2022年6月5日 芦屋キリスト教会 聖霊降臨日(ペンテコステ)主日
説教:「神に選ばれたひとりとして」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 9章1~18節
今年は6月5日の日曜日はペンテコステ。使徒言行録2章でイエスが復活して天に帰ったのち、地上に残された弟子たちの上に「聖霊」が降り彼らに新しい力が与えられ、世界に向かってイエスの福音を宣べ伝え始めました。キリスト教の三大祝祭のひとつ「教会の誕生日」とされています。
ローマ人への手紙9章で、パウロは彼の内面的な苦しみを率直に吐露します。彼の「深い悲しみ・・・、絶え間ない痛み」が、自分がイスラエル人として生涯もちつづけてきた確信が奪われるということだったのでしょう。つまりユダヤ人であることが神様の前で特別だということがもはや通用しないということの認識です。
でも神様はユダヤ人だからではなく、「神は御自分が憐れみたいと思う者」を愛されるということ、だからこそ自分自身が復活のイエスに出会う中で神様に選ばれた一人であることを信じる信仰に固くたち続けることを訴えるのです。ペンテコステの朝、弟子たちはまさにそのような選びを、聖霊を受けることによって確信したのです。
祈りましょう:神様、私たち自身のなかにあるものによってではなく、ただあなたが私たちを選んでくださったということによって、今この世界に生きる私たちにあなたの息吹、聖霊にふれることのなかで、希望をお与えくださいますように。御名によって祈ります。アーメン
2022年6月12日 芦屋キリスト教会 三位一体主日 (芦屋キリスト教会ペンテコステ礼拝)
説教:「神様に召された者の集まり:教会」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 9章19~33節
先週6月5日の日曜日はペンテコステ。地上に残された弟子たちの上に「聖霊」が降り彼らが新しい力を与えられて世界に向かって福音を宣べ伝え始めた、「教会の誕生日」です。そして世界の歴史が大きく変わったのです。それまでユダヤ人を中心とする小さなグループの中で受け入れられていたイエスの福音が、世界中の、まさに今日の聖書の中に旧約の預言者ホセアやイザヤの言葉を引用しながら紹介されているように、世界中に広められるようになった。キリスト教が世界宗教として広がる第一歩なのでした。
今そうなってしまっているから当たり前のことですが、今から2000年前、はるか遠くのイスラエルの地で語られた一人の人の言葉、それを現在、ここで、私たちが聞き、それについて考えることができるようになっているのは、決して当たり前のことではないのです。その言葉を伝えるために命がけで働いた人々によって今があるのです。1613年6月8日、長崎県平戸市生月島の隣の中江の島でヨハネ次郎右衛門(47歳)が、キリシタン信仰のゆえに処刑されました。なぜそこまでして、それは私たち一人ひとりが土くれに過ぎないとしか思えない中で神様がその栄光のすばらしさのなかに生かしてくださるという経験を次郎右衛門さんも与えられたからとしか説明できないのです。
教会の働き、それは復活のイエスを天に送ったのち、社会の状況がどのようなものであったとしても、イエスの福音を語り続けることなのです。教会の礼拝が英語でService(奉仕)と呼ばれるのは、神様に選ばれ愛されている者が、無理なく自然に、当然のこととして行う私たちの務めであり、それが神様に仕えるためになすべき最も基本的な、中心的な業だからなのです。
祈りましょう:神様、私たちが教会に集うこと、それはあなたに招かれ、愛されている一人であるからです。教会を通じて、あなたを常に思い、感じ、聖霊を受け続ける者であらせてください。主の御名によって祈ります。アーメン
2022年6月19日 芦屋キリスト教会 三位一体節第二主日
説教:「教会の働き 信仰の告白」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 10章1~13節
パウロは、神様の救いに与るためにはイエス・キリストを信じることのみが求められることだということを繰り返し語ります。それ以上のことは、例えばユダヤ人にとって旧約聖書に記される律法を守ることは、大切であってもそれが必須ではないことも折に触れて示します。ただしイエス・キリストを信じるということは、ひとりひとりが自分なりに心のなかに思っているだけでいい、ということでもありません。
今日の聖書の箇所でパウロは「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(10節)と、自分が信じていることが、自分ひとりが自分だけで考え、思いついたことではなく、「公」つまりほかの人たちにも通じる共通した、共同の信仰であって、それをともに口に出して、言葉にして明確に言い表すことの重要性をさらに訴えます。ということはここでいう「公」とは、信仰者の間だけではなく、キリスト教の信仰に立たない人たちのまでも、自分たちがこのような信仰を持っていることを表明する、ということでもあるのです。
パウロはキリスト教の信仰は、私たちがそれによって一つのコミュニティ(集まり、交わり)を作り上げるものとしてとらえています。教会を表すギリシャ語としてエクレシアとコイノニアという二つがあります。エクレシアが建物、組織を表すのに対して、コイノニアはそれが生み出す人と人とのつながりを強調します。私たちの教会がコイノニアとして、私たちお互いのつながりを確かめあう場としてのあり方を、ご一緒に考えてみましょう。
祈ります:神様、私たちがあなたの前に一人で立つということと同時に、共にあるということの大切さと、それによって与えられるお互いを励ましあい、支えあう教会の業へと私たちを導いてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2022年6月26日 芦屋キリスト教会 三位一体節第三主日
説教:「良い知らせを伝える者」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 10章14~21節
◆教会の半年といわれるシーズンが始まりました。では教会という「組織」とは何でしょうか。16世紀に宗教改革のなかでまとめられた信仰告白「アウグスブルグ信仰告白」には、教会の第一の業は「福音を正しく宣べ伝へ」と記されます。福:Good、音:News、15節の「良い知らせ」そのものです。私たちもそれを聞くことにより、イエス・キリストへの信仰が与えられました。
◆そこで福音を語る伝道者、宣教者が教会の中心、長谷川敞、初音牧師、田淵薫明牧師と歴代の説教者のことも思い起こされます。でもプロテスタント教会の立場とすれば、万人祭司、つまりイエスの福音を聞いたひとたちすべてがまた、自らそれを宣べ伝へ」る働きを委ねられるのです。
◆福音は決して言葉だけでなく、私たちの生活のすべてを通して発信されるものであるのです。私たちの生活のどこかで、神様に「手を差し伸べ」(21節)られ、その手に導かれる毎日の生き方が、そのまま福音を物語っているのです。私たちひとりひとりが実は「良い知らせを伝える者」であることを心のどこかに覚えながら毎日を過ごし続けたいと思います。
◆祈ります:神様、私たちが、それぞれの生活のなかで、あなたが私たちのために延べてくださる御手によって導かれつつ生きるとき、そこで私たちが福音を語る者としての務めを果たすものであることを改めて思い起させてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2022年7月3日 芦屋キリスト教会 三位一体節第四主日
説教:「鈍い心、見えない目」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 11章1~10節
◆福音書のなかでイエスは「見るには見るが決して認めず」(マルコ4:12)と語られましたが、ここでもパウロは同じ点を指摘しています。結論的に言うと、そこで起こっていることは見えているが、そのことの意味、本当に考えなければならないことは全く理解できていない、ということです。
◆最近SDGsという言葉がもてはやされています。持続可能開発目標、それをやらなければ「意識が低い」とみられないために参加というケースも多いのですが、では地球環境を「持続させる」というとき、だれのための「持続」なのでしょう。結論を言えば人間のためではない、ということです。人間もその一部として生きる地球環境全体を考えることです。そのための不便さや不自由さを受け止めながら、今までとは違った生活スタイルを作ってゆくことが求められているはずです。
◆パウロはユダヤ人が旧約の時代から神様に選ばれたのは、ユダヤ人だけが優越感をもって過ごすためではなく、世界のすべての人々が神様に愛され、選ばれていることを示すモデルとしてだ、と語ります。私たちが神様に愛されているのは、決して私たちの特権ではなく、多くの人にそのすばらしさを分かち合うために生きることを考えたいと思います。
祈りましょう:神様、今毎日の生活の中で目にする出来事、そのなかでそれから目を背けることなく、それを見つめながらあなたに愛されているものとして考えるべきこと、なすべきことに気づかせてくださいますように。暑さの中で私たちをお守りください。主の御名によって祈ります。アーメン
2022年7月10日 芦屋キリスト教会 三位一体節第五主日
説教:「あなたを支えている根」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 11章11~24節
◆パウロはユダヤ人と異邦人と呼ばれるそれぞれの信仰について語ります。根本的なポイントとして神様はそのすべてを愛しておられるということです。ところが人間の悲しさというか罪というなかで、お互いがどちらに属するかということで差別をし、優越感や劣等感を抱き続けるのです。
◆ここでパウロは面白いたとえを語ります。野生の植物は人間のためではありませんから、あまりそのままで食用にはできません。それを改良して人間に有用な品種が生まれます。でもそれは野生のオリーブがあるからこそできることです。私たちが今何か人に誇れる特技をもっていたとしても、それは私の根となってもらえたたくさんの家族や先達の「おかげ」なのです。ユダヤ人の存在を通じて神様は私たちにふさわしい仕方で神様とつながれることを示されたのです。。
◆私たちがもし自分たちの今に優越感や劣等感を抱くとすれば、それは悲しいことです。聖書は私たちすべてが土から造られたことを騙ります(創世記2章)。私たちはその根(ルーツ)をたどると、まさに神様によって生かされる同じ人間であること、等しく神まさに愛されている存在であることを何よりも覚えるべきです。
◆祈りましょう:神様、どうぞ今の時代だからこそ聖書のメッセージに私たちを向きあわせてください。私たちすべてがあなたによって愛され、生かされているひとりであることを祈ります、アーメン。
2022年7月17日 芦屋キリスト教会 三位一体節第六主日
説教:「すべてのものは神から出て」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 11章25~36節
◆今日のパウロの言葉を読んでいて、高等学校で学んだ数学の「集合」の授業を思い出しました。と言ってもそんな複雑なものではなく、全体集合のなかにいくつもの要素が含まれるという程度です。パウロの全体集合は神様の救いということで、それはパウロ的に言うと全人類となります。その全体を構成する要素としてユダヤ人集団とか「異邦人」集団となるようです。ところがローマの教会の議論では、どちらかが全体集合には含まれていない!ということになってしまっているのです。パウロとしてはその発想の誤りを語ります。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」(36節)。
◆ところが、私たちはいつしか自分だけが特別、ほかの人は同じ集合に入っていない、と思い込むようになってしまいっていること、そこに区別や対立、差別などが生まれてしまいました。そのなかで神様の救いということが、何か特別な立場、成功と解釈される中で、そのためにどれだけ自分たちが努力したか、働いたか、どういう環境に生まれたか、どれだけたくさんのものを所有しているか、など様々な基準が同時に作り上げられてきたのです。最近話題の新興宗教的団体が、そのような主張を強めていることはとても気になります。
◆私たちは私たちのあり方にかかわらず、すべてがありのままで神様の祝福へと招かれているはずで、何か人間的な条件でそれを獲得する姿勢はパウロ的に言うと、そのような姿勢は神様の招きへの「敵対」「不従順」なのです。聖書の語る信仰、それはとてもシンプルで、私たちがそれぞれの人生のそのままのあり方で神様の祝福の中に生きている、ということです。それに気づかず、あるいは見失っているときに、私たち自身、宗教とか信仰という名のもとに大きな問題を抱え込んでいるのです。
◆祈りましょう:神様、私たちにあなたの作られた世界、そこに生きる私たちの本来のあり方をしめしてください。そこにある感謝と希望のなかに、安心して過ごす日々に気づかせてください。主の御名によって祈ります。アーメン
2022年7月24日 芦屋キリスト教会 三位一体節第七主日
説教:「私たちへの賜物(タレント)」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 12章1~8節
◆ローマの信徒への手紙は12章以後はイエスを信じるすべての人たちへのメッセージを語ります。そのポイントは、全員がそれぞれに異なったタレント(才能=神から与えられた賜物)に応じた働きによって神に仕え、つまり自分自身を神様に捧げることです。
◆では私たちは自分がどんなタレントを持っているか、ちゃんとわかっているのでしょうか。自分はこれだ!とわかっていると思い込んでいるけれど、それは本当に正しいのでしょうか。実はただひとつ確実なこと、それは私たちすべてが神様に愛されているひとりひとりだ、ということです。それぞれに何かこれ!というものがあるとすれば与えられたタレントで、神様のために発揮すべきものだということでしょう。
◆音楽の父と言われるバッハという作曲家は、彼の作品の最後にSDGと記したそうです。SDGというと今はやりの言葉のように聞こえますが、それはラテン語でSoli Deo Gloria!という三つの単語の頭文字です。その意味はただ神の栄光のためにのみ!という意味です。彼の作品は500年の後の私たちにも感動を与えてくれますが、そこに神様の偉大さ、素晴らしさを感じさせるからでしょう。私たちそれぞれに与えられた才能、それは自分自身が評価されるためではなく、神様に奉仕(Service)するためであり、それによって私たちの社会全体が神様の愛に満たされるためなのです。
◆祈りましょう:神様、あなたが私たち一人ひとりに与え、委ねられた私たちのタレントを生かし続けることができますように。それによって私たちがあなたの愛を、この社会にもたらす器としてください。主のみ名によって祈ります、アーメン。
2022年7月31日 芦屋キリスト教会 三位一体節第八主日
説教:「時を超えるメッセージ」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 12章9~21節
◆今日の聖書の箇所はローマの信徒のなかでも最も引用される章句が多いところでしょう。ですから何か私がお話をするよりも、みなさんが繰り返し今日のパウロの言葉をそのままお読みいただければ十分ではないでしょうか。ということは今から2000年前にローマの教会に送られた手紙の言葉は、2022年の今も変わらないメッセージを届けてくれます。聖書の言葉は時代を超えて読み継がれるものであるのです。
◆アメリカ社会における黒人(非白人)への差別的な状況について昨年 Black Lives Matterという運動の世界的広がりのきっかけとなったジョージ・フロイド氏のことも、もはや記憶から薄れつつあります。その運動のなかで20世紀のノーベル平和賞受賞者ともなったマルチン・ルサー・キング牧師の提唱した「無抵抗・非暴力」運動も、「だれに対しても悪に悪を返さず」(17節)と今日の聖書の箇所から影響を受けているようにも思えます。
◆社会の不正、悪の解決を何よりも神様に委ねること、マタイ福音書13章の「毒麦のたとえ」で、芽を出した毒麦をすぐに抜き取らないように、良い麦までも一緒に抜いてしまう、というイエス様の教えを思います。私たちが下す現実の善悪への判断、それが本当に、神様の目から見て正しいものと同じではないようです。その時私たちに求められているのは、まず自らを振り返ること。他者の過ちを思うとき、自分自身の姿をも同時に思いつつ、神様の判断に従う姿勢、それが求められているのです。
◆祈りましょう:神様、どうぞ聖書の言葉に素直に、かつ真剣に私たちが向き合い、あなたの導きに従いつつ毎日を過ごすことができますように。主の御名によって祈ります。アーメン