2022年10月2日 芦屋キリスト教会 三位一体節第十七主日
説教:「プリスカとアキラ」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 16章1~16節
◆聖書を読もう!と思い立って新約聖書の最初の書物マタイ福音書から読み始めると、おそらく5分でギブアップとなる可能性があります。とにかくカタカナ人名の羅列だからです(私はルカによる福音書から読まれることをおすすめしますが)。ローマの信徒への手紙の最終章もカタカナ人名が多くでてきます。パウロのこれまでの伝道生活に意味のあった人たちの紹介ですが、その一人一人がどんな人だったかはあまりよくわかりません。
◆そのなかで「プリスカとアキラ」という夫婦はよく知られています。使徒言行録18章にはプリスキラという女性とその夫アキラは「イタリアから来」ていたと紹介され、パウロと職業(テントづくり)が同じであったので、コリントという町で協力し合ってイエス・キリストの福音を「命がけで」(ローマ16:4)宣教したようです。
◆歴史に名を残す人物、というとその本人のことだけが注目されますが、実はパウロの伝道は彼一人ではなく多くの「援助者」「同胞」との共働作業だったのです。そのつながり、交わりのなかでパウロ自身も励まされ、支えられ、祈られてキリスト教が世界に広がることができたのです。そこにコイノニア(ギリシャ語)と言われる私たちの教会の原像(モデル)があるのです。
◆祈りましょう:イエス・キリストの父なる神様、私たちは決して一人でではなく、同労の方々とともにあなたに仕えています。そのつながりをより豊なものとしてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン
2022年10月9日 芦屋キリスト教会 三位一体節第十八主日
説教:「ローマでのパウロ」 田淵 結 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 16章17~27節
◆いよいよ今週でローマの信徒への手紙の最後となります。その22節では「この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします」とあるのは、この手紙がパウロの口述をティティオという人物が筆記したということなのでしょう。いろんな人の力が合わさってこの手紙が完成したようです。さて最後までこの手紙を読んできて、この手紙にパウロの生涯での大きな事件について、ある意味彼の活動の具体的なことがほとんど記されていないことに気づかされます。そして実際にパウロがローマを訪れることになったのは、宣教活動のため以外に彼の身辺に起こった大きな事件によるものだったのです。
◆新約のテモテへの手紙二の1章にオネシフォロという人物のことが言及され。彼が「わたしが囚人の身であることを恥とも思わず、 17ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれ」と記されています。実はパウロが実際にローマを訪れたのは囚人として、裁判を受けるためでもあったのです。使徒言行録の21章からの記事は、パウロのメッセージが伝統的なユダヤ人たちの教えに反することから訴えられ、逮捕、投獄され、その結果ローマに送られてゆく経過が記されます。ローマの信徒への手紙のなかに彼のそのような状況がほとんど記されていないのは、ある意味不思議にも思われます。
◆パウロにとって、自分が囚人となっていること、それはあまり大きな問題ではなかったのでしょうか。彼自身がどんな状況にあっても、彼の宣教師としての働きは変わりませんでした。自分の置かれた状況のなかで、イエス・キリストの福音を語り続けることこそ、彼のなすべき働きだったのです。テモテへの手紙二のなかで彼は「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」と記しますが、それは自分自身への言葉でもあったのでしょうし、それこそが彼の生涯を通じて示し続けた「永遠の神の命令のままに、信仰による従順」を生き抜いた姿だったのでしょう。
◆祈りましょう:パウロを選び、支え続けられた神様、私たちが彼の生涯を通じて学ぶ信仰の姿を、また私たちの一つのモデルとし、時を得ても得なくても、あなたの福音によって生き、あなたの愛に感謝し、喜びをもって生き続けるものとなれますように。御名によって祈ります、アーメン
2022年10月16日 芦屋キリスト教会 三位一体節第十九主日
説教:「真剣な祈り」 田淵 結 牧師
聖書:ルカによる福音書 18章1~8節
◆私の好きな作家のひとりにJohn Grishamがいます。今そのSooleyという作品を読んでいますが、その主人公は南スーダンの地方の村出身のバスケットプレーヤーでです。彼は母国の学生ナショナルチームのメンバーに選ばれて、生まれて初めてアメリカの試合に参加します。ところがその間に母国では反政府ゲリラが彼の村を襲い、父親は多くの村人とともに殺され、母親は二人の兄弟と命からがら逃げだし、何日も食料も水もなくさまよい国境を越えてウガンダの国連難民キャンプにたどりつきますが、主人公には消息不明となります。また彼の妹はゲリラにつれされて行方不明となってしまいます。
◆南スーダンというのは、実はわが自衛隊が派遣された国ですが、その国の状況がこのような悲惨な状態であったことについて、私は何も知りませんでした。国連の難民高等弁務官事務所などという言葉を耳にしましたが、難民となった人たちの生活の悲惨をこの小説から初めて教えられたのです。ところでアメリカで試合をしていた彼は、母国の状況を知らされ、一刻も早く母国に帰って家族を助けようとするのですが、周囲の人たちに「君の帰る場所はすべて焼き尽くされてしまったし、家族がどこにいるのかもわからない。君の生命も危険だ!」とアメリカに残ることになり、社会貢献団体でアメリカのカレッジへの留学生として迎えられます。
◆しかし彼は罪悪感に苦しみます。残酷な運命にさいなまれる家族の状態とは全く違って、彼自身はアメリカでの快適な学生生活をゆるされるのです。家族のために何かしなければというなかで何もできない、その時カトリックである彼が家族のためにできたこと、それは涙を流しつつ必死で祈ることでした。さてその祈りは聞かれたのでしょうか。それはこの小説をお読みいただければということですが。執拗に祈る、それはそれしか自分にはできないという状況のなかからの切実な神様への訴えです。改めて祈ることの本質を考えさせられます。そのような祈りがやがて社会を動かし、ひとりひとりへの神様からの答えを与えてくれるはずです。
◆祈りましょう:神様、私たち自身の祈りの姿勢を改めて問い直されます。私たちの祈りを真剣なものとしてください。それにあなたが応えてくださることを信じ、御名によって祈ります、アーメン
2022年10月23日 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十主日
説教:「神はわがやぐら」 田淵 結 牧師
聖書:ルカによる福音書 18章9~14節
◆毎年この季節に同じことをお話しますが、10月31日は何の日でしょう。プロテスタントのキリスト教会では宗教改革記念日です。1517年のこの日、マルチン・ルターがヴィッテンベルグ城の門扉に、ローマ教皇宛の公開質問状を張り出したことから、ヨーロッパに新たなキリスト教の運動が始まり、それが当時正統派とされていたカトリック教会に抗議(プロテスト)する人たちの動きとして、プロテスタント(抗議する者)と呼ばれたのです。
◆当時のカトリック教会の姿勢は強硬で、ルターなどは教会から破門、つまり地獄に落とされるべき存在とされて、命の危険にもさらされました。ある信仰的な立場がほかの立場を徹底的に否定しようとしたのです。その根拠には自分たちの立場こそが唯一正しく、反対する人は間違っているという思い込みがあるのでしょう。しかしルターが当時の教会の教義に疑問を持ったのは、自分の内面の罪の意識がその教義によっては解消されないという苦悩からでした。
◆キリスト教のもっとも中心的なメッセージである「罪のゆるし」への問いに答えられないままに自分の正しさを言いつのる姿勢から生じたものこそ、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というイエスの言葉の実現としての宗教改革運動であり、私たちプロテスタント教会の出発点がそこにあるのです。
◆祈りましょう:神様、あなたがいつも私たちの、自分の本当にあるべき姿をもとめようとする祈りに応えてくださることを感謝します。自らをつねにあなたの前にへりくだる者としてください。主の御名によって祈ります。アーメン
2022年10月30日 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十一主日
説教:「ザアカイ、彼の人生」 田淵 結 牧師
聖書:ルカによる福音書 19章1~10節
◆今日の聖書の箇所は、おなじみのザアカイのお話です。当時のユダヤ人から「罪深い男」と決めつけられていた彼が、イエスに出会い改心をしたということなのですが、当時のローマ帝国のシステムからいうと、取税人という職務は地方総督から入札で買い取るものでしたので(つまり買い取った金額以上の金を集めれば元はとれ、もうけがある)、当然お金持ちしかなれませんでした。そしてザアカイはそんな財産を自分ですべて稼いだということはなかったでしょう。つまり裕福な家に生まれたのでしょう。最近の私たちの社会の言い方を借りれば、彼は「裕福二世」いや三、四…世であったのです。
◆私たち一人びとりは、両親から様々のものを受け継いでいます。その意味では決して人間は平等な存在ではありません。そしてその両親から受け継いだものが、その人の個性、アイデンティティをの土台となっているのです。そこでその人が●●二世であることを否定し、非難することは、その人の存在、人生そのものを否定する結果となります。
◆ザアカイは改心をしましたが、はっきりと取税人をやめる、とは言わないのです。自分が受け継いだもの、立場を、今までとは違った用い方をする、ということを決断したのです。つまり最大のポイントは、その人がどんな立場にあるか、ではなくその立場でどう生きるか、なのでしょう。彼が良心から与えられた彼の名前「ザアカイ」とは「義しさ」を意味します。その名前にふさわしい生き方を彼は、自分の受け継いだもののなかで選び取ったのです。
◆祈りましょう:神様、私たちの存在は私たちの両親から与えられたものであり、それによって私たちの今があります。その与えられているものを本当に社会的に意味のあるものとして、生かして用いる知恵と力、そして勇気をお与えください。あなたの励ましを信じつつ祈ります。御名によって、アーメン
2022年11月6日 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十二主日
説教:「生きている者の神」 田淵 結 牧師
聖書:ルカによる福音書 20章27~38節
◆私たちの言葉、それが引きおこす思いがけない問題に時々直面させられ、戸惑うことがよくあります。そんなつもりで言ったのではない、という弁解を私たちもよくしてしまいます。一つの言葉が表す意味、実は人によってバラバラで、時に自分の都合よく使ってしまうのです。今日の聖書に登場するサドカイ人も、まさに自分たちの立場から聖書の言葉を解釈し、結果復活について理解できなくなっていた人たちです。つまり彼らの律法を文字通り解釈すると、それはおかしい、という議論をイエスに吹っ掛けます。
◆イエスの立場は、律法の言葉は書かれた文字ではなく、それを語られた神様の思いを読み取ることの重要性を語ります。なぜ兄が亡くなったとき、弟が兄の妻と再婚するか、現代では考えられないことですが、当時としてはそのようにしてその女性の生活を家族で支え続けるという思いがそこに含まれています。その女性や兄弟が復活してからの議論のためではなく、そのとき毎日の生活を送りひとりひとりへの配慮としての律法であり、神様は生きている私たちの毎日を支える方であることへの理解が重要なのです。
◆自分のやっていることは法律には違反してはいないから、ということを私たちは何度も聞かされてきました。でも法律、それは本来正しさを実現するために定められたルールであり、その目指すところを無視するとき、「悪法もまた法」などと言って不正なことが容認されてしまうのはおかしなことです。私たちが、文字の表面的なレベルではなく、それが意図すること、意味することは何かを深く読み取るセンス、そこに神様の御心を感じる読みが求められているのです。
◆祈りましょう:神様、私たちが何気なく交し合う言葉のひとつひとつの重さを教えてください。それを語る時、聞くとき、「たがいに愛し合いなさい」というみ言葉を常に思い起こすことができますように。み名によって祈ります。アーメン
2022年11月13日 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十三主日
説教:「神様の時を生きる」 田淵 結 牧師
聖書:ルカによる福音書 21章5~19節
◆教会の一年の最終月は11月、アドベントからまた新しい一年が始まる前に私たちのこれまでのよき締めくくりを考えるときですが、今日の聖書の箇所にも「時がみちた」という言葉が見られます。イエスの時代には、私たち以上に自分たちの世界の終わりが来るという感覚が強かったようです。そのときに天変地異や異常現象が起こるなか正しい人たちがそこから救われて天国に迎えられるというような考え方が、ユダヤ教のなかでも強かったようです。
◆そのなかでイエスは「おびえてはならない「世の終わりはすぐには来ない」私たちに語り掛けます。ただしさまざまにもう世界の終わりだ!と思わせる出来事が起こるかもしれないし、そのなかで自分たちがいつまでもこれで大丈夫だと思っていたことが崩れ去るような状況が起こるかもしれないのですが。そんな混乱した状況の中で、イエスは私たちの信仰においてもっとも確かな土台に私たちの眼を向けさせます。一言でいえば、そんなときにも神様が私たちと共にある、ということです。
◆神様が私たちの世界をすべて創造されていること、そしてその終わりは神様の思いのなかにあるとき、私たち自身にとって最も大事なことは、周囲がどのようであろうとも神様を信じてそのときを過ごし続けることだけを求め続けることなのです。イエスが忍耐をわたしたちに訴えるとき、それは自分の力で歯を食いしばって抵抗する、ということではなく、常に神様と共に私たちが生かされていることの確信を持ちづけることです。旧約聖書詩編90編の言葉が思いこされます。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。2山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。」
◆祈りましょう:神様、私たちがあなたの創られた世界に生きていることを改めて思い起こさせてください。だからこそ、あなたがその世界を導かれる限り、私たちの世界がどのように混乱しているように見えるなかでも、あなたを信頼して日々を過ごし、あなたの愛にまもられていることに感謝する日々を送らせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
2022年11月20日 芦屋キリスト教会 三位一体節第二十四主日
説教:「イエスと共に」 田淵 結 牧師
聖書:ルカによる福音書 23章33~43節
◆もうすぐ12月となろうというときに、ルカ福音書による十字架上のイエスの物語が今日のテキストです。毎週お話ししているように、教会のカレンダーでは今は一年の終わり、そして私たちの社会さらに人生の終わりについて考えることになっています。今日の物語ではイエスの十字架を前にして、様々な人たちのこれまでの歩みが「総括」されているようです。つまり最後までイエスを信じ続けた人と、イエスをまったく信じようともしなかった人との違いが浮き彫りにされます。
◆イエスを信じた犯罪人の一人はイエスから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と告げられるのですが、彼がイエスを最期まで信じ続けることの具体的な理由は、この人がそれまでの自分の生涯を、自分のものとしてそのまま受け入れたこと「自分のやったことの報いを受けている」ことを認めていることです。もちろんその報いとして彼はイエスと共に十字架にかけられるという恐ろしい罰を受けさせられているのです。でもそのとき、そのような恐ろしい苦しみのなかで、イエスと共にあることによってt慰め、希望、許しを与えられるのです。
◆ノーベル平和賞を受けたマザーテレサの働きは、「死を待つ人の家」で行われました。人生の最後のときに、その人が人間としての尊厳をもって死を迎えることができるための奉仕。その最後の瞬間において、その人を神様が天国に迎え入れてくださることを実感できる働き、つまり私たちの人生の最後にもっとも大きな慰めが与えられるという形で神様が私たちを愛しておられるということを考えさせられるのです。
◆祈りましょう:私たちが生きるとき、死を迎えるとき、どのようなときにおいても、あなたが共にいて、私たちをあなたの御国に招いていてくださることを信じ続ける一人としてください。慰まの主のみ名によって祈ります。アーメン。
2022年11月27日 芦屋キリスト教会 待降節第一主日
説教:「救いは近づいているからです」 田淵 結 牧師
◆いよいよ今週からアドベント(待降節)、クリスマスを準備するための最初の日曜日となりました。もうしでに街中ではクリスマスツリーの点灯式も行われています。だから私たち教会も、というのが現実です。でもこれだけクリスマスが大騒ぎされている社会が、最初のクリスマスの夜天使たちが歌った「地の上に平和があるように」ということが実現されてきたのでしょうか。日本が世界の平和構築のためのリーダーシップを果たす国になっているとは思えないのです。それが日本の「クリスマス文化」の最大の問題いや、恐ろしさかもしれません。
◆クリスマスって本来なんでしょう。それを準備するということはどういうことなのでしょう。今日のパウロの言葉を借りれば、それは私たちすべてのための「救い」の時であり、待降節とはその救いが「近づいている」ことを感じながら過ごす時間ということです。確かにそれは大きな楽しみ、喜びを予感させる時ですが、そこで肝心なことは、私たちが「救い」を必要としていることを本当に知っているか、が切実に問われるのです。多くの悲しみ、苦しみ、痛みなどなどの問題を、自分のこととして感じているか、その解決を真剣にもとめているか、ということです。
◆パウロが「闇の行いを脱ぎ捨て」ることを訴えるのは、私たち自身の本当の姿が見えなくなっていることに気付くことです。何か今までの安定をそのままにして自分だけの安定を求め続けているだけ、クリスマスの輝きだけを求めるなかで、その背後にある闇をそのままにしいる姿勢を考え直すための大切な4週間なのです。教会と社会のクリスマスの最大の違い、それはパウロ的に言うと「品位」ですし、生涯を通じて私たちのために仕えられたイエス・キリストの誕生の時としてクリスマスがあることを改めて考えたいと思います。
◆祈りましょう:神様、今年改めてクリスマスを迎えようとするとき、私たちの救い主イエス・キリストを私たちの心のうちにお迎えするための備えのときとして、これからの4週間を過ごさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。
2022年12月4日 芦屋キリスト教会 待降節第二主日
説教:「その道筋をまっすぐに」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書3章1~12節
待降節の第二の日曜日となりました。12月に入って毎日がどんどんと過ぎていくような気がします。だからこそ、クリスマスまでの毎週、毎日の意味をしっかりと考えたいと思います。さて今日の聖書の箇所は、イエスに洗礼を授ける洗礼者(バプテスマ)のヨハネの記事ですが、彼の働きは、イエスの登場のために「道を備える」というところにありました。歴史的に言うと、ヨハネもまたイエスと同じようにユダヤ教のなかの宗教的指導者だったのですが、彼のメッセージは当時のユダヤ教の主流が律法を守ることを強調する行き方であったのに対し、ひとりひとりの生活態度への反省(批判)であったようです。
◆かれが「らくだの毛衣」を着「いなごと野蜜」を食べるというのは、質素な生活を徹底していたということです。豊かさのなかで贅沢な暮らしをする人たちにとって、いつしかその生活レベルを維持することが大きな関心となります。豊かさが悪いということではなく、その豊かさを自分だけのものとしようとして生きる生き方をしていた「ファリサイ人」「サドカイ人」たちをヨハネは「蝮の子」と厳しい批判を投げかけます。彼らが豊かさを与えられているのは、神様の祝福であって、それに感謝し、その豊かさを隣人と分かち合うべきはずのことを、彼らは無視し続けてきたからです。
◆イエスがこの世に生まれられたのは、改めて神様が私たちに求められる生き方、隣人を愛し、隣人に仕えるという姿勢をご自身の生きざまのなかで示されるためでした。パウロの言葉を借りれば、神の子でありつつ「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ 2:7/8)であられたのです。クリスマスの夜、飼い葉おけの中に寝かされるイエスの姿、そこにその生涯全体が象徴されているのです。
◆祈りましょう:神様、どうぞ私たちが迎えようとするクリスマス、そこに示されているイエス・キリストを通じて示されたあなたの愛の形をしっかりと見つめることができますように。感謝をもってこの季節を歩ませてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
2022年12月11日 芦屋キリスト教会 待降節第三主日
説教:あなたがたは何を見に行ったのか」 田淵 結 牧師
聖書 マタイによる福音書11章2~11節
◆今日のイエスの言葉に「あなたがたは何を見に行ったのか」とあります。韓国ソウルでハロウィンのために多くの人々が集中し圧死しました。たくさんの人たちが集まるのは一体何のために、と思わされるのです。クリスマスイブもまた一大イベントなのでしょうが、本来のクリスマスからは異様な感じもします。
◆イエスの誕生は人々にはほとんど気付かれないなかでの出来事でした。そんなクリスマスがなぜこれだけの人たちを集めるようになったのは、どこか自分だけでいることに寂しさを感じ、多くの人と一緒にいたいという期待もあるようですが、街に出かけて群衆のなかにまぎれていても寂しさがのこる、だから次のイベント「初詣」へとなります。つまり何度クリスマスを迎えてもなにか満たされないままに、それが終わるのです。
◆イエスが私たちの間に来られた、というのは様々な問題を抱えている人にとってもっともふさわしい解決が示されることになります。自分がそこにいる意味、目的、そして使命などに気付き、そこで積極的に生きる姿勢を見つける、ということなのです。ヨハネがイエスの到来について人々に語ったのは、何よりも私たち自身が今どのような場にとどまり、どうイエスを御迎えすべきかに気づかさせるためなのです。
◆祈りましょう:神様、私たちはもうすぐクリスマスを迎えます。そのときにあなたとの出会いのなかで、私たち自身のあるべき姿、生きるべき姿勢、私たちにあなたから与えられた使命、それらにしっかりと気付ける一人として、アドベントの毎日を過ごさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
2022年12月18日 芦屋キリスト教会 待降節第四主日
説教:「あなたがたは何を見に行ったのか」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 3章31-36節
◆ドイツの古いクリスマスの讃美歌で宗教改革者マルチン・ルターが作ったといわれる「いずこの家にも」(讃美歌101番)という曲があります。原題は「高き天より私は来た」ですが、そのメロディーは高いドを天の高さとして、一オクターブ下の低いドが地上と考えると、その通り曲の最後はドシラソファミレドとなっています。そう、クリスマスは神の子イエス・キリストが神様のもと(天)から私たちのところ(地上)に来られたことをお祝いするときです。
◆だからクリスマスをただイエスの誕生日というように「誰でも誕生日にはお祝いするよね」という感覚で受け止めると、その中心的なメッセージが理解できないままになってしまうのです。ここでヨハネはイエスが神様のもとから降ってこられたことを信じることが「神が“霊”を限りなくお与えになる」と語り、さらに「永遠の命を得ている」のだと宣言します。
◆西暦という年代の数え方はクリスマスを中心にBC(Before Christ)とAD(ラテン語でAnno Domini:主が支配する)と分けられます。イエスの到来によって私たちが今までとは違ったまったく新しい時代、永遠の生命を約束された人生に招かれていること、つまり大きな希望のなかに歩み続ける時代を迎えることを、アドヴェントの最後の一週間に改めて覚えたいと思います。
◆神様、いよいよクリスマスを迎えます。どうぞそのときにこそ、私たちがクリスマスを通じて新しい生き方への転換のときとして迎えることができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン。
2022年12月25日 芦屋キリスト教会 降誕日(クリスマス)主日
説教「言葉は肉体となって私たちのうちに宿った」 田淵 結 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 1章1~14節
◆クリスマス、おめでとうございます。さてキリスト教には三つの大きなお祝いがあります、春のイースター、初夏のペンテコステ、そして冬のクリスマスですね。ただし実は教会ではその季節がくると一つずつお祝いするというよりも、一年を通じてその意味を考え続けているところがあります。毎週礼拝が行われる日曜日は、それがイエス・キリストの復活の曜日だからですし、礼拝の終わりの祝祷では「聖霊の働き」が毎回祈られます。ではクリスマスってどうでしょう。誰でも誕生日は年に一回のことですから、やっぱり12月25日のお祝いだけ、なのでしょうか。夏に「聖しこの夜」なんて歌えませんよね。
◆しかしイエス・キリストの誕生が意味することを、ヨハネ福音書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語ります。これは旧約聖書の創世記1章の天地創造物語を背景にして、すべてが神様の言葉によって創られたことを思い起させますし、旧約聖書の言葉ヘブライ語では「言葉」を意味する「ダーバール」という単語は「事件、出来事」をも意味します。そこに神様の語られる言葉、そして私たちの言葉の重み、重大さがあるはずなのです。
◆最近、アメリカのメジャーリーグのひとりのピッチャーを主人公とする小説を読みました。彼はニューヨークメッツというチームの人気投手でしたが、そのシーズンにシカゴカブスにものすごいバッターが登場し、彼のおかげでカブスの優勝も現実化していました。そのなかでこの二人は対決します。ピッチャーとしてはこの青二才にプロの厳しさを味合わせようとしたのでしょう、バッターの頭にビーンボールを投げてしまいます。結果このルーキーの野球人生は終わってしまいますが、投げた彼はそれは単なる事故だと強弁しつづけますが、結局彼もまた野球界から去ることになります。
◆あまりネタバレをしてしまってはいけないのですが、この小説は、この二人がその後の生涯のなかで和解できるのか、というテーマをめぐって展開します。和解という言葉を私たちはよく使いますが、その難しさ、不可能とも思える現実を同時に強く意識しています。ウクライナとロシア、それはどうなんでしょう。しかしクリスマスが、言葉が肉体となる、そして私たちの間に宿る、ということは、私たちの言葉が必ず出来事となることを示しています。不可能が可能となるのです。ザアカイの物語、パウロの回心、それ以上にイエス・キリストご自身の復活、聖書の全体を通して教会は、こうしてクリスマスの意味をいつも語り続けているのです。クリスマスの御祝福が皆様の上にありますように。
◆祈りましょう:神様、クリスマスを通じて、私たちは古い一年を締めくくり新しい年を迎えます。常に希望に満ちた日々をあなたの導きと支えを真実つつ歩み続けることができますように。私たちの心にあなたの御子イエス・キリストをお迎えすることができますように。ベツレヘムに生まれられた私たちの主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン