昭和2(1927)年
大正天皇崩御直後の新年は「新しき歩み」という元旦礼拝説教によってふみだしたが七十名の参会者を与えられ頗る希望に満ちた思で一歩を踏み出した。
1月16日、第一回の定期総会に於て前記のような感謝すべき報告があった後、喜こばしき決議がなされた。それは一年半の実状にてらして、もう会堂は狭隘を感ずる様になったので増築をしたい。又塔もつけたいそのために工事費を三千円計上して之を実現したいと云う事であった。実際には4,597円を要している。塔をつける事に就ては次の様な話がある。
教会堂の南を汽車が走る。或る日の車中に二人の青年男女があった。彼等は此世を思いつめて死場所を求めて西下しつつあった京都の者である。ふと我等会堂屋上の十字架を見上げたそれは瞬間である。けれど彼は今更の如く思った。「ああそうだ、私共にはまだ十字架の世界があったのだ」と、二人は飜然として旅程をかえて京都にかえって西陣教会に今井牧師を訪ねた・・・。
私共は後にこの話を伝え聞いてどんなにか歓び神を讃美したことか、そして一層高く十字架をかかげて塔を建てたいとの希望が燃えたのであった。(竣工式当日の報告書から)
塔竣工はSS教室その他の諸集会の為に随分用いられた。伝道集会の為には今までの様に制限を心配しなくてもよくなった。
尚この最初の総会で選出された役員の名を記して牧師と共に創業の苦しみを共にされ方々を憶えたい。
安東忠治郎、入間悌吉、斎藤正治、高橋力男、岩鶴一良、安東新子、渡辺友子、岩橋貞子、奥山吉野の九氏、外に会計岡巍氏あり、教会財産管理者に今井安太郎氏を推し、評議員として岩橋美蔵、平沢八重の二氏をあげた。我らはかかる人のみを憶えようとするものではない。牧師役員を扶けて力をつくしてかくれた奉仕と祈を捧げられた方々に主が豊に報い給わんことを祈るものである。
敞牧師が全国の諸教会を応援旅行中の講壇や諸行事代行者としては雲内教会時代から初音夫人が当っておられたが教会はあらためて名誉伝道者として推薦することになった。
また当教会に事務所のあった日本組合教会婦人伝道者の書記として初音牧師をアシストしていた一見すが子師に当教会の伝道師をも兼任願うことにした。その頃かねて増築中であった別室も竣工し全能力をあげて伝道の業にはげむ事が出来る様になった。九月には婦人会の手になる割烹室も完成し、年中行事として盛んに行われたバザー開催などには大きな便益をうける様になった。