宗教法人 単立 芦屋キリスト教会
2025年12月21日(日) 午前10時30分
待降節(アドベント)第四主日 クリスマス礼拝
前 奏 奏楽 多田 謙一 兄
招 き の 言 葉
讃 美 歌 111番「かみのみこは」
1. かみのみこは こよいしも Kamin no miko wa koyoi shimo
ベツレヘムに うまれたもう Betsurehemu ni umare tamou
いざやともよ もろともに Izaya tomoyo moro tomo ni
いそぎゆきて おがまずや Isogi yukite ogamazu ya
2. おとめマリア ははとして Otome maria haha to shite
うまれましし みどりごは Umare mashi shi midori go wa
まことのかみ きみのきみ Makoto no kami kimi no kimi
いそぎゆきて おがまずや Isogi yukite ogamazu ya
3. かみにさかえ あれかしと Kami ni sakae are kashi to
みつかいらの こえすなり Mitsukai ra no koe sunari
ちなるひとも たたえつつ Chi naru hito mo tatae tsutsu
いそぎゆきて おがまずや Isogi yukite ogamazu ya
4. とこしなえの みことばは Tokoshinae no mikotoba wa
いまぞひとと なりたもう Imazo hito to nari tamou
まちのぞみし しゅのたみよ Machi nozomi shi shu no tami yo
おのがさちを いわわずや Onoga sachi wo iwawazu ya
詩編の 交 読 詩編 80編
主 の 祈 り (564番)
天(てん)にまします われらの父(ちち)よ。ねがわくは御名(みな)を あがめさせたまえ。御国(みくに)をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、ちにも なさせたまえ。われらの日用(にちよう)のかてを きょうもあたえたまえ。われらに つみをおかすものを われらがゆるすごとく、われらの つみをもゆるしたまえ。われらを こころみにあわせず、悪(あく)より すくいだしたまえ。国(くに)とちからとさかえとは、かぎりなく なんじのものなればなり。アーメン。
聖 書 マタイによる福音書 1章18~25節
祈 祷
讃 美 歌 468番「こがらしのかぜ」
1. こがらしのかぜ ほえたけり Kopgarashi no kaze hoe take ri
くろがねのごと ちはこおり Kurogane no goto chi wa koori
ゆきふりつみぬ いやしげく Yuki furitsuminu iya shigeku
とおきむかしの ふゆのひに Tooki mukashi no fuyu no hi ni
2. わびしきふゆの さなかにも Wabishiki fuyu no sanaka nimo
きみにゆたかに ちちはあり Kimini yutakani chichi wa ari
ほしぐさみてる まぶねあり Hoshigusa miteru mabune ari
うしうまらくだ かこみつつ Ushi uma rakuda kakomi tsutsu
3. あまつつかいの うちつどい Amatsu tsukai no uchi tsudoi
みそらにみちて うたうとき Misora ni michi te utau toki
みはははひとり みどりごを Mihaha wa hitori midorigo wo
くちづけしつつ ほめまつる Kuchizuke shitsutsu home matsuru
4. ぼくしゃなりせば こひつじを Bokusha narise ba kohitsuji wo
ちしゃはちえをぞ ささぐべき Chisha wa chie wo zo sasagu beki
まずしきわれの イエスきみに Mazushiki ware no Iesu kimi ni
ささぐべきもの こころのみ Sasagubeki mono kokoro nomi
使 徒 信 条 (566番)
われは天地(てんち)のつくりぬし、全能(ぜんのう)の父なる神を信(しん)ず。われは そのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりて やどり、おとめマリヤより うまれ、ポンテオ・ピラトのもとに くるしみをうけ、十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)にて ほうむられ、陰府(よみ)に くだり、三日目(みっかめ)に 死人(しにん)のうちより よみがえり、天(てん)にのぼり、全能の 父なる神の右(みぎ)に 座(ざ)したまえり。かしこよりきたりて いけるものと 死ねるものとを さばきたまわん。われは 聖霊を信ず、聖(せい)なる 公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)のまじわり、罪(つみ)のゆるし、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信はず。アーメン
説 教 「インマヌエル 神様がわたしたちと共に」 田淵 結 牧師
祈 祷
洗 礼 式
讃 美 歌 108番「いざうたえ」
1. いざうたえ いざいわえ うれしき このよい Iza utae iza iwae ureshiki kono yoi
かみのみこ あらわれぬ いざほめたたえよ Kami no miko arawarenu iza home tatae yo
2. いざうたえ いざいわえ たのしき このよい Iza utae iza iwae tanoshiki kono yoi
すくいぬし よにいでぬ いざほめ たたえよ Sukui nushi yoni idenu iza home tatae yo
3. いざうたえ いざいわえ きよけき このよい Iza utae iza iwae kiyokeki kono yoi
いとたかき みどりごを いざほめたたえよ Ito takaki midorigo wo iza home tataeyo
感 謝 祈 祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 106番 「あらののはてに」
1. あらののはてに ゆうひは おちて Arano no hateni yuuhi wa ochite
たえなるしらべ あめよりひびく Tae naru shirabe ame yori hibiku
(くりかえし) グローリア イン・エクシェルシス・デオ Gloroa in excelsis Deo
2. ひつじをまもる のべのまきびと Hitsuji wo mamoru nobe no makibito
あめなるうたを よろこびききぬ Amenaru ura wo yorokoni kikinu
(くりかえし) グローリア イン・エクシェルシス・デオ Gloroa in excelsis Deo
3. みうたをききて ひつじかいらは Miuta wo kiki te hitsujikai ra wa
まぶねにふせる みこをおがみぬ Mabune ni fuseru miko wo ogami nu
(くりかえし) グローリア イン・エクシェルシス・デオ Gloroa in excelsis Deo
4. きょうしもみこは うまれたまいぬ Kyou shimo miko wa umare tamai nu
よろずのたみよ いさみてうたえ Yorozu no tami yo isamite utae
(くりかえし) グローリア イン・エクシェルシス・デオ Gloroa in excelsis Deo
祝 祷
後 奏
報 告
・12月24日(水)はクリスマス・イブ・プログラムを予定します
午後5時30分 持ち寄り夕食会 午後7時 クリスマス・イブ礼拝
・12月28日(第四日曜日)には教会での礼拝はありません。
・1月は4日(第一日曜日) 午前10時30分 Unfinished Communityの英語礼拝
・1月11日(第二日曜日) 午前10時30分 芦屋キリスト教会礼拝 です。
メッセージ 「インマヌエル 神様がわたしたちと共に」 田淵 結 牧師
●毎年のクリスマス、かならずこのマタイによる福音書の記事が読まれますが、実はなかなかこのイエス誕生の予告の記事はスッと理解できるものではないのです。マリアといいなづけの夫ヨセフとの関係、それはヨセフにとっては悩ましいものであったようです。ですから天使はヨセフに「畏れずに妻マリアを迎えなさい」と説得しています。ヨセフでさえ、イエスの誕生を率直に受け入れることができなかった、という物語です。それがクリスマスの始まりでした。
●おそらくマリアにとってもヨセフとの関係は辛いものだったでしょう。自分が神の子を宿すこと、聖霊によって身ごもるなどという状況にあること、それを誰も、そして本来ならばもっともよき理解者であってほしいヨセフにさえ受け入れられなかったのです。この若い二人のとてもむつかしい状況のなかで、天使はそれが「インマヌエル」(神様がわたしたちと共におられる)ということの意味であることを告げるのです。
●私たちにとって、悩み、苦しさ、辛さ、そんなものは経験したくないものですが、でも人生を歩むなかでそれは避けられないもの、そしてその時に神様はそのようなしんどい状況の私たちと共にいてくださる、イエス・キリストが私たちのもとに来られる意味はそこにあるのでしょう。私たちはともすれば人生の現実から目をそらし、それをただ忘れようとするためだけに喜びや楽しさを求めるのではなく、私たちのありのままの姿、寂しく、見栄えのしない私たちの毎日のなかにイエス様が来てくださった、神の子が馬小屋に生まれられたことが示す深い、ほんものの慰めをこのクリスマスで私たちが受けとめるひとりひとりでありたく願います。
●祈りましょう、神様、あなたが貧しさの中に独り子イエスを生まれさせられたこと、そこに私たちへの愛と慰めを感じることができますように。最も深い感謝と喜びをこのとき私たちが受けとることのできる一人であらせてください。クリスマスの主、イエス・キリストのお名前によって、祈ります、アーメン。
12月22日(月)
・新約 ルカによる福音書 1章46b~55節 Luke 1:46b-55;
・旧約 イザヤ書 33章17~22節 Isaiah 33:17-22;
・新約 ヨハネの黙示録 22章6~7,18~20節 Revelation 22:6-7, 18-20;
12月23日(火)
・新約 ルカによる福音書 1章46b~55節 Luke 1:46b-55;
・旧約 サムエル記下 7章18、23~29節 2 Samuel 7:18, 23-29;
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 3章6~14節 Galatians 3:6-14;
12月24日(水)イエスの降誕 I
・旧約 イザヤ書 9章2~7節 Isaiah 9:2-7
・旧約 詩編 96編 Psalm 96
・新約 テトスへの手紙 2章11~14節 Titus 2:11-14
・新約 ルカによる福音書 2章1~14 (15~20)節 Gospel: Luke 2:1-14, (15-20)
12月25日(木) イエスの降誕 II
・旧約 イザヤ書 62章6~12節 Isaiah 62:6-12
・旧約 詩編 97編 Psalm 97
・新約 テトスへの手紙 3章4~7節 Titus 3:4-7
・新約 ルカによる福音書 2章(1~7)、8~20節 Luke 2:(1-7), 8-20
12月25日(木) イエスの降誕 III
・旧約 イザヤ書 52章7~10節 Isaiah 52:7-10
・旧約 詩編 98編 Psalm 98
・新約 ヘブライ人への手紙 1章1~4,(5~12)節 Hebrews 1:1-4, (5-12)
・新約 ヨハネによる福音書 1章1~14節 John 1:1-14
12月26日(金)
・旧約 詩編 148編 Psalm 148;
・新約 使徒言行録 7章29節~8章8節 Acts 7:59-8:8;
12月27日(土)
・旧約 詩編 148編 Psalm 148;
・旧約 箴言 8章22~31節 Proverbs 8:22-31;
・新約 ヨハネの手紙一 5章1~12節 1 John 5:1-12;
12月28日(日) 降誕後第一主日
・旧約 イザヤ書 63章7~9節 Isaiah 63:7-9
・旧約 詩編 148編 Psalm 148
・新約 ヘブライ人への手紙 2章10~18節 Hebrews 2:10-18
・新約 マタイによる福音書 2章13~23節
12月29日(月)
・旧約 詩編 20編 Psalm 20;
・旧約 エレミヤ書 31章15~22節 Jeremiah 31:15-22;
・新約 ルカによる福音書 19章41~44節 Luke 19:41-44;
12月30日(火)
・旧約 詩編 20編 Psalm 20;
・旧約 イザヤ書 26章1~9節 Isaiah 26:1-9;
・新約 コリントの信徒への手紙二 4章16~18節 2 Corinthians 4:16-18;
12月31日(水)
・旧約 詩編 20編 Psalm 20;
・旧約1 列王記上 3章5|~14節 Kings 3:5-14;
・新約 ヨハネによる福音書 8章12~19節 John 8:12-19;
2026年1月1日(木) イエスの命名日
・旧約 民数記 6章22~27節 Numbers 6:22-27
・旧約 詩編 8編 Psalm: Psalm 8
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 4章5~7節 または フィリピの信徒への手紙 2章5~11節 Galatians 4:4-7 or
1月1日(木) 元旦
・旧約 雅歌 3章1~13節 伝道の書 3:1-13
・旧約 詩編 8編 Psalm: Psalm 8Psalm: Psalm 8
・新約 ヨハネの黙示録 21章1~6a節 Revelation 21:1-6a
・新約 マタイによる福音書 25章31~46節 Gospel: Matthew 25:31-46
1月2日(金)
・旧約 詩編 20編 Psalm 20;
・旧約 創世記 12章1~7節 Genesis 12:1-7;
・新約 ヘブライ人への手紙 11章1~12節 Hebrews 11:1-12;
・旧約 詩編b 72編 Psalm 72;
・旧約 創世記 28章10~22節 Genesis 28:10-22;
・新約 ヘブライ人への手紙11章13~22節 Hebrews 11:13-22;
1月4日(日)降誕後第二主日
・旧約 エレミヤ書 31章7~14節 Jeremiah 31:7-14
・旧約 詩編 147編12~20節 Psalm 147:12-20
・新約 エフェソスの信徒への手紙 1章3~14節 Ephesians 1:3-14
・新約 ヨハネに寄る福音書 1章(1~9)、10~18節 John 1:(1-9), 10-18
聖書 ヨハネによる福音書1章1~18節
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
12月28日(日)降誕後第一主日
メッセージ 「芦屋キリスト教会 101年目からのミッション」 田淵 結 牧師
●どうも聖書の記事をしっかり読み進めていくと、私たちのクリスマスのイメージが大きく壊されてしまいそうな気がします。ローソクの輝き、楽しい歌声、おいしい食事、プレゼント、そんなものは聖書には出てきません。新しく誕生した「ユダヤ人の王」をなんとか亡き者にしたいヘロデ大王の狂気のせいで、マリア、ヨセフ、イエスはエジプトに難を逃れますが、ベツレヘム周辺の三歳以下の男の子がすべて殺される、などという事件はまったくクリスマスらしくないですね。しかしクリスマスだからこそ、真剣に考えるべきこと、見逃してはならない事、私たちの本当の課題が聖書を通じて示されているのです。
●教会100周年の年2025年が終わります。101年目が始まろうとするときに、私たちの教会のこれからの課題もまたここにあるのです。と言って私たちが世界中の苦しみや飢えのなかにある子どもたちを救うということなど、とてもできるものではないのですが、だからと言ってそのことを見過ごしてします、知らないままで過ごすべきでもありません。そんな社会の真っただ中でイエス様が育ち、歩み、働かれたことを思い、私たちのなすべき課題(ミッション)を常に考え、求め、実現し続ける教会でありたいと思います。
●2026年には、4月5日(日)のイースター礼拝が今の建物での最後の礼拝となり、解体と敷地の整備工事の後、7月から新しい礼拝堂での活動が始まり7月26日(日)の創立101周年記念礼拝に献堂式を予定しています。その式は決して施設利用のスタートの為の式ではなく、私たちのミッション(神様から与えられた、イエス様と共なる歩み)の再確認、私たちの未来に対する働きの誓いのためのセレモニーであることを今から考え、準備をしたいと思います。よき2026年をご一緒に迎えられますことを祈っております。
●祈りましょう、神雅、2025年において、本当に私たちの教会にととても大きなプロジェクトを実現させてくださいました。新しい年を迎えます、それをあなたが私たちに委ねられる働きのための第二世紀の始まりの年として迎えさせてください。どうぞ私たちを用いてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン
聖書 マタイによる福音書2章13~23節
13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、 15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。 17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
18「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」
19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、 20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」 21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。 22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、 23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
12月15日(月)
・旧約 詩編 42編 Psalm 42;
・旧約 イザヤ書 29章17~24節 Isaiah 29:17-24;
・新約 使徒言行録 5章12~16節 Acts 5:12-16;
12月16日(火)
・旧約 詩編 42編 Psalm 42;
・旧約 エゼキエル書 47章1~12節 Ezekiel 47:1-12;
・新約 ユダの手紙 1章17~25節 Jude 1:17-25;
12月17日(水)
・旧約 詩編 42編 Psalm 42;
・旧約 ゼカリヤ書 8章1~17節 Zechariah 8:1-17;
・新約 マタイによる福音書 8章14~17,28~34節 Matthew 8:14-17, 28-34;
12月18日(木)
・旧約 詩編 80編 1~7,17~19節 Psalm 80:1-7, 17-19;
・旧約 サムエル記下 7章1~17節 2 Samuel 7:1-17;
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 3章23~29節 Galatians 3:23-29;
12月19日(金)
・旧約 詩編 80編 1~7,17~19節 Psalm 80:1-7, 17-19;
・旧約 サムエル記下 7章18~22節 2 Samuel 7:18-22;
・新約 ガラテヤの信徒への手紙 4章1~7節 Galatians 4:1-7;
12月20日(土)
・旧約 詩編 80編 1~7,17~19節 Psalm 80:1-7, 17-19;
・旧約 サムエル記下 7章23~29節 2 Samuel 7:23-29;
・新約 ヨハネによる福音書 3章31~36節 John 3:31-36;
12月21日(日) 待降節第四主日
・旧約 イザヤ書 7章10~16節 Isaiah 7:10-16
・旧約 詩編 80編 1~7,17~19節
・新約 ローマの信徒への手紙 1章1~7節 Romans 1:1-7
・新約 マタイによる福音書 1章18~25節 Matthew 1:18-25
聖書 マタイによる福音書 1章18~25節
18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
12月21日(日) 待降節第四主日
メッセージ 「インマヌエル 神様がわたしたちと共に」 田淵 結 牧師
●毎年のクリスマス、かならずこのマタイによる福音書の記事が読まれますが、実はなかなかこのイエス誕生の予告の記事はスッと理解できるものではないのです。マリアといいなづけの夫ヨセフとの関係、それはヨセフにとっては悩ましいものであったようです。ですから天使はヨセフに「畏れずに妻マリアを迎えなさい」と説得しています。ヨセフでさえ、イエスの誕生を率直に受け入れることができなかった、という物語です。それがクリスマスの始まりでした。
●おそらくマリアにとってもヨセフとの関係は辛いものだったでしょう。自分が神の子を宿すこと、聖霊によって身ごもるなどという状況にあること、それを誰も、そして本来ならばもっともよき理解者であってほしいヨセフにさえ受け入れられなかったのです。この若い二人のとてもむつかしい状況のなかで、天使はそれが「インマヌエル」(神様がわたしたちと共におられる)ということの意味であることを告げるのです。
●私たちにとって、悩み、苦しさ、辛さ、そんなものは経験したくないものですが、でも人生を歩むなかでそれは避けられないもの、そしてその時に神様はそのようなしんどい状況の私たちと共にいてくださる、イエス・キリストが私たちのもとに来られる意味はそこにあるのでしょう。私たちはともすれば人生の現実から目をそらし、それをただ忘れようとするためだけに喜びや楽しさを求めるのではなく、私たちのありのままの姿、寂しく、見栄えのしない私たちの毎日のなかにイエス様が来てくださった、神の子が馬小屋に生まれられたことが示す深い、ほんものの慰めをこのクリスマスで私たちが受けとめるひとりひとりでありたく願います。
●祈りましょう、神様、あなたが貧しさの中に独り子イエスを生まれさせられたこと、そこに私たちへの愛と慰めを感じることができますように。最も深い感謝と喜びをこのとき私たちが受けとることのできる一人であらせてください。クリスマスの主、イエス・キリストのお名前によって、祈ります、アーメン。
12月8日(月)
・旧約 詩編 21編 Psalm 21;
・旧約 イザヤ書 24章1~16a節 Isaiah 24:1-16a;
・新約 テサロニケの信徒への手紙一 4章1~12節 1 Thessalonians 4:1-12;
12月9日(火)
・旧約 詩編 21編 Psalm 21;
・旧約 イザヤ書 41章14~20節 Isaiah 41:14-20;
・新約 ローマの信徒への手紙 15章14~21節 Romans 15:14-21;
12月10日(水)
・旧約 詩編 21編 Psalm 21;
・旧約 創世記 15章1~18節 Genesis 15:1-18;
・新約 マタイによる福音書12章 33~37節 Matthew 12:33-37;
12月11日(木)
・旧約 詩編 146編5~10節 Psalm 146:5-10;
・旧約 ルツ記 1章6~18節 Ruth 1:6-18;
・新約 ペトロの手紙二 3章1~10節 2 Peter 3:1-10;
12月12日(金)
・旧約 詩編 146編5~10節 Psalm 146:5-10;
・旧約 ルツ記 4章13~17節 Ruth 4:13-17;
・新約 ペトロの手紙二 3章11~18節 2 Peter 3:11-18;
12月13日(土)
・旧約 詩編 146編5~10節 Psalm 146:5-10;
・旧約 サムエル記上 2章1~8節 1 Samuel 2:1-8;
・新約 ルカによる福音書 3章1~18節 Luke 3:1-18;
12月14日(日) 待降節第三主日
・旧約 イザヤ書 35章1~10節 Isaiah 35:1-10
・旧約 詩編 146編5~10節 Psalm 146:5-10; または ルカによる福音書 1章46b~55節 Psalm: Psalm 146:5-10 or Luke 1:46b-55
・新約 ヤコブの手紙 5章 7~10節 James 5:7-10
・新約 マタイによる福音書 11章2~11節 Matthew 11:2-11
12月14日 待降節第三主日 メッセージ
メッセージ 「あなたがたは何を見に」 田淵 結 牧師
●「来るべき方はあなたですか」 ユダヤ人たちはその長い歴史のなかで自分たちの救い主、メシアを待ちのぞんでいました。イエスと出会って、彼がそのメシアなのかと確かめようとし、「ほかの方を待つ」べきか、とイエスがメシアであることを確かめることができませんでした。イエスは様々な障害をもつ人、病気の人たちが癒され、貧しい人たちが福音を聞かされていることを示しますが、その状況はユダヤ人たちが期待しているメシアのイメージとはかなり異なっていたものでした。ユダヤ人たちは、もっと政治的な、当時の支配者であるローマ人たちをも圧倒できる、輝かしい存在を期待していたのでしょう。
●ではそんな輝かしい政治的、軍事的なメシアが登場したときに、社会の片隅に押しやられ、人々からいろいろ差別されている人たちの状態は変えられるのでしょうか。貧しい人たちが聞かされている福音、それはそんな貧しさの中にあり、障害や病いのなかにある人たちへの神様の関り、顧みがあることを伝えるものだったのです。そのメシアを受け入れること、それは実は社会で有力な立場にある人たちにとっては、とても厳しいことだったのです。なぜ社会の人たちは「しなやかな服を着た人」たちばかりに注目し続けるのか、イエスはそう人々に問いかけます。イエスの語るメシアとは、本当に救いを求めている人たち、神様の関りと慰めを求める人たちを救うためにこの世に遣わされるべきものなのです。
●クリスマスを待つ、ともすれば私たちは自分のイメージの中にだけあるクリスマスを待ち続けているのでしょう。そしてそのイメージとは、12月25日が過ぎればもうそれで十分、また来年というようなもので終わっています。本当のクリスマスに、私たちの毎日への励まし、神様の慰めと救いを確かに受け取ることができる人々には、そのクリスマスの祝福がそれからの生涯を通じて大きな転換点となり、そこから始まる新しい一年、一年を豊かに過ごさせる導きとなるものなのです。
●祈りましょう、神様、今私たちが迎えようとする今年のクリスマス、それが私たちの生涯を支え、導き、慰めと励ましを与え続けるものとなりますように。ベツレヘムに生まれられた幼子イエスとの本当の出会いを与えてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
聖書 マタイによる福音書 11章2~11節
2ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 6わたしにつまずかない人は幸いである。」 7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。 11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
12月1日(月)
・旧約 詩編 124編 Psalm 124;
・旧約 創世記 8章1~19節 Genesis 8:1-19;
・新約 ローマの信徒への手紙 6章1~11節 Romans 6:1-11;
12月2日(火)
・旧約 詩編 124編 Psalm 124;
・旧約 創世記 9章1~17節 Genesis 9:1-17;
・新約 へブライ人への手紙 11章32~40節 Hebrews 11:32-40;
12月3日(水)
・旧約 詩編 124編 Psalm 124;
・旧約 イザヤ書 54章1~10節 Isaiah 54:1-10;
・新約 マタイによる福音書 24章23~35節 Matthew 24:23-35;
12月4日(木)
・旧約 詩編 72編1~7,18~19節 Psalm 72:1-7, 18-19;
・旧約 イザヤ書 4章2~6節 Isaiah 4:2-6;
・新約 使徒言行録 1章12~17、21~26節 Acts 1:12-17, 21-26;
12月5日(金)
・旧約 詩編 72編1~7,18~19節 Psalm 72:1-7, 18-19;
・旧約 イザヤ書 30章19|~26節 Isaiah 30:19-26;
・新約 使徒言行録 13章16~25節 Acts 13:16-25;
12月6日(土)
・旧約 詩編 72編1~7,18~19節 Psalm 72:1-7, 18-19;
・旧約 イザヤ書 40章1~11節 Isaiah 40:1-11;
・新約 ヨハネによる福音書 1章19~28節 John 1:19-28;
12月7日(日)待降節第二主日
・旧約 イザヤ書 11章1~10節 Isaiah 11:1-10
・旧約 詩編 72編1~7,18~19節 Psalm 72:1-7, 18-19;
・新約 ローマの信徒への手紙 15章4~13節 Romans 15:4-13
・新約 マタイによる福音書 3章1~12節 Matthew 3:1-12
聖書 マタイによる福音書 3章1~12節
1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。 9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
●アドベント(待降節)、もちろんイエスの到来を待ちのぞむ季節、ということで今日のマタイによる福音書の記事も、その時代、ユダヤ教のなかであるグループ、あるいは教派のリーダーであったヨハネ、彼がやがてイエスに洗礼を授けることによって「(イエスの)洗礼者(バプテスマ)ヨハネ」と呼ばれるようになった男が、やがて現れるイエスという存在の意味を訴えます。そこで強調されていることは、ヨハネは「悔い改めに導くため」のバプテスマを授けるが、イエスは「聖霊と火で・・・洗礼を授けられる」というものでした。その火とは、脱穀された殻を「焼き払われる」ためのものだというのです。
●このようなヨハネの訴えは、果たしてイエスの到来というか登場を人々に期待されるものとなったでしょうか。ただでさえ、ヨハネに洗礼を授けてもらおうとやってきた人たちに「蝮の子」と決めつけ、その人々に最初から「悔い改め」を迫る。そんなことをすれば、決して普通の人たちは集まらないでしょう。クリスマスというのが、ある意味教会にとって、これまでキリスト教に関心を持たなかった人たちに対する、絶好のPRの機会だと考えられるているなかで、クリスマスというのはもともと、これだけ厳しいもの、ともすればあなた自身も「審かれる」かもしれないものだ、などと語れることはありません。でも今日の聖書の箇所はそのことを私たちに語るのです。
●イギリスの小説家ディケンズのクリスマスの定番小説「クリスマス・キャロル」のなかに登場する三人のゴーストの一人に「Christmas Past=過去(これまで)のクリスマス」が出てきます。今までの毎年のクリスマスがどんなものだったかを示してくれるのですが、今年は2025年、つまりもう2000回以上もクリスマスが繰り返されてきたのに「地には平和」というイエス誕生の夜の天使の歌声に託された祈りは実現したのでしょうか。それが実現しない最大の理由は、私たちのクリスマスの迎え方、つまり悔い改めもなく、自分たちの生き方が厳しく問われるようなものではなく、ただ自分たちだけが楽しむだけのクリスマスを繰り返してきたからなのでしょう。「悔い改めにふさわしい実を結」ぶためのクリスマスについて、アドベントだからこそ真剣に考えるべきでしょう。
●祈りましょう、神様、私たちがあたりまえに迎えているクリスマス、今年こそ改めて私たちにとってのクリスマスを考えるときとしてください。私たちの楽しみのためのものよりも、本当に地上に平和をもたらすときとしてのクリスマスとしてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会 終末主日礼拝
2025年11月23日(日)午前10時30分
前奏(黙祷)
招きのことば
讃 美 歌 76番「ほめまつれみかみをば」
1. ほめまつれ みかみをば Homematsure, mikami woba
そのわざに ひめたもう Sono waza ni, hime tamou
またきちから またきちえ Mataki chikara, mataki chie
たたえまつれ もろびとよ Tatae matsure, hitono ko yo
2. ちはそらを わたりつつ Chi wa sora wo, wataritutu
くにぐにを のせめぐり Kuni guni wo, nose meguri
つとめのひを あおがしむ Tsutome no hi wo, aoga shimu
いこいのよを むかえしむ Ikoi no yo wo, mukae shimu
3. ものみなは とどまらず Mono mina wa, todomarazu
はてしなき うつろいや Hateshi naki, utsuroi ya
みことのりに したがいて Mikotonori ni, shitagai te
やまはうつり うみもきゆ Yama wa utsuri, umi mo kiyu
4. おおいなり あまつかみ Ooinari, amatsu kami
みなにのみ ほまれあれ Minani nomi, homare are
くすしきかな みてのわざ Kusushiki kana, mite no waza
こえのかぎり ほめうたわん Koe no kagiri, home utawann
詩 編 交 読 詩編 46編
主 の 祈 り
天にまします我らの父よ 願わくはみ名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与えたまえ 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ 我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ 国と力と栄(さかえ)とは 限りなく なんじのものなればなり アーメン
聖 書 ルカによる福音書 23章33~43節
祈 祷
讃 美 歌 262番「十字架のもとぞ」
1. じゅうじかのもとぞ いとやすけし Juujika no moto zo, ito yasukeshi
かみのぎとあいの あえるところ Kami no gito ai no, aeru tokoro
あらしふくときの いわをのかげ Arashi fuku toki no, iwao no kage
あれのなかなる わがかくれが Areno no nakanaru, waga kakurega
2. じゅうじかのうえに われはあおぐ Juujika no ue ni, ware wa aogu
わがためなやめる かみのみこを Waga tame nayameru, kami no miko wo
たえにもとうとき かみのあいよ Tae nimo toutoki, kami no ai yo
そこいもしられぬ ひとのつみよ Sokoi mo sirarenu, hito no tsumi yo
3. じゅうじかのかげに われはたちて Jujika no kage ni, ware wa tachi te
みかおのひかりを たえずもとめん Mikao no hikari wo, taezu motomenn
このよのものみな きゆるときも Kono yono mono mina, kiyuru toki mo
くすしくかがやく そのひかりを Kusushiku kagayaku, sono hikari wo
使 徒 信 条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず 我はその独り子 我らの主 イエス・キリストを信ず 主は聖霊によりてやどり 処女(おとめ)マリヤより生れ ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け 十字架につけられ 死にて葬られ 陰府(よみ)にくだり 三日目に死人のうちよりよみがえり 天に昇り 全能の父なる神の右に坐したまえり かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん 我は聖霊を信ず 聖なる公同の教会 聖徒の交わり 罪の赦し 身体(からだ)のよみがえり 永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず アーメン
説 教 「イエスよ、私を思い出してください」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 503番「はるのあした」
1. はるのあした なつのまひる Haru no ashita, natsu no mahiru
あきのゆうべ ふゆのよも Aki no yuube, fuyu no yo mo
いそしみまく みちのたねの Isoshimi maku, michi no tane no
たりほとなる とききたらん Tarihi to naru, toki kitarann
くりかえし (Refrain)
かりいるる ひはちかし Kari iruru, hiwa chikashi
よろこびまて そのたりほ Yorokobi mate, sono tariho
かりいるる ひはちかし Kari iruru, hiwa chikashi
よろこびまて そのたりほ Yorokobi mate, sono tariho
2. みそらかすむ のどけきひも Misora kasumu, nodokeki hi mo
こがらしふく さむきよも Kogarashi fuku, samuki yo mo
いそしみまく みちのたねの Isoshimi maku, michi no tane no
たりほとなる とききたらん Tarihi to naru, toki kitarann
くりかえし (Refrain)
3. うさつらさも みにいとわで Usa tsurasa mo, mini itowa de
みちのために たねをまけ Michi no tameni, tane wo make
ついにみのる そのたりほを Tsuini minoru, sono tariho wo
かみはめでて みそなわさん Kami wa mede te, misonawa sann
くりかえし (Refrain)
献金感謝祈祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 讃美歌21 88番 「こころにあいを」
こころにあいを、ゆたかにみたし、ひごとのわざに、つかわしたまえ アーメン
Kokoro ni ai w, yutakani mitashi, higotono wazani, tsukawashi tamae, Amen
祝 祷
後 奏
報 告
・11月23日(11月第四日曜)は午前10時30分より芦屋キリスト教会礼拝(メッセージ 田淵 結牧師)です。30日(第五日曜日)は芦屋キリスト教会永眠者記念礼拝を行い、礼拝後芦屋霊園教会墓地で故渡辺令子姉の納骨式を行います。
11月24日(月)
・旧約 詩編 117編 Psalm 117;
・旧約 エレミヤ書 30章1~17節 Jeremiah 30:1-17;
・新約 ヨハネの黙示録 21章5~27節 Revelation 21:5-27;
11月25日(火)
・旧約 詩編 117編 Psalm 117;
・旧約 エレミヤ書 30章18~24節 Jeremiah 30:18-24;
・新約 ヨハネの黙示録 22章8~21節 Revelation 22:8-21;
11月26日(水)
・旧約 詩編 117編 Psalm 117;
・旧約 エレミヤ書 31章1~6節 Psalm 117; Jeremiah 31:1-6;
・新約 ルカによる福音書 1章1~4節 Luke 1:1-4;
11月27日(木)
・旧約 詩編 122編 Psalm 122;
・旧約 ダニエル書 9章15~19節 Daniel 9:15-19;
・新約 ヤコブの手紙 4章1~10節 James 4:1-10;
11月28日(金)
・旧約 詩編 122編 Psalm 122;
・旧約 創世記 6章1~10節 Genesis 6:1-10;
・ヘブライ人への手紙 11章1~7節 Hebrews 11:1-7;
11月29日(土)
・旧約 詩編 122編 Psalm 122;
・旧約 創世記 6章11~22節
・新約 ヨハネによる福音書 24章1~22節 Matthew 24:1-22;
11月30日(日) 待降節第一主日
・旧約 イザヤ書 2章1~5節 Isaiah 2:1-5
・旧約 詩編 122編 Psalm 122
・新約 ローマの信徒への手紙 13章11~14節 Romans 13:11-14
・新約 マタイによる福音書 24章36~44節 Matthew 24:36-44
11月30日(日) 待降節第一主日
メッセージ 「目をさましていなさい」
●いよいよ今日の日曜日から待降節、クリスマスの準備のための4週間がはじまります。私たちの教会では12月21日にクリスマスの礼拝をよていしますので、どうぞご予定ください。クリスマスの準備というと、ツリーを飾ったり、サンタクロースのことを考えたり、パーティを計画したり、ということになりがちですが、教会本来の待降節はそんなワクワク感のあふれるものではなく、もっとシリアスな、というか私たちの姿勢が鋭くとわれるというようなものから始まります。それはイエス・キリストが私たちのもとに来られることの二重の意味を考えるからです。
●一つは当然に幼子イエスの誕生としてのクリスマスですが、もうひとつは再臨という考え方です。つまりイエスは十字架の死を迎えて復活され、さらに天に昇られたのですが、その後やがてもう一度天から私たちのもとに来られて、世界を審かれ、そこで救われる人と滅びる人たちがより分けられる、そのような形で、いわば最後の審判の主として私たちのもとに来られるということなのです。待降節にはそのようなイエスの再臨についても考えるのですが、その再臨がいつ起こるかということについては、実はまったく私たちの予想がつかない、「いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである」(42節)のです。
●つまり待降節のときに、改めて私たち自身の神様への姿勢、イエス様のお迎えのしかた、それがいつであっても心得られているようにしっかりと考え直すことが求められるのです。二人のうちの一人が取り去られる、その違いは神様への姿勢、イエス様への向き合い方によるのでしょう。その姿勢が整えられている人たちにとって、待降節はやはり喜びのときであり、待ち遠しいときとなります。私たちがクリスマスを待ち望むというとき、それを楽しみにするということは、そのような私たちにとttえけとても大切で基本的、根本的な姿勢が整えられてこそ、より深く、心に残り、自分の人生にとってとても大きな意味のある喜びのときとなるのです。
●祈りましょう、神様、今年も待降節を迎えます。そのときに私たちのよろこびが、本当に意味あるものとなり、私たちにとって深いよろこびと慰めをもたらすときとしての備えをなすことができますように。この待降節からはじまる私たちの新しい一年をどうぞ守り、導いてくださいますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
聖書 マタイによる福音書 24章35~44節
36その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。 37人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 38すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 39そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 40そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 41ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。 43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十三主日 終末主日礼拝
2025年11月16日(日)午前10時30分
前奏(黙祷)
招きのことば
讃 美 歌 185番「きよきみたまよ」
1. きよきみたまよ おぐらきこころ Kiyoki mitama yo, oguraki kokoro
てらしたまえや みひかりをもて Terashi tamaeya, mihihari wo mote
2. きよきみたまよ うちなるつみも Kiyoki mitama yo, uchinaru tsumi mo
きよめたまえや みちからをもて Kiyome tamae ya, michikara wo mote
3. きよきみたまよ このうきみにも Kiyoki mitama yo, kono ukimi nimo
みたしたまえや あまつよろこび Mitashi tamae ya, amatsu yorokobi
4. みたまよたえず こころにすみて Mitama yo taezu, kokoro ni sumite
おさめたまえや のこるくまなく Osame tamae ya, nokoru kuma naku
詩 編 交 読 詩編 98編
主 の 祈 り
天にまします我らの父よ 願わくはみ名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与えたまえ 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ 我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ 国と力と栄(さかえ)とは 限りなく なんじのものなればなり アーメン
聖 書 ルカによる福音書 21章5~19節
祈 祷
讃 美 歌 166番「イエスきみは」
1. イエスきみは いとうるわし Iesu kimi wa, ito uruwashi
あめつちの しゅなる Ame tsuchi no shu naru
かみのみこ ひとのこを Kami no miko, hito no ko wo
なににかは たとえん Nani nikawa tato-en
2. はるのあさ つゆににおう Haru no asa, tsuyi ni niou
はなより うつくし Hana yori utsukushi
あきのよる そらにすむ Aki no yoru, sora ni sumu
つきより さやけし Tsuki yori sayakeshi
3. なつのゆう あおばわたる Natsu noi yuu, aoba wataru
かぜより かぐわし Kaze yori kaguwashi
ふゆのひに ふりつもる Fuyu no hi ni, furi tsumoru
ゆきより きよけし Yuki yori kiyokeshi
4. イエスきみは いとうるわし Iesu kimi wa, ito uruwashi
あめつちの しゅこそ Ame tsuchi no shu koso
わがさかえ わがかむり Waga sakae, waga kamuri
わがよろこび なれ Waga yorokobi nare
使 徒 信 条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず 我はその独り子 我らの主 イエス・キリストを信ず 主は聖霊によりてやどり 処女(おとめ)マリヤより生れ ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け 十字架につけられ 死にて葬られ 陰府(よみ)にくだり 三日目に死人のうちよりよみがえり 天に昇り 全能の父なる神の右に坐したまえり かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん 我は聖霊を信ず 聖なる公同の教会 聖徒の交わり 罪の赦し 身体(からだ)のよみがえり 永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず アーメン
説 教 「神学論争と信仰」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 501番「いのちのみことば」
1. いのちのみことば たえにくすし Inochi no mikotoba, taeni kusushi
みえざるみかみの むねをしめす Miezaru mikami no, mune wo shimesu
つかえまつる みちをおしう Tsukae matsuru, michi wo osiu
くりかえし (Refrain)
いのちのみことば たえなるかな Inochi no mikotoba, taenaru kana
いのちのみことば くすしきかな Inochi no mikotoba, kususshiki kana
2. しゅイエスのみことば いとしたわし Shu Iesu no mikotoba, ito shitawashi
あまねくひびきて よのちまたに Amaneku hibikite, yono chimata ni
なやむこらを あめにまねく Nayamu kora wo, ame ni maneku
くりかえし (Refrain)
3. うれしきおとずれ たえずきこえ Ureshiki otozure, taezu kikoe
ゆるしとやわらぎ たまうかみの Yurushi to yawaragi, tamou Kami no
ふかきめぐみ よにあらわる Fuakai megumi, yoni arawaru
くりかえし (Refrain)
献金感謝祈祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 讃美歌21 88番 「こころにあいを」
こころにあいを、ゆたかにみたし、ひごとのわざに、つかわしたまえ アーメン
Kokoro ni ai w, yutakani mitashi, higotono wazani, tsukawashi tamae, Amen
祝 祷
後 奏
報 告
・11月23日(11月第四日曜)は午前10時30分より芦屋キリスト教会礼拝(メッセージ 田淵 結牧師)です。30日(第五日曜日)は芦屋キリスト教会永眠者記念礼拝を行い、礼拝後芦屋霊園教会墓地で故渡辺令子姉の納骨式を行います。
聖書 ルカによる福音書 21章5~19節
5ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、 6「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。 7そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。 8イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたし名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。 9戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。
10それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。 11また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。 12しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。 13それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。 14だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。 15あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。 16しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。 17また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。 18しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。 19あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。
●聖書時代のユダヤ人たちの宗教生活にとってエルサレム神殿は重要な意味をもっていました。イエス様も十二歳のときに両親につれられて礼拝に来ています(ルカ2:47)が、イエス様にとってもユダヤ人たちにとっても、少し複雑な思いを持たされたかもしれません。イスラエルの神殿は最初ソロモン王によって建てられたものがバビロニア人に破壊され、その後捕囚から帰ってきたエズラたちによって再建されたものが、イエスの時代ごろにヘロデ王によってさらに豪華に改装?されたものでした。しかしこのヘロデが神殿を拡充したのは信仰的な理由ではなく、ユダヤ人たちへの懐柔政策のひとつだったからです。だからどんなにそれが豪華に見えても、その豪華さはイエス様にとってはあまり意味のないものにしか見えなかったのでしょう。そして今日のイエスの言葉どおり、この神殿はその四十年後、紀元70年に今度はローマ人たちによって徹底的に破壊されてしまうのです。
●果たしてイエスはそんな神殿の未来を予言できたのでしょうか。できたはずです、と言ってもイエスが語ったのは、予言というよりも歴史の必然だったのでしょう。つまりどんなに反映した国でもやがては滅びるということだからです。イスラエル人も、昔アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャという大きな国の盛衰の波にもまれてきました。そしてそれらの国家はみな滅びていったのです。そしてその中でユダヤ人たちは生き抜いてきたのですが、その最大の理由は神様への信仰によるものだ、とイエスは語ります。
●だから、いくら社会が政治的に安定していたり不安定であっても、未来への展望が失われようとしても、神様を信じることを失ってしまえば、まさにすべてのものを私たちは失うってしまうのです。その信仰は神殿のような建物ではなく、豪華な装飾でもなく、私たちが神様とのつながりを確信することなくして意味を持たないのです。そのとき私たちがなすべきこと、それはまさに祈りなのでしょう。メディアの流す情報などでも、人々のうわさなどでもなく、神様との対話なのです。
●祈りましょう、神様、いよいよ今年の教会の一年の終わりを近く感じるころとなりますが、そのときにこそ、あらためてこの一年のあなたの導きと支えをひとつひとつ思い起こしながら、今の時を過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
185番「きよきみたまよ」
今週も聖書を読みましょう 11月16日(日)~23日(日)
11月17日(月)
・旧約 詩編 76編 Psalm 76;
・旧約 イザヤ書 60章17~22節 Isaiah 60:17-22;
・新約 エフェソスの信徒への手紙 4章25節~5章2節 Ephesians 4:25-5:2;
11月18日(火)
・旧約 詩編 76編 Psalm 76;
・旧約 イザヤ書 66章1~13節 Isaiah 66:1-13;
・新約 コリントの信徒への手紙一 10章23節~11章1節 1 Corinthians 10:23-11:1;
11月19日(水)
・旧約 詩編 76編 Psalm 76;
・旧約 イザヤ書 66章14~24節 Isaiah 66:14-24;
・新約 マタイによる福音書 23章37節~24章14節 Matthew 23:37-24:14;
11月20日(木)
・新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Luke 1:68-79;
・旧約 エレミヤ書 21章1~14節 Jeremiah 21:1-14;
・新約 ヘブライ人への手紙 9章23~28節 Hebrews 9:23-28;
11月21日(金)
・新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Luke 1:68-79;
・旧約 エレミヤ書 22章1~17節 Jeremiah 22:1-17;
・新約 ペトロの手紙一 1章3~9節 1 Peter 1:3-9;
11月22日(土)
・新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Luke 1:68-79;
・旧約 エレミヤ書 22章18~30節 Jeremiah 22:18-30;
・新約 ルカによる福音書 18章15~17節 Luke 18:15-17;
11月23日(日)
・旧約 エレミヤ書 23章1~6節 および 新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Jeremiah 23:1-6 and Luke 1:68-79
・旧約 エレミヤ書 23章1~6節 および 詩編 46編 Jeremiah 23:1-6 and Psalm 46
・新約 コロサイの信徒への手紙 1章11~20節 Colossians 1:11-20
・新約 ルカによる福音書 23章33~43節 Luke 23:33-43
ルカによる福音書 23章33~43節
32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
●今日は教会のカレンダー(教会歴)でいう一年の最後の日曜日となります。毎年繰り返してお話していることですが、教会の一年はアドベント(クリスマスを準備するための4週間)から始まります。ただし私たちの教会では来週は教会の永眠者記念礼拝として、私たちの教会における信仰の先達たちを記念する礼拝をし、そのご芦屋霊園で納骨式を予定しています。そのためか、今日の聖書日課として得ればれた福音書の記事は、イエスの十字架の死の瞬間の場面です。なんだか季節外れのような気がしないでもありませんね。
●この物語に登場する大半の人は、イエスについて批判、非難の言葉を投げかけます。神のメシアとかユダヤ人の王とか言われていたイエスが、十字架につけられてもっとも屈辱的な死を迎えようとしており、まさに失敗者でしかないイエスへの罵倒の言葉、ある意味失望の言葉が投げかけられるのです。そのなかでただ一人「しかし、この方は何も悪いことをしていない」と語ったのがイエスとともに十字架につけられた一人でした。なぜこの人はそう言えたということ以上に、この人はその場での雰囲気や状況に圧倒されることなく、自分自身の確信を、文字通りその人の死の時まで貫いたということに注目されます。
●イエスはある時、弟子たちに「それはあなたがたはわたしを何者だというのか」(マルコ8:29)と尋ねられます。ほかの人はイエスのことをいろいろ言うだろうし、日本語での「みんな」が言っているなかで、あなたは、私たちはイエスとはあなたにとってどんな存在か、ということを自分の言葉として語る(告白)ことが求められる、それがキリスト教信仰にとってとても重要なものなのです。イエスを非難しつづけた人たち、またもうひとりの十字架にかけられた犯罪者は、その人生を他者をののしることで締めくくったのですが、もう一人の犯罪者は天国への希望を持ちつつ死を迎えます。私たちが自分の歩みを終えるとき、この一年を終えるとき、祝福を約束されて終わることができる一人であることを感謝したいと思います。
●祈りましょう、神様、あなたは私たちを、この芦屋キリスト教会をこの一年もあなたの愛のなかで導いてくださいました。あなたの祝福のうちにこの時を迎えられることを心から感謝し、新しい一年への希望を与えられています。どうぞわたしたちにとっても大きな意味のある2026年を、あなたのお恵みをさらに与えられるものであることを信じるなかで迎えることができますように。私たちの主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします、アーメン。
76番「ほめまつれみかみをば」 262番「十字架のもとぞ」、503番「はるのあした」 21-88番「心に愛を」
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十二日礼拝
2025年11月9日(日)午前10時30分
前奏(黙祷) 多田 謙一 兄
招きのことば
讃 美 歌 449番「あめつちの主なる」
1. あめつちのしゅなる おおみかみ Ame tsuchi no shunaru oomikami
ひとをばくすしく つくりたもう Hito woba kusushiku tsukuri tamou
2. はじめのごとくに うつくしく Hajime no gotoku ni utsukushiku
わがみとたまとを なしたまえ Wgami to tama towo nashi tamae
3. ゆるがぬいわより なおかたく Yuruganu iwa yori nao kataku
ゆきよりしらけく なしたまえ Yukiyori shirakeku nashi tamae
4. みやまのすぎより いやなおく Miyamano sugi yori iya naoku
そらよりほがらに なしたまえ Sora yori hogara ni nashi tamae
5 みくにをのぞみて あいのわざ Mikuni wo nozomi te ai no waza
なさしめたまえや わがみにも Nasashime tamae ya waga mi nimo
詩 編 交 読 詩編 145編
主 の 祈 り
天にまします我らの父よ 願わくはみ名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与えたまえ 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ 我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ 国と力と栄(さかえ)とは 限りなく なんじのものなればなり アーメン
聖 書 ルカによる福音書 20章27~38節
祈 祷
讃 美 歌 286番「かみはわがちから」
1. かみはわがちから わがたかきやぐら Kamiwa waga chikara waga takaki yagura
くるしめるときの ちかきたすけなり Kurushimeru toki no chikaki tasuke nari
2. たといちはかわり やまはうなばらの Tatoi chi wa kawari yama wa unabara no
なかにうつるとも われいかでおそれん Nakani utsuru tomo ware ikade osoren
3. かみのみやこには しずかにながるる Kami no miyako niwa shizuka ni nagaruru
きよきかわありて みたみをうるおす Kiyoki kawa arite mitami wo uruosu
4. みことばのみずは つかれをいやして Mikotoba no mizu wa tsukare wo iyashite
あらたなるいのち あたえてつきせじ Arata naru inochi ataete tsuki seji
5. かみのみもとべは つねにやすらけく Kamino mimitobe wa tsuneni yasurakeku
くるしみなやみも きえてあとぞなき Kurushimi nayamimo kiete atozo naki
使 徒 信 条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず 我はその独り子 我らの主 イエス・キリストを信ず 主は聖霊によりてやどり 処女(おとめ)マリヤより生れ ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け 十字架につけられ 死にて葬られ 陰府(よみ)にくだり 三日目に死人のうちよりよみがえり 天に昇り 全能の父なる神の右に坐したまえり かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん 我は聖霊を信ず 聖なる公同の教会 聖徒の交わり 罪の赦し 身体(からだ)のよみがえり 永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず アーメン
説 教 「神学論争と信仰」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 494番「わがゆくみちいついかに」
1. わがゆくみち いついかに Waga yuku michi itsu ikani
なるべきかは つゆしなねど Narubeki kawa tsuyu shiranedo
しゅはみこころ なしたまわん Shu wa mikokoro nashi tamawann
くりかえし(Refrain) そなえたもう しゅのみちを Sonae tamou shu no michi wo
ふみてゆかん ひとすじに Fumite yukann hitosuji ni
2. こころたけく たゆまざれ Kokoro takeku tayuma zare
ひとはかわり よはうつれど Hito wa kawari yo wa utsu redo
しゅはみこころ なしたまわん Shu wa mikokoro nashi tamawann
くりかえし(Refrain)
3. あらうみをも うちひらき Araumi womo uchi hiraki
すなはらにも まなをふらせ Sunahara nimo mana wo furase
しゅはみこころ なしたまわん Shu wa mikokoro nashi tamawann
くりかえし(Refrain)
献金感謝祈祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 讃美歌21 88番 「こころにあいを」
こころにあいを、ゆたかにみたし、ひごとのわざに、つかわしたまえ アーメン
Kokoro ni ai w, yutakani mitashi, higotono wazani, tsukawashi tamae, Amen
祝 祷
後 奏
報 告
・11月16日、23日(11月第三、四日曜)は午前10時30分より芦屋キリスト教会礼拝(メッセージ 田淵 結牧師)です。30日(第五日曜日)は芦屋キリスト教会永眠者記念礼拝を行い、礼拝後芦屋霊園教会墓地で故渡辺令子姉の納骨式を行います。
メッセージ「神学論争と信仰」 田淵 結 牧師
聖 書 ルカによる福音書 20章27~38節
●少し前に日本の国会でも「神学論争」という言葉が交わされたことがありました。その意味は議論のための議論をするとか、議論の内容にほとんど現実味というか結論の出ない無意味な議論ということでしょうか。今日のルカによる福音書に登場するサドカイ派の人たちの議論もそれに近いものだと思えます。跡継ぎを得るために七人の兄弟が同じ女性と結婚するというような問題についてのユダヤ教の考え方を当てはめて、そこに復活ということを重ねたらどうなるのか、それに対してイエスの答えは、その答えは神様に任せろ、というように思えます。
●イエスの時代のユダヤ教のなかに、考え方の違いからいくつかの派があり、よく知られているのはファリサイ派でとにかく旧約の掟(律法)を重視する保守的な人たち、それに対してサドカイ派はある意味合理的で、現実的な解釈をする立場のように言われていますし、だから復活などは受け入れないというものでした。そしてこの記事でこの人たちが復活ということを持ち出すのは、復活なんかを考えるとモーセの律法と矛盾するのでは、というところなのですが、まさに神学論争ですね。
●イエスは私たち人間の復活を否定などしませんが、それ以上に今私たちが神様に生かされているということの大切さ、重要性を受け止めていなければ、復活などの議論をしても意味がない、という立場を示します。つまりサドカイ派以上にイエスは現実的で合理的なのです。死んだあとのことを心配する前に、なぜ今生きていることの意味を、そこにある神様からのかかわりを考えないのか、ということですし、それをしないで死んでからのことを考えても、全く無意味だ、ということですね。本当に復活ということが考えられるということは、今私たちがイエス様によって神様に愛されていることを実感できているからなのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたと共にあるということをしっかりと受け止めることができるゆえに、私たちは私たちの未来もあなたに委ねます。イエス様の愛のうちに今日も私たちを豊かにお守りくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
聖 書 ルカによる福音書 20章27~38節
27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、 31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 32最後にその女も死にました。 33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
●少し前に日本の国会でも「神学論争」という言葉が交わされたことがありました。その意味は議論のための議論をするとか、議論の内容にほとんど現実味というか結論の出ない無意味な議論ということでしょうか。今日のルカによる福音書に登場するサドカイ派の人たちの議論もそれに近いものだと思えます。跡継ぎを得るために七人の兄弟が同じ女性と結婚するというような問題についてのユダヤ教の考え方を当てはめて、そこに復活ということを重ねたらどうなるのか、それに対してイエスの答えは、その答えは神様に任せろ、というように思えます。
●イエスの時代のユダヤ教のなかに、考え方の違いからいくつかの派があり、よく知られているのはファリサイ派でとにかく旧約の掟(律法)を重視する保守的な人たち、それに対してサドカイ派はある意味合理的で、現実的な解釈をする立場のように言われていますし、だから復活などは受け入れないというものでした。そしてこの記事でこの人たちが復活ということを持ち出すのは、復活なんかを考えるとモーセの律法と矛盾するのでは、というところなのですが、まさに神学論争ですね。
●イエスは私たち人間の復活を否定などしませんが、それ以上に今私たちが神様に生かされているということの大切さ、重要性を受け止めていなければ、復活などの議論をしても意味がない、という立場を示します。つまりサドカイ派以上にイエスは現実的で合理的なのです。死んだあとのことを心配する前に、なぜ今生きていることの意味を、そこにある神様からのかかわりを考えないのか、ということですし、それをしないで死んでからのことを考えても、全く無意味だ、ということですね。本当に復活ということが考えられるということは、今私たちがイエス様によって神様に愛されていることを実感できているからなのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたと共にあるということをしっかりと受け止めることができるゆえに、私たちは私たちの未来もあなたに委ねます。イエス様の愛のうちに今日も私たちを豊かにお守りくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
讃美歌 449番「あめつちの主なる」 286番「かみはわがちから」 494番「わがゆくみちいついかに」 讃美歌21 88番「こころにあいを」
今週も聖書を読みましょう 11月10日(日)~11月16日(日)
11月10日(月)
・旧約 詩編 98編 Psalm 98;
・旧約 ハガイ書 2章10~19節 Haggai 2:10-19;
・新約 ペトロの手紙二 1章16~21節 2 Peter 1:16-21;
11月11日(火)
・旧約 詩編 98編 Psalm 98;
・旧約 ハガイ書 2章20~23節 Haggai 2:20-23;
・新約 ヨハネの手紙二 1章1~13節 2 John 1:1-13;
11月12日(水)
・旧約 詩編 98編 Psalm 98;
・旧約 ゼカリヤ書 8章1~17節 Zechariah 8:1-17
・新約 ヨハネによる福音書 5章19~29節 John 5:19-29;
11月13日(木)
・旧約 イザヤ書 12章 Isaiah 12;
・旧約 イザヤ書57章14~21節 Isaiah 57:14-21;
・新約 ローマの信徒への手紙 1章18~25節 Romans 1:18-25;
11月14日(金)
・旧約 イザヤ書 12章 Isaiah 12;
・旧約 イザヤ書 59章1~15節a Isaiah 59:1-15a;
・新約 テサロニケの信徒への手紙 1章3~12節 Thessalonians 1:3-12;
11月15日(土)
・旧約 イザヤ書 12章 Isaiah 12;
・旧約 イザヤ書 59章15b~21節 Isaiah 59:15b-21;
・新約 ルカによる福音書 17章20~37節 Luke 17:20-37;
11月16日(日) 三位一体節 第二十二主日
・旧約 イザヤ書 65章17~25節 および イザヤ書 12章 Isaiah 65:17-25 and Isaiah 12
・旧約 マラキ書 4章1~2a節 および 詩編 98編 Malachi 4:1-2a and Psalm 98
・新約 テサロニケの信徒への手紙二 3章6~13節 2 Thessalonians 3:6-13
・新約 ルカによる福音書 21章5~19節 Luke 21:5-19
聖書 ルカによる福音書 21章5~19節
5ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、 6「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。 7そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。 8イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたし名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。 9戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。
10それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。 11また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。 12しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。 13それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。 14だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。 15あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。 16しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。 17また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。 18しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。 19あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。
●聖書時代のユダヤ人たちの宗教生活にとってエルサレム神殿は重要な意味をもっていました。イエス様も十二歳のときに両親につれられて礼拝に来ています(ルカ2:47)が、イエス様にとってもユダヤ人たちにとっても、少し複雑な思いを持たされたかもしれません。イスラエルの神殿は最初ソロモン王によって建てられたものがバビロニア人に破壊され、その後捕囚から帰ってきたエズラたちによって再建されたものが、イエスの時代ごろにヘロデ王によってさらに豪華に改装?されたものでした。しかしこのヘロデが神殿を拡充したのは信仰的な理由ではなく、ユダヤ人たちへの懐柔政策のひとつだったからです。だからどんなにそれが豪華に見えても、その豪華さはイエス様にとってはあまり意味のないものにしか見えなかったのでしょう。そして今日のイエスの言葉どおり、この神殿はその四十年後、紀元70年に今度はローマ人たちによって徹底的に破壊されてしまうのです。
●果たしてイエスはそんな神殿の未来を予言できたのでしょうか。できたはずです、と言ってもイエスが語ったのは、予言というよりも歴史の必然だったのでしょう。つまりどんなに反映した国でもやがては滅びるということだからです。イスラエル人も、昔アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャという大きな国の盛衰の波にもまれてきました。そしてそれらの国家はみな滅びていったのです。そしてその中でユダヤ人たちは生き抜いてきたのですが、その最大の理由は神様への信仰によるものだ、とイエスは語ります。
●だから、いくら社会が政治的に安定していたり不安定であっても、未来への展望が失われようとしても、神様を信じることを失ってしまえば、まさにすべてのものを私たちは失うってしまうのです。その信仰は神殿のような建物ではなく、豪華な装飾でもなく、私たちが神様とのつながりを確信することなくして意味を持たないのです。そのとき私たちがなすべきこと、それはまさに祈りなのでしょう。メディアの流す情報などでも、人々のうわさなどでもなく、神様との対話なのです。
●祈りましょう、神様、いよいよ今年の教会の一年の終わりを近く感じるころとなりますが、そのときにこそ、あらためてこの一年のあなたの導きと支えをひとつひとつ思い起こしながら、今の時を過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
今週も聖書を読みましょう 10月27日(土)~11月2日(日)
10月27日(月)
・旧約 詩編 87編 Psalm 87;
・旧約 ヨエル書 3章1~8節 Joel 3:1-8;
・新約 ペトロの手紙一 4章12~19節 1 Peter 4:12-19;
10月28日(火)
・旧約 詩編 87編 Psalm 87;
・旧約 ヨエル書 3章9~16節 Joel 3:9-16;
・新約 ペトロの手紙一 5章1~11節 1 Peter 5:1-11;
10月29日(水)
・旧約 詩編 87編 Psalm 87;
・旧約 ヨエル書 3章17~20節 Joel 3:17-20;
・新約 マタイによる福音書 21章28~32節 Matthew 21:28-32;
10月30日(木)
・旧約 詩編 119編137~144節 Psalm 119:137-144;
・旧約 エレミヤ書 33章14~26節 Jeremiah 33:14-26;
・コリントの信徒への手紙二 1章1~11節 2 Corinthians 1:1-11;
10月31日(金)
・旧約 詩編 119編137~144節 Psalm 119:137-144;
・旧約 ハバクク書 1章5~17節 Habakkuk 1:5-17;
・新約 ペトロの手紙二 1章1~11節 2 Peter 1:1-11;
11月1日(土) 諸聖徒の祝日
・旧約 詩編 119編137~144節 Psalm 119:137-144;
・旧約 ハバクク書 2章5~11節 Habakkuk 2:5-11;
・新約 ヨハネによる福音書 8章39~47節 John 8:39-47;
11月2日(日) 三位一体節第二十一主日
・旧約 ハバクク書 1章1~4節、2章1~4節 および 詩編119編137~144節 Habakkuk 1:1-4; 2:1-4 and Psalm 119:137-144
・旧約 イザヤ書 1章10~18節 および 詩編 32編1~7節 Isaiah 1:10-18 and Psalm 32:1-7
・新約 テサロニケの信徒への手紙 1章1~4、11~12節
・新約 ルカによる福音書 19章1~10節
聖書 ルカによる福音書 19章1~10節
1イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 8しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
11月2日(三位一体節第二十二主日)
メッセージ「財産の半分」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 19章1~10節
●今年の聖書日課はルカによる福音書が選ばれていますから、何となくおなじみのお話が多いような気がします。そう、今日はザアカイさんの物語ですね。徴税人というのは、当時実質的にユダヤの国を治めていたローマ帝国のために税金を集める仕事ですが、それはある意味下請けで、ローマ帝国が彼に求めている金額よりもはるかに多くのお金を民衆から集めるという、いわばおいしい仕事をし、それで金持ちだったということですね。ただでさえ外国の支配者の手先となっている以上に、そんなやり方で人々からお金を集めるということで、かれが社会からどう見られていたかは、推して知るべきというところでしょう。そう「罪人」呼ばわりされていたのですね。ただしザアカイという名前の意味は「義人」、つまり正しい人ということなのですが。
●そしてイエスが突然、ザアカイの家に泊まると言い出したので、人々はある意味ショックを受けたことでしょうし、しかし一番驚いたのはザアカイ自身だったことでしょう。なぜ自分のところに。そこで彼は今までの(悪)行を悔い改め、自分の全財産の半分を貧しい人に施し、不正の徴税額を四倍にして返還するということなのです。そのことをイエスは評価して、ザアカイは救われた、と宣言します。めでたし、めでたし。だったのでしょうか。関西人としての突っ込みをいれるならば、なぜ全財産を彼は差し出さなかったのでしょうか。事実イエスは、自分の弟子になろうとするならすべてを捨てることを求めてもいます(ルカによる福音書14章33節)。
●そこで一つ考えられるのは、イエスはザアカイの財産の半分を彼に委ねたともいえるのです。つまりイエスとの出会いが本物であったのかどうか、それをザアカイはそれからの彼の人生のなかで証明をしてくことを求められて、その示し方としてその半分の財産の用い方を彼に委ねたように思えるのです。それは私たち自身も同じことで、私たちが自分の持っているものはすべて自分の物だと思って過ごすのか、神様から、神様の働きのために用いるために委ねられたものとして受け取るか、その生き方は大きく違ってくるのです。
●祈ります、神様、私たちがあなたから与えられているすべてのものを感謝します。それをどのように用いるべきか、イエス様の教えに従う知恵と勇気とをお与えください。主の御名によって祈ります、アーメン。
今週も聖書を読みましょう 10月20日(土)~26日(日)
10月20日(月)
・旧約 詩編 129編 Psalm 129;
・旧約 エレミヤ書 38章14~28節 Jeremiah 38:14-28;
・新約 コリントの信徒への手紙一 6章1~11節 1 Corinthians 6:1-11;
10月21日(火)
・旧約 詩編 129編 Psalm 129;
・旧約 エレミヤ書 39章1~18節 Jeremiah 39:1-18;
・新約 ヤコブの手紙 5章7~12節 James 5:7-12;
10月22日(水)
・旧約 詩編 129編 Psalm 129;
・旧約 エレミヤ書 50章1~7、17~20節Jeremiah 50:1-7, 17-20;
・新約 ルカによる福音書 22章39~46節 Luke 22:39-46;
10月23日(木)
・旧約 詩編 65編 Psalm 65;
・旧約 ヨエル書 1章1~20節 Joel 1:1-20;
・新約 テモテへの手紙二 3章1~9節 2 Timothy 3:1-9;
10月24日(金)
・旧約 詩編 65編 Psalm 65;
・旧約 ヨエル書 2章1~11節 Joel 2:1-11;
・新約 テモテへの手紙二 3章10~15節 Timothy 3:10-15;
10月25日(土)
・旧約 詩編 65編 Psalm 65;
・旧約 ヨエル書 2章12~22節 Joel 2:12-22;
・新約 ルカによる福音書 1章46~55節 Luke 1:46-55;
10月26日(日) 三位一体節第二十主日
・旧約 ヨエル書 2章23~32節 および 詩編 65編 Joel 2:23-32 and Psalm 65
・旧約 エレミヤ書 14章7~10、19~22節 および 詩編 84編1~節 Jeremiah 14:7-10, 19-22 and Psalm 84:1-7
・新約 テモテへの手紙二 4章6~8、16~18節 2 Timothy 4:6-8, 16-18
・新約 ルカによる福音書 18章1~14節 Luke 18:9-14
10月26日(日) 三位一体節第二十主日
メッセージ 「神様の前でのうぬぼれ」 田淵 結 牧師
●今日の聖書のお話は、私たちの社会ではあまり問題にならないかもしれません。イエス様の時代、ユダヤ教が当たり前の社会では自分の信仰を見せびらかす人たちがたくさんおり、そのことによって人々から尊敬されることを期待する、つまり自己満足を満たしていたのでしょう。でも、今の日本の社会で、いや最近のネットなどを見ていると欧米でもChurch Goer(教会に行って礼拝する人)が激減しており、もはやその社会はキリスト教信仰を失いつつある、とさえ言わるなかで、自分の信仰を人の前で堂々と自慢するひとなど、皆無かもしれません。その意味で、時々駅前にたって「聖書の勉強をしませんか」と声をかけておられる人たちには、ある種の尊敬と、ある意味違和感を感じるときもあります。
●でもイエス様当時のユダヤ教の社会と、現在の日本の社会、今日の聖書の箇所でイエス様が語っているのは同じメッセージです。つまり神様への信仰は、その一人一人がその社会の状況の中でどれだけ自分と神様のつながりをしっかりととらえ、感じ、感謝しているかにかかっているのです。それは他者にひけらかすことでもないし、人前では隠しておいてもかまわない。でもあなた自身が、ひとりで神様の前に立つということを、そのなかで自分の今のあり方をどうとらえているかがポイントなのです。
●旧約聖書のなかにイザヤという預言者が活躍しますが、彼の預言者としてのスタートは自分自身の絶対的な弱さ、汚れ、小ささの認識でした。なぜなら彼自身がエルサレム神殿の中で神様に出会ったからです。聖書の聖という言葉はヘブル語でカドーシュと言いますが、もともとの意味は「絶対に超えられない隔たり=差」です。私たちは神様に近づくことはできますが、そのとき神様の前に立つ自分は今日のファリサイ人のように自分を誇ることなどできないのです。でもそれが平気できるというのは、実は彼自身が神様と出会ったことがないということを証明しているようなものなのです。
●祈りましょう、神様、私たちの弱さをあなたがゆるし、イエス様の愛のなかで私たちを生かし、勇気づけ、用いてくださることを感謝します。あなたのまえにイエス様とともに歩む毎日の豊かさをお与えください。主の御名によって祈ります、アーメン。
聖書 ルカによる福音書18章9~14
9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
今週も聖書を読みましょう 11月3日(日)~11月9日(日)
11月3日(月)
・旧約 詩編 142編 Psalm 142;
・旧約 ハバクク書 2章12~20節 Habakkuk 2:12-20;
・新約 コリントの信徒への手紙一 5章9~13節 1 Corinthians 5:9-13;
11月4日(火)
・旧約 詩編 142編 Psalm 142;
・旧約 ハバクク書 3章1~16節 Habakkuk 3:1-16 ;
・ユダの手紙 5~21節Jude 1:5-21;
11月5日(水)
・旧約 詩編 142編 Psalm 142;
・旧約 ハバクク書 3章17~19節 Habakkuk 3:17-19;
・新約 ルカによる福音書19章11~27節 Luke 19:11-27;
11月6日(木)
・旧約 詩編 145編1~5,17~21節 Psalm 145:1-5, 17-21;
・旧約 ゼカリヤ書 1章1~17節 Zechariah 1:1-17;
・新約 使徒言行録 22章22節~23章11節 Acts 22:22-23:11;
11月7日(金)
・旧約 詩編 145編1~5,17~21節 Psalm 145:1-5, 17-21;
・旧約 ゼカリヤ書 6章9~15節 Zechariah 6:9-15;
・新約 使徒言行録 24章10~23節 Acts 24:10-23;
11月8日(土)
・旧約 詩編 145編1~5,17~21節 Psalm 145:1-5, 17-21;
・旧約 ハガイ書 1章1~15節a Haggai 1:1-15a;
・新約 ルカによる福音書 20章1~8節 Luke 20:1-8;
11月9日(日) 三位一体第二十二主日
・旧約 ハガイ書 1章15節a~2章9節 および 詩編 145編1~5,17~21節 またはH 詩編 98編 Haggai 1:15b-2:9 and Psalm 145:1-5, 17-21 or Psalm 98
・旧約 ヨブ記 19章23~27節a および 詩編 17編 1~9節 Job 19:23-27a and Psalm 17:1-9
・新約 テサロニケの信徒への手紙二 2章1~5,13~17節 2 Thessalonians 2:1-5, 13-17
・新約 ルカによる福音書 20章27~38節 Luke 20:27-38