宗教法人 単立 芦屋キリスト教会
2025年2月22日(日) 午前10時30分 受難節第一主日礼拝
前 奏 多田 謙一 兄
招 き の 言 葉 ローマの信徒への手紙 5章15節
讃 美 歌 22番 「めさめよわがたま」
1. めさめよわがたま あさひにともない Mesame yo waga tama, asahi ni tomonai
あしたのほめうた みまえにささげよ Ashita no home uta, mimae ni sasage yo
2. むなしくすごしし ときをばつぐのい Munashiku sugoshishi, toki woba tsugunoi
ちからのかぎりに みわざをつとめよ Chikara no kagiri ni, miwaza wo tutomeyo
3. うえよりたまわる たからをもちいて Ue yori tamawaru, takara wo mochii te
おわりのさばきに かしこみそなえよ Owarino sabaki ni, kashikomi sonae yo
4. かくるるものをも しゅはしりたまえば Kakururu mono womo, shu wa shiri tamaeba
ことばとおもいを ひたすらきよめよ Kotoba to omoi wo, hitasura kiyome yo
5。 めさめよわがたま このひもひねもす Mesame yo waga tama, konohi mo hinemosu
みくにをのぞみて いそしみはげめや Mikuni wo nozomi te, isoshimi hageme ya
詩 編 の 交 読 詩編 32編
主 の 祈 り (564番)
天(てん)にまします われらの父(ちち)よ。ねがわくは御名(みな)を あがめさせたまえ。御国(みくに)をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、ちにも なさせたまえ。われらの日用(にちよう)のかてを きょうもあたえたまえ。われらに つみをおかすものを われらがゆるすごとく、われらの つみをもゆるしたまえ。われらを こころみにあわせず、悪(あく)より すくいだしたまえ。国(くに)とちからとさかえとは、かぎりなく なんじのものなればなり。アーメン。
聖 書 マタイによる福音書 4章1~11節
祈 祷
讃 美 歌 304番「まことなるみかみを」
1. まことなるみかみを たのめるもののみ Makoto naru mikami wo, tanomeru mono nomi
いわのえにいえをば たてしひとのごと Iwa no eni ie wo ba, tateshi hito no goto
なやみのときにも うごくことなからん Nayami no toki nimo, ugokukoto,nakarann
2. あさごとにかなしみ よごとになくとも Asa goto ni kanashimi, yo goto ni naku tomo
みちからによらでは すべてはかいなく Michikara ni yoradewa, subete wa kai naku
うれいとなげきを むなしくますのみ Urei to nageki wo, munashuku masu nomi
3. わざわいとくるしみ われをかこむとも Wazawai to kurushimi, ware wo kakomu tomo
まごころをささげて しゅによりすがらば Magokoro wo sasage te, shu ni yorisugara ba
おもいにまされる やすきをみにうけん Omoi ni masareru, yasuki wo mini ukenn
4. みめぐみのちからを ひたすらたたえて Mimegumi no chikara wo, hitasura tataete
みさかえのひかりに たえせずてらされ Misakae no hikari ni, taesezu terasare
このよのたびじを いさましくすすまん Konoyo no tabiji wo, isamashiku susumann
使 徒 信 条 (566番)
われは天地(てんち)のつくりぬし、全能(ぜんのう)の父なる神を信(しん)ず。われは そのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりて やどり、おとめマリヤより うまれ、ポンテオ・ピラトのもとに くるしみをうけ、十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)にて ほうむられ、陰府(よみ)に くだり、三日目(みっかめ)に 死人(しにん)のうちより よみがえり、天(てん)にのぼり、全能の 父なる神の右(みぎ)に 座(ざ)したまえり。かしこよりきたりて いけるものと 死ねるものとを さばきたまわん。われは 聖霊を信ず、聖(せい)なる 公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)のまじわり、罪(つみ)のゆるし、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン
説 教 「ただ主に仕えよ」 田淵 結 牧師
讃 美 歌 「主よこころみ」
1. しゅよこころみ うくるおり Shu yo kokoromi, ukuru ori
いのりたまえ わがために Inori tamae, waga tame ni
こころおそれ まどうときも Kokoro osore, madou toki mo
あいのみかお むけたまえ Ai no mikao, muke tamae
2. よのたからは めをうばい Yono takara wa, mewo ubai
ほまれみみを まよわすひ Homare mimi wo, mayowasu hi
つみなきしゅの みくるしみを Tsumi naki shu no, mikurushimi wo
しめしたまえ わがむねに Shimeshi tamae, waga mune ni
3. わずらわしき よのわざに Wazurawashiki, yono waza ni
やるせもなき かなしみに Yaruse mo naki, kanashimi ni
なおひそめる みいつくしみ Nao hisomeru, miitsukushimi
みさせたまえ あやまたず Misase tamae, ayamatazu
4. ちりよりなる うつしみの Chiri yori naru, utsushimi no
ちりにかえる いまわにも Chiri ni kaeru, imawa ni mo
しゅよみかおを あおぎみつつ Shu yo mikao wo, agoki mi tsutsu
ゆかせたまえ あまつやに Yukase tamae, amatsuya ni
感 謝 祈 祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 21−88番 「こころにあいを」
こころにあいを ゆたかにみたし ひごとのわざに つかわしたまえ
Kokoro ni aiwo yutakani mitashi higotono waza ni tsukawashi tamae
祝 祷
後 奏
報 告
ヨハネによる3月2日(月)
・旧約 詩編 128編 Psalm 128;
・旧約 民数記 21章4~9節 Numbers 21:4-9;
・新約 ヘブライ人への手紙 3章1~6節 Hebrews 3:1-6;
3月3日(火)
・旧約 詩編 128編 Psalm 128;
・旧約 イザヤ書 65章17~25節 Isaiah 65:17-25;
・新約 ローマの信徒への手紙 4章6~13節 Romans 4:6-13;
3月4日(水)
・旧約 詩編 128編 Psalm 128;
・旧約 エゼキエル書 36章22~32節 Ezekiel 36:22-32;
・新約 ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節 John 7:53-8:11;
3月5日(木)
・旧約 詩編 95編 Psalm 95;
・旧約 出エジプト記 16章1~8節 Exodus 16:1-8;
・新約 コロサイの信徒への手紙 1章15~23節 Colossians 1:15-23;
3月6日(金)
・旧約 詩編 95編 Psalm 95;
・旧約 出エジプト記 16章9~21節 Exodus 16:9-21;
・新約 エフェソスの信徒への手紙 2章11~22節 Ephesians 2:11-22;
3月7日(土)
・旧約 詩編 95編 Psalm 95;
・旧約 出エジプト記 16章27~35節 Exodus 16:27-35;
・新約 ヨハネによる福音書 4章1~6節 John 4:1-6;
3月8日(日)受難節第三主日
・旧約 出エジプト記 17章1~7節 Exodus 17:1-7;
・旧約 詩編 95編 Psalm 95;
・新約 ローマの信徒への手紙 5章1~11節 Romans 5:1-11;
・新約 ヨハネによる福音書 4章5~42節 John 4:5-42
聖書 ヨハネによる福音書 4章5~42節
5それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
3月8日(日) 受難節第三主日
メッセージ 「霊と真理をもって」 田淵 結 牧師
●ヨハネによる福音書がほかの三つのマタイ、マルコ、ルカの福音書と大きく違っているのは、イエスをめぐって生じた出来事があると、その意味をいろいろと考えその意味を私たちに深く理解させるような書き方をしていることです。今日の聖書の箇所では、ひとりの女性がシュカルというところの井戸でイエスに水を飲ませてあげるというちょっとした出来事でした。しかしそれがその女性に自分の人生の意味を考えさせるだけでなく、そのサマリアという地域がもつ大切さ、そして私たちが毎週行っている神様への礼拝への意味を、大きく言えば教会とは何なのかを考えさせる内容に広がっていきます。
●サマリアという場所は、ユダヤ人から見れば近づくべきではない場所でしたし、サマリア人は差別すべき対象でした。その一人の女性とイエスは話をされ、その場所がユダヤ人の整地エルサレムでもサマリアでもない場所で、本当の礼拝が行われるということを語ります。それはどこなんでしょう。イエスはどこかの場所が特別の大切さを持っているのではなく、それがどこであっても、サマリアというユダヤ人から嫌われる場所であったとしても、「霊と真理をもって」行われる礼拝こそ本当の礼拝だと語るのです。ということは私たちの教会もそうなのです。大きな大聖堂や豪華な建物ではなくても、そこに私たちが真心をもって集まる時、それこそがもっとも重要なのです。
●私たちの真心、それはここであのサマリアの女性が自分自身に向き合ったように、神様の前に本当の自分の姿を示し、自分の弱さ、キリスト教でいう罪深さを見つめ、だからこそイエス様と共に歩みということによって自分自身が神様の憐れみと愛、ゆるしと導きが与えられることを信じる、イエスこそ私の救い主であることを深く受け入れることのなかに、神様への真の礼拝が行わるのです。礼拝の事を英語でServiceと言いますね。それは私たちが神様に奉仕(Service)する行為のように思われますが、実は、弱く積み深い私たちのためにイエス様が仕えて(Service)くださっていること(マルコによる福音書10章45節)を知ることをそこで知ることがより大切なのです。
●祈りましょう、神様、私たちの礼拝が霊と真にみたされたものであることができますように。より眞實に、真剣にあなたの愛と憐れみ、慰めへの私たちの真剣な求めと祈りをあなたが受け入れてくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン
2月23日(月)
・旧約 詩編 32編 Psalm 32;
・旧約 列王記上 19章1~8節 1 Kings 19:1-8;
・新約 ヘブライ人への手紙 2章10~18節 Hebrews 2:10-18;
2月24日(火)
・旧約 詩編 32編 Psalm 32;
・旧約 創世記 4章1~16節 Genesis 4:1-16;
・新約 ヘブライ人への手紙 4章14節~5章10節 Hebrews 4:14-5:10;
2月25日(水)
・旧約 詩編 32編 Psalm 32;
・旧約 出エジプト記 34章1~9、27~28節 Exodus 34:1-9, 27-28;
・新約 マタイによる福音書 18章10~14節 Matthew 18:10-14;
2月26日(木)
・旧約 詩編 121編 Psalm 121;
・旧約 イザヤ書 51章1~3節 Isaiah 51:1-3;
・新約 テモテへの手紙二 1章3~7節 2 Timothy 1:3-7;
2月27日(金)
・旧約 詩編 121編 Psalm 121;
・旧約 ミカ書 7章18~20節 Micah 7:18-20;
・新約 ローマの信徒への手紙 3章21~31節 Romans 3:21-31;
2月28日(土)
・旧約 詩編 121編 Psalm 121;
・旧約 イザヤ書 51章4~8節 Isaiah 51:4-8;
・新約 ルカによる福音書 7章1~10節 Luke 7:1-10;
3月1日(日) 受難節第二主日
・旧約 創世記 12章1~4a節 Genesis 12:1-4a;
・旧約 詩編 121編 Psalm 121;
・新約 ローマの信徒への手紙 4章1~5、13~17節 Romans 4:1-5, 13-17;
・新約 ヨハネによる福音書 3章1~17節 または マタイによる福音書 17章1~9節 John 3:1-17 or Matthew 17:1-9;
ヨハネによる福音書 3章1~17節
1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
●今日のお話を考えるにあたって、ちょっと困ったなと思わされています。今日の福音書の聖書日課、マタイの記事は先々週に考えたばかりですし、ヨハネによる福音書の方はあまりにも有名すぎるもの、聖書の語る信仰そのもの「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というものだからです。そんな有名な聖書について、私が何かを語ることが恐れ多いという以上に、その程度の理解しかないのかと、自分のことがばれてしまうことの不安でしょう。まさにイエス様がニコデモに「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」とあきれておられる場面その再現になることを恐れるからです。このニコデモの気持ちがよく伝わってくるのです(イエス様の気持ちが伝わってくればいいのですが)。
●ニコデモの失敗、それはキリスト教の信仰内容でいうと聖霊についてのわからなかった、ということのように思えます。ニコデモは当時の社会でのインテリでしたから、自分の理性や知性にとても大きな自信があったのでしょう。彼が「夜」イエスのもとにやってきたのは、そんな知識人がガリラヤ(ユダヤから見れば地方)出身の若い宗教家のもとに教えを乞う事を見られたくなかったから、とも言われています。ニコデモの誇る理性や知性は、高度な知識を身に着ける、それに造詣があるということですが、それは今までに人間たちが持ち続けてきた知的遺産が積み上げられたものです。しかしイエスはそのような過去の遺産として出来上がったものと同時に、そのときに「思いのままに吹く」風のように自由に生きることを神さまが求められていること、つまり過去の事実にとらわれない自由さが与えられていることを見過ごしているのです。神様がわたしたちを愛されるということ、それは過去の事実に安住するのではなく、今、現在、何物にもとらわれないで自由に、自分らしさを発揮して、その時に私たちに求められていることに真剣に答えながら生きることを求めておられるということなのでしょう。
●神はその独り子をお与えになる、という言い方、それこそ神様がわたしたちに示されたもっとも大きな神様の自由かもしれませんし、イエス様はその神様の意思に徹底して従われたのですね。そこまでして、ということですが、そこまで神様がそのご意志を貫かれるほどに、実は私たちが神様に愛されていることを知るべきなのでしょう。、おそらく人間的に蓄積された知識では、そんなことはまったく考えられないのですから。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたから毎日、その時々に自由に、私たちの思いを実現することをっ赦して下さることを感謝します。
2月16日(月)
・旧約 詩編 78編17~20、52~55節 Psalm 78:17-20, 52-55;
・旧約 出エジプト記 33章7~23節 Exodus 33:7-23;
・新約 使徒言行録 7章30~34節 Acts 7:30-34;
2月17日(火)
・旧約 詩編 78編17~20、52~55節 Psalm 78:17-20, 52-55;
・旧約 列王記上 19章9~18節 1 Kings 19:9-18;
・新約 ローマの信徒への手紙 11章1~6節 Romans 11:1-6;
2月18日(水) 灰の水曜日(今日から受難節に入ります)
・旧約 ヨエル書 2章1~2、12~17節 または イザヤ書 58章1~12節 Joel 2:1-2, 12-17 or Isaiah 58:1-12
・旧約 詩編 51編 1~17節 Psalm 51; Psalm: Psalm 51:1-17;
・新約 コリントの信徒への手紙 5章20b節~6章10節 2 Corinthians 5:20b-6:10
・新約 マタイによる福音書 6章1~6,16~21節 Matthew 6:1-6, 16-21
2月19日(木)
・旧約 詩編 51編 Psalm 51;
・旧約 ヨナ書 3章1~10節 Jonah 3:1-10;
・新約 ローマの信徒への手紙 1章1~7節 Romans 1:1-7;
2月20日(金)
・旧約 詩編 51編 Psalm 51;
・旧約 ヨナ書 4章1~11節 Jonah 4:1-11;
・新約 ローマの信徒への手紙 1章8~17節 Romans 1:8-17;
2月21日(土)
・旧約 詩編 51編 Psalm 51;
・旧約 イザヤ書 58章1~12節 Isaiah 58:1-12;
・新約 マタイによる福音書 18章1~7節 Matthew 18:1-7;
2月22日(日) 受難節第一主日
・旧約 創世記 2章15~17節、3章1~7節 Genesis 2:15-17; 3:1-7;
・詩編 32編 Psalm 32;
・新約 ローマの信徒への手紙 5章12~19節 Romans 5:12-19;
・新約 マタイによる福音書 4章1~11節 Matthew 4:1-11
2月22日(日) 受難節第一主日
説経 「ただ主に仕えよ」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書 4章1~11節
1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
●今秋から教会のカレンダーでいう受難節(レント)に入りました。4月のイースターまでの四十日間、イエスの十字架への道行、受難と死を深く心にとめて過ごす季節です。音楽でいうとレントという言葉は、とてもゆっくりしたテンポを示すもので、確かにここの四十日は、クリスマス前の四週間と比べるととても長く続く季節のように思われます。私たちのカレンダーで言えば、なかなか春が来ない、という感じでしょうか。今日の聖書日課でも、イエス様が四十日にわたってサタンから誘惑、試みを受けられる場面で、空腹と渇き、そしてサタンとの激しい戦いの場面で、まさに受難節の最初に選ばれる物語としてふさわしいものです。私たちもまたこの期間、イエス様と同じように試練のなかにあることを覚えたいと思うのです。
●ここでサタンがイエスに投げかける三つの問いかけ、それは決して悪いものでも、誤った者でもありません。空腹の人たちを助けろ、あらゆる再燃からあなたは守られるべきだ、あなたはもっと高い地位を、名声を獲得すべきだ。その通りですし、私たちもそれを祈り求めているところがあります。それがもっともらしいことだからこそ、それが誘惑なのです。それは当たり前だと思うからこそ、私たちはその問いかけをやすやすと受け入れてしまうのです。これはあなたを陥れようとする罠ですよ、などということが最初からわかっていれば、だれもそんな言葉に耳を傾けません。
●このサタンの問いかけは何を目指しているのでしょう。それらはあなたが中心となる考え方を目指しています。空腹の人たちに食べさせることは大事ですが、それをあなたがあなた自身の力で実現すべきことでしょうか。カール・マルクスは経済学者として社会の貧困の問題を解決しようとしましたが、その結果暴力を用いた社会革命や、その主義による支配者の権力乱用を止めることはできませんでした。イエスがそこで示したのは、それらの問題はとても重要だからこそ、その解決を神様に求め、私たちはその神様の御用のために用いられる一人であるべきだ、ということです。 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』 拝む、仕える、その言葉は英語デイウtポServiceです。神様を礼拝する意味、それは神様を中心とした生活、世界を確かめるためです。それを見失ってしまういことは、自分たちにもっともらしいことだけで問題を解決するとき、その結果は私たちが思うこととはまったく言葉った結果を招いてしまうのです。
●祈りましょう、神様、あなたはイエス儘を通じて私たちに、「みこころ(Your will)をなさせたまえ」と祈ることを教えてくださいました。私たちの毎日を、何よりもあなたの思いが実現される時、場所として私たちが過ごすことができますように。どうぞあなたの御国(支配)を来たらせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会
2025年2月8日(日) 午前10時30分
公現後第五主日礼拝
前 奏 多田 謙一 兄
招 き の 言 葉 コリントの信徒への手紙一 2章9節
讃 美 歌 63番 「いざやともよ」
1. いざやともよ いさみすすめ Izaya tomo yo, isami susume
さかえにかがやく あまつしろへ Sakae ni kagayaku, amatsu shiro ni
2. ちなるひとは いかにもあれ Chi naru hito wa, ikanimo are
みくにのよつぎは うたいてゆかん Mikuni no yotsugi wa, utaite yukann
3. みくにへゆく たびのみちに Mikuni ni yuku, tabi no michi wa
のぞみははなさき あいはかおる Nozomi wa hanasaki, ai wa kaoru
4. みかどとおく うちあおげば Mikado tooku, uchi aogeba
こがねのしろより さちはながる Kogane no shiro yori, sachi wa nagaru
5. いまぬえるの みちをふみて Imanueru no, michi wo fumi te
たえなるさかえの みくににいらん Tanaru sakae no, mikuni ni irann
詩 編 の 交 読 詩編 112編
主 の 祈 り (564番)
天(てん)にまします われらの父(ちち)よ。ねがわくは御名(みな)を あがめさせたまえ。御国(みくに)をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、ちにも なさせたまえ。われらの日用(にちよう)のかてを きょうもあたえたまえ。われらに つみをおかすものを われらがゆるすごとく、われらの つみをもゆるしたまえ。われらを こころみにあわせず、悪(あく)より すくいだしたまえ。国(くに)とちからとさかえとは、かぎりなく なんじのものなればなり。アーメン。
聖 書 マタイによる福音書 5章13~20節
祈 祷
讃 美 歌 122番「みどりもふかき」
1.みどりもふかき わかばのさと Midori mo fukaki, wakaba no sato
なざれのむらよ ながちまたに Nazarew no mura yo, naga chimata ni
こころきよらに ゆきかいつつ Kokoro kiyora ni, yukikai tsutsu
そだちたまいし ひとをしるや Sodachi tamaishi, hito wo shiru ya
2.そのこうべには かむりもなく Sono koube niwa, kamuri mo naku
そのころもには かざりもなく Sono koromo niwa kazari mo naku
3.ひとのこいえすよ きみのみなを Hito no ko iesu yo, kimi no mina wo
みつかいたちの ほむるときに Mistukai tachi no, homuru toki ni
めぐみににおい あいにかおる Megumi ni nioi, ai ni kaoru
みあしのあとを われはたどらん Miashi no ato wo, ware wa tadorann
しゅはわかきひを すぎたまえり Shu yo imakoso, hayame tamae
使 徒 信 条 (566番)
われは天地(てんち)のつくりぬし、全能(ぜんのう)の父なる神を信(しん)ず。われは そのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりて やどり、おとめマリヤより うまれ、ポンテオ・ピラトのもとに くるしみをうけ、十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)にて ほうむられ、陰府(よみ)に くだり、三日目(みっかめ)に 死人(しにん)のうちより よみがえり、天(てん)にのぼり、全能の 父なる神の右(みぎ)に 座(ざ)したまえり。かしこよりきたりて いけるものと 死ねるものとを さばきたまわん。われは 聖霊を信ず、聖(せい)なる 公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)のまじわり、罪(つみ)のゆるし、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン
説 教 「地の塩、世の光」 田淵 結 牧師
祈 祷 342番「しゅよ しゅのあいをば」
1. しゅよしゅのあいをば いかにほめまつらん Shu yo shuno aiwo ba,
ikani home matsurann
うたうとすれども ことのはしらぬみ Utatu to sure domo,
kotonoha shiranu mi
あめなるみうたを わがくちにたまえ Amenaru miuta wo,
waga kuchi ni tamae
2. ほまれにたからに つゆうごかされず Homare ni takara ni,
tsuyu ugokasare zu
おもいもことばも わがしゅにならいて Omoito kotoba mo,
waga shu ni narai te
こころにあいのみ やどさしめたまえ Kokoro ni ai nomi,
yadosashime tamae
3. ああくすしきおかな あいなるみひかり Aa kusushiki kana
ainaru mikami wa
かがやくみすがた むかえばいずこも Kagayaku misugata
mukae ba izuko mo
かなしみきえゆき うれいはあとなし Kanashimi kie yuki
urei wa ato nashi
4. なやめるときにも つかりしおりにも Nayameru toki nimo,
tukare shi ori nimo
わがしゅのあいこそ ちからのもとなり Waga shu no ai koso,
chikara no moto nare
みめぐみおもえば みぬよもしたわし Mimegumi omoe ba,
minu yo mo shitawashi
感 謝 祈 祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 21−88番 「こころにあいを」
こころにあいを ゆたかにみたし ひごとのわざに つかわしたまえ
Kokoro ni aiwo yutakani mitashi higotono waza ni tsukawashi tamae
祝 祷
後 奏
報 告
2月8日(日) 公現後第五主日礼拝
メッセージ「地の塩、世の光」 田淵 結 牧師
●長く福音書、そしてイエス様の言葉に親しんでおられる方は「地の塩、世の光」という言葉もよくご存じでしょう。塩は少量でも物の腐敗を抑え、長くそれを保存するために必要、イエスを信じる人たちも、まさにその社会の腐敗をとどめるための役割を担っている。世の光、クリスチャンの行動が世界の模範として示され、社会が明るくされる、よよく語られています。ではそこで示されるイエスを信じる人たちの行動は、果たして旧約聖書の教えに、言葉だけではなく、その記される文字の一点一画までも完全に実現することができているのでしょうか。イエス様の時代に、「私はできている」とうぬぼれていた律法学者やファリサイ派の人々以上でなければ、と求められても大丈夫なのでしょうか。
●このイエス様の言葉ですが、ひょっとして私たちは大きな誤解をしているのかもしれません。私たちが血の塩であり、世の光だ、ということは本当なのでしょうか。そこで言われているのは「塩の効き目がなくなれば」、つまりともすればその塩の効果がいつしか失われてしまいかねないということのようです。私たちの光を輝かせるということですが、私たちの光というのは燭台のロウソクのようなものでしかない、ということですね。どんな状況になっても失われることなく、どんなときでも輝きを失わないような、絶対的な、強力なものとしては考えられていません。失われ、さえぎられてしまえばまったく無力なもの、ということです。
●実はわたしちに与えられているものはほんのわずかなものでしかないのです。だから私たちはそれを自分たちが与えられていることすら忘れてしまいかねません。だからこそそれを大切にしっかりと守っているか、そのわずかなものの大切さにいつも気づいているか、ということですね。そのわずかなものをなんとか守り抜こうという私たちの姿、それによって本来の塩の効果やともしびの明るさ化が社会に届けられるのです。私たちが神様から与えられた、私たちにはわずかにしか感じられない者の大切さを知っている、私たちの隣人も同じように大切なものを与えられている、そのお互いの気づきあい、尊重こそが隣人を愛するということの具体的な形なのでしょう。それによって私たち一人ひとり存在の大切さをお互いが認め合い、その小さなともしびが集まって私たちの社会が明るくされていくのです。
●祈りましょう、神様、私たちにとても大事なものを与えてくださっていること、そのことに気づかず、またその大切さを感じないでいるところに、私たちはお互いを尊重し、愛し合って生きる生き方を見失ってしまっています。私たちが、地の塩、世の光であることの意味の深さを受け止めながら、隣人とともに生きる日々を過ごさせてくださいますように。イエス様の愛をしっかりと受け止めて生きる者とならせてください。御名によって祈ります、アーメン。
2月8日(日)公現後第五主日
・旧約 イザヤ書 58章1~9節a (9b~12節)Isaiah 58:1-9a (9b-12);
・旧約 詩編 112編1~9(10)節 Psalm 112:1-9(10);
・新約 コリントの信徒への手紙一 2章1~12節 1 Corinthians 2:1-12 (13-16);
・新約 マタイによる福音書 5章13~20節 Matthew 5:13-20;
2月8日(日) 公現後第五主日礼拝
メッセージ「地の塩、世の光」 田淵 結 牧師
●長く福音書、そしてイエス様の言葉に親しんでおられる方は「地の塩、世の光」という言葉もよくご存じでしょう。塩は少量でも物の腐敗を抑え、長くそれを保存するために必要、イエスを信じる人たちも、まさにその社会の腐敗をとどめるための役割を担っている。世の光、クリスチャンの行動が世界の模範として示され、社会が明るくされる、よよく語られています。ではそこで示されるイエスを信じる人たちの行動は、果たして旧約聖書の教えに、言葉だけではなく、その記される文字の一点一画までも完全に実現することができているのでしょうか。イエス様の時代に、「私はできている」とうぬぼれていた律法学者やファリサイ派の人々以上でなければ、と求められても大丈夫なのでしょうか。
●このイエス様の言葉ですが、ひょっとして私たちは大きな誤解をしているのかもしれません。私たちが血の塩であり、世の光だ、ということは本当なのでしょうか。そこで言われているのは「塩の効き目がなくなれば」、つまりともすればその塩の効果がいつしか失われてしまいかねないということのようです。私たちの光を輝かせるということですが、私たちの光というのは燭台のロウソクのようなものでしかない、ということですね。どんな状況になっても失われることなく、どんなときでも輝きを失わないような、絶対的な、強力なものとしては考えられていません。失われ、さえぎられてしまえばまったく無力なもの、ということです。
●実はわたしちに与えられているものはほんのわずかなものでしかないのです。だから私たちはそれを自分たちが充てられていることすら忘れてしまいかねません。だからこそそれを大切にしっかりと守っているか、そのわずかなものの大切さにいつも気づいているか、ということですね。そのわずかなものをなんとか守り抜こうという私たちの姿、それによって本来の塩の効果やともしびの明るさ化が社会に届けられるのです。私たちが神様から与えられた、私たちにはわずかにしか感じられない者の大切さを知っている、私たちの隣人も同じように大切なものを与えられている、そのお互いの気づきあい、尊重こそが隣人を愛するということの具体的な形なのでしょう。それによって私たち一人ひとり存在の大切さをお互いが認め合い、その小さなともしびが集まって私たちの社会が明るくされていくのです。
●祈りましょう、神様、私たちにとても大事なものを与えてくださっていること、そのことに気づかず、またその大切さを感じないでいるところに、私たちはお互いを尊重し、愛し合って生きる生き方を見失ってしまっています。私たちが、地の塩、世の光であることの意味の深さを受け止めながら、隣人とともに生きる日々を過ごさせてくださいますように。イエス様の愛をしっかりと受け止めて生きる者とならせてください。御名によって祈ります、アーメン。
聖書 マタイによる福音書 5章13~20節
13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
2月9日(月)
・旧約 詩編 119編105~112節 Psalm 119:105-112;
・旧約 列王記下 22章3~20節 2 Kings 22:3-20;
・新約 ローマの信徒への手紙 11章2~10節 Romans 11:2-10;
2月10日(火)
・旧約 詩編 119編105~112節 Psalm 119:105-112;
・旧約 列王記下 23章1~8,21~25節 2 Kings 22:3-20; 2 Kings 23:1-8, 21-25;
・新約 コリント信徒への手紙 4章1~12節 2 Corinthians 4:1-12;
2月11日(水)
・旧約 詩編 119編105~112節 Psalm 119:105-112;
・旧約 箴言n 6章5~23節 Proverbs 6:6-23;
・新約 ヨハネによる福音書 8章12~30節 John 8:12-30;
2月12日(木)
・旧約 詩編 2編 Psalm 2;
・旧約 出エジプト記 6章2~9節 Exodus 6:2-9;
・新約 ヘブライ人への手紙 8章1~7節 Hebrews 8:1-7;
2月13日(金)
・旧約 詩編 2編 Psalm 2;
・旧約 出エジプト記 19章9b~25節 Exodus 19:9b-25;
・新約 ヘブライ人への手紙 11章23~28節 Hebrews 11:23-28;
2月14日(土)
・旧約 詩編 2編 Psalm 2;
・旧約 列王記上 21章20~29節 1 Kings 21:20-29;
・新約 マルコによる福音書 8章9~13節 Mark 9:9-13;
2月15日(日) 山上の変容の祝日
・旧約 出エジプト記 24章12~18節 Exodus 24:12-18;
・旧約 詩編 2編 または 98編 Psalm: Psalm 2 or Psalm 99;
・新約 ペトロの手紙二 1章16~21節 2 Peter 1:16-21;
・新約 マタイによる福音書 17章1~9節 Matthew 17:1-9;
2月15日(日) 山上の変容の祝日
メッセージ 「イエスの姿が変わり」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書 17章1~9節
1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
●今日は教会の伝統的なカレンダーでは「山上の変容の祝日」とされていて、その出来事を考えるためのマタイによる福音書の記事が選ばれています。この出来事はイエスの伝道活動ではちょうど中間点にあたり、直前のマタイ福音書16章では「このときから」(マタイ16章21節)イエスはご自身の十字架の死と復活を明確に語り始められるようになったのです。その直後にイエスの姿が変わって、イエスはある山でモーセとエリヤという旧約を代表する二人の「預言者」と語り合っていた、というのです。それを見た弟子たちは、イエスがそんなに素晴らしい存在であったことを示されて、おおいに感動したようです。
●しかしこの記事は、イエスのその伝道活動の転換点に当たって、それまでのイエスの活動をしっかりと振り返らせるためのもののような気がします。記事の最後に天からの声があったこと「これはわたしの愛する子・・・」はあのヨルダン川でのイエスの受洗のときに響いた言葉ですし、モーセとエリヤ、その二人は旧約聖書のなかの二人の偉大な人物ですが、彼らの偉大さはどんな逆境のなかにあっても、自分の弱さを自覚しつつも神様の御心に従い続けた、ということから示されるのです。モーセは出エジプトという事件のなかで、最初はエジプト王と対立し、荒野では自分の民イスラエル人からの非難を浴び続けました。エリヤは列王記という書物のなかで、当時の王アハブやその妻イゼベルからの激しい迫害を受け神様に自分の命を取ってくださいとまで祈ります。つまりイエスもまt神様の御心に従いぬくということで、この二人の預言者以上に受難と十字架上での死の苦しみを受けられることを、改めてここで示されているのです。
●弟子たちが、その山でイエスの姿が輝く白さに変容し、偉大な預言者たちと話し合う、というその出来事を見て感動するなかで、その本質である神様のもとでの受難と死ということを悟ることができなかった。そしてイエスが復活されるまで、その出来事について話すことを許されなかったのは、その弟子たちが自分で感動するということでその意味を理解することができないまま、その出来事を勝手に解釈し語ることをとどめられたのでしょう。イエスを信じる生き方のなかでの落とし穴、それがまさにそのような宗教的と思われる感動、感激であり、それにとらわれるとき、わたしたちはイエス様の「救いの本質」というか本当の意味を見失ってしまうのです。弟子たちは、そこでこそイエスの復活に至るためのその死の苦しみ、その意味にこそ自分たちの思いを集中すべきだったのでしょう。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたについ求めがちなこと、目に見える感動、感激、よろこびなどに目を向け切っているとき、もっとも大事なあなたの実苦しみを通じて示された大きな愛、あなたのゆるしを見過ごしてしまいます。どうぞあなたが私たちに示される、あなたの輝きの中心にある、十字架を見つめ続ける私たちであらせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2月2日(月)イエス神殿奉献の祝日
・旧約 詩編 37編1~17節 Psalm 37:1-17;
・旧約 ルツ記 1章1~18節 Ruth 1:1-18;
・新約 フィレモンへの手紙 1~25節 Philemon 1-25;
2月3日(火)
・旧約 詩編 37編1~17節 Psalm 37:1-17;
・旧約 ルツ記 2章1~16節 Ruth 2:1-16;
・新約 ヤコブの手紙 5章1~6節 James 5:1-6;
2月4日(水)
・旧約 詩編 37編1~17節 Psalm 37:1-17;
・旧約 ルツ記 3章1~13節、4章13~22節 Ruth 3:1-13; 4:13-22;
・新約 ルカによる福音書 6章17~26節 Luke 6:17-26;
2月5日(木)
・旧約 詩編 112編1~9節 Psalm 112:1-9;
・旧約 申命記 4章1~14節 Deuteronomy 4:1-14;
・新約 ヨハネの手紙一 5章1~5節 1 John 5:1-5;
2月6日(金)
・旧約 詩編 112編1~9節 Psalm 112:1-9;
・旧約 イザヤ書 29章1~12節 Isaiah 29:1-12;
・ヤコブの手紙 3章13~18節 James 3:13-18;
2月7日(土)
・旧約 詩編 112編1~9節 Psalm 112:1-9;
・旧約 イザヤ書 29章13~16節 Isaiah 29:13-16;
・新約 マルコによる福音書 7章1~8節 Mark 7:1-8;
2月8日(日)公現後第五主日
・旧約 イザヤ書 58章1~9節a (9b~12節)Isaiah 58:1-9a (9b-12);
・旧約 詩編 112編1~9(10)節 Psalm 112:1-9(10);
・新約 コリントの信徒への手紙一 2章1~12節 1 Corinthians 2:1-12 (13-16);
・新約 マタイによる福音書 5章13~20節 Matthew 5:13-20;
聖書 マタイによる福音書 5章13~20節
13あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 14あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 15また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
17わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 18よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 19それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。 20わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
1月26日(月)
・旧約 詩編 27編7~14節 Psalm 27:7-14;
・旧約 士師記 6章11~24節 Judges 6:11-24;
・新約 エフェソスの信徒への手紙 5章6~14節 Ephesians 5:6-14;
1月27日(火)
・旧約 詩編 27編7~14節 Psalm 27:7-14;
・旧約 士師記 7勝12~22節 Judges 7:12-22;
・新約 フィリピの信徒への手紙 2章12~18節 Philippians 2:12-18;
1月28日(水)
・旧約 詩編 27編7~14節 Psalm 27:7-14;
・旧約 創世記 49章1~2、8~13、21~26節 Genesis 49:1-2, 8-13, 21-26;
・新約 ルカによる福音書 1章67~79節 Luke 1:67-79;
1月29日(木)
・旧約 詩編 15編 Psalm 15;
・旧約 申命記 16章18~20節 Deuteronomy 16:18-20;
・新約 ペトロの手紙一 3章8~12節 1 Peter 3:8-12;
1月30日(金)
・旧約 詩編 15編 Psalm 15;
・旧約 申命記 24章17節~25章4節 Deuteronomy 24:17-25:4;
・新約 テモテへの手紙一 5章17~24節 1 Timothy 5:17-24;
1月31日(土)
・旧約 詩編 15編 Psalm 15;
・旧約 ミカ書 3章1~4節 Micah 3:1-4;
・新約 ヨハネによる福音書 13章31~35節 John 13:31-35;:
2月1日(日)公現後第四主日
・旧約 ミカ書 6章1~8節 Micah 6:1-8;
・旧約 詩編 15編 Psalm 15;
・新約1 コリントの信徒への手紙一 1章18~31節 1 Corinthians 1:18-31;
・新約 マタイによる福音書 5章1~12節 Matthew 5:1-12;
2月1日 公現後第四主日
メッセージ 「さいわいなるかな」 田淵 結 牧師
マタイによる福音書 5章1~12節
1イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 12喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
●今年の聖書日課に従うと毎週日曜日はマタイによる福音書に記されたイエスの活動をフォローすることになっているようですね。今週はその教えの代表ともいえる山上の説教(1節)の最初の「八福の教え」、来週は「地の塩、世の光」です。だからもう十分にみなさんにはおなじみのものでしょう。私の尊敬する牧師のおひとりで、すでに天に召されておられますが相浦和生先生の御説教が思い出されます。とてもユーモアあふれる方で、そのお話はある牧師がとても感動的な説教をある日曜日に行った、というところから始まります。そして次の週、また同じ話をされた。それが何週間続くと、教会員が、先生もっと別のお話をしてくださいと求めると、ではあなた方はわたしがお話していることが身に付きましたか、実践されていますか、という返事たったというのがその内容。それが相浦先生ご自身のご体験なのかどうかはともかく、今日の聖書の箇所も私たちには十分おなじみ、でもそれが私たちの身についているのか、となるとどうなんでしょう。
●私たちは自分の今を、この聖書の言葉にあてはめて考えることがあるでしょうか。「こころの貧しい、悲しんでいる、柔和な、義に飢えかわいている、あわれみ深い、心の清い、平和をつくり出す、義のために迫害されて」いる。私たちは今、そのうちのどの状態なのでしょう。そして「さいわい」を日々実感しているでしょうか。確かに私たちはその言葉をよく知っている、しかもこれらの言葉はとても心地よく、美しく、優しい。またもやクラシック音楽のお話になりますが、ヨハネス・ブラームスという作曲家の代表作の一つ「ドイツ・レクイエム」という作品の最初は「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」から歌い始められます。本当に美しい音楽に浸ることのできる幸いを感じますが、そのとき私たちは音楽によってではなくイエス様の愛によって幸いをえているのでしょうか。
●それらの言葉が耳に心地よいからこそ、私たちはそれを耳にするだけで満足して終わっているのでしょう。その言葉をひとつひとつ私自身の毎日の生活の課題として取り組んでみるとき、それがいかに自分に厳しく、むしろ避けて通りたいような内容であるかに気づかされます。それによって「ののしり、また迫害し、偽って様々の悪口を言」われる現実と向き合うことをイエスは語っておられます。しかしそれがイエス様が求められる私たちにとっての真に向き合うべき現実だということなのでしょう。聖書の言葉は決してお題目では終わらないし、だからこそ私たちを生かす神の言葉としての力を持ちます。そしてそれを私たちが実践できるのは、自分たちの力ではなく、イエス様の言葉の力を感じる、信じるからです。もう一度、私たちの今を、今日の教えで確かめたいのです。
●祈ります、神様、あなたの語りかけ、問いかけ、与えてくださる御言葉を感謝します。その前に立つ私たちこそ、その言葉が私たちの生活となり、働きとなっていくように、あなたの力、イエス様の励ましをお与えください。常に私たちと共に歩まれる、主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
・旧約 イザヤ書 9章1~4節 Isaiah 9:1-4;
・旧約 詩編 27編1、4~9節 Psalm 27:1, 4-9;
・新約 コリントの信徒への手紙一 1章10~18節 1 Corinthians 1:10-18;
・新約 マタイによる福音書 4章12~23節 Matthew 4:12-23;
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会
2025年1月25日(日) 午前10時30分
公現後第三主日礼拝
前 奏 多田 謙一 兄
招 き の 言 葉 コリントの信徒への手紙一 1章18節
讃 美 歌 62番 「主イエスのめぐみと」
1. しゅいえすのみいつと みめぐみとを Shu Iesu no miistu to, mimegumi to wo
ことばのかぎりに たたえまほし Kotoba no kagiri ni, tatae maho shi
2. とうときわがしゅよ たかきみなを Yono tsumiwo nozoku, uenaki kohitsuji yo
ひろむるこのみを たすけたまえ Hiromuru kono mi wo, tasuke tamae
3. うれいをなぐさめ おそれをさる Urei wo nagusame, osore wo saru
みなをばつみびと きくうれしさ Mina woba tsumibito, kiku uresisa
4. くらきのちからを イエスはくだき Kuraki no chikara wo, Iesu wa kudaki
ちをもてあがない すくいたもう Chi wo mote aganai, sukui tamouu
5. しにたるこころも いきかえらせ Shini taru kokoro mo, iki kaerase
のぞみをあたうる みなをたたえん Nozomi wo atauru, mina wo tataenn
詩編の 交 読 詩編 27編
主 の 祈 り (564番)
天(てん)にまします われらの父(ちち)よ。ねがわくは御名(みな)を あがめさせたまえ。御国(みくに)をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、ちにも なさせたまえ。われらの日用(にちよう)のかてを きょうもあたえたまえ。われらに つみをおかすものを われらがゆるすごとく、われらの つみをもゆるしたまえ。われらを こころみにあわせず、悪(あく)より すくいだしたまえ。国(くに)とちからとさかえとは、かぎりなく なんじのものなればなり。アーメン。
聖 書 マタイによる福音書 4章12~23節
祈 祷
讃 美 歌 233番「主よみくにを」
1、しゅよみくにを きたらしませ Shu yo mikuni wo, kitarasi mase
もろくにを あいにむすび Morokuni wo, ai ni musubi
ゆずりあいて みむねのご Yuzuri aite, mimuno no goto
ただしきみち ふませたまえ Tadashiki michi, fumase tamae
2.いにしえより せいとたちの Inishie yori, seito tachi no
あこがれたる さかえのひを Akogare taru, sakae no hi wo
かみのみやこ ちになるひを Kami no miyako, chini naru hiwo
しゅよいまこそ はやめたまえ Shu yo imakoso, hayame tamae
使 徒 信 条 (566番)
われは天地(てんち)のつくりぬし、全能(ぜんのう)の父なる神を信(しん)ず。われは そのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりて やどり、おとめマリヤより うまれ、ポンテオ・ピラトのもとに くるしみをうけ、十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)にて ほうむられ、陰府(よみ)に くだり、三日目(みっかめ)に 死人(しにん)のうちより よみがえり、天(てん)にのぼり、全能の 父なる神の右(みぎ)に 座(ざ)したまえり。かしこよりきたりて いけるものと 死ねるものとを さばきたまわん。われは 聖霊を信ず、聖(せい)なる 公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)のまじわり、罪(つみ)のゆるし、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信はず。アーメン
説 教 「天国は近づいた」 田淵 結 牧師
祈 祷 298番「やすかれ わがこころよ」
1. やすかれわがこころよ Yasukare waga kokoro yo
しゅいえすはともにいます Shu Iesu wa tomoni imasu
いたみもくるしみをも Itami mo kurushimi wo mo
おおしくしのびたえよ Ooshiku shinobi tae yo
しゅいえすのともにませば Shu Iesu no tomo ni maseba
たええぬのぞみはなし Taeenu nozomi wa nashi
2. やすかれわがこころよ Yasukare waga kokoro yo
なみかぜたけるときも Nami kaze takeru toki mo
ちちなるあまつかみの Chichi naru amatsu kami no
みむねにゆだねまつれ Mimune ni yudane matsu re
みてもてみちびきたもう Mite mote michibiki tamou
のぞみのきしはちかし Nozomi no kishi wa chikashi
3. やすかれわがこころよ Yasukare waga kokoro yo
つきひのうつろいなき Tsukihi no utsuroi naki
みくにはやがてきたらん Mikuni wa yagate kitarann
うれいはとわにきえて Urei wa towa ni kiete
かがやくみかおあおぐ Kgayaku mikao aogu
いのちのさちをぞうけん Inochi no sachi wozo ukenn
感 謝 祈 祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 21−88番 「こころにあいを」
こころにあいを ゆたかにみたし ひごとのわざに つかわしたまえ
Kokoro ni aiwo yutakani mitashi higotono waza ni tsukawashi tamae
祝 祷
後 奏
報 告
聖書 マタイによる福音書 4章12~23節
12さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。 13そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。 14これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
15「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、
16暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
17この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
18さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。 19イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 20すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。 21そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、 22すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
23イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
メッセージ 「天国は近づいた」 田淵 結 牧師
●よく「一言でいうと」という要約の仕方をします。その議論の中心的なポイントはこれで、ここだけはしっかりとわかってほしい、ということなのですが。ではイエス様の教えを一言でいうと、となるとおそらくものすごい議論が巻き起こることでしょう。そんななかで20世紀最大の神学者の一人といわれたカール・バルトは「インマヌエル(神共にいます)」だと主張していますが、それがキリスト教全体で認められているわけもありません。わたしはそれは今日の聖書の箇所の「天国は近づいた」ではないか、と私なりに思っています。なによりも福音書のなかでイエスの最初の教えとして記されているからです。
●天国、あるいはマルコによる福音書では「神の国」となっていますが、私たちの日本人的にはそれは私たちに約束されている死後の世界と勝手に思い込んでいますが、イエス様が意味されているところは全く違います。ここでいう「国」ということばは「支配される」とか「治められ方」(そんな日本語があるのでしょうか)という意味です。例えば今の日本は政治権力を握っている総理大臣?によって「治められ」「支配され」といるのです。イエス様の時代にはローマ帝国がユダヤを治めていましたが、そのなかでイエス様は「神の国」「天国」、つまり神様がわたしたちを治められる世界を訴えられるのです。その世界は神様の支配ですから、人間的な考え方、価値観とは全く違います。人間の価値観では富める人、地位のある人、(人間的な)権威のある人などなど、身分格差があり、その上位の人、多数者が支配していますが、神様の前ではその序列は通用しません。その世界の中心的な考え方は、神様に愛されて生きる、ということで、ひとりひとりがそれぞれに神様に独特の仕方で愛されているのですから、序列や比較ではありません。イエス様が問われた「あなたはわたしを愛するか」(ヨハネ福音書21章)という問いかけのなかで「私に従いなさい」ということばによって私たちが生きることが求められているのです。
●西暦2026年と言いますが、それはイエスの誕生から数えて2026年目ということ以上にA.D.つまり「主(イエス)が支配される」何年目という意味を持ちます。私たちがこの新しい年に生きるということは、今の世界で、日本社会で生きるということと同時に主の支配される時を生きている、ということを覚えるべきでしょう。だから常識的な価値観ではない、神様の愛を基準(ものさし)とする考え方、生き方を求められ、招かれていることを覚えたいのです。そのような招きに最初に答えたのが、ガリラヤ湖で働く漁師たちだったのです。
●祈りましょう、神様、私たちがいまどんな時代を生きているのか、私たちがそのなかで中心とすべき行き方を続けることができますように。あなたの愛に従う生き方を、イエス様の生涯を通して示し続けてくださいますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
公現後第二主日
・旧約 イザヤ書 49章1~7節 Isaiah 49:1-7;
・旧約 詩編 40編1~11節 Psalm 40:1-11;
・新約 コリントの信徒への手紙二 1章1~9節 Corinthians 1:1-9;
・新約 ヨハネによる福音書 1章29~42節 John 1:29-42
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会
2025年1月18日(日) 午前10時30分
公現後第二主日礼拝
前 奏
招 き の 言 葉 イザヤ書49章1~3節
讃 美 歌 讃美歌第二編 86番 「世の罪をのぞく」
1. よのつみをのぞく うえなくせいなる Yono tsumiwo nozoku, uenaku seinaru
みかみのこひつじよ われらをあわれみたまえ Mikami no kohitsuji yo warera wo awaremi tamae
2. よのつみをのぞく うえなきこひつじよ Yono tsumiwo nozoku, uenaki kohitsuji yo
われらをあわれみたまえ Warera wo awaremi tamae
3. よのつみをのぞく うえなくせいなる Yono tsumiwo nozoku, uenaku seinaru
みかみのこひつじよ われらにやすきをたまえ Mikami no kohitsuji yo, warera ni yasuki wo tamae
詩編の 交 読 詩編 27編
主 の 祈 り (564番)
天(てん)にまします われらの父(ちち)よ。ねがわくは御名(みな)を あがめさせたまえ。御国(みくに)をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、ちにも なさせたまえ。われらの日用(にちよう)のかてを きょうもあたえたまえ。われらに つみをおかすものを われらがゆるすごとく、われらの つみをもゆるしたまえ。われらを こころみにあわせず、悪(あく)より すくいだしたまえ。国(くに)とちからとさかえとは、かぎりなく なんじのものなればなり。アーメン。
聖 書 ヨハネによる福音書 1章29~42節
祈 祷
讃 美 歌 257番「十字架の上に」
1. じゅうじかのうえに ほふられたまいし Juujika no ue ni, hofureare tamaishi
こよなくきよき みかみのこひつじ Koyonaku kiyoki, mikami no kohitsuji
わがためなやみを しのびたまいし Wwaga tame nagami wo, shinobi tamaishi
みめぐみ げにもとうとし Mimegumi, genimo toutoshi
2. じゅうじかのうえに ほふられたまいし Juujika no ue ni, hofureare tamaishii
こよなくきよき みかみのこひつじ Koyonaku kiyoki, mikami no kohitsuji
みすくいあらずば つみのこのみは Misukui arazuba, tsumi no kono mi wa
ほろびをいかでまぬがれん Horobi wo ikade manugarenn
3. じゅうじかのうえに ほふられたまいし Juujika no ue ni, hofureare tamaishii
こよなくきよき みかみのこひつじ Koyonaku kiyoki, mikami no kohitsuj
ともしくかよわき われをあわれみ Tmoshiku kayowaki, warewo awaremi
やすきをつねにたまえや Yasuki wo tsune ni tamae ya
使 徒 信 条 (566番)
われは天地(てんち)のつくりぬし、全能(ぜんのう)の父なる神を信(しん)ず。われは そのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりて やどり、おとめマリヤより うまれ、ポンテオ・ピラトのもとに くるしみをうけ、十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)にて ほうむられ、陰府(よみ)に くだり、三日目(みっかめ)に 死人(しにん)のうちより よみがえり、天(てん)にのぼり、全能の 父なる神の右(みぎ)に 座(ざ)したまえり。かしこよりきたりて いけるものと 死ねるものとを さばきたまわん。われは 聖霊を信ず、聖(せい)なる 公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)のまじわり、罪(つみ)のゆるし、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信はず。アーメン
説 教 「神の小羊」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 164番 「こひつじをば」
1.こひつじをば ほめたたうる Kohitsuji wo ba, home tatauru
たえなるもののね あめにきこゆ Tae naru mono none, ame ni kikoyu
いざみたみよ めぐみのしゅに Iza mitami yo, megumi no shu ni
さかえのかむりを ささげまつれ Sakae no kamuri wo, sasage matsu re
2. みつかいらも うちふすまで Mitsukai ra mo, uchi fusu made
わがしゅのみきずは てりかがやく Waga shu no mikizu wa, teri kagayaku
いざみたみよ すくいのしゅに Iza mitami yo, sukui no shu ni
さかえのかむりを ささげまつれ Sakae no kamuri wo, sasage matsu re
3. たたかいやみ やさけびたえ Tatakai yami, yasakebi tae
いのりとうたとの こえはひびく Inori to uta tono, koe wa hibiku
いざみたみよ へいわのしゅに Iza mitami yo, heiwa no shu ni
さかえのかむりを ささげまつれ Sakae no kamuri wo, sasage matsu re
4. そらのきわみ ちのはてまで Sora no kiwami, chi no hate made
みいつのひかりは てりわたりぬ Miitsu no hikari wa, teri watari nu
ちちとともに しらすきみに Chichi to tomo ni, shirasu kimi ni
さかえのかむりを ささげまつれ Sakae no kamuri wo, sasage matsu re
感 謝 祈 祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 21−88番 「こころにあいを」
こころにあいを ゆたかにみたし ひごとのわざに つかわしたまえ
Kokoro ni aiwo yutakani mitashi higotono waza ni tsukawashi tamae
祝 祷
後 奏
報 告
聖書 ヨハネによる福音書 1章29~42節
29その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。 30『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。 31わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。 32ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。 34わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
35その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、 36イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。 37そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 38イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。 39イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。 40ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 41彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。 42そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。
1月18日 芦屋キリスト教会
メッセージ 「神の小羊」 田淵 結 牧師
●私の神学部恩師である城崎進先生は、毎年新年の講壇ではその年の干支にちなんだお話をされていました。そのメッセージがまとめられて入れば結構人気が出たのではと勝手に思っていますが、今日の日課は残念ながら馬ではなく「小羊」です。ちなみに聖書のなかで馬はあまり高く評価されることはありません。一つにはイスラエル民族はマックス・ウェーバー的に言うと「ベドウィン:小家畜飼育者」と言われ、決して大型の家畜馬、牛、ラクダなどを扱うほどの経済力はなかったようです。むしろ羊が主流で、その群れを率いて生活を営んでいました。だからこそ聖書の主人公は羊飼いが多いですし、イエス様もご自身を「わたしは良い羊飼い」と語られていますし、バプテスマのヨハネはイエスを見て「神の小羊」と呼び掛けています。
●今日の聖書の箇所は、先週もマタイによる福音書で示されたイエスの受洗物語ですが、その洗礼を受けられたイエスに対してバプテスマのヨハネは、イエスが自分より偉大な存在であり、「神の子」、そして「神の小羊」と語ります。聖書のなかで、とくに旧約の背景のなかで「小羊」は、出エジプト記の記述のなかで、イスラエル人に降りかかろうとする災厄を自ら身代わりとして受ける意味で代贖の犠牲として殺される存在で、ヨハネにとってイエスの偉大さ、神の子性はイエスの死の意味を見通してのことだったのです(ヨハネによる福音書19章)。キリスト教においてイエスを神の子、キリストとして受け止める第一の、そして最大の理由はこの点にあります。だから建物としての教会にとっても「十字架」を掲げることが必須となります。
●イエスが私たちの罪のために十字架にかかられた、というその中心的なメッセージですが、カトリックのミサ(聖餐式)という典礼の最後に唱えられる祈りの言葉が、まさに「世の罪を取り除く神の小羊」ラテン語で"Agnus Dei qui tolis peccata mundi"なのですが、その祈りには"Dona nobis pacem"という言葉が続きます。私たちに平和を(pacem= pax= peace)与え給えと閉じられます。イエスの十字架の死、それは私たちに真の平和・平安を与えるものだったということです。新年の最初、私たちのこれからの一年を考えるとき、わたしたちにまさにその平和が与えられていることを、イエスが私たちの「罪:不安、思い煩い、悩み、苦しみ、恐れ」などを追ってくださったという事実に目を向けることによって、まさに安心して、平安のなかに過ごすことができることを、その意味で私たちも心のうちに十字架を掲げながら歩みたいと願います。
●愛する神様、新年のこのときに、わたしたちにとってのイエス様の存在の大きさを改めて覚えます。どうぞそのイエス様と共にこの一年の歩みを続けることができますように。わたしたちがまたその十字架を共に掲げつつ過ごすひとりであらせてえください。十字架の死に至るまであなたに従順であり、私たちを愛してくださった主、イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
1月19日(月)
・旧約 詩編 40編6~17節 Psalm 40:6-17;
・旧約 出エジプト記 12章1~13、21~28節節 Exodus 12:1-13, 21-28;
・新約 使徒言行録 8勝26~40節 Acts 8:26-40;
1月20日(火
・旧約 詩編 40編6~17節 Psalm 40:6-17;
・旧約 イザヤ書 53章1~12節 Isaiah 53:1-12;
・新約 ヘブライ人への手紙 10章1~4節 Hebrews 10:1-4;
1月21日(水)
・旧約 詩編 40編6~17節 Psalm 40:6-17;
・旧約 イザヤ書 48章12~21節 Isaiah 48:12-21;
・新約 マタイによる福音書 9章14~17節 Matthew 9:14-17;
1月22日(木)
・旧約 詩編 27編1~6節 Psalm 27:1-6;
・旧約 サムエル記上 1章1~20節 1 Samuel 1:1-20;
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 1章11~24節 Galatians 1:11-24;
1月23日(金)
・旧約 詩編 27編1~6節 Psalm 27:1-6;
・旧約 サムエル記上 9章27節~10章8節 1 Samuel 9:27-10:8;
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 2章1~10節 Galatians 2:1-10;
1月24日(土)
・旧約 詩編 27編1~6節 Psalm 27:1-6;
・旧約 サムエル記上 15章34節~16章13節 1 Samuel 15:34-16:13;
・新約 ルカによる福音書 5章27~32節 Luke 5:27-32;
1月25日(日) 公現後第三主日Calendar Date: Jan 25, 2026
・旧約 イザヤ書 9章1~4節 Isaiah 9:1-4;
・旧約 詩編 27編1、4~9節 Psalm 27:1, 4-9;
・新約 コリントの信徒への手紙一 1章10~18節 1 Corinthians 1:10-18;
・新約 マタイによる福音書 4章12~23節 Matthew 4:12-23;
聖書 マタイによる福音書 4章12~23節
12さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。 13そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。 14これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
15「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、
16暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
17この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
18さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。 19イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 20すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。 21そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、 22すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
23イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
メッセージ 「天国は近づいた」 田淵 結 牧師
●よく「一言でいうと」という要約の仕方をします。その議論の中心的なポイントはこれで、ここだけはしっかりとわかってほしい、ということなのですが。ではイエス様の教えを一言でいうと、となるとおそらくものすごい議論が巻き起こることでしょう。そんななかで20世紀最大の神学者の一人といわれたカール・バルトは「インマヌエル(神共にいます)」だと主張していますが、それがキリスト教全体で認められてるわけもありません。わたしはそれは今日の聖書の箇所の「天国は近づいた」ではないか、と私なりに思っています。なによりも福音書のなかでイエスの最初の教えとして記されているからです。
●天国、あるいはマルコによる福音書では「神の国」となっていますが、私たちの日本人的にはそれは私たちに約束されてる死後の世界と勝手に思い込んでいますが、イエス様が意味されているところは全く違います。ここでいう「国」ということばは「支配される」とか「治められ方」(そんな日本語があるのでしょうか)という意味です。例えば今の日本は政治権力を握っている総理大臣?によって「治められ」「支配され」といるのです。イエス様の時代にはローマ帝国がユダヤを治めていましたが、そのなかでイエス様は「神の国」「天国」、つまり神様がわたしたちを治められる世界を訴えられるのです。その世界は神様の支配ですから、人間的な考え方、価値観とは全く違います。人間の価値観では富める人、地位のある人、(人間的な)権威のある人などなど、身分格差があり、その上位の人、多数者が支配していますが、神様の前ではその序列は通用しません。その世界の中心的な考え方は、神様に愛されて生きる、とということで、ひとりひとりがそれぞれに神様に独特の仕方で愛されているのですから、序列や比較ではありません。イエス様が問われた「あなたはわたしを愛するか」(ヨハネ福音書21章)という問いかけのなかで「私に従いなさい」ということばによって私たちが生きることが求められているのです。
●西暦2026年と言いますが、それはイエスの誕生から数えて2026年目ということ以上にA.D.つまり「主(イエス)が支配される」何年目という意味を持ちます。私たちがこの新しい年に生きるということは、今の世界で、日本社会で生きるということと同時に主の支配される時を生きている、ということを覚えるべきでしょう。だから常識的な価値観ではない、神様の愛を基準をものさしとする考え方、生き方を求められ、招かれていることを覚えたいのです。そのような招きに最初に答えたのが、ガリラヤ湖で働く漁師たちだったのです。
●祈りましょう、神様、私たちがいまどんな時代を生きているのか、私たちがそのなかで中心とすべき行き方を続けることができますように。あなたの愛に従う生き方を、イエス様の生涯を通して示し続けてくださいますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
1月12日(月)
・旧約 詩編 89編5~37節 Psalm 89:5-37;
・旧約 創世記8 35章1~15節 Genesis 35:1-15;
・新約 使徒言行録 10章44~48節 Acts 10:44-48;
1月13日(火)
・旧約 詩編 89編5~37節 Psalm 89:5-37;
・旧約 エレミヤ書 1章4~10節 Jeremiah 1:4-10;
・新約 使徒言行録 8章4~13節 Acts 8:4-13;
1月14日(水)
・旧約 詩編 89編5~37節 Psalm 89:5-37;
・旧約 イザヤ書 51章1~16節 Isaiah 51:1-16;
・新約 マタイによる福音書 12章15~21節 Matthew 12:15-21;
1月15日(木)
・旧約 詩編 40編1~11節 Psalm 40:1-11;
・旧約 イザヤ書 22章15~25節 Isaiah 22:15-25;
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 1章6~12節 Galatians 1:6-12;
1月16日(金)
・旧約 詩編 40編1~11節 Psalm 40:1-11;
・旧約 創世記 27章30~38節 Genesis 27:30-38;
・新約 使徒言行録 1章1~5節 Acts 1:1-5;
1月17日(土)
・旧約 詩編 40編1~11節 Psalm 40:1-11;
・旧約 列王記女王 19章19~21節 1 Kings 19:19-21;
・新約 ルカによる福音書 5章1~11節 Luke 5:1-11;
1月18日(日) 主の洗礼の祝日
・旧約 イザヤ書 42章1~9節 Isaiah 42:1-9;
・旧約 詩編 29編 Psalm: Psalm 29;
・新約 使徒言行録 10章34~43節 Acts 10:34-43;
・新約 マタイによる福音書 3章13~17節 Matthew 3:13-17;
公現後第二主日
・旧約 イザヤ書 49章1~7節 Isaiah 49:1-7;
・旧約 詩編 40編1~11節 Psalm 40:1-11;
・新約 コリントの信徒への手紙二 1章1~9節 Corinthians 1:1-9;
・新約 ヨハネによる福音書 1章29~42節 John 1:29-42
聖書 ヨハネによる福音書 1章29~42節
29その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。 30『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。 31わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。 32ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。 34わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
35その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、 36イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。 37そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 38イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。 39イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。 40ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 41彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。 42そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。
1月21日 芦屋キリスト教会
メッセージ 「神の小羊」 田淵 結 牧師
●私の神学部恩師である城崎進先生は、毎年新年の講壇ではその年の干支にちなんだお話をされていました。そのメッセージがまとめられて入れば結構人気が出たのではと勝手に思っていますが、今日の日課は残念ながら馬ではなく「小羊」です。ちなみに聖書のなかで馬はあまり高く評価されることはありません。一つにはイスラエル民族はマックス・ウェーバー的に言うと「ベドウィン:小家畜飼育者」と言われ、決して大型の家畜馬、牛、ラクダなどを扱うほどの経済力はなかったようです。むしろ羊が主流で、その群れを率いて生活を営んでいました。だからこそ聖書の主人公は羊飼いが多いですし、イエス様もご自身を「わたしは良い羊飼い」と語られていますし、バプテスマのヨハネはイエスを見て「神の小羊」と呼び掛けています。
●今日の聖書の箇所は、先週もマタイによる福音書で示されたイエスの受洗物語ですが、その洗礼を受けられたイエスに対してバプテスマのヨハネは、イエスが自分より偉大な存在であり、「神の子」、そして「神の小羊」と語ります。聖書のなかで、とくに旧約の背景のなかで「小羊」は、出エジプト記の記述のなかで、イスラエル人に降りかかろうとする災厄を自ら身代わりとして受ける意味で代贖の犠牲として殺される存在で、ヨハネにとってイエスの偉大さ、神の子性はイエスの死の意味を見通してのことだったのです(ヨハネによる福音書19章)。キリスト教においてイエスを神の子、キリストとして受け止める第一の、そして最大の理由はこの点にあります。だから建物としての教会にとっても「十字架」を掲げることが必須となります。
●イエスが私たちの罪のために十字架にかかられた、というその中心的なメッセージですが、カトリックのミサ(聖餐式)という典礼の最後に唱えられる祈りの言葉が、まさに「世の罪を取り除く神の小羊」ラテン語で"Agnusu Dei qui tolis peccata mundi"なのですが、その祈りには"Dona nobis pacem"という言葉が続きます。私たちに平和を(pacem= pax= peace)与え給えと閉じられます。イエスの十字架の死、それは私たちに真の平和・平安を与えるものだったということです。新年の最初、私たちのこれからの一年を考えるとき、わたしたちにまさにその平和が与えられていることを、イエスが私たちの「罪:不安、思い煩い、悩み、苦しみ、恐れ」などを追ってくださったという事実に目を向けることによって、まさに安心して、平安のなかに過ごすことができることを、その意味で私たちも心のうちに十字架を掲げながら歩みたいと願います。
●愛する神様、新年のこのときに、わたしたちにとってのイエス様の存在の大きさを改めて覚えます。どうぞそのイエス様と共にこの一年の歩みを続けることができますように。わたしたちがまたその十字架を共に掲げつつ過ごすひとりであらせてえください。十字架の死に至るまであなたに従順であり、私たちを愛してくださった主、イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
1月5日(月)
・旧約 詩編 72編 Psalm 72;
・旧約 ヨシュア記 1章1~9節 Joshua 1:1-9;
・新約 ヘブライ人への手紙 11章32節~12章2節 Hebrews 11:32-12:2;
1月6日(火)イエスの公現日
・旧約 イザヤ書 60章1~6節 Isaiah 60:1-6
・旧約 詩編 72編1~7、10~14節節 Psalm: Psalm 72:1-7, 10-14
・新約 エフェソスの信徒への手紙 3章1~12節 Ephesians 3:1-12
・新約 マタイによる福音書2章1~12節 Gospel: Matthew 2:1-12
1月7日(水)
・旧約 詩編 72編 Psalm 72;
・旧約 列王記上 10章1~13節 1 Kings 10:1-13;
・新約 エフェソスの信徒への手紙 3章14~21節 Ephesians 3:14-21;
1月8日(木)
・旧約 詩編 29編 Psalm 29;
・旧約 サムエル記上 3章1~9節 1 Samuel 3:1-9;
・新約 使徒言行録 9章1~9節 Acts 9:1-9;
1月9日(金)
・旧約 詩編 29編 Psalm 29;
・旧約 サムエル記上 3章10節~4章1a節 1 Samuel 3:10-4:1a;
・新約 使徒言行録 9章10~19a節 Acts 9:10-19a;
1月10日(土)
・旧約 詩編 29編 Psalm 29;
・旧約 サムエル記上 7章9~17節 1 Samuel 7:3-17;
・新約 使徒言行録 9章19b~31節 Acts 9:19b-31;
1月11日(日) イエスの洗礼日
・旧約 イザヤ書 42章1~9節 Isaiah 42:1-9;
・旧約 詩編 29編 Psalm 29;
・新約 使徒言行録 10章34~43節 Acts 10:34-43;
・新約 マタイによる福音書 3章13~17節 Matthew 3:13-17;
13そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。 14ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。 15しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 17また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
●キリスト教のカレンダーでは1月6日がもうひとつのクリスマスの重要な祝日、オーソドックス教会と呼ばれる東ヨーロッパの教会ではこの日をクリスマスとしてお祝いするほどで、それはイエスが東方からの学者たち(伝説によると三人で、一人はヨーロッパ、一人はアフリカ、もうひとりはアジアからやってきたと言われ、それぞれ名前も伝えられている)ということで、つまりユダヤ人以外の世界の人々に救い主が示されたことを記念してエピファニー(公現日)とされている。そして今日はイエスが成人して後バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた日として記念されています。この日からイエスの公生涯(宣教活動)が開始されたことを覚えるのです。
●バプテスマのヨハネからの洗礼については、例えば遠藤周作さんという作家は、イエスはもともとこのヨハネの弟子あるいはヨハネが主宰する団体(教団・教派)に属したのではという推察をしておられるが、ただし聖書の記述からすればむしろヨハネはイエスの偉大さを理解しており、洗礼を施すことにためらいながらそれを行っています。そしてイエスがヨルダン川から上がられると「天が開け、神の御霊がはとのように・・・下って」来たとされます。そして天からの声「これはわたしの愛する子、私の心にかなう者」という声が響いたということで、この洗礼はまさに神様のみこころのうちになされたことが語られます。
●この洗礼がイエスの公生涯(伝道活動)の始まりを画するということのなかで「わたしの心にかなう者」という言葉をうけとめるとき、それはただイエスが人々に神の国の教え、福音を語り、人々を癒し、慰め、受け入れ、愛されたことに続いて、十字架の死をもその中に含まれていることを私たちは見逃してはならないのです。この日、神様がイエスにその生涯にわたるミッションを与えられたのでしょうし、それはまさに十字架の死に至るまで神様のみこころに従いぬくことの宣言出会ったのです。クリスマス、それはまたイエス様の生涯のはじまりとして私たちも覚えるべきなのです。
●祈りましょう、神雅、私たちの教会にとって新しい一年のスタートのその日、イエス様がまた、十字架の死に至る生涯の最初を記されたことを覚えます。そのようにしてイエス様が私たちと共にこの一年を歩み続けてくださることを信じ、私たちのこの一年の業に取り掛かることができますように。常に私たちの同伴者となってくださる主、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします、アーメン。
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会
2025年1月11日(日) 午前10時30分
公現後第一主日 新年礼拝
前 奏 奏楽 多田 謙一 兄
招 き の 言 葉
讃 美 歌 118番「くしきほしよ」
1. くしきほしよ やみのよに Kushiki hoshi yo, yami no yo ni
いよよひかり かがやき Iyoyo hikari kagayaki
すくいぬしの ますむらに Sukuinushi no masu mura ni
とくみちびき ゆけかし Toku michibiki yuke kashi
2. まどもるかぜ いとさむき Mado moru kaze ito samuki
かいばおけに ふしたもう Kaibaoke ni fushi tamaou
みどりごこそ かしこくも Midorigo koso kashikoku mo
きみのきみに ましませ Kimi no kimi ni mashi mase
3. さらばわれら うみやまの Saraba warera umi yama no
またまこがね しろがね Matama konage shirogane
においものを とりあつめ Nioi mono wo tori atsume
ささぐべきか みまえに Sasagu beki ka mimae ni
4. たぐいあらぬ たからさえ Tagui aranu takara sae
たてまつるに たらねど Tate matsuruni tarane do
まずしきみの ほめうたを Mazushiki mi no homeuta wo
しゅはよろこび うけまさん Shu wa yorokobi uke masann
詩編の 交 読 詩編 29編
主 の 祈 り (564番)
天(てん)にまします われらの父(ちち)よ。ねがわくは御名(みな)を あがめさせたまえ。御国(みくに)をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、ちにも なさせたまえ。われらの日用(にちよう)のかてを きょうもあたえたまえ。われらに つみをおかすものを われらがゆるすごとく、われらの つみをもゆるしたまえ。われらを こころみにあわせず、悪(あく)より すくいだしたまえ。国(くに)とちからとさかえとは、かぎりなく なんじのものなればなり。アーメン。
聖 書 マタイによる福音書 3章13~17節
祈 祷
讃 美 歌 228番「ガリラヤのかぜ」
1. ガリラヤのかぜ かおるあたり Gariraya no kaze kaoru atari
あまつみくには ちかづけりと Amatsu mikuni wa chikazukeri to
のたまいてより いくちとせぞ Notamai te yori iku chitose zo
きたらせたまえ しゅよみくにを Kitarase tamae shu yo mikuni wo
2. たたかいのひに いこいのよに Tatakai no hi ni ikoi no yoni
みくにをしたう あつきいのり Mikuni wo shitau atsuki inori
ささげられしは いくちたびぞ Sasage rareshi wa iku chitabi zo
きたらせたまえ しゅよみくにを Kitarase tamae shu yo mikuni wo
3. にくみあらそい あとをたちて Nikumi arasoi ato wo tachi te
あいとへいわは よもにあふれ Ai to heiwa wa yomo ni afure
みむねのなるは いずれのひぞ Mimune no naru wa izure no hi zo
きたらせたまえ しゅよみくにを Kitarase tamae shu yo mikuni wo
使 徒 信 条 (566番)
われは天地(てんち)のつくりぬし、全能(ぜんのう)の父なる神を信(しん)ず。われは そのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりて やどり、おとめマリヤより うまれ、ポンテオ・ピラトのもとに くるしみをうけ、十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)にて ほうむられ、陰府(よみ)に くだり、三日目(みっかめ)に 死人(しにん)のうちより よみがえり、天(てん)にのぼり、全能の 父なる神の右(みぎ)に 座(ざ)したまえり。かしこよりきたりて いけるものと 死ねるものとを さばきたまわん。われは 聖霊を信ず、聖(せい)なる 公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)のまじわり、罪(つみ)のゆるし、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信はず。アーメン
説 教 「わたしの心にかなうもの」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 411番「すべしらすかみよ」
1. すべしらすかみよ ときわにみちびく Subeshirasu kamiyo tokiwa ni michibiku
みてのおおみわざ われらほめたたう Mite no oomiwaza warera home utau
2. あたらしきとしは しゅのあいをしめす Atarashiki toshi wa shu no ai wo shimesu
めぐみはたえせじ としのおわりまで Megumi wa taeseji toshi no owari made
3. いえにもたびにも よるひるわかたず Ie niimo tabi nimo yoru hiru wakatazu
みめぐみをうけて このとしをすごさん Mimegumi wo ukete kono toshi wo sugosann
4. われらのゆくさき さだかにみえねど Warera no yuku saki sadaka ni miene do
みちびくひかりに みをゆだねまつらん Michibiku hikari ni miso yudane matsurann
5.まがさちよしあし ゆきかうなかにも Maga sachi yoshi ashi yukikau naka nimo
われらのよろこび やすきはしゅにあり Warera no yorokobi yasuki wa shu ni ari
感 謝 祈 祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 21−88番 「こころにあいを」
こころにあいを ゆたかにみたし ひごとのわざに つかわしたまえ
Kokoro ni aiwo yutakani mitashi higotono waza ni tsukawashi tamae
祝 祷
後 奏
報 告
メッセージ 「わたしのこころにかなうもの」 田淵 結 牧師
●キリスト教のカレンダーでは1月6日がもうひとつのクリスマスの重要な祝日、オーソドックス教会と呼ばれる東ヨーロッパの教会ではこの日をクリスマスとしてお祝いするほどで、それはイエスが東方からの学者たち(伝説によると三人で、一人はヨーロッパ、一人はアフリカ、もうひとりはアジアからやってきたと言われ、それぞれ名前も伝えられている)ということで、つまりユダヤ人以外の世界の人々に救い主が示されたことを記念してエピファニー(公現日)とされている。そして今日はイエスが成人して後バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた日として記念されています。この日からイエスの公生涯(宣教活動)が開始されたことを覚えるのです。
●バプテスマのヨハネからの洗礼については、例えば遠藤周作さんという作家は、イエスはもともとこのヨハネの弟子あるいはヨハネが主宰する団体(教団・教派)に属したのではという推察をしておられるが、ただし聖書の記述からすればむしろヨハネはイエスの偉大さを理解しており、洗礼を施すことにためらいながらそれを行っています。そしてイエスがヨルダン川から上がられると「天が開け、神の御霊がはとのように・・・下って」来たとされます。そして天からの声「これはわたしの愛する子、私の心にかなう者」という声が響いたということで、この洗礼はまさに神様のみこころのうちになされたことが語られます。
●この洗礼がイエスの公生涯(伝道活動)の始まりを画するということのなかで「わたしの心にかなう者」という言葉をうけとめるとき、それはただイエスが人々に神の国の教え、福音を語り、人々を癒し、慰め、受け入れ、愛されたことに続いて、十字架の死をもその中に含まれていることを私たちは見逃してはならないのです。この日、神様がイエスにその生涯にわたるミッションを与えられたのでしょうし、それはまさに十字架の死に至るまで神様のみこころに従いぬくことの宣言出会ったのです。クリスマス、それはまたイエス様の生涯のはじまりとして私たちも覚えるべきなのです。
●祈りましょう、神雅、私たちの教会にとって新しい一年のスタートのその日、イエス様がまた、十字架の死に至る生涯の最初を記されたことを覚えます。そのようにしてイエス様が私たちと共にこの一年を歩み続けてくださることを信じ、私たちのこの一年の業に取り掛かることができますように。常に私たちの同伴者となってくださる主、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします、アーメン。
12月22日(月)
・新約 ルカによる福音書 1章46b~55節 Luke 1:46b-55;
・旧約 イザヤ書 33章17~22節 Isaiah 33:17-22;
・新約 ヨハネの黙示録 22章6~7,18~20節 Revelation 22:6-7, 18-20;
12月23日(火)
・新約 ルカによる福音書 1章46b~55節 Luke 1:46b-55;
・旧約 サムエル記下 7章18、23~29節 2 Samuel 7:18, 23-29;
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 3章6~14節 Galatians 3:6-14;
12月24日(水)イエスの降誕 I
・旧約 イザヤ書 9章2~7節 Isaiah 9:2-7
・旧約 詩編 96編 Psalm 96
・新約 テトスへの手紙 2章11~14節 Titus 2:11-14
・新約 ルカによる福音書 2章1~14 (15~20)節 Gospel: Luke 2:1-14, (15-20)
12月25日(木) イエスの降誕 II
・旧約 イザヤ書 62章6~12節 Isaiah 62:6-12
・旧約 詩編 97編 Psalm 97
・新約 テトスへの手紙 3章4~7節 Titus 3:4-7
・新約 ルカによる福音書 2章(1~7)、8~20節 Luke 2:(1-7), 8-20
12月25日(木) イエスの降誕 III
・旧約 イザヤ書 52章7~10節 Isaiah 52:7-10
・旧約 詩編 98編 Psalm 98
・新約 ヘブライ人への手紙 1章1~4,(5~12)節 Hebrews 1:1-4, (5-12)
・新約 ヨハネによる福音書 1章1~14節 John 1:1-14
12月26日(金)
・旧約 詩編 148編 Psalm 148;
・新約 使徒言行録 7章29節~8章8節 Acts 7:59-8:8;
12月27日(土)
・旧約 詩編 148編 Psalm 148;
・旧約 箴言 8章22~31節 Proverbs 8:22-31;
・新約 ヨハネの手紙一 5章1~12節 1 John 5:1-12;
12月28日(日) 降誕後第一主日
・旧約 イザヤ書 63章7~9節 Isaiah 63:7-9
・旧約 詩編 148編 Psalm 148
・新約 ヘブライ人への手紙 2章10~18節 Hebrews 2:10-18
・新約 マタイによる福音書 2章13~23節
12月29日(月)
・旧約 詩編 20編 Psalm 20;
・旧約 エレミヤ書 31章15~22節 Jeremiah 31:15-22;
・新約 ルカによる福音書 19章41~44節 Luke 19:41-44;
12月30日(火)
・旧約 詩編 20編 Psalm 20;
・旧約 イザヤ書 26章1~9節 Isaiah 26:1-9;
・新約 コリントの信徒への手紙二 4章16~18節 2 Corinthians 4:16-18;
12月31日(水)
・旧約 詩編 20編 Psalm 20;
・旧約1 列王記上 3章5|~14節 Kings 3:5-14;
・新約 ヨハネによる福音書 8章12~19節 John 8:12-19;
2026年1月1日(木) イエスの命名日
・旧約 民数記 6章22~27節 Numbers 6:22-27
・旧約 詩編 8編 Psalm: Psalm 8
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 4章5~7節 または フィリピの信徒への手紙 2章5~11節 Galatians 4:4-7 or
1月1日(木) 元旦
・旧約 雅歌 3章1~13節 伝道の書 3:1-13
・旧約 詩編 8編 Psalm: Psalm 8Psalm: Psalm 8
・新約 ヨハネの黙示録 21章1~6a節 Revelation 21:1-6a
・新約 マタイによる福音書 25章31~46節 Gospel: Matthew 25:31-46
1月2日(金)
・旧約 詩編 20編 Psalm 20;
・旧約 創世記 12章1~7節 Genesis 12:1-7;
・新約 ヘブライ人への手紙 11章1~12節 Hebrews 11:1-12;
・旧約 詩編b 72編 Psalm 72;
・旧約 創世記 28章10~22節 Genesis 28:10-22;
・新約 ヘブライ人への手紙11章13~22節 Hebrews 11:13-22;
1月4日(日)降誕後第二主日
・旧約 エレミヤ書 31章7~14節 Jeremiah 31:7-14
・旧約 詩編 147編12~20節 Psalm 147:12-20
・新約 エフェソスの信徒への手紙 1章3~14節 Ephesians 1:3-14
・新約 ヨハネに寄る福音書 1章(1~9)、10~18節 John 1:(1-9), 10-18
聖書 ヨハネによる福音書1章1~18節
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
2026年1月4日 降誕後第二主日
メッセージ 「世は言葉によって成った」 田淵 結 牧師
●2026年あけましておめでとうございます。私たちは当たり前のように新年「おめでとう」とご挨拶をしますが、実は何がおめでたいのか、そんなことをつい考えてしまうのは、私の癖かもしれません。日本的な習慣では毎年新年新年に歳をひとつ取るということで、お年玉のお祝いもこれにちなむのでしょう。数え年ですね。あるいは今年こそ、去年よりいい年、明るい、希望に満ちたとしとなることを確信して、そんな新しい一年のスタートをお祝いするのでしょうか。小林一茶さんではありませんが「めでたさも中くらいなり」でもいいので、ぜひ昨年よりも今年がいい年でありますように、とお祈りしたいところです。
●今日の福音書の言葉、聖書日課として与えられたヨハネによる福音書の最初の言葉も、ある意味新年にふさわしいように思われますが、そこでは初めに言葉があった、とあの有名な宣言で始まります。もちろんここでは神様の言葉ですから、私たちが口にする言葉も、神様の言葉にならうもの、人を活かし、愛し、勇気づける言葉であるべきなのですが、さてどうも普通に聞こえてくる言葉は、まったく反対の、人を批判し、貶め、傷つけてしまうようなものが溢れています。いわゆるネガティブキャンペーンです。なぜ自分の正しさを訴えるのに、他のひとが間違っていることをあげつらわなければならないのでしょうか。むしろあの人はこんなに素晴らしい、でも私もこんないいところがある。みなさんはどう思いますか、というようなメッセージがなぜ聞こえてこないのでしょう。
●今年がいい年であるのかどうか、それは私たちが語る言葉そのものが、神様の言葉にどれだけ近いものなのかを問い直すところから始まるのでしょう。そのためにこの一年、私たちもイエス様の言葉を学び続けたいのです。人の思いを暗くするのではなく、明るく勇気づける言葉、私たちを勇気づけ、さあこの一年もみんなで、元気に頑張っていこうと力づける言葉、それこそ精霊の私たちへの働きかけを感じる中で口にする言葉でしょう。2026年がどんな一年になるのか、それはまさに私たちに神様を示してくださったイエス様のことばにどれだけ耳を傾けているか、それにかかっているのです。
12月28日(日)降誕後第一主日
メッセージ 「芦屋キリスト教会 101年目からのミッション」 田淵 結 牧師
●どうも聖書の記事をしっかり読み進めていくと、私たちのクリスマスのイメージが大きく壊されてしまいそうな気がします。ローソクの輝き、楽しい歌声、おいしい食事、プレゼント、そんなものは聖書には出てきません。新しく誕生した「ユダヤ人の王」をなんとか亡き者にしたいヘロデ大王の狂気のせいで、マリア、ヨセフ、イエスはエジプトに難を逃れますが、ベツレヘム周辺の三歳以下の男の子がすべて殺される、などという事件はまったくクリスマスらしくないですね。しかしクリスマスだからこそ、真剣に考えるべきこと、見逃してはならない事、私たちの本当の課題が聖書を通じて示されているのです。
●教会100周年の年2025年が終わります。101年目が始まろうとするときに、私たちの教会のこれからの課題もまたここにあるのです。と言って私たちが世界中の苦しみや飢えのなかにある子どもたちを救うということなど、とてもできるものではないのですが、だからと言ってそのことを見過ごしてします、知らないままで過ごすべきでもありません。そんな社会の真っただ中でイエス様が育ち、歩み、働かれたことを思い、私たちのなすべき課題(ミッション)を常に考え、求め、実現し続ける教会でありたいと思います。
●2026年には、4月5日(日)のイースター礼拝が今の建物での最後の礼拝となり、解体と敷地の整備工事の後、7月から新しい礼拝堂での活動が始まり7月26日(日)の創立101周年記念礼拝に献堂式を予定しています。その式は決して施設利用のスタートの為の式ではなく、私たちのミッション(神様から与えられた、イエス様と共なる歩み)の再確認、私たちの未来に対する働きの誓いのためのセレモニーであることを今から考え、準備をしたいと思います。よき2026年をご一緒に迎えられますことを祈っております。
●祈りましょう、神雅、2025年において、本当に私たちの教会にととても大きなプロジェクトを実現させてくださいました。新しい年を迎えます、それをあなたが私たちに委ねられる働きのための第二世紀の始まりの年として迎えさせてください。どうぞ私たちを用いてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン
聖書 マタイによる福音書2章13~23節
13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、 15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。 17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
18「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」
19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、 20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」 21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。 22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、 23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
12月15日(月)
・旧約 詩編 42編 Psalm 42;
・旧約 イザヤ書 29章17~24節 Isaiah 29:17-24;
・新約 使徒言行録 5章12~16節 Acts 5:12-16;
12月16日(火)
・旧約 詩編 42編 Psalm 42;
・旧約 エゼキエル書 47章1~12節 Ezekiel 47:1-12;
・新約 ユダの手紙 1章17~25節 Jude 1:17-25;
12月17日(水)
・旧約 詩編 42編 Psalm 42;
・旧約 ゼカリヤ書 8章1~17節 Zechariah 8:1-17;
・新約 マタイによる福音書 8章14~17,28~34節 Matthew 8:14-17, 28-34;
12月18日(木)
・旧約 詩編 80編 1~7,17~19節 Psalm 80:1-7, 17-19;
・旧約 サムエル記下 7章1~17節 2 Samuel 7:1-17;
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 3章23~29節 Galatians 3:23-29;
12月19日(金)
・旧約 詩編 80編 1~7,17~19節 Psalm 80:1-7, 17-19;
・旧約 サムエル記下 7章18~22節 2 Samuel 7:18-22;
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 4章1~7節 Galatians 4:1-7;
12月20日(土)
・旧約 詩編 80編 1~7,17~19節 Psalm 80:1-7, 17-19;
・旧約 サムエル記下 7章23~29節 2 Samuel 7:23-29;
・新約 ヨハネによる福音書 3章31~36節 John 3:31-36;
12月21日(日) 待降節第四主日
・旧約 イザヤ書 7章10~16節 Isaiah 7:10-16
・旧約 詩編 80編 1~7,17~19節
・新約 ローマの信徒への手紙 1章1~7節 Romans 1:1-7
・新約 マタイによる福音書 1章18~25節 Matthew 1:18-25
聖書 マタイによる福音書 1章18~25節
18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
12月21日(日) 待降節第四主日
メッセージ 「インマヌエル 神様がわたしたちと共に」 田淵 結 牧師
●毎年のクリスマス、かならずこのマタイによる福音書の記事が読まれますが、実はなかなかこのイエス誕生の予告の記事はスッと理解できるものではないのです。マリアといいなづけの夫ヨセフとの関係、それはヨセフにとっては悩ましいものであったようです。ですから天使はヨセフに「畏れずに妻マリアを迎えなさい」と説得しています。ヨセフでさえ、イエスの誕生を率直に受け入れることができなかった、という物語です。それがクリスマスの始まりでした。
●おそらくマリアにとってもヨセフとの関係は辛いものだったでしょう。自分が神の子を宿すこと、聖霊によって身ごもるなどという状況にあること、それを誰も、そして本来ならばもっともよき理解者であってほしいヨセフにさえ受け入れられなかったのです。この若い二人のとてもむつかしい状況のなかで、天使はそれが「インマヌエル」(神様がわたしたちと共におられる)ということの意味であることを告げるのです。
●私たちにとって、悩み、苦しさ、辛さ、そんなものは経験したくないものですが、でも人生を歩むなかでそれは避けられないもの、そしてその時に神様はそのようなしんどい状況の私たちと共にいてくださる、イエス・キリストが私たちのもとに来られる意味はそこにあるのでしょう。私たちはともすれば人生の現実から目をそらし、それをただ忘れようとするためだけに喜びや楽しさを求めるのではなく、私たちのありのままの姿、寂しく、見栄えのしない私たちの毎日のなかにイエス様が来てくださった、神の子が馬小屋に生まれられたことが示す深い、ほんものの慰めをこのクリスマスで私たちが受けとめるひとりひとりでありたく願います。
●祈りましょう、神様、あなたが貧しさの中に独り子イエスを生まれさせられたこと、そこに私たちへの愛と慰めを感じることができますように。最も深い感謝と喜びをこのとき私たちが受けとることのできる一人であらせてください。クリスマスの主、イエス・キリストのお名前によって、祈ります、アーメン。
12月8日(月)
・旧約 詩編 21編 Psalm 21;
・旧約 イザヤ書 24章1~16a節 Isaiah 24:1-16a;
・新約 テサロニケの信徒への手紙一 4章1~12節 1 Thessalonians 4:1-12;
12月9日(火)
・旧約 詩編 21編 Psalm 21;
・旧約 イザヤ書 41章14~20節 Isaiah 41:14-20;
・新約 ローマの信徒への手紙 15章14~21節 Romans 15:14-21;
12月10日(水)
・旧約 詩編 21編 Psalm 21;
・旧約 創世記 15章1~18節 Genesis 15:1-18;
・新約 マタイによる福音書12章 33~37節 Matthew 12:33-37;
12月11日(木)
・旧約 詩編 146編5~10節 Psalm 146:5-10;
・旧約 ルツ記 1章6~18節 Ruth 1:6-18;
・新約 ペトロの手紙二 3章1~10節 2 Peter 3:1-10;
12月12日(金)
・旧約 詩編 146編5~10節 Psalm 146:5-10;
・旧約 ルツ記 4章13~17節 Ruth 4:13-17;
・新約 ペトロの手紙二 3章11~18節 2 Peter 3:11-18;
12月13日(土)
・旧約 詩編 146編5~10節 Psalm 146:5-10;
・旧約 サムエル記上 2章1~8節 1 Samuel 2:1-8;
・新約 ルカによる福音書 3章1~18節 Luke 3:1-18;
12月14日(日) 待降節第三主日
・旧約 イザヤ書 35章1~10節 Isaiah 35:1-10
・旧約 詩編 146編5~10節 Psalm 146:5-10; または ルカによる福音書 1章46b~55節 Psalm: Psalm 146:5-10 or Luke 1:46b-55
・新約 ヤコブの手紙 5章 7~10節 James 5:7-10
・新約 マタイによる福音書 11章2~11節 Matthew 11:2-11
12月14日 待降節第三主日 メッセージ
メッセージ 「あなたがたは何を見に」 田淵 結 牧師
●「来るべき方はあなたですか」 ユダヤ人たちはその長い歴史のなかで自分たちの救い主、メシアを待ちのぞんでいました。イエスと出会って、彼がそのメシアなのかと確かめようとし、「ほかの方を待つ」べきか、とイエスがメシアであることを確かめることができませんでした。イエスは様々な障害をもつ人、病気の人たちが癒され、貧しい人たちが福音を聞かされていることを示しますが、その状況はユダヤ人たちが期待しているメシアのイメージとはかなり異なっていたものでした。ユダヤ人たちは、もっと政治的な、当時の支配者であるローマ人たちをも圧倒できる、輝かしい存在を期待していたのでしょう。
●ではそんな輝かしい政治的、軍事的なメシアが登場したときに、社会の片隅に押しやられ、人々からいろいろ差別されている人たちの状態は変えられるのでしょうか。貧しい人たちが聞かされている福音、それはそんな貧しさの中にあり、障害や病いのなかにある人たちへの神様の関り、顧みがあることを伝えるものだったのです。そのメシアを受け入れること、それは実は社会で有力な立場にある人たちにとっては、とても厳しいことだったのです。なぜ社会の人たちは「しなやかな服を着た人」たちばかりに注目し続けるのか、イエスはそう人々に問いかけます。イエスの語るメシアとは、本当に救いを求めている人たち、神様の関りと慰めを求める人たちを救うためにこの世に遣わされるべきものなのです。
●クリスマスを待つ、ともすれば私たちは自分のイメージの中にだけあるクリスマスを待ち続けているのでしょう。そしてそのイメージとは、12月25日が過ぎればもうそれで十分、また来年というようなもので終わっています。本当のクリスマスに、私たちの毎日への励まし、神様の慰めと救いを確かに受け取ることができる人々には、そのクリスマスの祝福がそれからの生涯を通じて大きな転換点となり、そこから始まる新しい一年、一年を豊かに過ごさせる導きとなるものなのです。
●祈りましょう、神様、今私たちが迎えようとする今年のクリスマス、それが私たちの生涯を支え、導き、慰めと励ましを与え続けるものとなりますように。ベツレヘムに生まれられた幼子イエスとの本当の出会いを与えてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
聖書 マタイによる福音書 11章2~11節
2ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 6わたしにつまずかない人は幸いである。」 7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。 11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
12月1日(月)
・旧約 詩編 124編 Psalm 124;
・旧約 創世記 8章1~19節 Genesis 8:1-19;
・新約 ローマの信徒への手紙 6章1~11節 Romans 6:1-11;
12月2日(火)
・旧約 詩編 124編 Psalm 124;
・旧約 創世記 9章1~17節 Genesis 9:1-17;
・新約 へブライ人への手紙 11章32~40節 Hebrews 11:32-40;
12月3日(水)
・旧約 詩編 124編 Psalm 124;
・旧約 イザヤ書 54章1~10節 Isaiah 54:1-10;
・新約 マタイによる福音書 24章23~35節 Matthew 24:23-35;
12月4日(木)
・旧約 詩編 72編1~7,18~19節 Psalm 72:1-7, 18-19;
・旧約 イザヤ書 4章2~6節 Isaiah 4:2-6;
・新約 使徒言行録 1章12~17、21~26節 Acts 1:12-17, 21-26;
12月5日(金)
・旧約 詩編 72編1~7,18~19節 Psalm 72:1-7, 18-19;
・旧約 イザヤ書 30章19|~26節 Isaiah 30:19-26;
・新約 使徒言行録 13章16~25節 Acts 13:16-25;
12月6日(土)
・旧約 詩編 72編1~7,18~19節 Psalm 72:1-7, 18-19;
・旧約 イザヤ書 40章1~11節 Isaiah 40:1-11;
・新約 ヨハネによる福音書 1章19~28節 John 1:19-28;
12月7日(日)待降節第二主日
・旧約 イザヤ書 11章1~10節 Isaiah 11:1-10
・旧約 詩編 72編1~7,18~19節 Psalm 72:1-7, 18-19;
・新約 ローマの信徒への手紙 15章4~13節 Romans 15:4-13
・新約 マタイによる福音書 3章1~12節 Matthew 3:1-12
聖書 マタイによる福音書 3章1~12節
1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。 9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
●アドベント(待降節)、もちろんイエスの到来を待ちのぞむ季節、ということで今日のマタイによる福音書の記事も、その時代、ユダヤ教のなかであるグループ、あるいは教派のリーダーであったヨハネ、彼がやがてイエスに洗礼を授けることによって「(イエスの)洗礼者(バプテスマ)ヨハネ」と呼ばれるようになった男が、やがて現れるイエスという存在の意味を訴えます。そこで強調されていることは、ヨハネは「悔い改めに導くため」のバプテスマを授けるが、イエスは「聖霊と火で・・・洗礼を授けられる」というものでした。その火とは、脱穀された殻を「焼き払われる」ためのものだというのです。
●このようなヨハネの訴えは、果たしてイエスの到来というか登場を人々に期待されるものとなったでしょうか。ただでさえ、ヨハネに洗礼を授けてもらおうとやってきた人たちに「蝮の子」と決めつけ、その人々に最初から「悔い改め」を迫る。そんなことをすれば、決して普通の人たちは集まらないでしょう。クリスマスというのが、ある意味教会にとって、これまでキリスト教に関心を持たなかった人たちに対する、絶好のPRの機会だと考えられるているなかで、クリスマスというのはもともと、これだけ厳しいもの、ともすればあなた自身も「審かれる」かもしれないものだ、などと語れることはありません。でも今日の聖書の箇所はそのことを私たちに語るのです。
●イギリスの小説家ディケンズのクリスマスの定番小説「クリスマス・キャロル」のなかに登場する三人のゴーストの一人に「Christmas Past=過去(これまで)のクリスマス」が出てきます。今までの毎年のクリスマスがどんなものだったかを示してくれるのですが、今年は2025年、つまりもう2000回以上もクリスマスが繰り返されてきたのに「地には平和」というイエス誕生の夜の天使の歌声に託された祈りは実現したのでしょうか。それが実現しない最大の理由は、私たちのクリスマスの迎え方、つまり悔い改めもなく、自分たちの生き方が厳しく問われるようなものではなく、ただ自分たちだけが楽しむだけのクリスマスを繰り返してきたからなのでしょう。「悔い改めにふさわしい実を結」ぶためのクリスマスについて、アドベントだからこそ真剣に考えるべきでしょう。
●祈りましょう、神様、私たちがあたりまえに迎えているクリスマス、今年こそ改めて私たちにとってのクリスマスを考えるときとしてください。私たちの楽しみのためのものよりも、本当に地上に平和をもたらすときとしてのクリスマスとしてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会 終末主日礼拝
2025年11月23日(日)午前10時30分
前奏(黙祷)
招きのことば
讃 美 歌 76番「ほめまつれみかみをば」
1. ほめまつれ みかみをば Homematsure, mikami woba
そのわざに ひめたもう Sono waza ni, hime tamou
またきちから またきちえ Mataki chikara, mataki chie
たたえまつれ もろびとよ Tatae matsure, hitono ko yo
2. ちはそらを わたりつつ Chi wa sora wo, wataritutu
くにぐにを のせめぐり Kuni guni wo, nose meguri
つとめのひを あおがしむ Tsutome no hi wo, aoga shimu
いこいのよを むかえしむ Ikoi no yo wo, mukae shimu
3. ものみなは とどまらず Mono mina wa, todomarazu
はてしなき うつろいや Hateshi naki, utsuroi ya
みことのりに したがいて Mikotonori ni, shitagai te
やまはうつり うみもきゆ Yama wa utsuri, umi mo kiyu
4. おおいなり あまつかみ Ooinari, amatsu kami
みなにのみ ほまれあれ Minani nomi, homare are
くすしきかな みてのわざ Kusushiki kana, mite no waza
こえのかぎり ほめうたわん Koe no kagiri, home utawann
詩 編 交 読 詩編 46編
主 の 祈 り
天にまします我らの父よ 願わくはみ名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与えたまえ 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ 我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ 国と力と栄(さかえ)とは 限りなく なんじのものなればなり アーメン
聖 書 ルカによる福音書 23章33~43節
祈 祷
讃 美 歌 262番「十字架のもとぞ」
1. じゅうじかのもとぞ いとやすけし Juujika no moto zo, ito yasukeshi
かみのぎとあいの あえるところ Kami no gito ai no, aeru tokoro
あらしふくときの いわをのかげ Arashi fuku toki no, iwao no kage
あれのなかなる わがかくれが Areno no nakanaru, waga kakurega
2. じゅうじかのうえに われはあおぐ Juujika no ue ni, ware wa aogu
わがためなやめる かみのみこを Waga tame nayameru, kami no miko wo
たえにもとうとき かみのあいよ Tae nimo toutoki, kami no ai yo
そこいもしられぬ ひとのつみよ Sokoi mo sirarenu, hito no tsumi yo
3. じゅうじかのかげに われはたちて Jujika no kage ni, ware wa tachi te
みかおのひかりを たえずもとめん Mikao no hikari wo, taezu motomenn
このよのものみな きゆるときも Kono yono mono mina, kiyuru toki mo
くすしくかがやく そのひかりを Kusushiku kagayaku, sono hikari wo
使 徒 信 条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず 我はその独り子 我らの主 イエス・キリストを信ず 主は聖霊によりてやどり 処女(おとめ)マリヤより生れ ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け 十字架につけられ 死にて葬られ 陰府(よみ)にくだり 三日目に死人のうちよりよみがえり 天に昇り 全能の父なる神の右に坐したまえり かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん 我は聖霊を信ず 聖なる公同の教会 聖徒の交わり 罪の赦し 身体(からだ)のよみがえり 永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず アーメン
説 教 「イエスよ、私を思い出してください」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 503番「はるのあした」
1. はるのあした なつのまひる Haru no ashita, natsu no mahiru
あきのゆうべ ふゆのよも Aki no yuube, fuyu no yo mo
いそしみまく みちのたねの Isoshimi maku, michi no tane no
たりほとなる とききたらん Tarihi to naru, toki kitarann
くりかえし (Refrain)
かりいるる ひはちかし Kari iruru, hiwa chikashi
よろこびまて そのたりほ Yorokobi mate, sono tariho
かりいるる ひはちかし Kari iruru, hiwa chikashi
よろこびまて そのたりほ Yorokobi mate, sono tariho
2. みそらかすむ のどけきひも Misora kasumu, nodokeki hi mo
こがらしふく さむきよも Kogarashi fuku, samuki yo mo
いそしみまく みちのたねの Isoshimi maku, michi no tane no
たりほとなる とききたらん Tarihi to naru, toki kitarann
くりかえし (Refrain)
3. うさつらさも みにいとわで Usa tsurasa mo, mini itowa de
みちのために たねをまけ Michi no tameni, tane wo make
ついにみのる そのたりほを Tsuini minoru, sono tariho wo
かみはめでて みそなわさん Kami wa mede te, misonawa sann
くりかえし (Refrain)
献金感謝祈祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 讃美歌21 88番 「こころにあいを」
こころにあいを、ゆたかにみたし、ひごとのわざに、つかわしたまえ アーメン
Kokoro ni ai w, yutakani mitashi, higotono wazani, tsukawashi tamae, Amen
祝 祷
後 奏
報 告
・11月23日(11月第四日曜)は午前10時30分より芦屋キリスト教会礼拝(メッセージ 田淵 結牧師)です。30日(第五日曜日)は芦屋キリスト教会永眠者記念礼拝を行い、礼拝後芦屋霊園教会墓地で故渡辺令子姉の納骨式を行います。
11月24日(月)
・旧約 詩編 117編 Psalm 117;
・旧約 エレミヤ書 30章1~17節 Jeremiah 30:1-17;
・新約 ヨハネの黙示録 21章5~27節 Revelation 21:5-27;
11月25日(火)
・旧約 詩編 117編 Psalm 117;
・旧約 エレミヤ書 30章18~24節 Jeremiah 30:18-24;
・新約 ヨハネの黙示録 22章8~21節 Revelation 22:8-21;
11月26日(水)
・旧約 詩編 117編 Psalm 117;
・旧約 エレミヤ書 31章1~6節 Psalm 117; Jeremiah 31:1-6;
・新約 ルカによる福音書 1章1~4節 Luke 1:1-4;
11月27日(木)
・旧約 詩編 122編 Psalm 122;
・旧約 ダニエル書 9章15~19節 Daniel 9:15-19;
・新約 ヤコブの手紙 4章1~10節 James 4:1-10;
11月28日(金)
・旧約 詩編 122編 Psalm 122;
・旧約 創世記 6章1~10節 Genesis 6:1-10;
・ヘブライ人への手紙 11章1~7節 Hebrews 11:1-7;
11月29日(土)
・旧約 詩編 122編 Psalm 122;
・旧約 創世記 6章11~22節
・新約 ヨハネによる福音書 24章1~22節 Matthew 24:1-22;
11月30日(日) 待降節第一主日
・旧約 イザヤ書 2章1~5節 Isaiah 2:1-5
・旧約 詩編 122編 Psalm 122
・新約 ローマの信徒への手紙 13章11~14節 Romans 13:11-14
・新約 マタイによる福音書 24章36~44節 Matthew 24:36-44
11月30日(日) 待降節第一主日
メッセージ 「目をさましていなさい」
●いよいよ今日の日曜日から待降節、クリスマスの準備のための4週間がはじまります。私たちの教会では12月21日にクリスマスの礼拝をよていしますので、どうぞご予定ください。クリスマスの準備というと、ツリーを飾ったり、サンタクロースのことを考えたり、パーティを計画したり、ということになりがちですが、教会本来の待降節はそんなワクワク感のあふれるものではなく、もっとシリアスな、というか私たちの姿勢が鋭くとわれるというようなものから始まります。それはイエス・キリストが私たちのもとに来られることの二重の意味を考えるからです。
●一つは当然に幼子イエスの誕生としてのクリスマスですが、もうひとつは再臨という考え方です。つまりイエスは十字架の死を迎えて復活され、さらに天に昇られたのですが、その後やがてもう一度天から私たちのもとに来られて、世界を審かれ、そこで救われる人と滅びる人たちがより分けられる、そのような形で、いわば最後の審判の主として私たちのもとに来られるということなのです。待降節にはそのようなイエスの再臨についても考えるのですが、その再臨がいつ起こるかということについては、実はまったく私たちの予想がつかない、「いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである」(42節)のです。
●つまり待降節のときに、改めて私たち自身の神様への姿勢、イエス様のお迎えのしかた、それがいつであっても心得られているようにしっかりと考え直すことが求められるのです。二人のうちの一人が取り去られる、その違いは神様への姿勢、イエス様への向き合い方によるのでしょう。その姿勢が整えられている人たちにとって、待降節はやはり喜びのときであり、待ち遠しいときとなります。私たちがクリスマスを待ち望むというとき、それを楽しみにするということは、そのような私たちにとttえけとても大切で基本的、根本的な姿勢が整えられてこそ、より深く、心に残り、自分の人生にとってとても大きな意味のある喜びのときとなるのです。
●祈りましょう、神様、今年も待降節を迎えます。そのときに私たちのよろこびが、本当に意味あるものとなり、私たちにとって深いよろこびと慰めをもたらすときとしての備えをなすことができますように。この待降節からはじまる私たちの新しい一年をどうぞ守り、導いてくださいますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
聖書 マタイによる福音書 24章35~44節
36その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。 37人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 38すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 39そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 40そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 41ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。 43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十三主日 終末主日礼拝
2025年11月16日(日)午前10時30分
前奏(黙祷)
招きのことば
讃 美 歌 185番「きよきみたまよ」
1. きよきみたまよ おぐらきこころ Kiyoki mitama yo, oguraki kokoro
てらしたまえや みひかりをもて Terashi tamaeya, mihihari wo mote
2. きよきみたまよ うちなるつみも Kiyoki mitama yo, uchinaru tsumi mo
きよめたまえや みちからをもて Kiyome tamae ya, michikara wo mote
3. きよきみたまよ このうきみにも Kiyoki mitama yo, kono ukimi nimo
みたしたまえや あまつよろこび Mitashi tamae ya, amatsu yorokobi
4. みたまよたえず こころにすみて Mitama yo taezu, kokoro ni sumite
おさめたまえや のこるくまなく Osame tamae ya, nokoru kuma naku
詩 編 交 読 詩編 98編
主 の 祈 り
天にまします我らの父よ 願わくはみ名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与えたまえ 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ 我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ 国と力と栄(さかえ)とは 限りなく なんじのものなればなり アーメン
聖 書 ルカによる福音書 21章5~19節
祈 祷
讃 美 歌 166番「イエスきみは」
1. イエスきみは いとうるわし Iesu kimi wa, ito uruwashi
あめつちの しゅなる Ame tsuchi no shu naru
かみのみこ ひとのこを Kami no miko, hito no ko wo
なににかは たとえん Nani nikawa tato-en
2. はるのあさ つゆににおう Haru no asa, tsuyi ni niou
はなより うつくし Hana yori utsukushi
あきのよる そらにすむ Aki no yoru, sora ni sumu
つきより さやけし Tsuki yori sayakeshi
3. なつのゆう あおばわたる Natsu noi yuu, aoba wataru
かぜより かぐわし Kaze yori kaguwashi
ふゆのひに ふりつもる Fuyu no hi ni, furi tsumoru
ゆきより きよけし Yuki yori kiyokeshi
4. イエスきみは いとうるわし Iesu kimi wa, ito uruwashi
あめつちの しゅこそ Ame tsuchi no shu koso
わがさかえ わがかむり Waga sakae, waga kamuri
わがよろこび なれ Waga yorokobi nare
使 徒 信 条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず 我はその独り子 我らの主 イエス・キリストを信ず 主は聖霊によりてやどり 処女(おとめ)マリヤより生れ ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け 十字架につけられ 死にて葬られ 陰府(よみ)にくだり 三日目に死人のうちよりよみがえり 天に昇り 全能の父なる神の右に坐したまえり かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん 我は聖霊を信ず 聖なる公同の教会 聖徒の交わり 罪の赦し 身体(からだ)のよみがえり 永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず アーメン
説 教 「神学論争と信仰」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 501番「いのちのみことば」
1. いのちのみことば たえにくすし Inochi no mikotoba, taeni kusushi
みえざるみかみの むねをしめす Miezaru mikami no, mune wo shimesu
つかえまつる みちをおしう Tsukae matsuru, michi wo osiu
くりかえし (Refrain)
いのちのみことば たえなるかな Inochi no mikotoba, taenaru kana
いのちのみことば くすしきかな Inochi no mikotoba, kususshiki kana
2. しゅイエスのみことば いとしたわし Shu Iesu no mikotoba, ito shitawashi
あまねくひびきて よのちまたに Amaneku hibikite, yono chimata ni
なやむこらを あめにまねく Nayamu kora wo, ame ni maneku
くりかえし (Refrain)
3. うれしきおとずれ たえずきこえ Ureshiki otozure, taezu kikoe
ゆるしとやわらぎ たまうかみの Yurushi to yawaragi, tamou Kami no
ふかきめぐみ よにあらわる Fuakai megumi, yoni arawaru
くりかえし (Refrain)
献金感謝祈祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 讃美歌21 88番 「こころにあいを」
こころにあいを、ゆたかにみたし、ひごとのわざに、つかわしたまえ アーメン
Kokoro ni ai w, yutakani mitashi, higotono wazani, tsukawashi tamae, Amen
祝 祷
後 奏
報 告
・11月23日(11月第四日曜)は午前10時30分より芦屋キリスト教会礼拝(メッセージ 田淵 結牧師)です。30日(第五日曜日)は芦屋キリスト教会永眠者記念礼拝を行い、礼拝後芦屋霊園教会墓地で故渡辺令子姉の納骨式を行います。
聖書 ルカによる福音書 21章5~19節
5ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、 6「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。 7そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。 8イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたし名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。 9戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。
10それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。 11また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。 12しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。 13それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。 14だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。 15あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。 16しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。 17また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。 18しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。 19あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。
●聖書時代のユダヤ人たちの宗教生活にとってエルサレム神殿は重要な意味をもっていました。イエス様も十二歳のときに両親につれられて礼拝に来ています(ルカ2:47)が、イエス様にとってもユダヤ人たちにとっても、少し複雑な思いを持たされたかもしれません。イスラエルの神殿は最初ソロモン王によって建てられたものがバビロニア人に破壊され、その後捕囚から帰ってきたエズラたちによって再建されたものが、イエスの時代ごろにヘロデ王によってさらに豪華に改装?されたものでした。しかしこのヘロデが神殿を拡充したのは信仰的な理由ではなく、ユダヤ人たちへの懐柔政策のひとつだったからです。だからどんなにそれが豪華に見えても、その豪華さはイエス様にとってはあまり意味のないものにしか見えなかったのでしょう。そして今日のイエスの言葉どおり、この神殿はその四十年後、紀元70年に今度はローマ人たちによって徹底的に破壊されてしまうのです。
●果たしてイエスはそんな神殿の未来を予言できたのでしょうか。できたはずです、と言ってもイエスが語ったのは、予言というよりも歴史の必然だったのでしょう。つまりどんなに反映した国でもやがては滅びるということだからです。イスラエル人も、昔アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャという大きな国の盛衰の波にもまれてきました。そしてそれらの国家はみな滅びていったのです。そしてその中でユダヤ人たちは生き抜いてきたのですが、その最大の理由は神様への信仰によるものだ、とイエスは語ります。
●だから、いくら社会が政治的に安定していたり不安定であっても、未来への展望が失われようとしても、神様を信じることを失ってしまえば、まさにすべてのものを私たちは失うってしまうのです。その信仰は神殿のような建物ではなく、豪華な装飾でもなく、私たちが神様とのつながりを確信することなくして意味を持たないのです。そのとき私たちがなすべきこと、それはまさに祈りなのでしょう。メディアの流す情報などでも、人々のうわさなどでもなく、神様との対話なのです。
●祈りましょう、神様、いよいよ今年の教会の一年の終わりを近く感じるころとなりますが、そのときにこそ、あらためてこの一年のあなたの導きと支えをひとつひとつ思い起こしながら、今の時を過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
185番「きよきみたまよ」
今週も聖書を読みましょう 11月16日(日)~23日(日)
11月17日(月)
・旧約 詩編 76編 Psalm 76;
・旧約 イザヤ書 60章17~22節 Isaiah 60:17-22;
・新約 エフェソスの信徒への手紙 4章25節~5章2節 Ephesians 4:25-5:2;
11月18日(火)
・旧約 詩編 76編 Psalm 76;
・旧約 イザヤ書 66章1~13節 Isaiah 66:1-13;
・新約 コリントの信徒への手紙一 10章23節~11章1節 1 Corinthians 10:23-11:1;
11月19日(水)
・旧約 詩編 76編 Psalm 76;
・旧約 イザヤ書 66章14~24節 Isaiah 66:14-24;
・新約 マタイによる福音書 23章37節~24章14節 Matthew 23:37-24:14;
11月20日(木)
・新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Luke 1:68-79;
・旧約 エレミヤ書 21章1~14節 Jeremiah 21:1-14;
・新約 ヘブライ人への手紙 9章23~28節 Hebrews 9:23-28;
11月21日(金)
・新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Luke 1:68-79;
・旧約 エレミヤ書 22章1~17節 Jeremiah 22:1-17;
・新約 ペトロの手紙一 1章3~9節 1 Peter 1:3-9;
11月22日(土)
・新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Luke 1:68-79;
・旧約 エレミヤ書 22章18~30節 Jeremiah 22:18-30;
・新約 ルカによる福音書 18章15~17節 Luke 18:15-17;
11月23日(日)
・旧約 エレミヤ書 23章1~6節 および 新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Jeremiah 23:1-6 and Luke 1:68-79
・旧約 エレミヤ書 23章1~6節 および 詩編 46編 Jeremiah 23:1-6 and Psalm 46
・新約 コロサイの信徒への手紙 1章11~20節 Colossians 1:11-20
・新約 ルカによる福音書 23章33~43節 Luke 23:33-43
ルカによる福音書 23章33~43節
32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
●今日は教会のカレンダー(教会歴)でいう一年の最後の日曜日となります。毎年繰り返してお話していることですが、教会の一年はアドベント(クリスマスを準備するための4週間)から始まります。ただし私たちの教会では来週は教会の永眠者記念礼拝として、私たちの教会における信仰の先達たちを記念する礼拝をし、そのご芦屋霊園で納骨式を予定しています。そのためか、今日の聖書日課として得ればれた福音書の記事は、イエスの十字架の死の瞬間の場面です。なんだか季節外れのような気がしないでもありませんね。
●この物語に登場する大半の人は、イエスについて批判、非難の言葉を投げかけます。神のメシアとかユダヤ人の王とか言われていたイエスが、十字架につけられてもっとも屈辱的な死を迎えようとしており、まさに失敗者でしかないイエスへの罵倒の言葉、ある意味失望の言葉が投げかけられるのです。そのなかでただ一人「しかし、この方は何も悪いことをしていない」と語ったのがイエスとともに十字架につけられた一人でした。なぜこの人はそう言えたということ以上に、この人はその場での雰囲気や状況に圧倒されることなく、自分自身の確信を、文字通りその人の死の時まで貫いたということに注目されます。
●イエスはある時、弟子たちに「それはあなたがたはわたしを何者だというのか」(マルコ8:29)と尋ねられます。ほかの人はイエスのことをいろいろ言うだろうし、日本語での「みんな」が言っているなかで、あなたは、私たちはイエスとはあなたにとってどんな存在か、ということを自分の言葉として語る(告白)ことが求められる、それがキリスト教信仰にとってとても重要なものなのです。イエスを非難しつづけた人たち、またもうひとりの十字架にかけられた犯罪者は、その人生を他者をののしることで締めくくったのですが、もう一人の犯罪者は天国への希望を持ちつつ死を迎えます。私たちが自分の歩みを終えるとき、この一年を終えるとき、祝福を約束されて終わることができる一人であることを感謝したいと思います。
●祈りましょう、神様、あなたは私たちを、この芦屋キリスト教会をこの一年もあなたの愛のなかで導いてくださいました。あなたの祝福のうちにこの時を迎えられることを心から感謝し、新しい一年への希望を与えられています。どうぞわたしたちにとっても大きな意味のある2026年を、あなたのお恵みをさらに与えられるものであることを信じるなかで迎えることができますように。私たちの主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします、アーメン。
76番「ほめまつれみかみをば」 262番「十字架のもとぞ」、503番「はるのあした」 21-88番「心に愛を」
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十二日礼拝
2025年11月9日(日)午前10時30分
前奏(黙祷) 多田 謙一 兄
招きのことば
讃 美 歌 449番「あめつちの主なる」
1. あめつちのしゅなる おおみかみ Ame tsuchi no shunaru oomikami
ひとをばくすしく つくりたもう Hito woba kusushiku tsukuri tamou
2. はじめのごとくに うつくしく Hajime no gotoku ni utsukushiku
わがみとたまとを なしたまえ Wgami to tama towo nashi tamae
3. ゆるがぬいわより なおかたく Yuruganu iwa yori nao kataku
ゆきよりしらけく なしたまえ Yukiyori shirakeku nashi tamae
4. みやまのすぎより いやなおく Miyamano sugi yori iya naoku
そらよりほがらに なしたまえ Sora yori hogara ni nashi tamae
5 みくにをのぞみて あいのわざ Mikuni wo nozomi te ai no waza
なさしめたまえや わがみにも Nasashime tamae ya waga mi nimo
詩 編 交 読 詩編 145編
主 の 祈 り
天にまします我らの父よ 願わくはみ名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与えたまえ 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ 我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ 国と力と栄(さかえ)とは 限りなく なんじのものなればなり アーメン
聖 書 ルカによる福音書 20章27~38節
祈 祷
讃 美 歌 286番「かみはわがちから」
1. かみはわがちから わがたかきやぐら Kamiwa waga chikara waga takaki yagura
くるしめるときの ちかきたすけなり Kurushimeru toki no chikaki tasuke nari
2. たといちはかわり やまはうなばらの Tatoi chi wa kawari yama wa unabara no
なかにうつるとも われいかでおそれん Nakani utsuru tomo ware ikade osoren
3. かみのみやこには しずかにながるる Kami no miyako niwa shizuka ni nagaruru
きよきかわありて みたみをうるおす Kiyoki kawa arite mitami wo uruosu
4. みことばのみずは つかれをいやして Mikotoba no mizu wa tsukare wo iyashite
あらたなるいのち あたえてつきせじ Arata naru inochi ataete tsuki seji
5. かみのみもとべは つねにやすらけく Kamino mimitobe wa tsuneni yasurakeku
くるしみなやみも きえてあとぞなき Kurushimi nayamimo kiete atozo naki
使 徒 信 条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず 我はその独り子 我らの主 イエス・キリストを信ず 主は聖霊によりてやどり 処女(おとめ)マリヤより生れ ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け 十字架につけられ 死にて葬られ 陰府(よみ)にくだり 三日目に死人のうちよりよみがえり 天に昇り 全能の父なる神の右に坐したまえり かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん 我は聖霊を信ず 聖なる公同の教会 聖徒の交わり 罪の赦し 身体(からだ)のよみがえり 永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず アーメン
説 教 「神学論争と信仰」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 494番「わがゆくみちいついかに」
1. わがゆくみち いついかに Waga yuku michi itsu ikani
なるべきかは つゆしなねど Narubeki kawa tsuyu shiranedo
しゅはみこころ なしたまわん Shu wa mikokoro nashi tamawann
くりかえし(Refrain) そなえたもう しゅのみちを Sonae tamou shu no michi wo
ふみてゆかん ひとすじに Fumite yukann hitosuji ni
2. こころたけく たゆまざれ Kokoro takeku tayuma zare
ひとはかわり よはうつれど Hito wa kawari yo wa utsu redo
しゅはみこころ なしたまわん Shu wa mikokoro nashi tamawann
くりかえし(Refrain)
3. あらうみをも うちひらき Araumi womo uchi hiraki
すなはらにも まなをふらせ Sunahara nimo mana wo furase
しゅはみこころ なしたまわん Shu wa mikokoro nashi tamawann
くりかえし(Refrain)
献金感謝祈祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 讃美歌21 88番 「こころにあいを」
こころにあいを、ゆたかにみたし、ひごとのわざに、つかわしたまえ アーメン
Kokoro ni ai w, yutakani mitashi, higotono wazani, tsukawashi tamae, Amen
祝 祷
後 奏
報 告
・11月16日、23日(11月第三、四日曜)は午前10時30分より芦屋キリスト教会礼拝(メッセージ 田淵 結牧師)です。30日(第五日曜日)は芦屋キリスト教会永眠者記念礼拝を行い、礼拝後芦屋霊園教会墓地で故渡辺令子姉の納骨式を行います。
メッセージ「神学論争と信仰」 田淵 結 牧師
聖 書 ルカによる福音書 20章27~38節
●少し前に日本の国会でも「神学論争」という言葉が交わされたことがありました。その意味は議論のための議論をするとか、議論の内容にほとんど現実味というか結論の出ない無意味な議論ということでしょうか。今日のルカによる福音書に登場するサドカイ派の人たちの議論もそれに近いものだと思えます。跡継ぎを得るために七人の兄弟が同じ女性と結婚するというような問題についてのユダヤ教の考え方を当てはめて、そこに復活ということを重ねたらどうなるのか、それに対してイエスの答えは、その答えは神様に任せろ、というように思えます。
●イエスの時代のユダヤ教のなかに、考え方の違いからいくつかの派があり、よく知られているのはファリサイ派でとにかく旧約の掟(律法)を重視する保守的な人たち、それに対してサドカイ派はある意味合理的で、現実的な解釈をする立場のように言われていますし、だから復活などは受け入れないというものでした。そしてこの記事でこの人たちが復活ということを持ち出すのは、復活なんかを考えるとモーセの律法と矛盾するのでは、というところなのですが、まさに神学論争ですね。
●イエスは私たち人間の復活を否定などしませんが、それ以上に今私たちが神様に生かされているということの大切さ、重要性を受け止めていなければ、復活などの議論をしても意味がない、という立場を示します。つまりサドカイ派以上にイエスは現実的で合理的なのです。死んだあとのことを心配する前に、なぜ今生きていることの意味を、そこにある神様からのかかわりを考えないのか、ということですし、それをしないで死んでからのことを考えても、全く無意味だ、ということですね。本当に復活ということが考えられるということは、今私たちがイエス様によって神様に愛されていることを実感できているからなのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたと共にあるということをしっかりと受け止めることができるゆえに、私たちは私たちの未来もあなたに委ねます。イエス様の愛のうちに今日も私たちを豊かにお守りくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
聖 書 ルカによる福音書 20章27~38節
27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、 31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 32最後にその女も死にました。 33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
●少し前に日本の国会でも「神学論争」という言葉が交わされたことがありました。その意味は議論のための議論をするとか、議論の内容にほとんど現実味というか結論の出ない無意味な議論ということでしょうか。今日のルカによる福音書に登場するサドカイ派の人たちの議論もそれに近いものだと思えます。跡継ぎを得るために七人の兄弟が同じ女性と結婚するというような問題についてのユダヤ教の考え方を当てはめて、そこに復活ということを重ねたらどうなるのか、それに対してイエスの答えは、その答えは神様に任せろ、というように思えます。
●イエスの時代のユダヤ教のなかに、考え方の違いからいくつかの派があり、よく知られているのはファリサイ派でとにかく旧約の掟(律法)を重視する保守的な人たち、それに対してサドカイ派はある意味合理的で、現実的な解釈をする立場のように言われていますし、だから復活などは受け入れないというものでした。そしてこの記事でこの人たちが復活ということを持ち出すのは、復活なんかを考えるとモーセの律法と矛盾するのでは、というところなのですが、まさに神学論争ですね。
●イエスは私たち人間の復活を否定などしませんが、それ以上に今私たちが神様に生かされているということの大切さ、重要性を受け止めていなければ、復活などの議論をしても意味がない、という立場を示します。つまりサドカイ派以上にイエスは現実的で合理的なのです。死んだあとのことを心配する前に、なぜ今生きていることの意味を、そこにある神様からのかかわりを考えないのか、ということですし、それをしないで死んでからのことを考えても、全く無意味だ、ということですね。本当に復活ということが考えられるということは、今私たちがイエス様によって神様に愛されていることを実感できているからなのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたと共にあるということをしっかりと受け止めることができるゆえに、私たちは私たちの未来もあなたに委ねます。イエス様の愛のうちに今日も私たちを豊かにお守りくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
讃美歌 449番「あめつちの主なる」 286番「かみはわがちから」 494番「わがゆくみちいついかに」 讃美歌21 88番「こころにあいを」
今週も聖書を読みましょう 11月10日(日)~11月16日(日)
11月10日(月)
・旧約 詩編 98編 Psalm 98;
・旧約 ハガイ書 2章10~19節 Haggai 2:10-19;
・新約 ペトロの手紙二 1章16~21節 2 Peter 1:16-21;
11月11日(火)
・旧約 詩編 98編 Psalm 98;
・旧約 ハガイ書 2章20~23節 Haggai 2:20-23;
・新約 ヨハネの手紙二 1章1~13節 2 John 1:1-13;
11月12日(水)
・旧約 詩編 98編 Psalm 98;
・旧約 ゼカリヤ書 8章1~17節 Zechariah 8:1-17
・新約 ヨハネによる福音書 5章19~29節 John 5:19-29;
11月13日(木)
・旧約 イザヤ書 12章 Isaiah 12;
・旧約 イザヤ書57章14~21節 Isaiah 57:14-21;
・新約 ローマの信徒への手紙 1章18~25節 Romans 1:18-25;
11月14日(金)
・旧約 イザヤ書 12章 Isaiah 12;
・旧約 イザヤ書 59章1~15節a Isaiah 59:1-15a;
・新約 テサロニケの信徒への手紙 1章3~12節 Thessalonians 1:3-12;
11月15日(土)
・旧約 イザヤ書 12章 Isaiah 12;
・旧約 イザヤ書 59章15b~21節 Isaiah 59:15b-21;
・新約 ルカによる福音書 17章20~37節 Luke 17:20-37;
11月16日(日) 三位一体節 第二十二主日
・旧約 イザヤ書 65章17~25節 および イザヤ書 12章 Isaiah 65:17-25 and Isaiah 12
・旧約 マラキ書 4章1~2a節 および 詩編 98編 Malachi 4:1-2a and Psalm 98
・新約 テサロニケの信徒への手紙二 3章6~13節 2 Thessalonians 3:6-13
・新約 ルカによる福音書 21章5~19節 Luke 21:5-19
聖書 ルカによる福音書 21章5~19節
5ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、 6「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。 7そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。 8イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたし名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。 9戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。
10それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。 11また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。 12しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。 13それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。 14だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。 15あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。 16しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。 17また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。 18しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。 19あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。
●聖書時代のユダヤ人たちの宗教生活にとってエルサレム神殿は重要な意味をもっていました。イエス様も十二歳のときに両親につれられて礼拝に来ています(ルカ2:47)が、イエス様にとってもユダヤ人たちにとっても、少し複雑な思いを持たされたかもしれません。イスラエルの神殿は最初ソロモン王によって建てられたものがバビロニア人に破壊され、その後捕囚から帰ってきたエズラたちによって再建されたものが、イエスの時代ごろにヘロデ王によってさらに豪華に改装?されたものでした。しかしこのヘロデが神殿を拡充したのは信仰的な理由ではなく、ユダヤ人たちへの懐柔政策のひとつだったからです。だからどんなにそれが豪華に見えても、その豪華さはイエス様にとってはあまり意味のないものにしか見えなかったのでしょう。そして今日のイエスの言葉どおり、この神殿はその四十年後、紀元70年に今度はローマ人たちによって徹底的に破壊されてしまうのです。
●果たしてイエスはそんな神殿の未来を予言できたのでしょうか。できたはずです、と言ってもイエスが語ったのは、予言というよりも歴史の必然だったのでしょう。つまりどんなに反映した国でもやがては滅びるということだからです。イスラエル人も、昔アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャという大きな国の盛衰の波にもまれてきました。そしてそれらの国家はみな滅びていったのです。そしてその中でユダヤ人たちは生き抜いてきたのですが、その最大の理由は神様への信仰によるものだ、とイエスは語ります。
●だから、いくら社会が政治的に安定していたり不安定であっても、未来への展望が失われようとしても、神様を信じることを失ってしまえば、まさにすべてのものを私たちは失うってしまうのです。その信仰は神殿のような建物ではなく、豪華な装飾でもなく、私たちが神様とのつながりを確信することなくして意味を持たないのです。そのとき私たちがなすべきこと、それはまさに祈りなのでしょう。メディアの流す情報などでも、人々のうわさなどでもなく、神様との対話なのです。
●祈りましょう、神様、いよいよ今年の教会の一年の終わりを近く感じるころとなりますが、そのときにこそ、あらためてこの一年のあなたの導きと支えをひとつひとつ思い起こしながら、今の時を過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
今週も聖書を読みましょう 10月27日(土)~11月2日(日)
10月27日(月)
・旧約 詩編 87編 Psalm 87;
・旧約 ヨエル書 3章1~8節 Joel 3:1-8;
・新約 ペトロの手紙一 4章12~19節 1 Peter 4:12-19;
10月28日(火)
・旧約 詩編 87編 Psalm 87;
・旧約 ヨエル書 3章9~16節 Joel 3:9-16;
・新約 ペトロの手紙一 5章1~11節 1 Peter 5:1-11;
10月29日(水)
・旧約 詩編 87編 Psalm 87;
・旧約 ヨエル書 3章17~20節 Joel 3:17-20;
・新約 マタイによる福音書 21章28~32節 Matthew 21:28-32;
10月30日(木)
・旧約 詩編 119編137~144節 Psalm 119:137-144;
・旧約 エレミヤ書 33章14~26節 Jeremiah 33:14-26;
・コリントの信徒への手紙二 1章1~11節 2 Corinthians 1:1-11;
10月31日(金)
・旧約 詩編 119編137~144節 Psalm 119:137-144;
・旧約 ハバクク書 1章5~17節 Habakkuk 1:5-17;
・新約 ペトロの手紙二 1章1~11節 2 Peter 1:1-11;
11月1日(土) 諸聖徒の祝日
・旧約 詩編 119編137~144節 Psalm 119:137-144;
・旧約 ハバクク書 2章5~11節 Habakkuk 2:5-11;
・新約 ヨハネによる福音書 8章39~47節 John 8:39-47;
11月2日(日) 三位一体節第二十一主日
・旧約 ハバクク書 1章1~4節、2章1~4節 および 詩編119編137~144節 Habakkuk 1:1-4; 2:1-4 and Psalm 119:137-144
・旧約 イザヤ書 1章10~18節 および 詩編 32編1~7節 Isaiah 1:10-18 and Psalm 32:1-7
・新約 テサロニケの信徒への手紙 1章1~4、11~12節
・新約 ルカによる福音書 19章1~10節
聖書 ルカによる福音書 19章1~10節
1イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 8しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
11月2日(三位一体節第二十二主日)
メッセージ「財産の半分」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 19章1~10節
●今年の聖書日課はルカによる福音書が選ばれていますから、何となくおなじみのお話が多いような気がします。そう、今日はザアカイさんの物語ですね。徴税人というのは、当時実質的にユダヤの国を治めていたローマ帝国のために税金を集める仕事ですが、それはある意味下請けで、ローマ帝国が彼に求めている金額よりもはるかに多くのお金を民衆から集めるという、いわばおいしい仕事をし、それで金持ちだったということですね。ただでさえ外国の支配者の手先となっている以上に、そんなやり方で人々からお金を集めるということで、かれが社会からどう見られていたかは、推して知るべきというところでしょう。そう「罪人」呼ばわりされていたのですね。ただしザアカイという名前の意味は「義人」、つまり正しい人ということなのですが。
●そしてイエスが突然、ザアカイの家に泊まると言い出したので、人々はある意味ショックを受けたことでしょうし、しかし一番驚いたのはザアカイ自身だったことでしょう。なぜ自分のところに。そこで彼は今までの(悪)行を悔い改め、自分の全財産の半分を貧しい人に施し、不正の徴税額を四倍にして返還するということなのです。そのことをイエスは評価して、ザアカイは救われた、と宣言します。めでたし、めでたし。だったのでしょうか。関西人としての突っ込みをいれるならば、なぜ全財産を彼は差し出さなかったのでしょうか。事実イエスは、自分の弟子になろうとするならすべてを捨てることを求めてもいます(ルカによる福音書14章33節)。
●そこで一つ考えられるのは、イエスはザアカイの財産の半分を彼に委ねたともいえるのです。つまりイエスとの出会いが本物であったのかどうか、それをザアカイはそれからの彼の人生のなかで証明をしてくことを求められて、その示し方としてその半分の財産の用い方を彼に委ねたように思えるのです。それは私たち自身も同じことで、私たちが自分の持っているものはすべて自分の物だと思って過ごすのか、神様から、神様の働きのために用いるために委ねられたものとして受け取るか、その生き方は大きく違ってくるのです。
●祈ります、神様、私たちがあなたから与えられているすべてのものを感謝します。それをどのように用いるべきか、イエス様の教えに従う知恵と勇気とをお与えください。主の御名によって祈ります、アーメン。
今週も聖書を読みましょう 10月20日(土)~26日(日)
10月20日(月)
・旧約 詩編 129編 Psalm 129;
・旧約 エレミヤ書 38章14~28節 Jeremiah 38:14-28;
・新約 コリントの信徒への手紙一 6章1~11節 1 Corinthians 6:1-11;
10月21日(火)
・旧約 詩編 129編 Psalm 129;
・旧約 エレミヤ書 39章1~18節 Jeremiah 39:1-18;
・新約 ヤコブの手紙 5章7~12節 James 5:7-12;
10月22日(水)
・旧約 詩編 129編 Psalm 129;
・旧約 エレミヤ書 50章1~7、17~20節Jeremiah 50:1-7, 17-20;
・新約 ルカによる福音書 22章39~46節 Luke 22:39-46;
10月23日(木)
・旧約 詩編 65編 Psalm 65;
・旧約 ヨエル書 1章1~20節 Joel 1:1-20;
・新約 テモテへの手紙二 3章1~9節 2 Timothy 3:1-9;
10月24日(金)
・旧約 詩編 65編 Psalm 65;
・旧約 ヨエル書 2章1~11節 Joel 2:1-11;
・新約 テモテへの手紙二 3章10~15節 Timothy 3:10-15;
10月25日(土)
・旧約 詩編 65編 Psalm 65;
・旧約 ヨエル書 2章12~22節 Joel 2:12-22;
・新約 ルカによる福音書 1章46~55節 Luke 1:46-55;
10月26日(日) 三位一体節第二十主日
・旧約 ヨエル書 2章23~32節 および 詩編 65編 Joel 2:23-32 and Psalm 65
・旧約 エレミヤ書 14章7~10、19~22節 および 詩編 84編1~節 Jeremiah 14:7-10, 19-22 and Psalm 84:1-7
・新約 テモテへの手紙二 4章6~8、16~18節 2 Timothy 4:6-8, 16-18
・新約 ルカによる福音書 18章1~14節 Luke 18:9-14
10月26日(日) 三位一体節第二十主日
メッセージ 「神様の前でのうぬぼれ」 田淵 結 牧師
●今日の聖書のお話は、私たちの社会ではあまり問題にならないかもしれません。イエス様の時代、ユダヤ教が当たり前の社会では自分の信仰を見せびらかす人たちがたくさんおり、そのことによって人々から尊敬されることを期待する、つまり自己満足を満たしていたのでしょう。でも、今の日本の社会で、いや最近のネットなどを見ていると欧米でもChurch Goer(教会に行って礼拝する人)が激減しており、もはやその社会はキリスト教信仰を失いつつある、とさえ言わるなかで、自分の信仰を人の前で堂々と自慢するひとなど、皆無かもしれません。その意味で、時々駅前にたって「聖書の勉強をしませんか」と声をかけておられる人たちには、ある種の尊敬と、ある意味違和感を感じるときもあります。
●でもイエス様当時のユダヤ教の社会と、現在の日本の社会、今日の聖書の箇所でイエス様が語っているのは同じメッセージです。つまり神様への信仰は、その一人一人がその社会の状況の中でどれだけ自分と神様のつながりをしっかりととらえ、感じ、感謝しているかにかかっているのです。それは他者にひけらかすことでもないし、人前では隠しておいてもかまわない。でもあなた自身が、ひとりで神様の前に立つということを、そのなかで自分の今のあり方をどうとらえているかがポイントなのです。
●旧約聖書のなかにイザヤという預言者が活躍しますが、彼の預言者としてのスタートは自分自身の絶対的な弱さ、汚れ、小ささの認識でした。なぜなら彼自身がエルサレム神殿の中で神様に出会ったからです。聖書の聖という言葉はヘブル語でカドーシュと言いますが、もともとの意味は「絶対に超えられない隔たり=差」です。私たちは神様に近づくことはできますが、そのとき神様の前に立つ自分は今日のファリサイ人のように自分を誇ることなどできないのです。でもそれが平気できるというのは、実は彼自身が神様と出会ったことがないということを証明しているようなものなのです。
●祈りましょう、神様、私たちの弱さをあなたがゆるし、イエス様の愛のなかで私たちを生かし、勇気づけ、用いてくださることを感謝します。あなたのまえにイエス様とともに歩む毎日の豊かさをお与えください。主の御名によって祈ります、アーメン。
聖書 ルカによる福音書18章9~14
9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
今週も聖書を読みましょう 11月3日(日)~11月9日(日)
11月3日(月)
・旧約 詩編 142編 Psalm 142;
・旧約 ハバクク書 2章12~20節 Habakkuk 2:12-20;
・新約 コリントの信徒への手紙一 5章9~13節 1 Corinthians 5:9-13;
11月4日(火)
・旧約 詩編 142編 Psalm 142;
・旧約 ハバクク書 3章1~16節 Habakkuk 3:1-16 ;
・ユダの手紙 5~21節Jude 1:5-21;
11月5日(水)
・旧約 詩編 142編 Psalm 142;
・旧約 ハバクク書 3章17~19節 Habakkuk 3:17-19;
・新約 ルカによる福音書19章11~27節 Luke 19:11-27;
11月6日(木)
・旧約 詩編 145編1~5,17~21節 Psalm 145:1-5, 17-21;
・旧約 ゼカリヤ書 1章1~17節 Zechariah 1:1-17;
・新約 使徒言行録 22章22節~23章11節 Acts 22:22-23:11;
11月7日(金)
・旧約 詩編 145編1~5,17~21節 Psalm 145:1-5, 17-21;
・旧約 ゼカリヤ書 6章9~15節 Zechariah 6:9-15;
・新約 使徒言行録 24章10~23節 Acts 24:10-23;
11月8日(土)
・旧約 詩編 145編1~5,17~21節 Psalm 145:1-5, 17-21;
・旧約 ハガイ書 1章1~15節a Haggai 1:1-15a;
・新約 ルカによる福音書 20章1~8節 Luke 20:1-8;
11月9日(日) 三位一体第二十二主日
・旧約 ハガイ書 1章15節a~2章9節 および 詩編 145編1~5,17~21節 またはH 詩編 98編 Haggai 1:15b-2:9 and Psalm 145:1-5, 17-21 or Psalm 98
・旧約 ヨブ記 19章23~27節a および 詩編 17編 1~9節 Job 19:23-27a and Psalm 17:1-9
・新約 テサロニケの信徒への手紙二 2章1~5,13~17節 2 Thessalonians 2:1-5, 13-17
・新約 ルカによる福音書 20章27~38節 Luke 20:27-38