昭和15(1940)年
支那事変も五年目となり内外共に緊迫した気持に追いやられ、物資は徐々に不足を告げる様になった。然し教会の諸行事一切は何ら妨げられる事はなく取り行う事が出来たのは感謝すべきであった。
この頃から一般に一箇単位でなく合同、連合的な集会を計画する傾向が現われて来た。四月二十九日の天長節には京阪神信徒奉祝大会を関西学院校庭に於て行い三千余が参集し各派連合の一大懇親会でもあった。
更に十月十七日には皇紀二千六百年奉祝全国信徒大会が青山学院校庭に於て万余の教職信徒を集めて催され、わが教会からも牧師の全家族が参加した。この大会に於てなされた宣言の第二に「我らは全基督教会の合同を期す」とある事によって明かな様にこの大会が日本基督教団結成の推進力となった事は争えない。
大和橿原神宮外苑に於て諸宗教合同国民宣誓式を六月十九日に行っている。
今年は教会創立満十五年に相当するが特別行事は少くし、青少年指導の為田島敏夫牧師を迎える事になり、十一月着任された。
この年会員数二百名を突破した。
精道村はこの年を記念して市制を実施して芦屋市となり、教会の地番も現在の上宮川町九十三番地に変更になった。