1月
2022年1月2日(日)
説教 「イエスと名づける」 田淵 結 牧師
聖書 ヨシュア記 24:14-15。マタイによる福音書 1: 18-24
クリスマスおめでとうございます。また新年のお慶びを申し上げまます。
新年になりましたが、キリスト教のカレンダーでは、まだクリスマスは始まったばかり、そしてクリスマスは2月まで続きますよ、ということを今日とくに強調しておきたいと思います。キリスト教でのクリスマスのカレンダーを以下にお見せします:
12月24日 クリスマスですが、マリアとヨセフに新しく赤ちゃんが生まれ、飼い馬おけに寝かされます。天使が羊飼いたちに現れ、彼らはやがて聖家族を訪れます。
25日 クリスマスの当日です。
26日、聖ステパノの祝日、直接にクリスマスには関係しませんが、最初のキリスト教の殉教者がこの日石で撃ち殺された(使徒言行録6~7章)ということです。イングランドではボクシング・デーと呼ばれます。
1月1日 イエスの命名日
1月6日 公現日 賢者たちがイエスを礼拝します
2月2日 クリスマスシーズンの最後のしめくくり イエスの誕生から40日後を記念し、イエスが神殿に連れられます。教会のカレンダーではこの日が幼子イエスをお祝いする最後の祝日となります。
ということでクリスマスシーズンはまだ始まったばかり、今日はイエスの命名の意味にフォーカスしたいと思います。昨日はイエスと名付けられた日でしたから。
みなさんも既にご存じのように、その名前は天使によって告げられました。ルカによる福音書1章によると、マリアが幼子の名前がイエスであることを天使ガブリエルから告げられました。でもマタイ福音書ではその名前は、最初無名の天使からヨセフに告げられたのです。私はそのマタイの物語もとても意味深く思われます。そのときヨセフは、婚約者マリアが自分の知らない間に妊娠しているということでとても苦しんでいました。その恥さらしのなかで彼女とは別れようと考えていました。そのとき彼の夢に天使が現れ彼女を妻として迎えるようにと励まします。その子どもは聖霊によるもので、イザヤの預言、つまりインマヌエル、神私たちと共に、という神の約束の成就のしるしだったからです。
ヨセフはそこで、神の言葉に従うか自分の思いを追い求めるかという二つの可能な答えのうちのひとつを選ぶよう挑戦を受け、答えを迫られます。その後の彼の人生のみならず、マリアとの生活、さらにそれ以上に世界の歴史の方向性を決めるという決定的な地点に立っているヨセフにとって、このとき天使が告げたイエスという名前はとても多くのことを意味していました。なぜ天使は他の名前ではなく、イエスという名前を告げたのでしょう。ヨセフの時代、イエスという名前はユダヤ人のなかではポピュラーなもので、それはヘブル語由来の旧約聖書のヨシュアと同じ、「ヤハゥエ、主は救う/解放する」という意味の名前でした。
先にお話ししましたように、ヨセフが鋭く天使から挑戦を受けたのは、神の意志を受け入れるか、彼自身の意志や思いを貫き通すのかということでした。そしてマリアから生まれる子どもの名前が、ヨセフに対する神様の計画を確信させたのです。彼がそう決断したのには、いくつかの理由が考えられます。最初の理由はその名前が、彼が民族の歴史のなかでどんな位地に立っているかを考えさせたのでしょう。幼子は、民族の英雄とも言うべきヨシュアの名前を受け継ぐのです。ヨシュア記によると、ヨシュアは敵からパレスチナの地を征服し、イスラエルの十二部族にそれを分け与えました。それが今日まで深刻なパレスチナ問題、その土地の人々の対立を生む原因となるのです。でもヨシュアの物語によると、彼の主な目的はイスラエル民族のために新しい土地を得ること以上に、主(ヤハウェ)の意志に服従することでした。その点を彼はヨシュア記の最後の部分はっきりと示しています。ヨシュアは彼に導かれてきた民に対して、それぞれの家族にとっての神を選ぶように問いかけますが、彼と彼の家族はイスラエルの神、にのみ従うことを宣言します:「ただし、わたしと私の家は主に仕えます」(ヨシュア 24:18)
「イエス」という名前によってヨセフは、彼の個人的な自分の問題以上に、民族のひとりとしてのあり方を思わされたのです。彼は自分の幸せのためだけに生きるべきか、彼の思いを超えて、人々に対する彼自身の使命を実現するために主に仕えるべきなのか。ヨシュアはモーセの後継者として、主の命令にのみ従うことにより、彼の民を導くという生涯の使命を全うしたのです。理論的に考えると、神はパレスチナの地を征服することをヨシュアに命じ、彼はそれを実行しました。そしてもし、神が彼の達成したものを放棄することを求めるならば、彼は以前と同じようにそれに従うべきなのです。私はその点が現代のパレスチナ問題を解決する点だとおもいますし、それは決して政治的議論ではなく、人々の信仰の問題だと思っています。いずれにしても、イエスという名前を聞かされて、ヨセフは神の意志を受け入れるかどうかという大きな問いの前に立たされたのでした。
彼は自分の状況を、自分でなんとかできたのでしょうか。マリアを傷つけずに、貶めずに。彼は「正しい人であった」(マタイ1:19)と言われており、マリアに対しても社会に対しても、自分の義しさを損なうことなしに、そんなことができると思えたのでしょうか。そして、彼は新しく生まれる子どもの名前「主は救われる」だと告げられたのです。そうなのです、神様だけが状況への助けを、彼とマリアに何をすべきという導きを与えることができたのです。その決定的な状況のなかで、もしヨセフが彼自身の思いだけでことを進めていたら、それからどんなことになっていたでしょう。
「イエス」の名前はヨセフに、その挑戦に向き合い、克服できる新しい希望を与えました。同時、より意味深いことに、彼は、神様の導きに従うことによってマリアを受け入れる、つまりガブリエルによってマリアにも与えられた挑戦をともにすることによって、マリアをすべての思いと心をもって愛することができたのです。
私たちは使徒信条で告白しているように、イエスを信じます。その名前は普通によくある名前ではなく、ヨセフと神を信じるすべての人にとって深いメッセージを持つ名前です。イエスを信じるということは、神様の救いを信じ、その御意志に従うということを表明することです。そのひとつの生き方は「あたなの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:34,44)という言葉で私たちに伝えられているものなのです。それが私たちが真の平和を実現する唯一の道なのです。そのむつかしさに直面するときに、そこで神様の助けを信じ求めることができる、それによって私たちは本当に「インマヌエル」「神は我々と共におられる」(マタイ1・23)を実感するのです。
祈りましょう:憐れみ深い神様、私たちにクリスマスを通じてあなたの愛を示してくださることを感謝します。そして私たちの新しい一年を始めるそのときに、私たちは、インマヌエル、神ともにいますことを思いこさせる、イエスの名前を呼び求めます。私たちはイエスがその十字架までの生涯を通じて示された神の意志に従うのかを問いかけられます。2022年の私たちの日々、あなたが共にいてくださることによって、安心して自身を持って歩み続けることができますように。「あなたの御心がなりますように」と祈ります。私たちの救い主としてまた解放者であるイエスの名前を呼び求める全ての人々、芦屋キリスト教会に集う私たちを祝福してくださいますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
2022年1月9日(日)
説教 「公現日 1月6日」 田淵 結
聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章26~28節
教会のカレンダーでは1月6日は公現日、クリスマス物語のなかで東方からの賢者たちがイエスを礼拝した日です。日本の社会ではすでに終わってしまったクリスマスですが、教会ではまだまだ2月までその季節は続きます。イエスがユダヤ人ではない「異邦人」によって初めて礼拝された日、伝説ではこの賢者たちはそれぞれ、ヨーロッパ、アジア、アフリカからやってきた三人だったということで、そこで古代の地図はエルサレムを中心としてこの三つの大陸を描くものだった(T図)ということです。その意味でこの日が大きな意味をもつのは、イエスがただ「ユダヤ人の王」としてだけではなく、世界のすべての人々にとっての救い主だということを記念するものとして教会では大切にされてきたとも言えます。
キリスト教のメッセージとしてとても大切なものは、神様の前にすべての人が平等であるということ、神様はそのひとそれぞれのあり方に関係なく、すべてを愛されるということですし、クリスマスの物語は、そしてその日に生まれたイエスのメッセージの中心もそこにありましたし、使徒パウ「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」(ガラテヤ3:28)と語りました。
クリスマスがすぐに過ぎ去ってしまうイベントではなく、そのメッセージが常に私たちの心のうちにとどまるべき大きな意味をもっていること、そのことを改めて今日、覚えたいと思います。
祈りましょう:神様、クリスマスの喜び、感謝、そしてそのメッセージをこの一年、私たちが心に抱きつけるものでありますように。主のみ名によって祈ります、アーメン。
2022年1月16日(日)
メッセージ 「神は天地を創造された ~ 1995年1月17日」 田淵 結 牧師
聖書 創世記1章1~31節
◆1月はいろんな思いが重なりあう月です。クリスマス、新年の喜び、期待というものがあり、私たち阪神間に住むものとしては17日は27年前の大震災が思い起こされます。ご記憶でしょうか、1995年の1月は15日日曜日が成人の日の祝日、16日の月曜日が振替休日、新成人となった直後地震で亡くなられた方もありました。新年、成人の日、そこから始まる未来への展望、期待が語られますが、それが突然断ち切られるという現実が襲ったのです。27年という時間のなかでもう若い人たちは震災の実感はなく、私たちもまた多くを忘れかけています。
◆旧約聖書創世記1章天地創造の物語は、そんな私たちに世界は「混沌」(2節)から造られたこと、そこに神様は私たちに生活の場を与え、生かし、守っておられることを語ります。そして、人間が神様に「地を従わせよ」(28節)と命じられたとき、「地」が本来的に混沌・混乱をももたらすものであることを、私たちは常に覚えるべきなのです。私たちの持つ未来への期待・展望などは神様の守りの中で可能となることだということ、さらに突然それが断ち切られる状況のなかにあって、神様は私たちに関わり、慰め、癒し、希望を与え、地を従わせる責任をもとめ続けておられることを信じることの大切さを思わされるのです。
◆祈りましょう: 神様、27年前の大きな地震によって犠牲となられた方々、そのことを新たに思い悲しみのなかにある方々に、あなたの慰めが豊かにありますように。そしてその方々と同じように私たちもまたあなたの支えのなかにあることを気づかせてください。御名によって祈ります、アーメン。
2022年1月23日(日)
メッセージ 「キリストの使徒 パウロ」 田淵 結 牧師
聖書 ローマの信徒への手紙 1章1~7節
新年を迎え心新たにローマの信徒への手紙から学びたいと思います。新約聖書のなかで一番長い「手紙」、それ以上に著者パウロは多く教会宛に手紙を書きましたが、ローマはまだ訪ねたことがなく、自分の思いを「一から」伝えます。よく内容が整理された文章が書かれ、キリスト教の信仰、考え方を理解する最良の文書と言われます。
最初は差出人の自己紹介が記され何よりも「キリストの使徒」という肩書を強調します。使徒。権威をもって遣わされたということで、彼は一方では大胆に、もう一方では謙虚に自分の思いを伝えます。ローマの教会というのはパレスチナ地域以外では代表的な教会、パウロはその教会ではそんなに知られてはいませんでした。その教会に彼は堂々と、あなたがたはもともと異邦人であり、そのあなたがたのために自分はキリストによって使徒として召されたと宣言するのです。と同時に彼自身は徹底的にキリストに従順であることを当然の前提だと確信しています。
「大胆かつ謙虚」、ただし大胆さは傲慢ではなく謙虚さは卑屈にもなりません。私たちの生活の根底に父なる神のひとり子イエス・キリストによって愛され、守られ、支えられながら毎日を生きる、という私たちの生き方の基本を、パウロはこの手紙の最初に明確に示しています。これからご一緒にローマ署からの学びを続けましょう。
祈りましょう: 神様、私たちは新しい年に新しい歩みを始めようとしています。あなたの導きの中、私たちの学びが豊かであり、信仰の歩みを強めて下さい。パウロを使徒として選ばれた主イエスの御名によって祈ります、アーメン。
2月
2022年2月6日(日)
メッセージ 「福音を恥としない」 田淵 結 牧師
聖書 ローマの信徒への手紙 1章18~31節
パウロがローマの信徒への手紙を書いたのは、彼が「異邦人の使徒」としての責任、つまりイエス・キリストの正しい福音を伝えるためでした。そして18節以後、彼のメッセージは厳しいトーンに変わっていきます。それは世界の中心都市であるローマにある教会が、ともすれば大都市の影響を知らず知らずに受け、正しい福音から遠ざかっていくように思えたからです。
古代ギリシャそしてローマ帝国は、古代西洋文明を代表するものですが、人間の肉体美を強調するような彫刻に代表されるように、人間の生身の姿をそのまま強調するようなものでした。さらに大都市にはどこか人間の怠惰さ、堕落した状態をも容認することもあり、ローマのクリスチャンたちもどこかでその影響を受けていたようです。パウロの語る「正しい福音」は、26節で指摘される「恥ずべき情欲」という状態を離れ、イエス・キリストの父なる神による被造物である私たちが、それを示すことから始まるというものでした。
イエス・キリストを信じる信仰が、世界の中心都市ローマのクリスチャンたちの生活のなかで明らかにされこそ、イエスの福音が世界中に示され、伝えられていくこと。そこに使徒パウロの願い、大きな目標があったのです。
祈りましょう: 神様、私たちが福音を信じる思いを、日々の様々な生活のなかで示すことができる者としてください。。それによって、私たちを取り巻く人々、社会にあなたのメッセージが自然に伝わってゆき、お互いへの信仰、尊敬、感謝のうちに生きる大切さを感じさせてください。私たちの導き手、イエス・キリストの御名に祈ります、アーメン。
2022年2月13日(日)
メッセージ 「パウロの期待」 田淵 結 牧師
聖書 ローマの信徒への手紙 2章1~16節
ローマの教会にはパウロから見て、もうひとつの問題がありました。おそらくその教会をつくる核となった、ユダヤ教(人)からのキリスト教への改宗者です。キリスト教の信仰はそのユダヤ教を母体としてきたのですから、この人たちには自信があり、それが外の人たちを「裁く者」になっていたのでしょう。しかしパウロからすれば福音は「ユダヤ人はもとよりギリシア人にも栄光と誉れと平和が与えられる」はずのものでした。
パウロには改宗者への期待を持っていました。それ以外のクリスチャンの模範であることです。旧約をしっかりと理解し、それに従っての生活を実践しすること。しかし、同時にほかのクリスチャンを受け入れ、同じ信仰に立つことでの尊敬と愛を示してくれることです。ところが、一方で彼らも都市文化の影響を受け、他方で改宗者たちを裁く(差別)してするという、パウロの期待は裏切られたのです。
模範となり謙虚になること、イエス・キリストの福音のもたらす生活の基本、パウロは改めてローマのクリスチャンの大きな課題を指摘します。そしてそれはまた私たちの日常生活を振り返る基準なのです。自分たちは分かっている、あの人たちは分かっていない、などいう思を離れて「自然に行」うなか、イエス・キリストの愛が示されるのです。
祈りましょう:神様、私たちがあなたに愛されることによってのみ、毎日が豊かにされること、だからこそイエスの愛を私たちの毎日のふるまいのなかで形となり、示され、私たちの周囲のひとたちに分かち合う日々を送ることができますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
2022年2月20日(日)
メッセージ 「あることとすること」 田淵 結
聖書 ローマの信徒への手紙 2章17~29節
私たちの間でよく「あること」、「すること」ということが問題になります。ある地位にあることが重要だと思うか、その地位としてなすべき働きをすることが大事かですね。日本では「あること」が重視されいるようですが、実はパウロが手紙を送ったローマの教会でも起こっていたようです。
ローマの教会のメンバーは、キリスト教の母体となるユダヤ教からの改宗者が多かったようです。彼らは「異邦人」クリスチャンに対し、旧約聖書を熟知しているというような優越感を持ちがちでした。パウロは、ユダヤ人で「あること」だけを誇る人こそ旧約の教え(律法)による生き方からはずれ、そ「のせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」(24節)とイザヤの言葉から批判します。旧約から育まれてきた信仰が「形だけのもの」におわっている虚さを、ユダヤ人の証とされる「割礼」を通して訴えます。身体的な割礼以上に、内面的な「“霊”によって心に施された割礼」(29節)こそ、真のクリスチャンの生き方だと訴えるのです。
「末は博士か大臣か」ということばがもてはやされる社会では、パウロの訴えはなかなか響かないでしょう。しかし、重大な立場にある人が、なすべきことをすることによってしか、私たちの社会も良くなっていかないのですが。
◆祈りましょう: 神様、私たちはあなたに招かれ、それぞれの役割を与えられています。どうぞ私たちにそのつとめを誠実に果たす中で、あなたからの導きをしっかりと感じながら生きる者とさせてください。愛と信仰、そして尊敬をもってあなたに、そして隣人に仕えさせてください。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン
2022年2月27日(日)
「神は真実であり…」 牧師 田淵 結
聖書 ローマの信徒への手紙 3章1~8節
どうしてもロシアによるウクライナ侵攻が気になります。どちらが正しいかという議論以前に「戦争=殺し合い」という最も基本的な事実が、結局曖昧にされているところに私たちの最大の弱さ、罪があります。
ローマの信徒への手紙のなかでパウロはこの点をストレートに指摘します。4節のギリシャ語原文直訳では「神は真実であり、人間は嘘つきとしよう!」です。嘘つきという言葉は「信頼を裏切る者」という意味です。そしてこの人間とはパウロは旧約聖書に通じているはずのユダヤ人たちに向かって言うのです。本当は神様のことを一番よく知っていると自認するということは、その神様に造られた人間の本質をもっとしっかりと見つめるべきだ!ということです。
21世紀に生きる私たちは、戦争の世紀と言われた20世紀を通じて学んだこと、それは人間の生命の大切さであり、すべての社会活動はそのことを中心になされるべきなのです。それ以上にキリスト教の価値観を基本としてきた西欧社会での戦争、まさに人間の「嘘つき」さを暴露しています。今だからこそすべての人間に生命を与えられた「神は真実」であること、そのことを実は今一番厳しく私たちが問われているのです。
祈りましょう: 神様、私たちは、あなたからそれぞれの生命を与えられ、「生きよ!」と命じられています。今だからこそもっともその単純な事実、私たちすべては神様に愛されているという一点に目を向け、今の社会の動きを考え、「あなたの隣人を愛せ」というみ言葉を私たちが行う者となれますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
3月
2022年3月6日(日)
メッセージ 「正しい者はいない…」 牧師 田淵 結
聖書 ローマの信徒への手紙 3章9~20節
「神学論争」とか「神学」ということばをどう思われますか? ゲーテのファウストではないですが「あらずもがなの神学」などと言われてしまうこともあります。キリスト教の信仰などについての学問なのですが、どうも訳の分からない議論を繰り返すということになっているようです。でももしパウロが神学を語ったら非常に単純明快で、単純すぎて議論にすらならないということになるかもしれません。
「10正しい者はいない。一人もいない。」、彼は人間の不完全さ、彼のことばでいえば「罪深さ」を徹敵的に問題にします。完全な存在は神様のみであり、その前に人間が立たされるときそこでは人間の不完全さ「罪びと」であることが明らかにされるのです。しかし、そこで人間にとって都合よく解釈しようとすると、本来単純な議論がわけのわからないものなるのですす。人間自身が自分の本当の姿を認めようとしない議論の虚しさなのです。
「16その道には破壊と悲惨がある。/17彼らは平和の道を知らない。/18彼らの目には神への畏れがない。」 今ヨーロッパで起こっている戦いも、人間が自分の本性を認めず、むしろ自分の正しさを強弁することの、悲惨な結果でしかないのです。
◆祈りましょう: 神様、私たちは、私たちの罪深さをお許しください。私たちが自分たちに何か正しさがあると思い込むとき、それはあなたの前に立つことを避け、あなたから離れて生きてゆこうとする結果でしかないのです。どうぞ私たちと常に共においでくださいますように。あなたの平和をお与えください。Dona Nobis Pacem* アーメン (*ラテン語で「平和を与え給え」)
2022年3月13日(日)
メッセージ 「信仰によってのみ」 牧師 田淵 結
聖書 ローマの信徒への手紙 3章21~31節
メリット(利点、有利)という言葉は、キリスト教にとってとても大切な言葉のひとつです。それは私たちが神様に正しい、善いと認められる点ということですが、先週お話をしたようにパウロは、私たちのメリットによって、私たちが神様に正しいと認められることはまったくないと考えます。それでは人間は本当の幸せ、平安などは得られないのか、ということに対して、パウロはローマの信徒への手紙3章の締めくくりにそんな人間がイエス・キリストを与えられることによって、神様に認められると訴えるのです。
ローマの信徒への手紙は、3章までが前書きのようなものですから、そこでパウロの原則的な考えを彼のもっとも基本的で有名な言葉「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(27節)、簡単に言えば「(イエス・キリストを)信じる者は救われる」と断言します。(ガラテヤの信徒への手紙3章16節)。
「信仰する」という言葉、「~する」というと私たちにそれが「できる」というように聞こえます。でもそれはイエス・キリストという存在によって「信仰」に導かれる、あくまでも神様の働きに私たちが気づかされ信仰を与えられるということです。旧約聖書をよく知っているユダヤ人だということがメリットではなく、あらゆる人が神様に愛される存在であることに気づかれさるとき、信仰による私たちの生活がはじまっているのです。
祈りましょう:神様、私たちのあり方に関わりなくあなたに愛されて、信仰を与えられることを感謝しつつ日々を過ごすせますように。主のみ名によって祈ります。アーメン。
2022年3月20日(日)
メッセージ 「信仰の父アブラハム」 牧師 田淵 結
聖書 ローマの信徒への手紙 4章1~12節
ローマの信徒への手紙で、パウロは旧約聖書に登場するいろんな人物を紹介しながら、私たちの信仰のあり方について語ります。最初に取り上げられるのは創世記11章から描かれるアブラハムで「イスラエル民族の祖」(マタイ1:1)、「信仰の父」(ローマ4:12)と呼ばれます。そのアブラハムの立派さのゆえにユダヤ人たちは自分たちだけが「アブラハムの子孫」であり、自らの義しさを主張します(ヨハネ福音書8:33)。
そこで割礼という言葉が何度も出てきます。ユダヤ人が自分たちが神の民であることの証明として身体に刻む印のことですが、創世記を読むとアブラハムが割礼をうけたのは99歳のとき、神様の導きに従ってからかなり後のことです(創世記17:24)。彼には神の導きにまず従い、その結果としてその印を身につけていました。彼が民族の祖と言われるのは、神様の約束を示され、それがは必ず実現すると信じたからです。その子孫とは、その約束の実現を信じてその後の歴史を歩んだ人たちです。
パウロは、民族的なつながりではなく、神の約束を信じ続ける私たちもまた彼の子孫であり、神様に愛され、守られ続けるべきひとりであることを繰り返し強調します。
祈りましょう:アブラハムを招き、その子孫を祝福することを約束された神様、どうぞ私たちが今もなおその約束の中にあり、それをあなたが私たちのうちにも成就してくださっていることを感謝をもって受け止めさせて下さい。私たちの見える印が与えられる前に、私たちの信仰を常に支え、導いてくださることへの確かさを信じ、アブラハムのようにあなたと共に歩み続けることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
2022年3月27日(日)
メッセージ 「私たちが義とされるということ」 牧師 田淵 結
聖書 ローマの信徒への手紙 4章13~25節
"We shall Overcome"という曲があります。それが有名になったのはアメリカの黒人市民権運動を通じてですが、もともとはアメリカで奴隷とされていた黒人の人々がじぶんたちの解放を信じて "Deep in my Heart, I do believe"と歌い続けていたものです。でも最初それを歌った人の周囲は「そんなことできるわけない」という諦めで満ちていました。
パウロにとってローマの信徒への手紙のなかで私たち人間が「義と認められる」(4:24)ということは、「できるわけがない」と思い込んでいることが可能になるという出来事でした。土から造られ、弱さを抱え、不安に囚われやすい私たち人間が、しかし自分たちの毎日の歩みのなかで、真に自分のあるべき姿を実現することができる、ということの希望をアブラハムも、パウロも、そしてあの黒人たちも信じ続けたのでしょう。
「この歌は敵をやっつけようと言っているのではなく、友を勝ち取ろうと言っているのだ」と言われます。そして今ウクライナをめぐる紛争のなかで、もう一度この歌を私たちは歌いたいのです。それは双方の人々が「友」として共に生きる日が来るために、です。そんな日がいつ来るのでしょうか。憎しみを離れ、武器を捨てる、そんなことができるのか、でもそれを神様が実現させてくださることを信じ、祈り続けるなかで私たちの、なすべきつとめもまた示されるはずなのです。
祈りましょう: Dona Nobis Pacem、平和を与えてください、と今日も私たちは祈ります。そのために私たちが何をすべきか、あなたに示され、導かれて日々を送れますように。平和の主、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。