そして彼がよく知られるのは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と語ったことにあります。
・イエスが処刑された十字架には「ナザレのイエス」という言葉が記されていたように、このナタナエルの言葉は彼がイエスに何にも期待しないと語ったように思われます。しかし実はこのナタナエル本人はイエスが最初の奇跡をおこなったガリラヤのカナ出身であって、むしろ自分への「評価」を示すものかもしれません。ユダヤでも首都エルサレムからみると、ガリラヤという地方出身者は見下げられていたのです。
・そのナタナエルに対してイエスは「まことのイスラエル人」と語ります。イエスはその人の背景ではなくその人自身の「『素』質」(本来の人間性)に注目されたのです。自分自身の素のあり方をしっかりと認められたこと、そこにナタナエルは感動し、イエスを「神の子」と告白します。ナタナエルもまた初対面のイエスの本質を、まず感じとったのでしょう。神の子、それは人間からかけ離れた存在ではなく、私たちひとちひとりが本来もっている良さをしっかりと認め、私たちに気づかせる存在なのです。
・祈りましょう、神様、新しい年のスタートに、私たちひとりひとりがあなたから頂いてる良さをまずしっかりと認め、感謝した一歩を踏み出すことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
●12月24日 (クリスマス礼拝)「Dona Nobis Pacem 平和を与えたまえ」田淵 結牧師
●12月10日 「主の道を備え」 田淵 結 牧師
●11月26日 「わたしたちはお世話をしませんでしたか」 田淵 結 牧師
●11月12日 「目を覚ましていなさい」 田淵 結 牧師
●10月22日「カイサルのもの、神のもの」 田淵 結 牧師
●10月8日 「その子を彼らの所につかわし」 田淵 結 牧師
●9月24日 「一日一デナリ」 田淵 結 牧師
●9月10日 「二人または三人が」 田淵 結 牧師
●8月27日 「あなたこそ生ける神の子キリストです」 田淵 結 牧師
●7月9日 「イエスのくびきを負う」 田淵 結 牧師
●6月25日 「主イエスの仲間として」 田淵 結 牧師
●5月28日 ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 「聖霊が降る」 田淵 結 牧師
●5月14日「イエスの掟」 田淵 結 牧師
●4月23日「エマオへの道」 田淵 結 牧師
●4月9日(イースター) 「ガリラヤの朝」 田淵 結 牧師
●3月26日「ラザロの復活」 田淵 結 牧師
●3月12日「いのちの水」 田淵 結 牧師
●2月26日「Keeping Up Appearances (見かけをよくする)」 Donald Van Antwerpen 牧師
●2023年2月12日 「早く和解しなさい」 田淵 結 牧師