宗教法人 単立 芦屋キリスト教会 終末主日礼拝
2025年11月23日(日)午前10時30分
前奏(黙祷)
招きのことば
讃 美 歌 76番「ほめまつれみかみをば」
1. ほめまつれ みかみをば Homematsure, mikami woba
そのわざに ひめたもう Sono waza ni, hime tamou
またきちから またきちえ Mataki chikara, mataki chie
たたえまつれ もろびとよ Tatae matsure, hitono ko yo
2. ちはそらを わたりつつ Chi wa sora wo, wataritutu
くにぐにを のせめぐり Kuni guni wo, nose meguri
つとめのひを あおがしむ Tsutome no hi wo, aoga shimu
いこいのよを むかえしむ Ikoi no yo wo, mukae shimu
3. ものみなは とどまらず Mono mina wa, todomarazu
はてしなき うつろいや Hateshi naki, utsuroi ya
みことのりに したがいて Mikotonori ni, shitagai te
やまはうつり うみもきゆ Yama wa utsuri, umi mo kiyu
4. おおいなり あまつかみ Ooinari, amatsu kami
みなにのみ ほまれあれ Minani nomi, homare are
くすしきかな みてのわざ Kusushiki kana, mite no waza
こえのかぎり ほめうたわん Koe no kagiri, home utawann
詩 編 交 読 詩編 46編
主 の 祈 り
天にまします我らの父よ 願わくはみ名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与えたまえ 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ 我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ 国と力と栄(さかえ)とは 限りなく なんじのものなればなり アーメン
聖 書 ルカによる福音書 23章33~43節
祈 祷
讃 美 歌 262番「十字架のもとぞ」
1. じゅうじかのもとぞ いとやすけし Juujika no moto zo, ito yasukeshi
かみのぎとあいの あえるところ Kami no gito ai no, aeru tokoro
あらしふくときの いわをのかげ Arashi fuku toki no, iwao no kage
あれのなかなる わがかくれが Areno no nakanaru, waga kakurega
2. じゅうじかのうえに われはあおぐ Juujika no ue ni, ware wa aogu
わがためなやめる かみのみこを Waga tame nayameru, kami no miko wo
たえにもとうとき かみのあいよ Tae nimo toutoki, kami no ai yo
そこいもしられぬ ひとのつみよ Sokoi mo sirarenu, hito no tsumi yo
3. じゅうじかのかげに われはたちて Jujika no kage ni, ware wa tachi te
みかおのひかりを たえずもとめん Mikao no hikari wo, taezu motomenn
このよのものみな きゆるときも Kono yono mono mina, kiyuru toki mo
くすしくかがやく そのひかりを Kusushiku kagayaku, sono hikari wo
使 徒 信 条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず 我はその独り子 我らの主 イエス・キリストを信ず 主は聖霊によりてやどり 処女(おとめ)マリヤより生れ ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け 十字架につけられ 死にて葬られ 陰府(よみ)にくだり 三日目に死人のうちよりよみがえり 天に昇り 全能の父なる神の右に坐したまえり かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん 我は聖霊を信ず 聖なる公同の教会 聖徒の交わり 罪の赦し 身体(からだ)のよみがえり 永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず アーメン
説 教 「イエスよ、私を思い出してください」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 503番「はるのあした」
1. はるのあした なつのまひる Haru no ashita, natsu no mahiru
あきのゆうべ ふゆのよも Aki no yuube, fuyu no yo mo
いそしみまく みちのたねの Isoshimi maku, michi no tane no
たりほとなる とききたらん Tarihi to naru, toki kitarann
くりかえし (Refrain)
かりいるる ひはちかし Kari iruru, hiwa chikashi
よろこびまて そのたりほ Yorokobi mate, sono tariho
かりいるる ひはちかし Kari iruru, hiwa chikashi
よろこびまて そのたりほ Yorokobi mate, sono tariho
2. みそらかすむ のどけきひも Misora kasumu, nodokeki hi mo
こがらしふく さむきよも Kogarashi fuku, samuki yo mo
いそしみまく みちのたねの Isoshimi maku, michi no tane no
たりほとなる とききたらん Tarihi to naru, toki kitarann
くりかえし (Refrain)
3. うさつらさも みにいとわで Usa tsurasa mo, mini itowa de
みちのために たねをまけ Michi no tameni, tane wo make
ついにみのる そのたりほを Tsuini minoru, sono tariho wo
かみはめでて みそなわさん Kami wa mede te, misonawa sann
くりかえし (Refrain)
献金感謝祈祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 讃美歌21 88番 「こころにあいを」
こころにあいを、ゆたかにみたし、ひごとのわざに、つかわしたまえ アーメン
Kokoro ni ai w, yutakani mitashi, higotono wazani, tsukawashi tamae, Amen
祝 祷
後 奏
報 告
・11月23日(11月第四日曜)は午前10時30分より芦屋キリスト教会礼拝(メッセージ 田淵 結牧師)です。30日(第五日曜日)は芦屋キリスト教会永眠者記念礼拝を行い、礼拝後芦屋霊園教会墓地で故渡辺令子姉の納骨式を行います。
11月24日(月)
・旧約 詩編 117編 Psalm 117;
・旧約 エレミヤ書 30章1~17節 Jeremiah 30:1-17;
・新約 ヨハネの黙示録 21章5~27節 Revelation 21:5-27;
11月25日(火)
・旧約 詩編 117編 Psalm 117;
・旧約 エレミヤ書 30章18~24節 Jeremiah 30:18-24;
・新約 ヨハネの黙示録 22章8~21節 Revelation 22:8-21;
11月26日(水)
・旧約 詩編 117編 Psalm 117;
・旧約 エレミヤ書 31章1~6節 Psalm 117; Jeremiah 31:1-6;
・新約 ルカによる福音書 1章1~4節 Luke 1:1-4;
11月27日(木)
・旧約 詩編 122編 Psalm 122;
・旧約 ダニエル書 9章15~19節 Daniel 9:15-19;
・新約 ヤコブの手紙 4章1~10節 James 4:1-10;
11月28日(金)
・旧約 詩編 122編 Psalm 122;
・旧約 創世記 6章1~10節 Genesis 6:1-10;
・ヘブライ人への手紙 11章1~7節 Hebrews 11:1-7;
11月29日(土)
・旧約 詩編 122編 Psalm 122;
・旧約 創世記 6章11~22節
・新約 ヨハネによる福音書 24章1~22節 Matthew 24:1-22;
11月30日(日) 待降節第一主日
・旧約 イザヤ書 2章1~5節 Isaiah 2:1-5
・旧約 詩編 122編 Psalm 122
・新約 ローマの信徒への手紙 13章11~14節 Romans 13:11-14
・新約 マタイによる福音書 24章36~44節 Matthew 24:36-44
11月30日(日) 待降節第一主日
メッセージ 「目をさましていなさい」
●いよいよ今日の日曜日から待降節、クリスマスの準備のための4週間がはじまります。私たちの教会では12月21日にクリスマスの礼拝をよていしますので、どうぞご予定ください。クリスマスの準備というと、ツリーを飾ったり、サンタクロースのことを考えたり、パーティを計画したり、ということになりがちですが、教会本来の待降節はそんなワクワク感のあふれるものではなく、もっとシリアスな、というか私たちの姿勢が鋭くとわれるというようなものから始まります。それはイエス・キリストが私たちのもとに来られることの二重の意味を考えるからです。
●一つは当然に幼子イエスの誕生としてのクリスマスですが、もうひとつは再臨という考え方です。つまりイエスは十字架の死を迎えて復活され、さらに天に昇られたのですが、その後やがてもう一度天から私たちのもとに来られて、世界を審かれ、そこで救われる人と滅びる人たちがより分けられる、そのような形で、いわば最後の審判の主として私たちのもとに来られるということなのです。待降節にはそのようなイエスの再臨についても考えるのですが、その再臨がいつ起こるかということについては、実はまったく私たちの予想がつかない、「いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである」(42節)のです。
●つまり待降節のときに、改めて私たち自身の神様への姿勢、イエス様のお迎えのしかた、それがいつであっても心得られているようにしっかりと考え直すことが求められるのです。二人のうちの一人が取り去られる、その違いは神様への姿勢、イエス様への向き合い方によるのでしょう。その姿勢が整えられている人たちにとって、待降節はやはり喜びのときであり、待ち遠しいときとなります。私たちがクリスマスを待ち望むというとき、それを楽しみにするということは、そのような私たちにとttえけとても大切で基本的、根本的な姿勢が整えられてこそ、より深く、心に残り、自分の人生にとってとても大きな意味のある喜びのときとなるのです。
●祈りましょう、神様、今年も待降節を迎えます。そのときに私たちのよろこびが、本当に意味あるものとなり、私たちにとって深いよろこびと慰めをもたらすときとしての備えをなすことができますように。この待降節からはじまる私たちの新しい一年をどうぞ守り、導いてくださいますように、主の御名によって祈ります、アーメン。
聖書 マタイによる福音書 24章35~44節
36その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。 37人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 38すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 39そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 40そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 41ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。 43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十三主日 終末主日礼拝
2025年11月16日(日)午前10時30分
前奏(黙祷)
招きのことば
讃 美 歌 185番「きよきみたまよ」
1. きよきみたまよ おぐらきこころ Kiyoki mitama yo, oguraki kokoro
てらしたまえや みひかりをもて Terashi tamaeya, mihihari wo mote
2. きよきみたまよ うちなるつみも Kiyoki mitama yo, uchinaru tsumi mo
きよめたまえや みちからをもて Kiyome tamae ya, michikara wo mote
3. きよきみたまよ このうきみにも Kiyoki mitama yo, kono ukimi nimo
みたしたまえや あまつよろこび Mitashi tamae ya, amatsu yorokobi
4. みたまよたえず こころにすみて Mitama yo taezu, kokoro ni sumite
おさめたまえや のこるくまなく Osame tamae ya, nokoru kuma naku
詩 編 交 読 詩編 98編
主 の 祈 り
天にまします我らの父よ 願わくはみ名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与えたまえ 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ 我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ 国と力と栄(さかえ)とは 限りなく なんじのものなればなり アーメン
聖 書 ルカによる福音書 21章5~19節
祈 祷
讃 美 歌 166番「イエスきみは」
1. イエスきみは いとうるわし Iesu kimi wa, ito uruwashi
あめつちの しゅなる Ame tsuchi no shu naru
かみのみこ ひとのこを Kami no miko, hito no ko wo
なににかは たとえん Nani nikawa tato-en
2. はるのあさ つゆににおう Haru no asa, tsuyi ni niou
はなより うつくし Hana yori utsukushi
あきのよる そらにすむ Aki no yoru, sora ni sumu
つきより さやけし Tsuki yori sayakeshi
3. なつのゆう あおばわたる Natsu noi yuu, aoba wataru
かぜより かぐわし Kaze yori kaguwashi
ふゆのひに ふりつもる Fuyu no hi ni, furi tsumoru
ゆきより きよけし Yuki yori kiyokeshi
4. イエスきみは いとうるわし Iesu kimi wa, ito uruwashi
あめつちの しゅこそ Ame tsuchi no shu koso
わがさかえ わがかむり Waga sakae, waga kamuri
わがよろこび なれ Waga yorokobi nare
使 徒 信 条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず 我はその独り子 我らの主 イエス・キリストを信ず 主は聖霊によりてやどり 処女(おとめ)マリヤより生れ ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け 十字架につけられ 死にて葬られ 陰府(よみ)にくだり 三日目に死人のうちよりよみがえり 天に昇り 全能の父なる神の右に坐したまえり かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん 我は聖霊を信ず 聖なる公同の教会 聖徒の交わり 罪の赦し 身体(からだ)のよみがえり 永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず アーメン
説 教 「神学論争と信仰」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 501番「いのちのみことば」
1. いのちのみことば たえにくすし Inochi no mikotoba, taeni kusushi
みえざるみかみの むねをしめす Miezaru mikami no, mune wo shimesu
つかえまつる みちをおしう Tsukae matsuru, michi wo osiu
くりかえし (Refrain)
いのちのみことば たえなるかな Inochi no mikotoba, taenaru kana
いのちのみことば くすしきかな Inochi no mikotoba, kususshiki kana
2. しゅイエスのみことば いとしたわし Shu Iesu no mikotoba, ito shitawashi
あまねくひびきて よのちまたに Amaneku hibikite, yono chimata ni
なやむこらを あめにまねく Nayamu kora wo, ame ni maneku
くりかえし (Refrain)
3. うれしきおとずれ たえずきこえ Ureshiki otozure, taezu kikoe
ゆるしとやわらぎ たまうかみの Yurushi to yawaragi, tamou Kami no
ふかきめぐみ よにあらわる Fuakai megumi, yoni arawaru
くりかえし (Refrain)
献金感謝祈祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 讃美歌21 88番 「こころにあいを」
こころにあいを、ゆたかにみたし、ひごとのわざに、つかわしたまえ アーメン
Kokoro ni ai w, yutakani mitashi, higotono wazani, tsukawashi tamae, Amen
祝 祷
後 奏
報 告
・11月23日(11月第四日曜)は午前10時30分より芦屋キリスト教会礼拝(メッセージ 田淵 結牧師)です。30日(第五日曜日)は芦屋キリスト教会永眠者記念礼拝を行い、礼拝後芦屋霊園教会墓地で故渡辺令子姉の納骨式を行います。
聖書 ルカによる福音書 21章5~19節
5ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、 6「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。 7そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。 8イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたし名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。 9戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。
10それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。 11また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。 12しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。 13それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。 14だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。 15あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。 16しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。 17また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。 18しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。 19あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。
●聖書時代のユダヤ人たちの宗教生活にとってエルサレム神殿は重要な意味をもっていました。イエス様も十二歳のときに両親につれられて礼拝に来ています(ルカ2:47)が、イエス様にとってもユダヤ人たちにとっても、少し複雑な思いを持たされたかもしれません。イスラエルの神殿は最初ソロモン王によって建てられたものがバビロニア人に破壊され、その後捕囚から帰ってきたエズラたちによって再建されたものが、イエスの時代ごろにヘロデ王によってさらに豪華に改装?されたものでした。しかしこのヘロデが神殿を拡充したのは信仰的な理由ではなく、ユダヤ人たちへの懐柔政策のひとつだったからです。だからどんなにそれが豪華に見えても、その豪華さはイエス様にとってはあまり意味のないものにしか見えなかったのでしょう。そして今日のイエスの言葉どおり、この神殿はその四十年後、紀元70年に今度はローマ人たちによって徹底的に破壊されてしまうのです。
●果たしてイエスはそんな神殿の未来を予言できたのでしょうか。できたはずです、と言ってもイエスが語ったのは、予言というよりも歴史の必然だったのでしょう。つまりどんなに反映した国でもやがては滅びるということだからです。イスラエル人も、昔アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャという大きな国の盛衰の波にもまれてきました。そしてそれらの国家はみな滅びていったのです。そしてその中でユダヤ人たちは生き抜いてきたのですが、その最大の理由は神様への信仰によるものだ、とイエスは語ります。
●だから、いくら社会が政治的に安定していたり不安定であっても、未来への展望が失われようとしても、神様を信じることを失ってしまえば、まさにすべてのものを私たちは失うってしまうのです。その信仰は神殿のような建物ではなく、豪華な装飾でもなく、私たちが神様とのつながりを確信することなくして意味を持たないのです。そのとき私たちがなすべきこと、それはまさに祈りなのでしょう。メディアの流す情報などでも、人々のうわさなどでもなく、神様との対話なのです。
●祈りましょう、神様、いよいよ今年の教会の一年の終わりを近く感じるころとなりますが、そのときにこそ、あらためてこの一年のあなたの導きと支えをひとつひとつ思い起こしながら、今の時を過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
185番「きよきみたまよ」
今週も聖書を読みましょう 11月16日(日)~23日(日)
11月17日(月)
・旧約 詩編 76編 Psalm 76;
・旧約 イザヤ書 60章17~22節 Isaiah 60:17-22;
・新約 エフェソスの信徒への手紙 4章25節~5章2節 Ephesians 4:25-5:2;
11月18日(火)
・旧約 詩編 76編 Psalm 76;
・旧約 イザヤ書 66章1~13節 Isaiah 66:1-13;
・新約 コリントの信徒への手紙一 10章23節~11章1節 1 Corinthians 10:23-11:1;
11月19日(水)
・旧約 詩編 76編 Psalm 76;
・旧約 イザヤ書 66章14~24節 Isaiah 66:14-24;
・新約 マタイによる福音書 23章37節~24章14節 Matthew 23:37-24:14;
11月20日(木)
・新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Luke 1:68-79;
・旧約 エレミヤ書 21章1~14節 Jeremiah 21:1-14;
・新約 ヘブライ人への手紙 9章23~28節 Hebrews 9:23-28;
11月21日(金)
・新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Luke 1:68-79;
・旧約 エレミヤ書 22章1~17節 Jeremiah 22:1-17;
・新約 ペトロの手紙一 1章3~9節 1 Peter 1:3-9;
11月22日(土)
・新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Luke 1:68-79;
・旧約 エレミヤ書 22章18~30節 Jeremiah 22:18-30;
・新約 ルカによる福音書 18章15~17節 Luke 18:15-17;
11月23日(日)
・旧約 エレミヤ書 23章1~6節 および 新約 ルカによる福音書 1章68~79節 Jeremiah 23:1-6 and Luke 1:68-79
・旧約 エレミヤ書 23章1~6節 および 詩編 46編 Jeremiah 23:1-6 and Psalm 46
・新約 コロサイの信徒への手紙 1章11~20節 Colossians 1:11-20
・新約 ルカによる福音書 23章33~43節 Luke 23:33-43
ルカによる福音書 23章33~43節
32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
●今日は教会のカレンダー(教会歴)でいう一年の最後の日曜日となります。毎年繰り返してお話していることですが、教会の一年はアドベント(クリスマスを準備するための4週間)から始まります。ただし私たちの教会では来週は教会の永眠者記念礼拝として、私たちの教会における信仰の先達たちを記念する礼拝をし、そのご芦屋霊園で納骨式を予定しています。そのためか、今日の聖書日課として得ればれた福音書の記事は、イエスの十字架の死の瞬間の場面です。なんだか季節外れのような気がしないでもありませんね。
●この物語に登場する大半の人は、イエスについて批判、非難の言葉を投げかけます。神のメシアとかユダヤ人の王とか言われていたイエスが、十字架につけられてもっとも屈辱的な死を迎えようとしており、まさに失敗者でしかないイエスへの罵倒の言葉、ある意味失望の言葉が投げかけられるのです。そのなかでただ一人「しかし、この方は何も悪いことをしていない」と語ったのがイエスとともに十字架につけられた一人でした。なぜこの人はそう言えたということ以上に、この人はその場での雰囲気や状況に圧倒されることなく、自分自身の確信を、文字通りその人の死の時まで貫いたということに注目されます。
●イエスはある時、弟子たちに「それはあなたがたはわたしを何者だというのか」(マルコ8:29)と尋ねられます。ほかの人はイエスのことをいろいろ言うだろうし、日本語での「みんな」が言っているなかで、あなたは、私たちはイエスとはあなたにとってどんな存在か、ということを自分の言葉として語る(告白)ことが求められる、それがキリスト教信仰にとってとても重要なものなのです。イエスを非難しつづけた人たち、またもうひとりの十字架にかけられた犯罪者は、その人生を他者をののしることで締めくくったのですが、もう一人の犯罪者は天国への希望を持ちつつ死を迎えます。私たちが自分の歩みを終えるとき、この一年を終えるとき、祝福を約束されて終わることができる一人であることを感謝したいと思います。
●祈りましょう、神様、あなたは私たちを、この芦屋キリスト教会をこの一年もあなたの愛のなかで導いてくださいました。あなたの祝福のうちにこの時を迎えられることを心から感謝し、新しい一年への希望を与えられています。どうぞわたしたちにとっても大きな意味のある2026年を、あなたのお恵みをさらに与えられるものであることを信じるなかで迎えることができますように。私たちの主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします、アーメン。
76番「ほめまつれみかみをば」 262番「十字架のもとぞ」、503番「はるのあした」 21-88番「心に愛を」
宗教法人 単立 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十二日礼拝
2025年11月9日(日)午前10時30分
前奏(黙祷) 多田 謙一 兄
招きのことば
讃 美 歌 449番「あめつちの主なる」
1. あめつちのしゅなる おおみかみ Ame tsuchi no shunaru oomikami
ひとをばくすしく つくりたもう Hito woba kusushiku tsukuri tamou
2. はじめのごとくに うつくしく Hajime no gotoku ni utsukushiku
わがみとたまとを なしたまえ Wgami to tama towo nashi tamae
3. ゆるがぬいわより なおかたく Yuruganu iwa yori nao kataku
ゆきよりしらけく なしたまえ Yukiyori shirakeku nashi tamae
4. みやまのすぎより いやなおく Miyamano sugi yori iya naoku
そらよりほがらに なしたまえ Sora yori hogara ni nashi tamae
5 みくにをのぞみて あいのわざ Mikuni wo nozomi te ai no waza
なさしめたまえや わがみにも Nasashime tamae ya waga mi nimo
詩 編 交 読 詩編 145編
主 の 祈 り
天にまします我らの父よ 願わくはみ名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与えたまえ 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ 我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ 国と力と栄(さかえ)とは 限りなく なんじのものなればなり アーメン
聖 書 ルカによる福音書 20章27~38節
祈 祷
讃 美 歌 286番「かみはわがちから」
1. かみはわがちから わがたかきやぐら Kamiwa waga chikara waga takaki yagura
くるしめるときの ちかきたすけなり Kurushimeru toki no chikaki tasuke nari
2. たといちはかわり やまはうなばらの Tatoi chi wa kawari yama wa unabara no
なかにうつるとも われいかでおそれん Nakani utsuru tomo ware ikade osoren
3. かみのみやこには しずかにながるる Kami no miyako niwa shizuka ni nagaruru
きよきかわありて みたみをうるおす Kiyoki kawa arite mitami wo uruosu
4. みことばのみずは つかれをいやして Mikotoba no mizu wa tsukare wo iyashite
あらたなるいのち あたえてつきせじ Arata naru inochi ataete tsuki seji
5. かみのみもとべは つねにやすらけく Kamino mimitobe wa tsuneni yasurakeku
くるしみなやみも きえてあとぞなき Kurushimi nayamimo kiete atozo naki
使 徒 信 条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず 我はその独り子 我らの主 イエス・キリストを信ず 主は聖霊によりてやどり 処女(おとめ)マリヤより生れ ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け 十字架につけられ 死にて葬られ 陰府(よみ)にくだり 三日目に死人のうちよりよみがえり 天に昇り 全能の父なる神の右に坐したまえり かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん 我は聖霊を信ず 聖なる公同の教会 聖徒の交わり 罪の赦し 身体(からだ)のよみがえり 永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず アーメン
説 教 「神学論争と信仰」 田淵 結 牧師
祈 祷
讃 美 歌 494番「わがゆくみちいついかに」
1. わがゆくみち いついかに Waga yuku michi itsu ikani
なるべきかは つゆしなねど Narubeki kawa tsuyu shiranedo
しゅはみこころ なしたまわん Shu wa mikokoro nashi tamawann
くりかえし(Refrain) そなえたもう しゅのみちを Sonae tamou shu no michi wo
ふみてゆかん ひとすじに Fumite yukann hitosuji ni
2. こころたけく たゆまざれ Kokoro takeku tayuma zare
ひとはかわり よはうつれど Hito wa kawari yo wa utsu redo
しゅはみこころ なしたまわん Shu wa mikokoro nashi tamawann
くりかえし(Refrain)
3. あらうみをも うちひらき Araumi womo uchi hiraki
すなはらにも まなをふらせ Sunahara nimo mana wo furase
しゅはみこころ なしたまわん Shu wa mikokoro nashi tamawann
くりかえし(Refrain)
献金感謝祈祷 田淵 創 兄
讃 美 歌 讃美歌21 88番 「こころにあいを」
こころにあいを、ゆたかにみたし、ひごとのわざに、つかわしたまえ アーメン
Kokoro ni ai w, yutakani mitashi, higotono wazani, tsukawashi tamae, Amen
祝 祷
後 奏
報 告
・11月16日、23日(11月第三、四日曜)は午前10時30分より芦屋キリスト教会礼拝(メッセージ 田淵 結牧師)です。30日(第五日曜日)は芦屋キリスト教会永眠者記念礼拝を行い、礼拝後芦屋霊園教会墓地で故渡辺令子姉の納骨式を行います。
メッセージ「神学論争と信仰」 田淵 結 牧師
聖 書 ルカによる福音書 20章27~38節
●少し前に日本の国会でも「神学論争」という言葉が交わされたことがありました。その意味は議論のための議論をするとか、議論の内容にほとんど現実味というか結論の出ない無意味な議論ということでしょうか。今日のルカによる福音書に登場するサドカイ派の人たちの議論もそれに近いものだと思えます。跡継ぎを得るために七人の兄弟が同じ女性と結婚するというような問題についてのユダヤ教の考え方を当てはめて、そこに復活ということを重ねたらどうなるのか、それに対してイエスの答えは、その答えは神様に任せろ、というように思えます。
●イエスの時代のユダヤ教のなかに、考え方の違いからいくつかの派があり、よく知られているのはファリサイ派でとにかく旧約の掟(律法)を重視する保守的な人たち、それに対してサドカイ派はある意味合理的で、現実的な解釈をする立場のように言われていますし、だから復活などは受け入れないというものでした。そしてこの記事でこの人たちが復活ということを持ち出すのは、復活なんかを考えるとモーセの律法と矛盾するのでは、というところなのですが、まさに神学論争ですね。
●イエスは私たち人間の復活を否定などしませんが、それ以上に今私たちが神様に生かされているということの大切さ、重要性を受け止めていなければ、復活などの議論をしても意味がない、という立場を示します。つまりサドカイ派以上にイエスは現実的で合理的なのです。死んだあとのことを心配する前に、なぜ今生きていることの意味を、そこにある神様からのかかわりを考えないのか、ということですし、それをしないで死んでからのことを考えても、全く無意味だ、ということですね。本当に復活ということが考えられるということは、今私たちがイエス様によって神様に愛されていることを実感できているからなのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたと共にあるということをしっかりと受け止めることができるゆえに、私たちは私たちの未来もあなたに委ねます。イエス様の愛のうちに今日も私たちを豊かにお守りくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
聖 書 ルカによる福音書 20章27~38節
27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、 31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 32最後にその女も死にました。 33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
●少し前に日本の国会でも「神学論争」という言葉が交わされたことがありました。その意味は議論のための議論をするとか、議論の内容にほとんど現実味というか結論の出ない無意味な議論ということでしょうか。今日のルカによる福音書に登場するサドカイ派の人たちの議論もそれに近いものだと思えます。跡継ぎを得るために七人の兄弟が同じ女性と結婚するというような問題についてのユダヤ教の考え方を当てはめて、そこに復活ということを重ねたらどうなるのか、それに対してイエスの答えは、その答えは神様に任せろ、というように思えます。
●イエスの時代のユダヤ教のなかに、考え方の違いからいくつかの派があり、よく知られているのはファリサイ派でとにかく旧約の掟(律法)を重視する保守的な人たち、それに対してサドカイ派はある意味合理的で、現実的な解釈をする立場のように言われていますし、だから復活などは受け入れないというものでした。そしてこの記事でこの人たちが復活ということを持ち出すのは、復活なんかを考えるとモーセの律法と矛盾するのでは、というところなのですが、まさに神学論争ですね。
●イエスは私たち人間の復活を否定などしませんが、それ以上に今私たちが神様に生かされているということの大切さ、重要性を受け止めていなければ、復活などの議論をしても意味がない、という立場を示します。つまりサドカイ派以上にイエスは現実的で合理的なのです。死んだあとのことを心配する前に、なぜ今生きていることの意味を、そこにある神様からのかかわりを考えないのか、ということですし、それをしないで死んでからのことを考えても、全く無意味だ、ということですね。本当に復活ということが考えられるということは、今私たちがイエス様によって神様に愛されていることを実感できているからなのです。
●祈りましょう、神様、私たちがあなたと共にあるということをしっかりと受け止めることができるゆえに、私たちは私たちの未来もあなたに委ねます。イエス様の愛のうちに今日も私たちを豊かにお守りくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
讃美歌 449番「あめつちの主なる」 286番「かみはわがちから」 494番「わがゆくみちいついかに」 讃美歌21 88番「こころにあいを」
今週も聖書を読みましょう 11月10日(日)~11月16日(日)
11月10日(月)
・旧約 詩編 98編 Psalm 98;
・旧約 ハガイ書 2章10~19節 Haggai 2:10-19;
・新約 ペトロの手紙二 1章16~21節 2 Peter 1:16-21;
11月11日(火)
・旧約 詩編 98編 Psalm 98;
・旧約 ハガイ書 2章20~23節 Haggai 2:20-23;
・新約 ヨハネの手紙二 1章1~13節 2 John 1:1-13;
11月12日(水)
・旧約 詩編 98編 Psalm 98;
・旧約 ゼカリヤ書 8章1~17節 Zechariah 8:1-17
・新約 ヨハネによる福音書 5章19~29節 John 5:19-29;
11月13日(木)
・旧約 イザヤ書 12章 Isaiah 12;
・旧約 イザヤ書57章14~21節 Isaiah 57:14-21;
・新約 ローマの信徒への手紙 1章18~25節 Romans 1:18-25;
11月14日(金)
・旧約 イザヤ書 12章 Isaiah 12;
・旧約 イザヤ書 59章1~15節a Isaiah 59:1-15a;
・新約 テサロニケの信徒への手紙 1章3~12節 Thessalonians 1:3-12;
11月15日(土)
・旧約 イザヤ書 12章 Isaiah 12;
・旧約 イザヤ書 59章15b~21節 Isaiah 59:15b-21;
・新約 ルカによる福音書 17章20~37節 Luke 17:20-37;
11月16日(日) 三位一体節 第二十二主日
・旧約 イザヤ書 65章17~25節 および イザヤ書 12章 Isaiah 65:17-25 and Isaiah 12
・旧約 マラキ書 4章1~2a節 および 詩編 98編 Malachi 4:1-2a and Psalm 98
・新約 テサロニケの信徒への手紙二 3章6~13節 2 Thessalonians 3:6-13
・新約 ルカによる福音書 21章5~19節 Luke 21:5-19
聖書 ルカによる福音書 21章5~19節
5ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、 6「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。 7そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。 8イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたし名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。 9戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。
10それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。 11また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。 12しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。 13それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。 14だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。 15あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。 16しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。 17また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。 18しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。 19あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。
●聖書時代のユダヤ人たちの宗教生活にとってエルサレム神殿は重要な意味をもっていました。イエス様も十二歳のときに両親につれられて礼拝に来ています(ルカ2:47)が、イエス様にとってもユダヤ人たちにとっても、少し複雑な思いを持たされたかもしれません。イスラエルの神殿は最初ソロモン王によって建てられたものがバビロニア人に破壊され、その後捕囚から帰ってきたエズラたちによって再建されたものが、イエスの時代ごろにヘロデ王によってさらに豪華に改装?されたものでした。しかしこのヘロデが神殿を拡充したのは信仰的な理由ではなく、ユダヤ人たちへの懐柔政策のひとつだったからです。だからどんなにそれが豪華に見えても、その豪華さはイエス様にとってはあまり意味のないものにしか見えなかったのでしょう。そして今日のイエスの言葉どおり、この神殿はその四十年後、紀元70年に今度はローマ人たちによって徹底的に破壊されてしまうのです。
●果たしてイエスはそんな神殿の未来を予言できたのでしょうか。できたはずです、と言ってもイエスが語ったのは、予言というよりも歴史の必然だったのでしょう。つまりどんなに反映した国でもやがては滅びるということだからです。イスラエル人も、昔アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャという大きな国の盛衰の波にもまれてきました。そしてそれらの国家はみな滅びていったのです。そしてその中でユダヤ人たちは生き抜いてきたのですが、その最大の理由は神様への信仰によるものだ、とイエスは語ります。
●だから、いくら社会が政治的に安定していたり不安定であっても、未来への展望が失われようとしても、神様を信じることを失ってしまえば、まさにすべてのものを私たちは失うってしまうのです。その信仰は神殿のような建物ではなく、豪華な装飾でもなく、私たちが神様とのつながりを確信することなくして意味を持たないのです。そのとき私たちがなすべきこと、それはまさに祈りなのでしょう。メディアの流す情報などでも、人々のうわさなどでもなく、神様との対話なのです。
●祈りましょう、神様、いよいよ今年の教会の一年の終わりを近く感じるころとなりますが、そのときにこそ、あらためてこの一年のあなたの導きと支えをひとつひとつ思い起こしながら、今の時を過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
今週も聖書を読みましょう 10月27日(土)~11月2日(日)
10月27日(月)
・旧約 詩編 87編 Psalm 87;
・旧約 ヨエル書 3章1~8節 Joel 3:1-8;
・新約 ペトロの手紙一 4章12~19節 1 Peter 4:12-19;
10月28日(火)
・旧約 詩編 87編 Psalm 87;
・旧約 ヨエル書 3章9~16節 Joel 3:9-16;
・新約 ペトロの手紙一 5章1~11節 1 Peter 5:1-11;
10月29日(水)
・旧約 詩編 87編 Psalm 87;
・旧約 ヨエル書 3章17~20節 Joel 3:17-20;
・新約 マタイによる福音書 21章28~32節 Matthew 21:28-32;
10月30日(木)
・旧約 詩編 119編137~144節 Psalm 119:137-144;
・旧約 エレミヤ書 33章14~26節 Jeremiah 33:14-26;
・コリントの信徒への手紙二 1章1~11節 2 Corinthians 1:1-11;
10月31日(金)
・旧約 詩編 119編137~144節 Psalm 119:137-144;
・旧約 ハバクク書 1章5~17節 Habakkuk 1:5-17;
・新約 ペトロの手紙二 1章1~11節 2 Peter 1:1-11;
11月1日(土) 諸聖徒の祝日
・旧約 詩編 119編137~144節 Psalm 119:137-144;
・旧約 ハバクク書 2章5~11節 Habakkuk 2:5-11;
・新約 ヨハネによる福音書 8章39~47節 John 8:39-47;
11月2日(日) 三位一体節第二十一主日
・旧約 ハバクク書 1章1~4節、2章1~4節 および 詩編119編137~144節 Habakkuk 1:1-4; 2:1-4 and Psalm 119:137-144
・旧約 イザヤ書 1章10~18節 および 詩編 32編1~7節 Isaiah 1:10-18 and Psalm 32:1-7
・新約 テサロニケの信徒への手紙 1章1~4、11~12節
・新約 ルカによる福音書 19章1~10節
聖書 ルカによる福音書 19章1~10節
1イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 8しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
11月2日(三位一体節第二十二主日)
メッセージ「財産の半分」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書 19章1~10節
●今年の聖書日課はルカによる福音書が選ばれていますから、何となくおなじみのお話が多いような気がします。そう、今日はザアカイさんの物語ですね。徴税人というのは、当時実質的にユダヤの国を治めていたローマ帝国のために税金を集める仕事ですが、それはある意味下請けで、ローマ帝国が彼に求めている金額よりもはるかに多くのお金を民衆から集めるという、いわばおいしい仕事をし、それで金持ちだったということですね。ただでさえ外国の支配者の手先となっている以上に、そんなやり方で人々からお金を集めるということで、かれが社会からどう見られていたかは、推して知るべきというところでしょう。そう「罪人」呼ばわりされていたのですね。ただしザアカイという名前の意味は「義人」、つまり正しい人ということなのですが。
●そしてイエスが突然、ザアカイの家に泊まると言い出したので、人々はある意味ショックを受けたことでしょうし、しかし一番驚いたのはザアカイ自身だったことでしょう。なぜ自分のところに。そこで彼は今までの(悪)行を悔い改め、自分の全財産の半分を貧しい人に施し、不正の徴税額を四倍にして返還するということなのです。そのことをイエスは評価して、ザアカイは救われた、と宣言します。めでたし、めでたし。だったのでしょうか。関西人としての突っ込みをいれるならば、なぜ全財産を彼は差し出さなかったのでしょうか。事実イエスは、自分の弟子になろうとするならすべてを捨てることを求めてもいます(ルカによる福音書14章33節)。
●そこで一つ考えられるのは、イエスはザアカイの財産の半分を彼に委ねたともいえるのです。つまりイエスとの出会いが本物であったのかどうか、それをザアカイはそれからの彼の人生のなかで証明をしてくことを求められて、その示し方としてその半分の財産の用い方を彼に委ねたように思えるのです。それは私たち自身も同じことで、私たちが自分の持っているものはすべて自分の物だと思って過ごすのか、神様から、神様の働きのために用いるために委ねられたものとして受け取るか、その生き方は大きく違ってくるのです。
●祈ります、神様、私たちがあなたから与えられているすべてのものを感謝します。それをどのように用いるべきか、イエス様の教えに従う知恵と勇気とをお与えください。主の御名によって祈ります、アーメン。
今週も聖書を読みましょう 10月20日(土)~26日(日)
10月20日(月)
・旧約 詩編 129編 Psalm 129;
・旧約 エレミヤ書 38章14~28節 Jeremiah 38:14-28;
・新約 コリントの信徒への手紙一 6章1~11節 1 Corinthians 6:1-11;
10月21日(火)
・旧約 詩編 129編 Psalm 129;
・旧約 エレミヤ書 39章1~18節 Jeremiah 39:1-18;
・新約 ヤコブの手紙 5章7~12節 James 5:7-12;
10月22日(水)
・旧約 詩編 129編 Psalm 129;
・旧約 エレミヤ書 50章1~7、17~20節Jeremiah 50:1-7, 17-20;
・新約 ルカによる福音書 22章39~46節 Luke 22:39-46;
10月23日(木)
・旧約 詩編 65編 Psalm 65;
・旧約 ヨエル書 1章1~20節 Joel 1:1-20;
・新約 テモテへの手紙二 3章1~9節 2 Timothy 3:1-9;
10月24日(金)
・旧約 詩編 65編 Psalm 65;
・旧約 ヨエル書 2章1~11節 Joel 2:1-11;
・新約 テモテへの手紙二 3章10~15節 Timothy 3:10-15;
10月25日(土)
・旧約 詩編 65編 Psalm 65;
・旧約 ヨエル書 2章12~22節 Joel 2:12-22;
・新約 ルカによる福音書 1章46~55節 Luke 1:46-55;
10月26日(日) 三位一体節第二十主日
・旧約 ヨエル書 2章23~32節 および 詩編 65編 Joel 2:23-32 and Psalm 65
・旧約 エレミヤ書 14章7~10、19~22節 および 詩編 84編1~節 Jeremiah 14:7-10, 19-22 and Psalm 84:1-7
・新約 テモテへの手紙二 4章6~8、16~18節 2 Timothy 4:6-8, 16-18
・新約 ルカによる福音書 18章1~14節 Luke 18:9-14
10月26日(日) 三位一体節第二十主日
メッセージ 「神様の前でのうぬぼれ」 田淵 結 牧師
●今日の聖書のお話は、私たちの社会ではあまり問題にならないかもしれません。イエス様の時代、ユダヤ教が当たり前の社会では自分の信仰を見せびらかす人たちがたくさんおり、そのことによって人々から尊敬されることを期待する、つまり自己満足を満たしていたのでしょう。でも、今の日本の社会で、いや最近のネットなどを見ていると欧米でもChurch Goer(教会に行って礼拝する人)が激減しており、もはやその社会はキリスト教信仰を失いつつある、とさえ言わるなかで、自分の信仰を人の前で堂々と自慢するひとなど、皆無かもしれません。その意味で、時々駅前にたって「聖書の勉強をしませんか」と声をかけておられる人たちには、ある種の尊敬と、ある意味違和感を感じるときもあります。
●でもイエス様当時のユダヤ教の社会と、現在の日本の社会、今日の聖書の箇所でイエス様が語っているのは同じメッセージです。つまり神様への信仰は、その一人一人がその社会の状況の中でどれだけ自分と神様のつながりをしっかりととらえ、感じ、感謝しているかにかかっているのです。それは他者にひけらかすことでもないし、人前では隠しておいてもかまわない。でもあなた自身が、ひとりで神様の前に立つということを、そのなかで自分の今のあり方をどうとらえているかがポイントなのです。
●旧約聖書のなかにイザヤという預言者が活躍しますが、彼の預言者としてのスタートは自分自身の絶対的な弱さ、汚れ、小ささの認識でした。なぜなら彼自身がエルサレム神殿の中で神様に出会ったからです。聖書の聖という言葉はヘブル語でカドーシュと言いますが、もともとの意味は「絶対に超えられない隔たり=差」です。私たちは神様に近づくことはできますが、そのとき神様の前に立つ自分は今日のファリサイ人のように自分を誇ることなどできないのです。でもそれが平気できるというのは、実は彼自身が神様と出会ったことがないということを証明しているようなものなのです。
●祈りましょう、神様、私たちの弱さをあなたがゆるし、イエス様の愛のなかで私たちを生かし、勇気づけ、用いてくださることを感謝します。あなたのまえにイエス様とともに歩む毎日の豊かさをお与えください。主の御名によって祈ります、アーメン。
聖書 ルカによる福音書18章9~14
9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
今週も聖書を読みましょう 11月3日(日)~11月9日(日)
11月3日(月)
・旧約 詩編 142編 Psalm 142;
・旧約 ハバクク書 2章12~20節 Habakkuk 2:12-20;
・新約 コリントの信徒への手紙一 5章9~13節 1 Corinthians 5:9-13;
11月4日(火)
・旧約 詩編 142編 Psalm 142;
・旧約 ハバクク書 3章1~16節 Habakkuk 3:1-16 ;
・ユダの手紙 5~21節Jude 1:5-21;
11月5日(水)
・旧約 詩編 142編 Psalm 142;
・旧約 ハバクク書 3章17~19節 Habakkuk 3:17-19;
・新約 ルカによる福音書19章11~27節 Luke 19:11-27;
11月6日(木)
・旧約 詩編 145編1~5,17~21節 Psalm 145:1-5, 17-21;
・旧約 ゼカリヤ書 1章1~17節 Zechariah 1:1-17;
・新約 使徒言行録 22章22節~23章11節 Acts 22:22-23:11;
11月7日(金)
・旧約 詩編 145編1~5,17~21節 Psalm 145:1-5, 17-21;
・旧約 ゼカリヤ書 6章9~15節 Zechariah 6:9-15;
・新約 使徒言行録 24章10~23節 Acts 24:10-23;
11月8日(土)
・旧約 詩編 145編1~5,17~21節 Psalm 145:1-5, 17-21;
・旧約 ハガイ書 1章1~15節a Haggai 1:1-15a;
・新約 ルカによる福音書 20章1~8節 Luke 20:1-8;
11月9日(日) 三位一体第二十二主日
・旧約 ハガイ書 1章15節a~2章9節 および 詩編 145編1~5,17~21節 またはH 詩編 98編 Haggai 1:15b-2:9 and Psalm 145:1-5, 17-21 or Psalm 98
・旧約 ヨブ記 19章23~27節a および 詩編 17編 1~9節 Job 19:23-27a and Psalm 17:1-9
・新約 テサロニケの信徒への手紙二 2章1~5,13~17節 2 Thessalonians 2:1-5, 13-17
・新約 ルカによる福音書 20章27~38節 Luke 20:27-38