1月
2023年1月1日(日)
説教「1月1日日曜日の三つの意味」 田淵 結 牧師
●クリスマス後第一日曜日のために:ヘブライ人への手紙2章10~18節、
●イエスの命名日のために:ルカによる福音書2章15~21節
●元旦のために:マタイ福音書25章31~46節。ヨハネ黙示録21章1~6a節
◆あけましておめでとうございます。さて2023年、芦屋キリスト教会の毎週の礼拝では世界的に用いられている聖書日課 (Lexionary: Reproduced from Revised Common Lectionary Daily Readings, 2005 Consultation on Common Texts admin. Augsburg Fortress.Year A)に従って聖書の箇所を読んでいきますが、1月1日の日曜日には三つの意味が重ねられています。第一はクリスマス後最初の日曜日としてヘブライ人への手紙2章10~18節、第二はイエスの命名日のルカによる福音書2章15~21節、三つ目は元旦としてマタイ福音書25章31~46節およびヨハネ黙示録21章1~6a節、とそれぞれを考えるための聖書の箇所が選ばれていました。
◆ヘブライ人への手紙は、イエスが私たちのもとに来られたことのもっとも大きな意味は、十字架の死を通じて最もはっきりと示される贖罪者、つまり私たちの弱さと罪をご自身で負われたということが強調されています。ルカによる福音書では羊飼いたちが見聞きしたことが天使の告げた通りであったこと、そして8日目にマリアが天使に告げられたように「主ヤハウェはわが救い」という意味の「イエス(ヘブライ語ではヨシュア)」と名付けられたことが語られます。元旦のための聖書記事は、私たちのこの新しい一年間、イエス・キリストに仕えることを日常の生活でどのように具体的に行うべきか、そのための大きなヒントが語られています。
◆みなさんは今年の1月1日の日曜日をどんな日曜日として迎えられますか? やはり元旦でしょうか。でも今日の三つの日曜日の意味のどれを読むにしても、そこに共通するものは、クリスマスに私たちがお迎えした幼子イエスこそが、私たちにとってもっとも親しく、つねにともにおられて、神様の私たちに対する愛、かかわり、導き、そしてゆるしを常に示し続けてくださる方であることを、2023年のスタートに改めて心に刻むことなのです。
◆祈りましょう:神様2023年が始まりました。西暦が実はA.D.(Anno Domini: 主が支配される)と呼ばれることの大切さを私たちが改めて覚えつつ、この一年の歩みを始めることができますように。あなたの導きと支えとを祈ります。ベツレヘムに生まれられた主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
2023年1月8日(日)
説教「わたしの心に適う者」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書3章15~27節
◆改めましてあけましておめでとうございます。この一年が皆様にとって祝福に満ち、豊かなものとなりますように心からお祈りいたします。さて、キリスト教のカレンダーでは1月の最初、いろんなことを記念する日が連続します。1日はイエスの命名日でしたが、6日は降現日(エピファニー、東のからの学者たちがイエスを礼拝した日)、8日はイエスの受洗の日となっており、今日の礼拝はそのことを覚えてのものですが、それをクリスマスの流れのなかでお祝いすることはやや違和感も感じます。マタイによる福音書は1章から2章までがイエス誕生つまりクリスマスの物語で、3章からイエスの伝道活動が始まります。イエスご自身の生涯で考えると、2章と3章との間には30年ほどの時間の開きがあり、その3章にイエスの受洗について記されるとういうことは、それはクリスマスの出来事とは別のことのように思えるのです。
◆洗礼というのは、実は旧約聖書では見られず、今日のヨハネについての記事が聖書では最初です。ここでヨハネはユダヤ教によって生きて来た人たちに、今までの歩みのなかでの問題点を指摘し、それを改めて、これまでの過ちを流し去り、水のなかに身を沈めて古い自分に死に新しく生まれ変わることを求めて洗礼(バプテスマ)を人々に求めました。そこにイエスが登場し、彼から洗礼を受けたいということを申し出ます。洗礼を受けたのち、イエスがヨルダン川の流れから上がると、天から「「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響きました。イエスが神の子であるという宣言がなされたのです。
◆ひとつクリスマスのことを考えてきた私たちがこの言葉を読むと、イエス誕生の知らせを羊飼いたちに告げた天使たちが「地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ福音書2:14)という言葉が思い出されます。私たちが神様のみ心に適うということは、何よりもイエスご自身がそうであり、私たちのモデルというか原型として私たちのあるべき生き方を示されたのでしょう。その最初が洗礼を受けるということ、それは今までの古い自分からまったく新しい生き方へと踏み出すための第一歩であることを、まずイエスは私たちに示されたのです。
◆祈りましょう:神様、クリスマスを迎え、新年を始めようとするとき、どうぞ私たちが今までとは違った新しい第一歩を歩みだそうとしていることを強く思い起こすことができますように。あなたに愛され、あなたの御心に適う生き方、それを求め続ける一年の歩みをなさせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2023年1月15日(日)
メッセージ 「神の子羊」 牧師 田淵 結
聖書 ヨハネによる福音書1章29~42節
◆先週の日曜日はイエスの受洗日で、マタイによる福音書からその出来事を考えました。今日のヨハネ福音書はそのことをめぐるヨハネとヨハネの弟子たちのお話ですが、そこで話題となるのは、イエスとは何者か、「神の子羊」「聖霊に洗礼を授ける人」「神の子」さらに「メシア」とヨハネとその弟子たちが語ります。その一つ一つがキリスト教にとって重要な意味をもつ言葉ですが、ここでは「神の子羊」がほかのすべての言い方のなかで大きな意味をもっているのでしょう。
◆「世の罪を取り除く神の小羊」(ラテン語でAgnus Dei, qui tollis peccata mundi
カトリック教会のミサでも毎回唱えられる)は、当時のユダヤ人たちの宗教的儀式において犠牲の捧げものされるもの、ヨハネが考える「神の子」「メシア」が福音書の冒頭ですでに十字架の死が予告されるのです。マタイ福音書のクリスマス物語でも、東方の学者たちが新しく生まれたイエスを「ユダヤ人の王」と呼びますが、その言葉こそイエスの十字架に掲げられた称号でした。
◆クリスマスが「喜び」の時であること、それはまさにわたしたちの弱さ、過ち、そして罪を共に担うために、キリスト教独自の言い方では「贖う」ために来られたことがとても大きな意味を持ちます。だからこそクリスマスから始まるイエスの生涯が、私たちに希望と慰め、そして希望と深い喜びを与えるものとして、一年を通じていつも覚え続けられ、祝い続けられるべきものなのです。
◆祈りましょう:神様、あながた私たちのためにイエス・キリストを遣わされたこと、そのイエスと共に歩み、イエスに聞き、学び、従う一年を歩ませてくださいますように。主の御名によっていのります、アーメン。
2023年1月22日(日)
メッセージ 「二人はすぐに」 牧師 田淵 結
聖書 マタイによる福音書4章12~23節
◆クリスマスから新年の聖書の日課はイエス様の受洗そして伝道活動のはじまり、今日は弟子を招かれた物語です。「人間をとる漁師」としてシモン・ペトロとアンドレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ(洗礼者ヨハネとは別人)がまず招かれました。彼らはガリラヤ湖の漁師であったようですが、イエスに声をかけられると「すぐに」従った、と記されています。ただし彼らがなぜそうしたか、ということは一切かかれていません。
◆イエスに従う、教会的な言い方をすればキリスト教の信仰を持つ、ということをどう皆さんはお考えになりますか。この四人のように「すぐに」決断おできになりますか。個人的なご事情、ご家庭の状況、さらに現代では「宗教」への警戒心、こうして現在日本のキリスト教全体での「信者数」はかなり減少してきています。その反面、ある意味「熱心」な活動を展開する宗教団体への入信者はかなりおられるようですが。
◆イエスの弟子となる、それは非常に単純なことなのでしょう。迷いや疑いなどにとらわれるということはやはりイエスの招きに応えられないということでしょう。ただし福音書を読むと、イエスに従おうとした人たちややがてイエスのもとを去ります。この四人もイエスが逮捕されるときイエスを見捨てます。ただし本当にイエスに従うかどうかは、それからなのです。イエスとともに歩むことに招かれた私たちは、それでもイエスに招かれ続けている、ゆるされ、愛され続けているのです。私たちの側がどうであろうとも。
◆祈りましょう:主イエス・キリストの父なる神様、あなたが私たちを選び、招き、そしていつまでも愛し続けてくださることを感謝します。どうぞいつもあなたの愛のうちに留まる一人とならせてくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
2023年1月29日(日)
メッセージ 「幸いなるかな」 牧師 田淵 結
聖書 マタイによる福音書5章1~12節
◆聖書を日本語に翻訳するとき、どうしても日本語らしい文章とするために原文の言葉の位置が変わってしまいます。今日のマタイ福音書も、原文は「幸いなるかな」で文章が始まります。意味が通じれば同じというところですが。
◆条件があって結果がある、こうすればあなたはこうなる、となると条件のほうに重みが出てしまいます。でもまず結果として、あなたは幸いだ!といわれることで私たちは勇気づけられるのです。幸いだ、だからこう生きるのだ、ということですね。
◆私たちの毎日はどこかで、こうすればこうなる、という条件づくりにあくせくしてしまいます。そしてやっぱりそれはできない、とあきらめがちです。でも聖書を通じて語られるイエス・キリストのメッセージの基本は、あなたは神様に愛されている、だからこういう生き方ができるのだということなのです。問題は私たちがその「幸い」に気づいているか、なのですが。
◆祈りましょう:主イエス・キリストの父なる神様、何よりもあなたが私たちをまず愛してくださることを感謝します。だからこその毎日の生活、生き方へと導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2月
2023年2月5日(日)
メッセージ 「地の塩であること」 牧師 田淵 結
聖書 マタイによる福音書5章13~20節
◆あいつは右だ、こいつは左よりだ、などいう言い方が盛んに交わされます。ではイエスはどちらでしょう。ユダヤ教への批判を続け、やがて十字架刑に処せられるというところは、ユダヤ教から見れば革新派でしょうか。でもイエス自身はその働きをユダヤ教の律法を「廃止するためではなく、完成するため」だと宣言します。むしろユダヤ教の主張を徹底しようとする姿勢は、徹底的に保守的ですね。
◆なぜそのイエスがユダヤ教から否定されるのは、ユダヤ教全体のあり方が中途半端になっている、自分たちに都合よく解釈してやり過ごす姿勢にあったようですし、イエスの批判はそこに向けられています。私たち自身の姿勢もそうで、私たちは右か左かということではなく、自分にとって都合よく暮らしています。それは現実的な生き方ですし、私たちはお互いへのレッテルを張りあう前に、自分たちの姿です。その私たちにイエスのメッセージが語りかけられるのです。
◆「地の塩、世の光」というシンプルなたとえですが、塩が塩であり続けるという単純な事実からこそ、塩の役割が確実に発揮されるのです。私たちがイエスに招かれ、愛され、従い続けるというその部分において、私たちはもっとも保守的であるべきことをイエスは強調します。
◆祈りましょう:主イエス・キリストの父なる神様、何よりもあなたが私たちをまず愛してくださること、その単純な事実を今日も感謝します。だからこそれにふさわしい毎日の生活、生き方へと導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2023年2月12日(日)
メッセージ 「早く和解しなさい」 牧師 田淵 結
聖書 マタイ福音書5章21-37節
◆イエスの山上の説教は、前に教えられた「幸いなるかな」と祝福に満ちたものもあれば、今日のように「・・・するな」と厳しい命令のようなものもあります。イエスが旧約律法の教えをより徹底させようとする厳しい教えは、実際は私にはとても無理だ、思わされるしかありません。
◆そのなかで最もむつかしいものは「和解」ではないでしょうか。人間関係がこじれてしまうとき、どうしても相手の問題、過ちばかりが気になりますが、同時に私は間違っていない、悪くない、私の弱点を認めたくない、ということなのです。そこでイエスの語ることはお互いの言い分ではなく、事実はどうなのか、ということです。今私たちの人間関係のなかで何が起こっているのか、その結果がどうなってしまっているのか。それを事実として認めることから、それはそのままにしておくことが、よいことなのか、というところでしょう。
◆そしてもっと大事なのは、自分の正しさを貫くことよりも、神様がその解決を求めておられる、つまり神様が私を、そしてお互いを愛しおられるという「事実」を受け入れることでしょう。ともに神様に愛された者どうしとして生きるために、「私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という呼びかけに、今どうこたえるべきかをまず自分に問うことでしょうし、そこで他者をさばくこと以上に、自分が神様にゆるされ、受け入れられるひとりであることに改めて気づきたいのです。
◆祈りましょう:神様、私たちがあなたの戒め、教えに素直に聞き従う一人となれますように。自分の立場からではなく、あなたのまなざしのなかで私たちの生活を整えさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン
2023年2月19日(日)
山上の変容の主日 メッセージ 「イエスの姿が変わり」 牧師 田淵 結
聖書 マタイ福音書17章1-19節
◆イエスの生涯のなかであまり注目されることのない出来事のひとつが「山上の変容」というものです。イエスがある山に登られると「の姿が彼らの目の前で変わり」、そこで旧約を代表する二人の人物、律法者モーセと預言者エリヤと語り合われたのです。輝かしいその光景(光り輝く雲)に弟子たちは圧倒されてしまいました。
◆神の子としての栄光がこのように示された、というところと、旧約聖書のメッセージの完成者として、ユダヤ人の根本的法である律法を授与したモーセと、真の救世主(メシヤ)の到来を告げるエリヤとがそこに登場しているのでしょう。
◆ただしイエスが私たちにもたらす救い、それは病気に苦しむ一人の子どもを癒す、つまり私たの切実な祈りや願いが答えらえるということから示されました。クリスマスのようなイエスの栄光の輝き、それはまず羊飼いに示されたように、私たちのような小さなひとりびとりの毎日を照らし、希望を与え、導くものとして福音書はそれを語っているのです。
◆祈りましょう:神様、どうぞ私たちにも改めてイエス・キリストの輝きを示してください。その輝きのなかに私たちが日々の希望や喜び、平安を強く受け止めることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
2023年2月26日(日)
メッセージ「Keeping Up Appearances (見かけをよくする)」 Donald Van Antwerpen 牧師
聖書 イザヤ書 58章5~8,12節
Two-Sentence Summary): As humans, we are obsessed with the idea of keeping up appearances; making sure that our religious and spiritual lives present publicly - both personally and as a community - in ways that look good, clean, right, and proper. But God is uninterested in these things, and prefers the rough, questioning, private prayer to the public supplication; prefers the fast that moves imperfectly-but-immediately for justice, and then keeps moving, rather than waiting and moving only when the time is right, the floors are cleaned, and all things appear right and proper to our flawed, human, selves.
(In short, in God it is better to be active imperfectly, rather than wait for the perfect time!)
人間として、私たちは見かけをよくしようと夢中になります:個人的にも社会的にもぜひ宗教的・霊的な生活においてもそうですねー見栄え良く、清潔で、きちんとしているか、です。しかし神様はこれらのことではなくにはあまり関心がありません。むしろ荒っぽく、それでどうなのと思わせ、社会的な訴えについても個人的な祈り、さらにそんなに完璧ではないけれども、それが正義へと直結する断食を好まれ、いつもチャンスばかりを待っていることよりも動き続けること、床は掃除ができており、すべてのものはきちんと整えられていますが、それは、欠陥のある人間である私たちのためなのです。(まとめると、神様には、完璧な時を待つことより、不完全だけれど行動することが大事なのです。)
3月
2023年3月5日(日)
メッセージ 「John 3:16」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書3章1~17節
◆キリスト教の中心的なメッセージはこのヨハネ福音書3章16節に凝縮されている、といわれることがあります。「John 3:16」というだけのプラカードを掲げている人たちがいました。神が私たちを愛してくださる、それはとても受け入れやすい言葉であると同時に、本当のところがよくわかりにくいというところもあるようです。
◆今日の聖書に登場するニコデモという人は、当時のユダヤ教の高名な教師であったようですが、イエスとの会話はかみ合いません。それは彼が自分が今まで学んできたこと、経験したことを絶対として語ろうとするからです。でもニコデモの経験はあくまでも「地上」からしか語れないのです。その彼にイエスは「天上」のこと、神のひとり子として語るとき、それをニコデモを理解できなかったのです。
◆神様が私たちを愛してくださる、それは「ひとり子イエスの十字架を通じて示される」ものとしてヨハネは私たちに訴えます。そのとき私たちはニコデモのように、自分のわかるだけのこととして神様の愛を受け止めているのかもしれません。受難節の毎日、私たちの毎日のなかでどのように神様が私たちを愛してくださっているのか、新しく感じることができるときとして過ごせることを願います。
◆祈りましょう:神様、あなたが私たちを愛するためにイエス。キリストを私たちのもとに遣わしてくださったこと、そのことの深さ、厳しさ、そして喜びを、日々の歩みのなかで受け止められるものとしてくださいますように。御名によって祈ります。アーメン
2023年3月12日(日)
説教 「いのちの水」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書4章5~42節
◆どうも芦屋キリスト教会の礼拝で読まれる聖書の箇所は、比較的長くいなりがちですね、ひとつの理由は聖書の言葉を全体の記事の流れの中で理解すべきこともあるからです。今日の箇所も、イエスとサマリアの女性との会話ですが、その記事の流れを追っていくと、徐々に女性がイエスとは誰かという理解を深めていく展開となっています。
◆最初彼女は「ユダヤ人のあなた」と言い、次に「主よ」とよ呼びかけ「ヤコブより偉い」「預言者」「もしかしたらメシア」そして最後に「本当の救い主」として語られます。イエスと女性との会話のなかで注目されるのは、イエスが一方的に自分は誰かと説明するのではなく、女性の質問に答えながら彼女にそれを気づかせるというところにもあるようです。
◆あることに疑問を持つ、というときに実はすでにその答えを理解しようという姿勢ができつつあるのですね。イエスが与える渇くことのない水、永遠の命に至る水、それは私たちがただ与えられるものではなく、私たちがイエスとの会話(祈り)を通じて自分たちのうちに湧き上がるもの、イエスの言葉のなかにそのことを私たちが気づくというところにあるのでしょう。
◆祈りましょう:神様、私たちの生活のなかでイエス様との語り合い、祈りをより豊かなものとすることができますように。それによって私たちが本当に必要なものが、私たちのうちに満たされてゆくことを示してください。御名によって祈ります。アーメン。
2023年3月19日(日)
メッセージ 「見えるというところに」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書9章1~41節
◆先週の聖書、ヨハネ福音書4章に続いて、今日もまた比較的長いヨハネ福音書9章の物語です。個人的にもこの箇所は思い出深いもので、私が神学部4年生のときに札幌の北星学園女子中学校で教育実習をしたときに、この箇所をテーマに聖書キャンプがあり、この物語をドラマ化したこともありました。
◆この物語もかなり長い理由は、イエスに目を治された人をめぐる様々な人たちの動きのなかから、イエスとは誰かということが徐々に、この場合はユダヤ人たちに示されていくということですが、ただし主人公の男はイエスをメシヤだと確信していくのですが、ファリサイ派の人々はかたくなにイエスを「罪びと」と決めつけつづけ、そのために現実に目が見えなかった人の目が癒されたという事実をも否定してかかります。
◆この物語は、現在の私たちの社会でも起こっているように思えます。こんなことがありました、ということが事実として伝えられているのに、それを自分にとって不利だと考えるひとたちは最初から否定してかかります。捏造などいう言葉が飛び交います。そしてイエスが一番大きな問題とするのは、そのような人たちが「自分たちは物事がよく見えている」「(一番よく)わかっている」と言い張ることですし、それをイエスは「罪」だと訴えます。
◆その人たちにとって事実がどうなのか、ではなく自分の立場をどう正当化し、守り抜くか、というところが最大の関心になっていること、つまり徹底的に自分だけを大事にする姿勢、それはやはり私たち自身のどこかに潜んでいる「罪」の姿なのでしょう。
◆愛する神様、私たちのうちなる罪を思わされます。私たちが自分の思いによって事実をとらえるのではなく、事実によって私たちが正されていくものとされますように、謙虚に生きる一人としてください。御名によって祈ります。アーメン。
2023年3月26日(日)
メッセージ 「ラザロのよみがえり」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書11章1~45節
◆またまた今日のヨハネ福音書11章の物語もとても長大です。ルカによる福音書にも登場する姉妹のマルタとマリヤの兄弟ラザロが病死し墓に納められます。4日たったころイエスがそこに来て、そのラザロを墓からよみがえらせるという物語です。神学的に言うとこの物語は「神学的に」少し問題を含んでいます。パウロはコリントの信徒の手紙のなかで「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリント一15:20)と述べるのです。でもラザロはイエスよりも前に「復活」したとのなら、「初穂」とは何なのか、となります。
◆ややこしい神学論争はともかく、実はラザロの復活とイエスの復活とは根本的に違うのです。イエスの復活はそれまでにイエスの受難、十字架の苦しみによる死の物語の最後の結論でした。ある意味イエスの死とラザロの死はまったく「次元が異なる」のです。ラザロの復活は、イエスがそれまでにほかの病人を癒されるという奇跡のひとつのクライマックスでしょう。ただしそれはマルタとマリアがそのイエスをメシア(キリスト=救い主)として信じることによって可能なのです。「もし信じるなら」実現したのです。
◆しかしイエスの十字架上の死、それは私たちすべての人間への神様の愛、ゆるしのしるしでした。その私たち、実はイエスをメシヤ(キリスト)と信じることが徹底できない弱さを持つ(聖書的にいうと「罪」を担う)私たちがイエスを十字架に追いやったことを、神がゆるすことの最大のしるしこそイエスの復活だったのです。
◆祈りましょう:神様、受難節の中で、あなたの愛と救いを信じることのむつかしさを改めて覚えます。イエスの十字架への生涯を仰ぎつつ、私たち自らの姿をそこにしっかりと認めることができますように。御名によって祈ります。アーメン。
4月
2023年4月2日(日)
2023年4月2日(日)芦屋キリスト教会 棕櫚の主日
メッセージ 「受難週を迎える」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書21章1~21節
◆いよいよ今週は受難週となります。今日の日曜日はイエスがエルサレムにロバにのって入場され、人々は棕櫚の枝を打ち振り歓呼をもってそれを迎えたことを記念する棕櫚の日曜日です。金曜日はイエスが十字架につけられた受難日で、その三日後、ことは9日の日曜日がイースターとなります。
◆受難週はその日に従ってイエスの十字架の道行きについて福音書の物語(マタイ福音書では26~27章で、バッハはそれを音楽によって読み進むマタイ受難曲を残しています)を私たちも読み進めることもお勧めします。ところで今日の聖書のなかに、イチジクの木の物語があります。イエスがイチジクの実を食べたいとおもったとき、季節ではないのでその木には実がなかったので、イエスがその木を呪ったので枯れてしまった、という不思議なお話です。
◆まさにこのイチジクの木こそ、私たちの姿かもしれません。イエスとの出会いという決定的な瞬間に、さまざまにもっとも理由をつけてその出会いを避けてしまう。イエスの期待に応えずにやり過ごしてしまう。そのチャンスは二度とないのかもしれません。受難週でイエスが十字架につけられたという出来事を覚えるだけではなく、それがイエスが私たちをそのような形で愛し抜かれたということを、それが私たちひとりびとりのためであったことを、教会は記念し続けているのです。
◆祈りましょう:神様、どうぞイエスがそのみ苦しみを通じて私たちを愛され続けたことこそを、この一週間を通じてしっかりと受け止めることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
2023年4月9日(日)
メッセージ 「ガリラヤの朝」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音28章1~21節
◆今年は新年度とともイースターを迎えました。十字架上で息を引き取られたイエスが墓に納められたのち、3日にそこからよみがえった、それはイエスに従った人々にも、イエスを十字架につけたピラトにも、驚きの出来事だったでしょう。福音書のどの復活の物語でも、すべてマグダラのマリアたちイエスに従った女性たちがその最初のニュースを天使から聞かされ、復活のイエスと出会いました。
◆そして彼女たちはガリラヤに行くことを命じられます。イエスの処刑の地ユダヤのエルサレムではなく、イエスのそして弟子たちの故郷であるガリラヤで、イエスは改めて弟子たちに新しい使命を授けます。そのときに「疑う者もいた」という言葉が、かえって復活という事件のリアリティを感じさせられます。
◆復活後の弟子たちの働き、それは改めてイエスとの最初の出会いにさかのぼり、イエスとともに旅を続けた行程を受け止めなおし、そこでイエスの教え、わざ、奇跡などを、もう一と復活というすべての自分たちの弱さを打ち破る神様の働きとしてとらえなおすことなのかもしれません。彼らにははじめて「ラクダが針の孔を通る」ことができる実感を持つことになったでしょう。
◆神様、私たちに復活のイエスとの出会いを与えてくださることによって、そこで改めて福音書のイエスの働きをとらえなおすことができますように。私たちの無力さを越えて隣人を愛し、隣人に仕えるものとしてください。御名によって祈ります。アーメン
2023年4月16日(日)
メッセージ 「信じる者となる」 田淵 結 牧師
ヨハネによる福音書20章19~31節
◆イースターをめぐる人たちはいくつかのグループに分かれます。最初に空虚な墓を訪れた女性たちのようにイエスの復活を確信した人たち、よくわからないけれどまあそうなんだろうと思う立場、そして今日の聖書に登場するトマスのように「信じない」人々です。大多数は二番目で、現在の私たちもその一人ではないかと思います。
◆今日の記事はそのトマスが、第一の立場に転換するというものです。イエスが十字架にはりつけにされたときの釘あとを生々しく示されたからです。「古傷に触れる」という感覚は日本人にはとても辛いものですが、弟子の頑なさをとくためにイエスがそれを厭われれなかったというところに最も注目させられる、つまりイエスは十字架の苦しみを弟子たちのためにもう一度負われたということなのでしょう。
◆「信じる者になる」それは、イエスがまさにトマスのため、つまり私のために十字架に死なれた、そこまで私を愛してくださったことを信じる者となる、ということです。ヨハネ福音書が「イエスは神の子メシアであると信じるため」に書かれたことを、トマスの物語は示しているのでしょう。
◆祈りましょう、神様、イエスが私のために、私の疑い、弱さを許すために十字架を負ってくださったことを、改めて覚え感謝します。このイースターが、あなたとの新しい出会いの時となりますように。復活の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年4月23日(日)
メッセージ 「エマオへの道」 田淵 結 牧師
ルカによる福音書24章13ー35節
◆教会礼拝堂に田中忠雄氏によるリトグラフ「エマオへの道」があります。そこに三人の男性が描かれていますが、私たちには中央は復活したイエスだと知っています。でも両側の二人(イエスの弟子)にはそれはまだわかりません。自分たちの会話に割り込んできた見知らぬ男、というところです。
◆ところがこの男は二人に、お前たちは「物分かりが悪い」(ある英語の聖書では"How foolish you are!")と言い始めるのです。なんだこいつは!とむかっと来たかもしれません。続けてイエスが聖書を解き明かし、二人は一緒に宿に泊まるようにと願い、食事の席でイエスがパンを割かれたとき、ようやくこの二人はそれが復活のイエスだと分かった時に、その姿が見えなくなったのです。
◆この二人の弟子は、すでにイースターの朝にイエスがよみがえったということは聞いていたのですが、空虚な墓のニュースは信じられないままだったのです。復活、そのことを私たちは聞かされている、でもそれを心から信じることができない。だからこそ彼らの表情は暗いままでした。彼らにとって復活とは、まさにそのイエスとの出会いによって確信されたのです。私たちの人生のなかで、さてこのような出会いが起こるのでしょうか。でもその確信を与えられた人たちによってその後2000年を超える教会の歩みが整えられてきたのです。
◆祈りましょう、復活の主イエス・キリストの父なる神、私たちがより確かに、あなたに出会い、あなたと共に歩む者であることに気づかせてください。御名によって祈ります。アーメン
2023年4月30日(日)
メッセージ 「羊の門」 田淵 結 牧師
ヨハネによる福音書10章1~10節
◆普段はあまり気にしないのですが「門」はとても大きな意味を持っています。そこから内側は誰でも入ることができない限られた場所だということを示しています。門を通る人たちは実はある条件を満たした人たちといういことになります。
◆今日の聖書の言葉からすると、その条件とは羊たちが自分の羊飼いを信頼している、ということなのでしょう。まさにそれは教会という「場所」の意味ですし、その羊飼いとはイエス・キリストご自身なのです。そして私たちはひとりひとり、その名を呼ばれてこの場に招かれているのです。
◆では、私たちは私たちの羊飼いの声を知っていますか、それを聴き分けることができていますか。いやその前に、私たちは毎日の生活のなかで、その声にどれだけ親しんでいるでしょうか。毎日本のひと時、その声に触れる時間を持ちましょう。それによって私たちのために整えられている門に、安心して入るのです。
◆祈りましょう、神様、私たちが私たちを常に守り、導き、愛してくださる羊飼い、主イエス・キリストのみ声を聴き分け、親しみ、それに従い続ける者とならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
5月
2023年5月7日(日)
メッセージ 「道・真理・命」 田淵 結 牧師
ヨハネによる福音書14章1~14節
◆復活節の今年の聖書日課はヨハネ福音書が選ばれていますが、ほかの三つの福音書では弟子のうちペテロを中心にして記しているのにヨハネ福音書はいろんな弟子がかわるがわる登場し、ここではトマスとフィリポです。でも彼らはイエスから「、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と叱られてしまいますが、それは私たち自身の姿でしょう。私たちは本当にイエス・キリストをわかっているのでしょうか。
◆「教会」という言葉が実は問題なのですが、私たちは教えられることを頭で理解しようとします。でも私たちの頭が考えられることには限りがあります。わからないことが多すぎるのです。イエスがご自身を「道・真理・命」と言われることは、私自身の存在すべて、全身全霊のあり方を含めてそれを受け入れ、愛し、守られる存在としてのイエスとの出会いがあることを示されています。
◆神様がイエスのうちにある、というそのことがまさにイエスご自身が私たちのうちにおられることに気付いているか、それを日々の祈りを通じて実感しつづけているか、と問われているのです。そのなかで私たちの聖書の読み方も大きく変わってくるでしょう。聖書は頭で理解するのではなく、その言葉が私たちが実感をもってその言葉に触れるとき、私たちはイエスが「分かる」と言えるのでしょう。
◆祈りましょう、神様、あなたがイエスを復活に至るまで導き、生かされたことを改めて思います。そのイエスの命が私たちのうちにあり、私たちの毎日を支えておられることに気づく一人とならせてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2023年5月14日(日)
説教 「主イエスの掟」 田淵 結 牧師
ヨハネによる福音書14章15~21節
◆教会のカレンダーでは、私たちは4月9日のイースタから5月28日のペンテコステの日曜日まで、復活節というシーズンを過ごしています。日本社会ではちょうど新学期をいう時期と重なっていることもあるでしょうが、イースターからのみなさんの毎日、なにかいままでとはなにか違いを感じる日々を過ごされておられるでしょうか。
◆今日の聖書のことばに従って考えると、それは「(イエス・キリストの)掟を守る」歩みへと招かれているということでしょう。それは決して無理やり強いられて、守らなければいけない!とがんばっている、ということでありません。むしろふと今の自分自身を振り返ってみると、確かにそうだと気づかされるというものだろうと思います。つまり「わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」ということに気づくということです。
◆それはどこかで自分が生きているという思いから、自分は生かされているということに気づく、自分中心の生き方とは別の生き方に気づくということでしょう。生かされている、愛されているということの気づき(発見)があるからこそ、私たちが当たり前、当然だと思っていることが、実はとても感謝すべきことだと気づかされるのです。「私があなた方を愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」という主イエスの掟、それによって私たちは今までとは違った毎日を迎えることができるのです。
◆祈りましょう、神様、あなたに愛され、生かされる毎日のよろこびのなかで、今日も一日を過ごさせてください。御名によって祈ります。アーメン
2023年5月21日(日)
メッセージ 「5月18日 昇天記念日」 田淵 結
聖書 ヨハネによる福音書17章1~11節
◆キリスト教のカレンダーでは5月18日は昇天記念日、復活したイエスが、地上の弟子たちや人々と別れて天に昇っていかれたことを記念する日となっています。イエスは十字架の死を通して地上に別れを告げ、復活の後再び地上を離れられたのです。「彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。」という言葉に改めて今日私たちは触れるのです。
◆そのときイエスは弟子たちをはじめ地上の人々のために「彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」と祈ります。イエスが地上を離れられるということは、私たちがどこにあっても天を仰ぐとき、そこにイエスがおられ神様の守りを私たちのために祈っておられることを知ることができる、ということでしょう。
◆天にまします我らの父よ、と私たちは祈り続けていますが、そのことを私たちがより実感できるために、私たちに常にイエスが神様の右に座して見守っておられることを、だからこそ私たちは地上において神様に守られ、イエス様のまなざしを受け続ける者として一つの群れとして、毎日を平安のうちに暮らすことができるのです。顔を上げ、天を仰ぎつつ。
◆祈りましょう。神様、私たちが常にあなたの守りの中にあることを、イエス様が天におられることによってより身近なこととして覚えることができますように。それによって毎日、勇気と感謝をもって過ごすことができますように。御名によって祈ります。アーメン。
2023年5月28日(日)
2023年5月28日(日)聖霊降臨日礼拝
説教 「聖霊が降る」 田淵 結 牧師
聖書 使徒言行録2章1~21節
◆キリスト教の三つの大きな祝祭(記念日)でもっとも理解しにくいのが「聖霊降臨日(ペンテコステ)です。カタカナの名前の意味は「50日目(使徒言行録の言葉でいう『五旬節』です)」、もともとはユダヤ教のあるお祭りから数えた日数ですがキリスト教ではイエスは復活して40日目に天に昇られそれから10日後ということにもなります。
◆イエスが天に去ってしまったのち、弟子たちはこれからのことに思い悩んでいたときに、聖霊が炎のように下り、一人一人の上にとどまったのです。スペインの画家エル・グレコがその状況をややアニメ的に描いていますが、この事件を通じて弟子たちは、自分たちの使命に目覚め、その日から世界中に向かって福音の伝道に赴いてゆくことになり、以後彼らはもはやかつての「イエスの弟子」ではなく「使徒」と呼ばれるのです。
◆その日に起こったこと、それは改めて人々がそれぞれの(人生の)使命に目覚めることでした。もはやイエスに習い従うのではなく、自らの志のなかでイエスの思いを実践する、イエスの思いによって自ら生きる第一歩を踏み出すことでした。この日は教会の誕生日と呼ばれますが、その教会とは建物や組織ではなく、そこに集う人々のことですし、そこで人々が自分の新しい人生への歩みを、聖霊の力に押し出され踏み出した日として祝われるのです。
◆祈りましょう、神様私たちがイエスの思いを自らの思いとして歩むものであらせてください。そこにあなたの御霊の導きと支えが常にありますように。御名によって祈ります、アーメン。
6月
2023年6月4日(日)
説教 「主イエスの弟子として」 田淵 結 牧師
マタイによる福音書28章16ー20節
◆復活したイエスが、十字架の死の前に弟子たちに伝えておいたように、ガリラヤの山上に弟子たちを集めました。そこで彼らに新しいミッション(使命)を与えるためでした。それは「すべての民を弟子とする」ことだったのです。
◆復活したイエスも天に帰ったのち、その使命を託された弟子たちにとって、ペンテコステの日の出来事のように世界各地のいろんな言葉を話す「すべての民」への伝道を託された弟子たちの業、私たちの教会もそれを今引き継いでいるのです。
◆教会のカレンダーでは、ペンテコステまでの半年を「キリストの半年」と呼び、その後を「教会の半年」としています。これからクリスマスを迎えるまでの間、改めて私たちひとりひとりがイエス様の弟子であることを改めて意識しながら、私たちの教会のあり方を考えてゆきたいと願います。
◆祈りましょう:神様、あなたはペンテコステの日、弟子たちに聖霊を送り、その働きに遣わされました。私たちの芦屋キリスト教会がまた、イエスの弟子の集まりとしての使命を果たす場となることができますように。私たちを用いてください。御名によって祈ります、アーメン。
2023年6月11日(日)
メッセージ 「罪人を招く」 田淵 結 牧師
マタイによる福音書9章9~13、18~26節
◆イエスの弟子の集まりとしての教会の働きのひとつは、私たちにはとても難しいものです。私たちがふだんおつきあいをまったくしてこなかった人たちを招くことが、本当にできるのでしょうか。先週ある出会いがありました。まったく意味は違うのですが、高速道路のサービスエリアでヒッチハイクをしている若者を見かけました。さあ彼を自分の車に乗せてあげられるでしょうか。
◆見も知らないひとを自家用車の閉ざされた場所に招く、そんなことは絶対してはいけない、という常識があります。ヒッチハイクなんで本人のお遊びだろう、何もおまえが世話をすることはない、と拒否する理由はいくつでもありますし、それはもっともなことですね。
◆おそらくイエス自身はそのもっともな理由には耳を貸さなかったのです。そんな理由こそが本当に助けを求める人たちとの出会いを妨げてしまうのです。イエスの弟子となるということは本当に勇気が求められますが、一番の勇気とはその人を信じて受け入れることができる勇気なのですね。
◆祈りましょう、神様、私たちの弱さを強く感じます。どうぞ私たちへがあなたの弟子として、本当にあなたを求める人たちとともに歩む一人としてください。罪びとを招かれた主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
2023年6月18日(日)
メッセージ 「飼い主のいない羊に仕える」 田淵 結 牧師
マタイによる福音書9章35~10章8節
◆キリスト教のカレンダーでいうと私たちは2023年の後半部分にもう入っているのですが、その季節の大きなテーマは私たちが「イエスの弟子」であるということです(6月4日のメッセージをご覧ください)。その弟子としてのあり方の基本当然主イエスご自身のあり方にならうということから始まります。「教え、福音を宣べ、癒し」と同時に社会の現状に対する「憐み」ということになります。
◆どうも日本語でそれらのことを考えると、どこかに上から目線という感じが出てくるのですが、まったく逆でイエスの姿勢は、もっとも弱い立場の人に仕えるところにあるのです。つまりイエスの弟子のあり方は、これらのことを具体的にすることの前提として、主イエスご自身が持たれた社会へのまなざし、感覚を養うということが基本となるのです。
◆仕える者となるとき、誰に仕えようとするのでしょうか。私たちの社会のなかの「飼い主のいない羊」に私たちは気付き、出会っているのでしょうか。その人たちに求められることはなんでしょう。私たちが本当にイエスの弟子であること、私たちがイエスから「権能」を与えられていること、まず私たちの感覚、センスを養い、磨くことにまず私たちの課題があるのです。
◆祈りましょう。愛する神よ、私たちの今のあるべき姿、そのためになすべきことを示してください。それによって私たちが教会につらなり、私たちの務めを果たせる者となれますように。主の御名によって祈ります。
2023年6月25日(日)
メッセージ 「主イエスの仲間であること」 田淵 結 牧師
マタイによる福音書 10章24-39節
◆主イエスの弟子となるという大きな主題を今週も聖書から与えられていますが、今日のマタイの記事はイエスの弟子であることによって生じる苦難、試練について語ります。私たちはイエスとともにあることによって、祝福、慰めを期待していますが、もしそんな苦しい状況が生じることなどは予想外のことになります。
◆レジリエンスという言葉があります。逆境に耐える力とでもいうのでしょうか。日本社会に特有の忖度とは正反対の言葉です。また日本のネット社会のなかでは、ますますレジリエンスが失われていくように思えます。何か否定的なことを言われるとすぐに反論し、自分の正しさのみを言い張ることに終始しています。
◆イエスの弟子であること、それは私たちの社会の真実性から目をそらせないこと、そこで本当に大切な正義とか平等とか、隣人への愛をつらぬくことですが、それは力ある人には不都合なのです。力あるがゆえに自分の不正、罪、過ちを押し通そうとするなかで、ますますこの社会の問題が深くなります。主イエスの弟子でありつづけることで、まさに私たちは世の塩としの生き方を学ぶのです。
◆主イエスキリストの父なる神様、私たちをほんとうのあなたの弟子にしてください。そのなかで私たち自身だけの安逸ではなく、あなたの救いを求め続ける人々の隣人として生きる者としてください。御名によって祈ります。アーメン。
7月
2023年7月2日(日)
メッセージ 「主イエスの仲間であること」 田淵 結 牧師
聖書マタイによる福音書10章40~42節
◆発想の転換とか、もっと大げさに言うとコペルニクス的転回とか、私たちの考え方が根本から変えられるようなことがあります。今日のマタイ福音書でイエスは「あなたがたを受けいれる者は、私を受けいれる」と語ります。普通なら、イエスを受けいれることができるから、その弟子である私たちも受けいれられる、というはずではなかったのでしょうか。
◆私たちが、例えば社会にあるいはほかの誰かに受けいれられるということが最初に来る、ということになると私たちの毎日のあり方が問われることになります。でも私たちは社会の人々の模範、だれかのモデルとなれるような立派な生き方ができるのでしょうか。
◆遠藤周作氏は「イエスの生涯」でイエスを『同伴者』として著しました。やめるひとりの女性を奇跡的に癒すよりも、その女性の手をとってそこにともにとどまり続けること、遠藤氏はそれがイエスの最も大きな奇跡であり、愛の業だとします。「冷たい水一杯でも」、それは私たちが自然な形でできる他者との関わり方でしょう。そこに社会が、隣人が神様の愛を感じるとき、イエスご自身が受け入れられるのです。
◆祈ります、神様、私たちを用いてください。私たちがあなたの愛を伝える器となることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
2023年7月9日(日)
メッセージ 「イエスのくびきを負う」 田淵 結 牧師
マタイによる福音書 11章16~19,25~30節
◆英語の言葉で子どもを表すのにMinorという言葉があります。少数者ですね。イエスは自分のもとに来ようとする子どもたちをそのまま受け入れました。でも今日のマタイの言葉には、子どもたちの間でのMinor、つまり一生懸命笛を吹いている子どもに多くの子どもたちが無関心であった、ということなのです。私たち自身もMinorな存在に対して距離を置こうとしますし、その理由もいろいろ考えます。最大の理由は私たち多数派(Major)とは違う!ということで、その存在の問題点を「あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」と指摘します。それは多数派にとっては正しいものなのでしょう。
◆でも根本的にそうやってMinorな存在を拒否しつづける姿勢のなかに、私たちの姿勢の問題性(聖書的に言うと罪)があります。私たちの社会のなかでMinorである人々に、多数派の人たちの問題が押し付けられているのです。差別、不平等、いじめ、虐待などなどはきりがありません。
◆そんな社会に疲れている私たちにイエスは「休ませてあげよう」と語られます。ただしそれはイエスのくびき(農夫が牛や馬を操るための首枷)をともに負うこと、イエスのMinorな存在に仕えられた生き様を自分のものにすること、つまり自分がMinorな人たちとともに生きることなのです。イエスはそのひとりひとりを愛し、受け入れ、支え、祝福されるために私たちのもとに来られたのです。
◆祈りましょう、神様、私たち自身の今のありかたからくる私たちの疲れを取り去ってください。そのためにあなたのくびきをともに負うとき、それがいかに軽く負いやすいものであるかに気づかせてください。御名によって祈ります。アーメン。
2023年7月16日(日)
メッセージ 「蒔かれた種」 田淵 結 牧師聖書 マタイによる福音書 13章1-9、18-23節
◆芦屋キリスト教会の創立記念日は、1955年に発行された前身の芦屋打出教会略史によると1925(大正14)年7月3日ということになっています。ただしその年には
3月18日 精道村芦屋山角1,106番地161坪を地主猿丸氏より借受ける。 3月21日 地ならし工事着手 設計 糸崎周一氏 施工 浜口組 浜口勇吉氏 4月11日 定礎式 4月29日 棟上式 6月30日 着工 7月30日 献堂式
となっており、「献堂式は大正14年7月30日午後9時執行された。一人の信徒もいない時に二百名を容るる会堂が建った。感謝であり感激である。主よ一日も早くこの堂を救わるべき魂を以て満し給えとの祈りが次に続く祈りであった。当日の来会者は一九二名と報告されたが、その出発から恵まれ祝福された門出であった。芦屋開拓伝道の幻と抱負とが献堂報告書の後にかかげてあるが、郊外伝道への決意が見えている。 」と、新しい礼拝堂の正式な最初の礼拝は7月30日だったようで、私たちも今年教会の創立記念の礼拝は来週の23日に予定をしています。
◆さて芦屋打出教会そして芦屋キリスト教会の1世紀におよび歩みは、イエス様の今日のたとえ話を用いて考えると、どんな土地にまかれたものだったでしょうか。献堂式の出席者が192名ということを見ると、それは良い地にまかれたことを思わされます。しかし今の礼拝出席をしてくださる方は10名、道端なのか、いばらが覆う地であったのか、と考えさせられます。
◆そのとき私たちが見過ごしてはならないのは、そこで礼拝が今続けられていること、そこで神様の招きを感じ、イエス様の教えに従おうとする少数だけれどともに集い、祈る群れが集められていることです。良い地に置ちるということは、そこにまかれた種がそこで育ちつづけていることですし、そのためにパウロの言葉で言えば「植え、水を注ぎ続けて」こられた先輩たちの姿勢をしっかりと覚えることです。そのとき歴代の人々は「成長させてくださるのは神である」ことをより強く感じ続けられたことでしょう。
◆祈ります:神様、私たちの教会の現在を考えます、その集いの規模ではなく、そこに今も神様の招き、守り、支え、導きがあることを見つめさせてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
2023年7月23日(日)
創立98周年記念主日礼拝
メッセージ 「良い麦として」 田淵 結 牧師
マタイによる福音書13章24ー30,36-43節
◆今週の聖書日課も「畑にまかれた種」の物語です。今回は良い種がまかれた畑に、あとから悪い種がまかれたのでどうすべきかということですが、イエスは収穫の時までそのままにして、最後により分ければいいと語ります。収穫まで悪い種にも農夫は水や肥料を与えるので無駄な気もしますが、問題は農夫にはよい麦、悪い麦の見分けがつけられない、ということです。
◆私たちの教会の100年の歴史は、そのスタートはとても目覚ましいものでした。教会員ゼロのところですでに会堂建築が計画され、教会創立は新しい礼拝堂の完成とともに祝われたのです。その後の歩みは順調で、芦屋における日本組合教会(同志社系)の中心的な教会としての役割を果たしました。長谷川初音牧師はその教会の最初の婦人牧師のひとりとして注目されました。太平洋戦争後もその歩みは続きましたが、1970年ころからキリスト教界のなかに、ある意味革新的な動きが生じ、芦屋打出教会の姿勢そのものが保守的であると批判されたのち、教会のなかで紛争状態が生じました。その結果教会は分裂し、教会組織としての力は大きくそがれることになり、結局そのまま現在に至っています。
◆さて私たちの現在は、良い麦がそだっているのでしょうか、不安になります。でも私たちにはそれを自分たちに見分ける力はないのです。むしろそれぞれの状況のなかで、神様の導きを信じで、私たちの歩みを一歩ずつ歩み続けることこそ、私たちの課題ですし、そのなかで信じて祈る中で神様の御心を求め続けることこそ、私たちの課題なのでしょう。
◆祈りましょう、神様、私たちの今の姿を見つめるときに、そこに弱さを感じます、しかしそこにあなたの導きを信じつづける一人であれますように。私たちを支え、導いてください。御名によって祈ります。アーメン
2023年7月30日(日)
メッセージ 「からし種」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書13章31ー33、44-52節
◆宣教建築家と言われるウィリアム・メレル・ヴォーリズが、自らの日本での活動を北米に紹介する雑誌が"Mastard Seedか(からし種)"、でした。彼の活動の最初はどんな種によりも小さかったのですが、晩年には日本中に知られる、多数の活動成果を残しました。もっとも有名なものはメンソレータムの頒布販売で、日本の全家庭に浸透しました。
◆でも彼自身としての最も大きな成果は、有名な建築作品であることよりも、そこに「鳥が来て宿る」ことでした。最終的にはそこで人々が神様と出会い、その愛を感じ、その守りと慰めを得、新しい明日に向かっての歩みをふみだすための力が養われることだったのです。彼の建築作品はそのディテールの鑑賞よりも、そこで過ごす時間の質の高さを実感することにあるのです。
◆その生活の質、充実を感じることが、その建物の豪華さ、華美さ、ぜいたくさではなく、ほかの何物にもかえがたい貴さを実感することですし、それがそのひとの人生の大切な時間をかけがえのないものとしているのです。ヴォーリズが訴えたのは、英語でいうLifeの広い意味でした、それが人生であり、生活であり、生命そのものであること、その豊かさを感じることこそ、彼が目指した私たちの生き方なのです。
◆祈りましょう、神様、私たちの毎日の本当の豊かさが、あなたと共に生き、イエスの愛のなかに生かされることを知ることにあることを、改めて教えてください。御名によって祈ります、アーメン
8月
2023年8月6日(日)
メッセージ 「あなたがたの手で」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書14章13ー21節
◆今年も8月6日となりました。広島の原爆投下の日として覚えられるべき日ですが、実はその前夜には芦屋にも激しい空襲がありました。広島の惨状の陰に、私たちの身近で多くの人が家を焼かれ、命を奪われたことが忘れられてしまうのは残念なことです。戦争、それは私たちの身近に悲劇をもたらすのです。またその日私たちの教会は類焼を免れることができたのですが、それがかえってキリスト教はアメリカと通じているのでは、と心無い流言から非難されたともいわれます。
◆戦争はまさに国がその全力によって遂行するものですから、その当時私たち市民(当時の大日本帝国には市民や国民という考え方はなく、すべて天皇の臣民【臣下】でした)が国家に反対することなどはとても難しく、キリスト教そのものも軍国政府への協力を強いられていました。ある意味それがキリスト教が当時の社会に受けいれられる行き方でしたし、同時にとても大きな無力感を味合わされていた日々だったことでしょう。
◆5000人の群衆に食事をさせなさい、というイエスの求めに弟子たちは自分たちの無力さを痛感したことでしょうし、それは自分たちの責任ではないと「抗弁」できたでしょう。ところがそこにわずかな食料を持っている子どもがいました。その一人の子どもが状況を替えたのです。自分が無力であることをあきらめてしまうのか、そこに示されたたとえとても小さなものであっても可能性をしっかりと見つめるのか、そこに私たちがイエスが語る「平和を創り出す者」のひとりであるかどうかが試されているのです。
◆祈りましょう:神様、私たち人間が今もこの地上で繰り返し続ける戦争の無残さ、罪深さをあなたの前に懺悔します。私たちの無力さのなかで見失ってしまっている小さな可能性にしっかりと向き合うものとならせて下さい。Dona Nobis Pacem(平和を私たちに与えてください)。主の御名によって祈ります、アーメン。
2023年8月13日(日)
メッセージ 「しっかりするのだ、わたしである」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書14章22ー33節
◆日本社会ではお盆の季節となりました。8月はヒロシマ、ナガサキの記念日、このお盆、終戦(敗戦)記念日と、亡くなられた方々のことを追悼する季節でもあるようです。でも毎年毎年このような夏のひと月を過ごしながら、では私たちの社会は年々、より平和に、より国際間の緊張がなくなり、安心して過ごせるようになっているのでしょうか。むしろ逆ではないかという気もします。私たちは毎年この月に、本当に学ぶべきこと、考えるべきことを見過ごし続けているようにも思えます。
◆今日のマタイの物語は、弟子たちがガリラヤ湖で逆風のため小舟を漕ぎあぐねてしまった話です。そこにイエスは湖上を歩いて彼らに近づき、風を納めるのですが、ペテロがイエスと同じように水面を歩こうとして溺れかけるというエピソードが続きます。興味深いのは、弟子たちがガリラヤ湖を渡ろうとするとき、イエスはひとり祈っておられたということです。弟子たちの小舟に逆風が吹いてきたとき、どうすれば先に進めるかに夢中になりました。ペテロは自分もイエスのように奇跡的なことをやりたいと願いました。しかし彼らが見つめるべきことは、イエスの基本的な姿勢、祈ることだったのです。
◆私たちの8月は本当の祈りの月となっているのでしょうか、平和を求めるというときに私たちの頭のなかでの思いが先行して、本当に犠牲となった方々の苦しみ、悲しみ、痛みに共感しないままになってしまっているようです。イエスはガリラヤ湖上の弟子たちに「信仰の薄い者たち」と叱責します。自分たちの思いだけで物事をとらえ解決しようとするある意味傲慢さの中に彼ら、そして私たちがあるとき、イエスは私たちの基本姿勢を問い直します。そこに私たちの真剣な祈りがあるか、その困難さのなかで謙虚に神様の導きの中に現状を打開し、解決する可能性を求め続けること、私たちにとってそのような8月を送りたいと思います。
◆祈りましょう:神様、今年もまた私たちの社会での8月を迎えます。本当にこの月だからこそ私たちの社会の歩みを、歴史を振り返り、そこから私たちの本当の課題を、あなたの導きのなかで、祈りを通じて教えられることができますように。どうぞあなたの平和をお与え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
聖書 マタイによる福音書(10-20)21-28節
◆キリスト教が世界宗教だといわれるのは、それは地域や民族を超えて世界中で信仰されているからで、世界の人々がともに姉妹兄弟として愛し合うということが当然だと思われます。しかし、今日の聖書の記事の中で、イエスはユダヤ人ではない一人の女性にかなり冷たい態度を示します。自分はイスラエルの人々に対して福音を語るために遣わされている、と。キリスト教としてはこのイエスの態度は悩ましいところがあります。イエスも一人のユダヤ人として生きられたのかもしれません。でも結局その女性のイエスへの求めの真剣さ、イエスこそが自分の願いを受け止められる方であるという信仰を高く評価します。この物語は、信仰は民族などの違いを超えるということなのでしょう。
◆世界中のクリスチャンたちがみな姉妹兄弟であるということ、それはともに一人の神、一人の神の子、救い主であるイエス・キリストへの真剣な信仰を持つことが、いやそのことだけが重要なのです。しかし私たちはどうしても、とりあえず表面的に仲良く、親しみ深くあることで確かめようとするのですが、それはまったく逆です。キリスト教は愛の宗教であり、平和を求めますが、それは神様が与えてくださる愛だり、平和なのですが、どうも私たちはそれを人間中心にまず考えてしまうのです。
◆この異邦人の女性はイエスに信仰を認められ、願いがかなえられました。そこで私たちはその女性のために神に感謝し、喜びを共にし、お互いの信仰を通じての交わりを固く持つことができます。では私たち自身の信仰は、と問われるとどこか心もとなさを感じざるをえません。今日の物語を繰り返し読みなおしたいと思います。私たちがこのひとりの女性と、信仰を通じて仲間であれることを改めて考え直すために。
◆祈りましょう、神様、私たちひとりひとりが何よりも信仰を前提として、ともに愛し、支え、励まし、慰めあう仲間となりえますように、あなたの支えを祈ります。主の御名によって祈ります、アーメン。
2023年8月27日(日)
メッセージ 「あなたこそ生ける神の子キリストです」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書16章13-20節
◆今日のマタイ福音書の言葉は、ある意味キリスト教の中心的な信仰を語っています。「あなた(イエス)こそ…キリストです」、この言葉を口にしたペテロは世界で最初のクリスチャンとなったのです。キリスト教の信仰、それは飼い葉おけに生まれゴルゴダの丘で十字架につけられたあのイエスだけが、私たちにとってキリスト(救い主)だと信じることだからです。
◆キリストという言葉はギリシャ語で、もともとはヘブライ語のメシアを翻訳したものです。ユダヤ人たちに輝かしい世界を実現する存在として旧約の時代を通じて長く待望されてきたのですが、ペテロはそれがイエスだと宣言したのです。ユダヤ人だけの言葉であるヘブライ語のメシヤが、当時地中海世界で広く用いられていた共通語であったギリシャ語でキリストと告白されたこと、クリスマスの夜天使たちが告げた「すべての民に与えられる」希望をもたらす者こそイエスだ、ということをペテロはイエスとともに歩むなかで実感したのでしょう。
◆イエスをキリストだと信じる、ということを言葉や理屈で説明することはもちろん可能です。でもそれは、私たちの生活のなかでもまたイエスとともに歩むという経験のなかで実感されるものでもあるのです。私たちの場合、祈りを通じてイエスと出会い、語り合う体験を通じての体験、そこに私たちがイエスをキリストと告白する一人となることができるのです。
◆祈りましょう、主イエス・キリストの父なる神、どうぞ私たちが常に祈るものとならせてください。それによってあなたが私たちと共にあることを常に覚えさせてください。イエスの御名によって、アーメン
9月
2023年9月3日(日)
メッセージ 「あなたは神のことを思わないで…」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書16章21-28節
◆今日の聖書の記事は、ここに登場するペトロがどんでんがえしともいうべき失態を行った物語です。その直前で彼はイエスを「生ける神の子キリスト」と告白して、イエスから天国の鍵を授けられるまでに高く評価されたのです。そのペテロがここでば「サタン!」と強く叱責されます。ということは、ペトロはイエスのことがまったく分かっていなかった、いや自分なりに勝手にこうだと決めつけていたということが暴露されました。
◆ギリシャ語でいうキリスト、それはユダヤ人たちの言葉であるヘブライ語でメシア(救世主)ですね。でも救世主というとき、私たちはつい自分、自分たちを中心にそれを考えてしまっているのではないでしょうか。ユダヤ人がメシアを自分たちの民族の枠内で考え始めると、そこからとても強い民族主義が生まれてしまったのです。本来のメシアあるいはキリスト、それは私たちではなく神様を中心とするものであることを考えると、私たちのイメージとはまったく逆の内容となるのです。
◆私たちが自分たちだけの祝福のみを求めると、そのときほかの人たち、今本当に困難のなかにあり、真剣に神様の救いを求めている人たちのことが忘れられてしまいます。キリスト教が隣人愛を語るというのは、私たちが本当に神様の救いを求めている人たちのために祈る存在であることをいつも覚えているということなのです。まさにイエスご自身が十字架を負い死を迎えられたということこそ、そのような人たちとともに生き抜かれた姿そのものです。
◆祈りましょう。神様、私たちの信仰の姿勢を振り返ります。神様の救いを求めることの本当の意味をつねに覚えるひとりとしてください。すべての人を愛された主、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2023年9月10日(日)
メッセージ 「二人、また三人が」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書18章15~20節
◆今日のイエスの言葉は私たちにとってはとても励ましに満ちたものです。二人または三人が集まればイエス様がともにいてくださる。私たちの教会の現状として礼拝出席の方々は二人または三人よりは多いとしても決して大人数ではありません。それでも毎回の礼拝が続けられるのは、まさにこのイエス様の言葉があるからです。と同時にこの言葉からもうひとつのことが教えられるのです。
◆何かの犯罪があったら、そこで二人または三人の証人の証言が求められます。そのときその二人または三人の方々には重大な使命と試練に直面させられます。多くの人たちが一緒にいてば私たちはそのなかに紛れ込めます。ところが二人または三人だとすぎに、あれは誰だ!と知られてしまいます。自分がっ目立ったしまうのです。そしてそのとき、イエス様がそこにおられる、ということです。
◆あなたが地上でつなぐことは天でもつながれる、この言葉はペトロがイエスをキリストと告白し天国の鍵を託されたときに彼に語られたのと同じ言葉です。後に初代ローマ教皇とされるペトロと同じように、私たちがたとえ二人または三人という数少ない者であり、無力さや寂しさを感じさせられたとしても、そこに私たちが留まることによって、私たちもまたイエス様とともに歩むのです。
◆祈りましょう。イエス様が私たちとおられるというそのことによって、常に私たちを励まし、導いてください。御名によって祈ります。アーメン。
2023年9月17日(日)
メッセージ 「七たびを七十倍」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書18章21~35節
◆ユダヤ人のジョークのなかに、クリスチャンとの会話のひとこまがあります。クリスチャンがユダヤ人に対して「あなたがたは旧約聖書のなかにある復讐する神様を信じているようだが、私たちはイエスの愛の神を信じているんだ」、と語ると「だからあなたがたは愛することを神様に任せて、自分たちで憎しみあっているのですか?」と切り返されたというものです。
◆宗教があるから戦争がある、十字軍や植民地征服などの歴史を見ると、確かにクリスチャンが他者を愛し赦すことをしてこなかったようです。じつはそれだけ人を赦すことのむつかしさは私たち自身のこととしても反省させられれます。でもその考え方は、イエスの今日の教えのポイントを見逃しているようにも思えます。
◆イエスは私たちが赦す立場にあるのではなく、赦される立場にあることを訴えます。私たちがそのことに気づかないでいるからこそ、他者を赦すことの意味が分からないのです。マザーテレサの「愛されたことのない人は愛することができない」という言葉が思い起こされます。
◆祈りましょう、神様、私たちをあなたがイエス・キリストによってゆるし、うけいれてくださること、その愛の中に生きるものであることを日々思わせてください。御名によって祈ります、アーメン。
2023年9月24日(日)
メッセージ 「一日一デナリ」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書20章1-16節
◆今日のマタイによる福音書はとても有名で、とても批判の多いものです。一日中働いた人と一時間しか果たらなかったひとが同じ賃金だ、というのですから。その疑問を持つ私たちはとても大事な言葉を読み飛ばしているのでしょう。この物語の最初は「天国は」で始まります。これは人の国のことではないし、神様の思いが実現するということが前提なのです。そして私たちは毎回礼拝で「御国を来たらせたまえ」(あなたの思いが実現しますように)と主の祈りを祈り続けているのですが。
◆人間の常識、それは私たちの努力は正しく報われるべきだ、というものです。長時間はたらけばそれなりの報酬は当然だ。でも神様の目からみれば、私たちはすべて神様の前に同じ一人の人間んとして造られ生かされているのです。ですから一日働いた人も、一時間しか働かなかったひとも、同じ存在なのです。一デナリ、それは一つの家族が一日生きることのできるお金です。どんな人もその一日を生きるのです。
◆一日中働いた人が見つめるべきことは、自分がそれだけ働ける健康を与えられていることをまず感謝すべきですし、それがゆるされていない人への思いやりではないでしょうか。「今日の日ごとの糧を与えたまえ」、イエスが教えた祈り、それは自分のためではなく「わたしたち」のためです。私たちの視野をひろげてみると、この祈りの切実さ、そして今日のたとえ話の真実さが伝わってきます。
◆祈りましょう、神様、御国を来たらせてください。今日も私たちに今日のパンを与えてください。アーメン
10月
2023年10月1日(日)
メッセージ 「あとのものがさきに」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書21章23-32節
◆日本政治のなかで行政によって行われることは、すべてそれが根拠となる法律に従ってなされています。ではその行政の働きは本当に私たちの社会をよりよく、豊かにしてきているでしょうか。確かに法令順守なのですが、それはそこに書かれている言葉に従っているだけで、その法が本来目指す状況からは外れてしまうということなのです。法律、それはそれを「どう使いこなすか」「どう解釈するか」が肝心とさえ言われるのです。適法だけど脱法ということですね。
◆今日のイエスのたとえ話のなかで、父親の求めに対してただ言葉だけで従うのではなく、父親の思いを実行することが最も大事だし、この記事で面白いのは弟が結果としてブドウ園にいったことを父親は知らないままでいる、というところでしょう。ヨハネのわざが神様の権威によるものかどうか、それを問われた当時のユダヤ人宗教家たちは「わかりません」と答えます。彼らが知っている常識からいうととてもそうは思えないけれど、その働きそのものはまさに神様の愛を実践している。と言ってイエスを神の子と認めることは、当時のユダヤ教社会のなかで自分たちの立場を悪くしてしまう。
◆イエスが愛について語るとき、それをどう言葉で説明するよりも、それをどうあなたが自分の毎日の生活の中で実践しているかに彼の関心があります。ただし愛を実践するということは、自分が神様に愛されていることを深く受け止めながら、その喜びのなかから、神様への感謝の思いから生まれてくるものなのです。「わかりません」と答えた人々は、実は神様から自分が愛されていることを実感できていなかったのでしょう。
◆祈りましょう、神様、私たちがことばとして以上に、そのことばが私たちの生活の中で生きたものとなり、私たちをそのように動かすものとして生きる者であれますように。あなたの導きと支えを祈ります。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
2023年10月8日(日)
メッセージ 「その子を彼らの所につかわし」 田淵 結 牧師
マタイによる福音書21章33-46節
◆私たちがキリスト教のこと、聖書のことをよく知りたいと思うとき、そこにおおきな「見えない壁」のようなものがあります。ある意味いそれは私たちの言葉そのものがもっているものでもあるのです。つまり書いてある文章からそのままそこに書かれている内容をすぐに理解できない、文字そのものと意味とのずれのようなものがあるからです。今日のイエスのたとえ話も、書いてあるのはあるぶどう園での出来事ですが、それを旧約をも含めた聖書のながれのなかで読むと、ここにイエス自身とは誰なのかということがはっきりと語られていることに気づくことができるのです。
◆「群衆はイエスを預言者だと思っていた」と締めくくられているように、この物語は旧約の時代に多くの預言者がイスラエルで活躍したことを思い起こさせます。エリヤ、イザヤ、エレミヤたちのほかにたくさんの預言者が活躍しましたが、ほとんどは人々に自分のメッセージも聞かれることもなく生涯を終わります。エレミヤは神が自分をだまして預言者にしたのでは、とその苦衷を語ります。神様がぶどう園の主人、そこに遣わされて主人の思いをおこなおうとしたのが預言者だったのですね。
◆そしてその最後に遣わされた「あととり」こそイエスご自身でしたし、まさに人々がイエスを十字架につけてしまったように、礎石の大切さもわからずにそれを捨ててしまった愚かな人々のように。イエス自身も社会受けいれられなかったのです。そしてそのイエスの本当の意味を受けいれることのできる人に。ぶどう園つまり神様の造られた世界の豊かさを受け継ぐことができるのです。さて私たちはその豊かさを受け継ぐ一人であることを知っているのでしょうか。
◆祈りましょう、神様、私たちのもとにイエスが来られたこと、その大きな意味をしっかりと受け止めることができますように。それによって私たちに約束されていることの豊かさを知る一人であれますように。私たちの心と思いを開いてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2023年10月15日(日)
メッセージ 「招かれた人、選ばれた人」 田淵 結 牧師
マタイによる福音書22章1-14節
●このたとえ話はけっして理解しやすいものではありませんし、そこから何か「ありがたい」教えを読み取れるのかと思わされてしまいます。ひとつにはそのたとえがあまりにも私からかけ離れているからでしょう。王様が王子の結婚披露宴の招待状を送る、おとぎ話的で私自身想像がつきません。しかも最初まねかれた人たちはみんなそれを無視し、王様が軍隊を送ってみんなを滅ぼし、街にいる人を手あたり次第呼んでこさせる。ところがそこに礼服を着ていない人がいたので、その人も追放したなんて。
●なぜこの主人はこんなにひどい仕打ちを人々にしたのでしょう。物語の流れの中でひとつ共通するのは、厳しい処分を受けた人がみんな「答えなかった」というところが気になります。なぜ子に人たちはこんな態度をとっているのでしょう。ノーコメントという答え方、相手を無視する答え方は、答える方にすれば自分は態度を保留している、何も言っていないということですが、問いかける側からは明らかに拒否されたと思われます。それはその招待者である主人の存在そのもものをも認めないという姿勢です。
●マザーテレサの言葉のなかに「愛することの反対は無関心だ」というものがあります。神様に招かれていること、愛されていること、それを無視しつづけること、それは実はもっとも明確な自己中心主義の現れでもあるのですし、実は現代社会の私たちも「科学万能」などという言い方で宗教・信仰・神様の存在を軽んじ、否定し続けているのではないでしょうか。さてその私たちを待ち受ける未来の姿とはどんなものなでしょう。
●祈りましょう、神様、という言い方すらを見失っている私たちの現実への不安を強く覚えます。戦い、差別、格差、そのようななかであなたの愛を感じる私たちの生き方を導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2023年10月22日(日)
メッセージ 「カイサルのもの、神のもの」 田淵 結 牧師
マタイによる福音書22章15~22節
●宗教改革者マルチン・ルターの考え方のなかに「二王国説」というものがあります。今日の聖書の箇所のように、私たちは現実には人間的な支配者(王)に仕えているが、宗教的に神様に仕えて生きている、という二つの現実を前提とするものです。自分たちは宗教的に正しいと自認するパリサイ人たちは、そのような立場でイエスに議論を挑みます。当時のユダヤ人にとっては、異邦人支配者であるローマ人に税金を納めることに強い抵抗感があったのでしょう。
●ここでイエス様は一見、ルターのように私たちの二つの生活の場を前提として切り分けているように思えるのですが、実はその二つの現実をどう生きるのかということを、逆にパリサイ人たちに問い返しているのです。何が神の支配のもとにあり、何が人間的な支配もとにあるのか。そして問題は、本当に人々そして私たちは神様の支配をどこまで真剣に考えているだろうか、ということが問われているのです。
●このように私たちが二つの現実のなかに生きているという言い方をすると、それぞれの現実を「適当に」過ごしてしまう弱さを感じます。私たちが真剣に神様を信じて生きるからこそ、この社会でのよき市民であり、その責任を果たすひとりであるはずなのです。つまり基本的に聖書の考え方は、神様が自然のすべてを創造者であり支配者ということですが、だからこそこの社会の現実の支配者がまた真に神様の思いを実行するものとして私たちがそれに関わり、主張してゆく責任にも気づかされるのです。
●祈りましょう、神様、この社会にいきる一人として、そのなかであなたの導きと支えを常に感じつつ、この社会での私たちの責任を果たすひとりとならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
2023年10月29日(日)
メッセージ 「キリストをどう思うか」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書22章34-46節
●私たちがごく普通に「キリスト」という言葉を礼拝でも使いますが、その言葉の意味をきちんと理解しているのでしょうか。今日の聖書の個所で、イエスはキリストとはどんな存在か?と尋ねます。マタイ福音書の別の場所(16:13)で人々が自分のことを誰だと言っているのかという問いかけとはかなり意味が違います。キリストとは誰か? イエスとは誰か? その違いは何でしょう。
●イエスの時代のユダヤ人たちが「キリストとは?」と問われると、必ず旧約聖書のなかで彼らに約束されたメシア(ユダヤ人ユダヤ人の言葉へブライ語の「メシア」をギリシャ語に訳すと「救世主」と訳されるように、自分たちの苦しみを救い輝かしい未来を実現するために神から遣わされる存在なのです。そして彼らはそれを「ダビデの子」と語ります。古代イスラエルの最も偉大な王ダビデの姿、それがメシアと重ね合わせられます。
●イエスはキリストは、ダビデ自身が主と呼んだようにダビデ以上の存在なのだと語ります。政治的軍事的支配者ではなく、そのメシアとの出会いによって私たちがすべてをつくして神を愛し、自分自身と隣人と愛すことによって私たちを「救う」存在であることを示されるのです。そこで私たちは「イエスとは誰か」を考えることができるのです。イエスこそ、真に神様から私たちのもとに遣わされたキリスト(メシア)だと。
●祈りましょう:神様、私たちが自分の小さな思いのなかで受け止めるキリストではなく、十字架の死に至るまであなたの愛を示し続けられたイエスこそが私たちの救い主であるというたった一つの事実を、私たちに受け入れ、信じさせてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
11月
・2023年11月5日(日)
メッセージ 「あなたがたがみな」 田淵 結
マタイによる福音書23章1-12節
◆福音書ではイエスはよくファリサイ派の人たちを批判し、時に「偽善者」とさえ呼んでいます。それは彼らはユダヤ教のおきてを厳守し、ひとびとにそれを強制するのですが、それを求めることの中に自分たちがほかの人々以上にそれを実行できるということを自慢しようとするうぬぼれがあるからです。そんな人々にとって、どんな人でも神様に愛される仲間という考え方は受けいれられないことになります。
◆私たちが英語で会話するとき、ひとつ大きなポイントを教えられていないところがあります。What is your name? そこで尋ねられているのは、あなたはどう呼ばれたいですか?ですから、 I am Musubi.でもいいのですが、そこで相手と私が友人ならばファーストネームでお互いを呼びあうのですね。ところが日本社会では建前的に相手を尊敬することが求められると、つい「先生」などという敬称をつけてしまいます。
◆私たちにとってもっとも大切で意味のある人間関係は仲間同士としてつながりです。でも日本語で苗字以外の名前で呼ぶと「なれなれしすぎる」とひんしゅくをかってしまいます。でもそこにはお互いの本当のつながりなど生まれません。私たともに神様に愛され、支えられ、生かされる者tとして、同じ仲間であるというお互いを受けとめあう姿勢のなかでこそ、私たちの豊かな人間関係がうまれてくるのです。
◆祈りましょう、神様あなたたは私たちに互いに愛し合うことを教えておられます。それは私たちがどのようなあり方であっても、あなから愛されているひとりであることから始まります。どうぞ私たちが、愛し合うこと、受けいれ合うことのなかで日々の出会いを持ち続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
・2023年11月12日(日)
メッセージ 「目をさましていなさい 」 田淵 結
聖書 マタイによる福音書25章1~13節
◆先週滋賀県豊郷町にある豊郷小学校旧校舎群を訪ねてきました。旧というのはこの校舎が老朽化したので時の豊郷町長氏がそれを解体して新校舎建設を予定されたからです。ところが旧校舎はミッショナリー・アーキテクトと呼ばれたウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計によるもので、解体には強い反対運動がおこり、旧校舎をそのままにして新校舎が建てられたという経緯がありました。
◆その旧校舎の一階から三階までの階段の踊り場のところにはウサギとカメの物語を表した小さな像が置かれており、途中ウサギさんがさぼって寝っ転がっているものなどは、あまり他人事とは思えませんでした。今日のマタイの福音書の物語でもまさに、愚かな女性たちは花婿を迎えるための決定的な時に眠り込んでしまって、結局自分たちの祝宴に入ることができなかったのです。
◆そこで気が抜けてしまうと、これぐらいは大丈夫だと思ってしまうと、その瞬間の持っている意味や大切さをつかみそこなってしまう、そしてその瞬間は人生で一回限りのことかもしれないのです。ある意味それが人生というものの厳しい現実ですが、私たちはそれに感になってしまって、眠りこけたウサギさんをバカにしてすませてはいないでしょうか。
◆祈りましょう:神様、私たちが生きるなかで、その瞬間を見過ごしてしまいがちです。私たちを試みに合わせずに、と祈ることの大事さを改めて思います。常にその時に備えて目を覚まし続ける一人としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
・2023年11月19日(日)
メッセージ 「あなたのタラントン」 田淵 結
聖 書 マタイによる福音書 25章14~30節
●教会のカレンダーでのこの一年も残りわずかとなりました。11月の聖書の個所は「終末」(最後のとき)がテーマとなっていて、今日の物語も主人がしもべたちに託した、あるいは投資したお金の精算のときの物語です。三人のうち二人は資金を倍にしたのに三人目は何もしなかった、つまり神様から託されている能力(タレント=タラント)を、私たちは何もしないままにほったらかしにしているのでは、という問いかけですね。
●私自身も臆病なひとりですから、投資ということには消極的になりがちです。失敗したら「元も子もなくなってしまう」ことを恐れます。だから日本政府が貯蓄よりも投資などと言われると、それで大丈夫かと不安になってしまうのです。私たち自身のタレントを投資するということはどういうことなのでしょう。今日の聖書のなかに「忠実」「怠惰」という言葉がでてきます。主人は儲けの結果を第一に気にはしていない、むしろ彼らの姿勢、態度に注目しているのです。
●自分に託されているものを大事にしない、まさに自分から自分自身を信じないということほど寂しいことはないでしょう。その私自身に神様が豊かな可能性を与えていてくださっていることを信じることから、私たちの夢や希望が広がっているのです。
●祈りましょう。神様、私たちが自分自身に与えられている可能性をいつも見つめる続けるひとりであらせてください。そのときにあなたの愛を強く感じることができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
・2023年11月26日(日)
終末主日礼拝
メッセージ 「たしたちはお世話をしませんでしたか」 田淵 結
聖書 マタイによる福音書25章31~46節
◆もう11月になると街中ではクリスマスのムードが漂い始めると、私はひとつの違和感を(毎年)持たされます。それはあくまでも日本社会の近頃の慣習?でしかなく、キリスト教のカレンダーでは「クリスマスを迎える前に」大切なことがいくつかあります。感謝祭(サンクスギビング)、そしてアドヴェントです。
◆Thanks Giving 文字通り「感謝をささげる」ということでしょうか。これまで私たちがいかに豊かな時を過ごせたかを振り返るときですし、それをゆるされている一人としての責任、だからこそのなすべきことを考えるときでもあるのです。
◆この一年、世界的な紛争・戦争、経済的な混乱、政治への不信などがいろいろありました。それは私たちにとって以上に、その現実に直面されている方々にはとても深刻な事態です。私たちが今平和に過ごせること、その私たちだからその方々の現実のために何かを果たすためなのでしょう。私たちの豊かさが、私たち「だけ」の豊かさとされているところからは決してより良い社会は生まれてこないのです。「たしたちはお世話をしませんでしたか」という問いは、まず私たち自身に向けられるべきなのでしょう。
◆祈りましょう、神様、教会のカレンダーでの一年の終わりを迎えます。この一年のあなたの支えとお恵みを感謝し、それが私たちだけのものとして与えられていないこと、そのことを強く思わせてください。主イエス・キリストの御名によいって祈ります。アーメン
12月
2023年12月3日(日)
アドヴェント(待降節)第一主日
メッセージ 「人の子が戸口まで近づいている」 田淵 結
聖書 マルコによる福音書13章24ー37節
●芦屋キリスト教会の礼拝室には二枚の大きなイエス・キリストの絵があります。もともと芦屋打出教会礼拝堂全面に掲げられていた長尾己画伯による、有名な作品の模写ですが、その一枚がの原画はイギリスセントポール寺院にある「世の光キリスト」です。イエスが家の扉の外からその戸を叩いているのですが、そのドアには外側の取っ手がなく、中の人が開かない限りイエスはそこに入れないという有名な作品です(ヨハネ黙示録3章20節)。
●私達がアドヴェントを迎えるというのは、まさにこの絵が示すように、イエス・キリストが私達を訪れようとされているときに、私達はどうするか、ということが問われるときなのです。イエスが扉をノックされているその音に応えるか、無視するか、あるいは気づかないままにすごしてすまうのか。です。
●イエスを迎え入れる、そのためにはそれまでの私達の過ごし方を変えることが必要です。ノックの音に気づくためには騒がしさを落ち着かせる、仕事の手を止める、そして玄関まで出迎える、そのまえに室内を片付ける・・・。そしてその来訪者がとても大切な方であるならば、私たちの生き方そのものも変わってしまうでしょう。
●本当に私たちはイエス・キリストの訪問を待ち望んでいるのでしょうか 年末の忙しあsのなかでは、今やっていることから手も離せない。ましてその方と時間をとって話したり、そのことで自分の今までをどうこうするなんて全く考えられない。でもそこにクリスjマスがやってくるのです。だからこそ本当にクリスマスを迎えるのはとてのはとてもむずかしいことになっているのでしょう。
●祈りましょう:神様、アドヴェントを迎えます。あなたをお迎えすることのできるために私たちの毎日の在り方を整えることができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
2023年12月10日(日)
アドヴェント(待降節)第二主日礼拝
メッセージ 「主の道を備えよ」 田淵 結 牧師
聖書 マルコによる福音書1章1-8節
●クリスマス、カタカナでははっきりしませんが英語ではChrist-mas、ちゃんとそこに「キリスト」ということばが記されています。キリストのお祭りです、そして幼子イエスの誕生をお祝いするということですね。その物語はマタイとルカの福音書に記されています(伝統的に12月24日にルカ、1月6日にマタイが読まれることになっていますが)。しかしマルコやヨハネの福音書にはクリスマス物語はありません。でも今日の聖書はマルコによる福音書からのものです。
●キリストのお祭り、それはイエスの誕生の物語を知ることとともに、その意味を考えることが大切なのです。マルコ福音書は、旧約聖書イザヤ書40章をイメージしながら「主の道を備える」ことを私たちに求めます。それによって私たちのところに主イエス・キリストが来られる、それがクリスマスです。さて私たちは主をお迎えする用意ができているのでしょうか、それ以上に主をお迎えするにふさわしいひとりなのでしょうか。
●主イエスがこれらる前、その先駆けとして「バプテスマ(洗礼者)のヨハネ」が登場します。人々が本当に主をお迎えするにふさわしいかを問いかけていました。バプテスマ、それは私たちが古い自分に死んで新しい自分に生まれるという、ウエス・キリストの復活を意味する儀式ですが、イエスを主として迎える私たちの最大の生き方なのでしょう。
●古い自分に死ぬ、クリスマスはそのための出来事なのでそう。神の子イエス・キリストが私たちのところに来られた、私たちはその幼子と本当の出会いを体験するとき、今までとは違った人生へと招かれていくのです。ちょうど東から来た博士たちが、ベツレヘムからは別の道を通って帰っていったように。
●祈りましょう、神様、今年のクリスマスが幼子イエス・キリストとの本当の出会いのときとなりますように、あなたの導きを祈ります。主の御名によって、アーメン。
2023年12月17日(日)
アドヴェント第三主日
メッセージ 「あなたはどなたですか」
聖書 ヨハネによる福音書1章6~8,19~28節
●今週の聖書箇所は先週、マルコによる福音書で読んだバプテスマのヨハネについてのヨハネ福音書からの記事です。ここで当時のユダヤ人社会での宗教的指導者がヨハネに「あなたはどなたですか」と質問します。しかしその前にこの福音書では「彼は光ではなく、光について証しする」ひとりであったと説明しています。それ以上に「すべての人が彼によって信じるようになるため」の存在だとも。
●クリスマスデコレーションでなくてはならないものは星ですね。ツリーのてっぺんには大きなトップスターが飾られます。でも星の多くは、それ自身が光るというものというよりも、太陽の光を反射しているようです。そしてその星に導かれて東方から(伝説によると三人の)博士たちがイエスの生まれた馬小屋にやってきます。ところがこの博士来訪の物語のなかに、あるとき星が輝きを失ってしまったとき、博士たちは自分たちの判断で道を誤りヘロデ王の宮殿に「新しく生まれる王」を探しに行き、それが結局ベツレヘム周辺の三歳以下の男児すべての虐殺事件を引き起こします。
●私たちが自分の考え方、生き方の正しさを、自分自身の思いや考え方のなかだけで主張することの恐ろしさ、危険性を実はクリスマスの物語、そしてバプテスマのヨハネの物語は語っています。クリスマスは、主イエス・キリストの誕生を祝うということのなかに、私たちが幼子イエスの前に謙虚となり、イエスの存在の輝きに自分たちが照らされて、その明るさを信じて歩み始めることなのです。そのとき、イエスの輝きに照らされた私たちが、周囲の人たちに喜びと希望を伝えるひとりとなっているのです。
●祈りましょう、神様、私たちをあなたが与えてくださるクリスマスの輝きのなかに包んで下さい。あなたの明るさを信じて歩み続ける第一歩としてのクリスマスを迎えることができますように、ベツレヘムに生まれられた御子イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
2023年12月24日(日)
アドヴェント第四主日
クリスマス礼拝メッセージ 「Dona Nobis Pacem 平和を与えたまえ」
聖書 ルカによる福音書 2章1~20節
●いよいよ今年もクリスマスがやってきました。毎年日本の社会で思わされるのは12月25日でクリスマスは終わり、というのは本当に残念です。25日からクリスマスは始まるのです。そして本当にクリスマスを迎えることができるとき、その思いはそれからの私たちの生涯にわたってとても大きな意味を持ち続けるのです。
●聖書に描かれたクリスマスの中心的な物語のひとつはルカによる福音書の記事ですね。とても若い夫婦がはるばる旅をしてベツレヘムにやってきますが、子どもが生まれようとするときその二人には泊まるとこもなく、馬小屋(ということはは出てきませんが)の飼い葉おけが幼な子イエスのゆりかごとなったのです。聖しこの夜をはじめとするクリスマスの讃美歌はの多くは、やさしくゆりかごを揺らす子守歌のを思わせます。
●イエス誕生の知らせを最初に知らされたのは羊飼いたちでした。天使たちの輝かかしい合唱を耳にした彼らが、実際に目にしたのは、あの貧しい飼い葉おけのイエスでしたが、そのとき彼らはそれが天使たちの話たことなのだと理解し、喜びにあふれて神様を賛美しながら帰っていったのです。
●私たちの身近な、みすぼらしさの中に神様の輝きを見出し、よろこびを感じること、そこにすべての人に与えられる平和があるのです。私たちにとっては変りばえのしないことなのですが、そこに神様が祝福と希望と愛とを置いていて下さることへの気づき、そこにおさなごイエスをお迎えできることの幸せ、そのイエスと私たちの出会いがあるからこそ、それが私たちの生き方を大きく変えるのです。さあ、クリスマスが始まります、イエス様をお迎えし、私たちのよろこびをより深く、確かなものとして受け止めましょう。
●祈りましょう、神様、クリスマスのよろこびで私たちを満たしてください。あなたの平和が私たちの世界に、社会に生まれますように。ベツレヘムに生まれられた御子イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
2023年12月31日(日)
メッセージ 「主よ、今こそ」 田淵 結 牧師
聖書 ルカによる福音書2章22~40節
●ルカによる福音書に記されるイエスの誕生物語(クリスマス物語)は、その前後にもいくつかエピソードが記されています。今日のテキストにはシメオンという老人が、幼子イエスと出会うという物語です。彼は敬虔な人でイスラエルにメシア(そのヘブル語をギリシャ語に翻訳するとキリスト)と出会うまでは死なない、というよりもメシアとの出会いを待ち続けていた一人でした。
●シメオンが神殿で幼子イエスと出会う、つまり彼のクリスマスがその日ようやく訪れたのです。そして彼はこれで自分は「安らかに去らせ」られると語ります。つまりクリスマスこそが彼の人生の最大の目的、ゴールだったのです。イエスに出会うこと、それで彼は初めて自分の人生の最後まで平安、喜び、希望に満ちて生き抜くことができたのでしょう。
●それは東からやってきた学者たちも同じでした。はるばるとやってきた旅路、それは彼らの生涯の歩みを続けて、大きな喜びに出会い、それがその後の新しい歩みのあたらしいスタートとなったのです。クリスマスがもたらしてくれる平安と慰めのとき、年末だからこそ落ち着いてその大切さを味わいたいと願います。どうぞよき2024年を!
●祈りましょう、神様、多くの人々がイエスとの出会い、クリスマスによってそれぞれの人生の豊かさを知りました。今年のクリスマスも私たちにとって、そのような意味あるものとなりますように。ベツレヘムに生まれたもうた幼子、イエス・キリストの御名によってお祈ります。アーメン