昭和11(1936)年
敞牧師と初音牧師とは燕と雁の様に入れかわり立ちかわり応援に出かけられるので教会と家族を淋しがらせた時代である。初音牧師は大阪日曜世界社から「ボロ哲学」と云う随筆集を出版された。軽妙にして特異な内容と文体は多くの人々を捕え版を重ねた。
教会は十年後には土地を買求める様になりたいと創立当初から祈り求めていた。主はこの切なる祈りに応え給うて打出持湯八番地(現在の地)に二九二坪の地を与え給うた。然し乍ら土地代とそれに伴う会堂移転費として二万二千円を要するのに、手持金として教会基金、芦屋学園基金、日曜学校基金を合せても二千百余円あるだけ。教会は緊急総会を開き二十一の募金委員をあげて来年度には完成する様にと決議して希望実現にのりだした。わが地にわが教会が立つのだという喜びは土地問題で苦しんだ当事者には特別大きいものがあった。この時の喜びと抱負を執事の一人藤井福一氏は”おおこの教会、この教会。この教会がもう三十年たったらどんな人物を産むか、而して其の人物によって社会思潮がどう流れを変えるか、我らの幻に祝福あれ”といい、又岡魏氏は”貴きものの限りを捧げし記念として京都本願寺の毛網がある。キリスト教は犠牲のための宗教である。我らは立ちおくれの姿であってはならない”と。