第十三回 アブラハムの子、ダビデの子、
前に新約聖書を読むならマルコ福音書からがおすすめで、マタイ福音書を読むとカタカナの人名の羅列でイヤになるとまではいかなくても、なんじゃこりゃ、ということになってしまうかもしれませんとお話しました。そのマタイによる福音書1章1節は「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」となっていて、イエスが系図的にはアブラハムの子孫であることが紹介されています。イエス・キリストはともかく、ではその最初がアブラハムという人になっているのはなぜでしょうね。もし人類の祖先とするならばアダムとエバにまでつながるはずなのに、ということでルカによる福音書の系図はアダムまださかのぼり、さらに神様につながっています(ルカによる福音書3章38節)。それはマタイ福音書の特徴ともいう書き方で、それはユダヤ人の読者をかなり意識して書かれたところがあり、その読者たちにイエスが正統なユダヤ人の一人であったことを紹介しようとしているからで、それはまさにユダヤ民族の先祖がこのアブラハムだっととされるからです。そのお話は創世記12章から始まります。今までのお話のなかで、聖書の言葉を引用するときには1987、88年に日本聖書協会から翻訳出版された「聖書 新共同訳」のテキストを用いてきましたし、その本文では「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて、私の示す地に行きなさい」」となっています。ところが私が子どものことから慣れ親しんできた聖書の翻訳は、やはり日本聖書協会の口語訳で1955年翻訳出版では「時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」」とさとなっていて、新共同訳に比べて、「出る」「別れる」「離れる」「行く」と、それまでのアブラハムの人生から決別というか、断絶ということを強く表現しているように思えますし、おそらく口語訳聖書の翻訳の方がヘブライ語原文の意味にちかいのでしょう。聖書というのはちょっとしたことで説明が必要となるのですが、この創世記12章では彼はアブラムと呼ばれていますが、やがて神様からアブラハムと名乗るようにと改名を伝えられるのです。、アブラム=偉大な父、アブラハム=多くの国民の父、そこにはこれからお話する物語の展開が反映されているようです。ただ彼の出自は、ノアの洪水の主人公ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェト(創世記10章1節)のうちのセムの子孫のひとりテラの末裔と記されています(創世記11章27~32節)が、もうひとつ別の旧約の記録では「滅びゆく一アラム人」(申命記26章8節)と記し、それまで特に取り立てて何か注目されるような存在ではなかった、と語られます。ところがその取り立てて目立たない彼が、突然神様に選ばれて、今までの係累を一切断ち切って新しい場所に行くことを命じられます。そのことを新約聖書では「信仰によって、アブラハムは・・・出て行くよう召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発した」(ヘブライ人への手紙11章8節)と説明をしていますが、これが以後旧約聖書のなかでいろんな物語などで出てくる召命物語の基本となります。つまり神様が何かの計画を実現しようとされるときに、その役割を担うべき人を選んでその人に役目(ミッション)を与えます。以後の聖書の物語の主人公の多くはこうやって神様による選びを経験するのですが、アブラハムの場合は別にそのことに文句も言わず、素直に従ったようですが(創世記12章4節)、これ以後そんな召命(神様の呼び出し)を受けた人は、またもや関西弁でいうと「かんにんしてください、わたしにはそんなことできません」と辞退するパターンが多くなります(出エジプト記3章11節以下、エレミヤ書1章5節など)。こうしてアブラムは、まったく新しい人生を(再)スタートさせることになるのですが、彼に対して神様が与えたのは三つの約束でした。一つ目はアブラハムの子孫が大いなる国民となる(創世記12章2節)。なにしろ、彼は今までの家族関係の大半を(と言っても妻や近い親戚などは同行していたようですが)断ち切って再スタートをしたのですが、彼の子孫から大きな民族ができる、などということは完全に神様の言葉だけのことです。二つ目は、アブラハム自身が多くの人たちに祝福をもたらすことになる(創世記12章2~3節)、というものですが、さて祝福ってなんでしょう。まあ悪いことではないに違いないのですが、これもかなり漠然とした約束ですね。三つめはもっと具体的に「あなたの子孫にこの土地を与える」(創世記12章7節)、というものでしたが、前回も記したように彼は本来羊飼いですので、土地を与えられてもというところもあります。いずれにしても、大いなる子孫(国民)、祝福、土地という三つの約束を与えられはするのですが、その後の創世記の内容を読んでいってもなかなかそれが実現しないままに、結局かれは人生を終えることになります。これも前に紹介したのですが、彼とその妻サラが高齢になってしまって、もう子どもなどできない、とあきらめていた時に、ようやく一人息子のイサクが生まれます。ところがなんと神様はそのイサクを殺して犠牲の捧げものにせよ、と要求する(創世記22章)、もう祝福どころではないようなお話です。でもそのイサクがヤコブという子どもを産み、そのヤコブから十二人の子どもがさらに生まれて、それぞれイスラエルの十二部族を形成することになっていくので、神様の約束はすこしずつ実現に向かっていくのです。そして創世記に続く旧約の物語、さらには新約までも含めて、聖書全体は、このアブラハムへの神様の約束がこうやって実現(成就)していった記録となっていきます。前に旧約の預言(約束)が新約で実現するとお話したその構造が、このアブラハムへの神様の約束から始まるのです。子孫の増大、それは創世記でもすでに実現しつつありますが、よりはっきりとは創世記の次の書物、出エジプト記で実現したようです。創世記の最後のところでヤコブの子どもたちはみなエジプトに移住するのですが、やがて「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますいます強くなって国中に溢れた」(出エジプト記1章7節)ようです。、大いなる国民(民族)という約束はこういう形で実現したことが記されるのですが、それによってエジプトのファラオ(王)はイスラエル人の存在を危険視し、彼らに迫害を加え、奴隷として重労働につかせることになります。あれ、大いなる国民という約束は実現したのに、祝福はどうなった、ということですね。さて旧約のお話をどんどん先に進めていくと、やがてイスラエル人はモーセをリーダーとしてエジプトから脱出し(エクソダスですね)、荒野を四十年さまよったのち、今のパレスチナの地まで到達し、その地をヨシュアという指導者の下に征服します。ようやく土地を与えるという約束が実現するのですがそのことをヨシュア記は「主が先祖に誓われた土地をことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを手に入れ、そこに住んだ。・・・主がイスラエルに告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した」(ヨシュア記21章43~45節)と記しています。ということは、イスラエル人たちにとって歴史とは、自分たちの先祖に約束されたことが実現していく時間の流れとしてとらえることができ、つねに未来に約束の実現というあかるい未来、確かな目的を期待し続けるという、未来志向の生き方をそこで育くんでいったようです。もちろん大いなる国民の実現、それが自分たちへの迫害という厳しい現実をもたらしたときにも、しかし神様は必ず自分たちを祝福してくださるという希望を持ち続けることができたのです。やや唐突な話題転換となりますが、聖書のなかでは自殺(自死)ということはあまり話題になりません。そして特に自殺を禁止する明確な掟もないようです。だからそれが認められているというわけでもなさそうです。つまりイスラエル民族は、こうやって神様からの約束を与えられ、それが実現することを待ち続けているのですが、もしあなたが現状に悲観して自らの命を絶ってしまったら、その神様の約束を受けとめる人がいなくなってしまうのでは、ということです。その約束の実現は、あなたの世代に実現しないかもしれないが、あなたの次の世代、未来の世代に与えられるとすれば、あなたの存在はその約束を次の世代に受け継いでゆく責任があるということなのでしょうか。だからどんな状況の中にあっても生き続けること、それがイスラエル人の当然の信仰的な姿勢なのでしょう。
さて、イスラエル人たちが土地を取得した、ということですが、それで神様から完全な祝福を与えられたというわけでもありませんでした。物を所有するということは、それを失わない、奪われない努力が新しく必要となりますね。前にも少し紹介した土地をめぐる紛争、戦争などがいやおうなく起こってきて、イスラエルは周囲の国々、とくにギリシャ地中海地方からやってきたペリシテ人たちにいつも痛い目に合わされます。ちなみにこのペリシテ人はイスラエルが土地を取得した前後からイスラエルを悩ませ続けるのですが、その勢力がいかに強かったかということは、それからずっとのち(千年ぐらいのちに)ローマ人たちがこの地域をペリシテ人が支配する土地(ペ(P)リ(L)シ(S)テ(T)人の土地=パレスチナ Palesitine)と呼んだことからも伺えます。土地を与えられること、それがそのまま祝福とはいかなかったのです。
ではその祝福は旧約のなかではどこで実現したとみられるのでしょうか。ひとつの可能性はダビデ王の即位によって、と言えるかもしれません。これも繰り返しお話したことですが、旧約のイスラエル民族の歴史のなかでダビデ、その子ソロモンの時代は一つのピークだと思われがちです。ダビデはイスラエル最初の王サウルがペリシテ人達との戦いに倒れてしまった後を継いでその王位を受け継ぐのですが、その際にイスラエルを脅かすペリシテ人たちを含む外国勢力を平定し(サムエル記下5章17節以下)、そのなかでそれまで異邦人の街であったエルサレムを征服し、そこをダビデの町としてイスラエル王国の首都と定めます。サムエル記下5章6節以下。つまり今でこそエルサレムはイスラエル共和国の首都ですが、それはこのダビデの功績によるものなのです。そして息子ソロモンはそのエルサレムに神殿を建て、ここがイスラエルの政治と宗教の中心地としての地位を占めることになります。その後ダビデは神様に「主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。・・・どうか今、僕(しもべ)の家を祝福し、・・・その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されますように」(サムエル記下7章28~29節)。と祈りを捧げます。こうして創世記でアブラハムに神様が約束された、国民、土地、祝福という三つの約束がすべて実現したように思われたのです。
しかし、これも繰り返しの指摘ですが、歴史のピークを迎えるということはそれ以後状況は下り坂を歩むということで、やがてイスラエル王国は南北への分裂、そして超巨大帝国であるアッシリアやバビロニアに滅ぼされてしまうのです。あのダビデの町、すばらしい神殿が建てられたエルサレムもまた破壊しつくされてしまいます「主よ、覚えていてください・・・エルサレムのあの日を、・・・彼らがこういったのを「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで」。娘バビロンよ、破壊者よ・・・」(詩編137編7節)。そしてイスラエル人たちは捕囚の民として故国を追われてバビロンに強制移住させられてしまうのです。この事件(バビロン捕囚)は、単にイスラエル王国が滅亡したというだけでなく、ようやく実現したかと思われた神様の約束が、すべて失われ、空しくなってしまったということで、イスラエル人たちの被った絶望は一層深いものとなったでしょう。ではそれでイスラエル人たちは、もう神様への信仰を失ってしまったのでしょうか、あきらめてしまったのでしょうか、もちろんそういう人たちもいたでしょう。でもそのなかで、なぜこのような悲惨な出来事が自分たちの上に臨んだのか、神様はただ空約束のようなものを人々に示したのか、そのような深刻な問いを真剣に問いかける人たちもありました。特にエルサレム神殿のあった南ユダ王国からの捕囚民たちの間にそのような真剣な議論、反省が行われ、やがてそこから、今まで神様の約束が実現したと思っていたことは真の実現ではなく、より自分たちにとって確実な約束の実現(成就)を改めて祈りつつ待つという姿勢がユダヤ教を成立させていったのでしょう。そしてそのユダヤ教の流れの中からキリスト教が成立していくとき、クリスチャンたちは、まさにイエス・キリストこそがあの神様の約束の実現者、成就者、アブラハムに約束された祝福をもたらす存在としての確信を持ち、そこでマタイ福音書は「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と、神様の約束の真の継承者としてのイエスの存在と意味をこの福音書で記そうとしたのでしょう。ただし、それはキリスト教独自の主張であって、ユダヤ教の主張とはまったく異なっていたのですが。そのような違いをめぐってヨハネによる福音書ではイエスとユダヤ人との論争が記されてます(ヨハネによる福音書8章39節以下)。
お話のスケールが聖書全体のことにまで及んでしまいましたが、いずれにしても旧約聖書創世記のアブラハムがイスラエル人の先祖とされるのは、一番深い意味として神様の約束が彼に与えられたということがあります。そこで創世記のあとの旧約の書物は、その約束がどのように実現していったのか、についての歴史を語ります。私たちももう少しその歴史の流れを、聖書の記事に沿って考えていきたいと思います。
第十四回 出エジプト記 モーセの働き
新約聖書の福音書のなかに「山上の変容」とよばれる不思議な物語が記されています。あるときイエスが高い山に登ると、「イエスの姿が・・・変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見るとモーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」(マタイによる福音書17章2節というものです。物語そのものの意味はまた別の機会に(この一連のお話のなかで、このことはまた後で、とか別の機会に、とよく書いてしまうのですが、果たしてちゃんとその別の機会があるのかどうか、かなり不安です)譲るとして、そこに現れたモーセとエリヤっていったい誰でしょう。この二人は旧約聖書を代表する宗教的な人物で、モーセはすでにユダヤ教の理解では旧約聖書の最初の五つの書物「律法」を書いた人物とされており、ある意味旧約聖書の権威を代表するひとりなのですね。エリヤは(彼については絶対に後で取り上げます!)は、イスラエルに登場する偉大な預言者のひとりで、彼の行動や言葉は列王記という書物に詳しく記されています。まえに旧約聖書は三つのジャンルで構成されているとしてキリスト教による分類、歴史、文学、預言書のことを説明しましたが、ユダヤ教では同じように三つに分けるときに、(モーセの)律法、文学(ユダヤ教的には諸書と言います)、そして預言者となり、ここでイエスと話しあっているモーセとエリヤは、まさに旧約の律法と預言者の権威者と語り合っているということになるのです。そして今回はそのモーセをめぐってのお話をします。
彼の生涯はとてもドラマチックなもので、私が子どものころチャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナーが出演するハリウッド映画「十戒」という映画が公開されました(1956年だそうです)。最近ではディズニーの系譜をひくDream Worksという会社が「プリンス オブ エジプト」というアニメ映画を公開されていますが(1998年)結構アメリカではヒットしたようです。日本ではどうだったのでしょうね。それぞれほぼ同じ内容ですが、旧約の出エジプト記の物語をほぼそのままなぞっています。最初にモーセが生まれた時代背景で、前に紹介したように創世記の終わりにエジプトに移住したイスラエル人たちの数が増大し、それを危険視したエジプト王(ファラオ)がイスラエル人の虐待、人種絶滅政策をとり、イスラエル人の男子の皆殺しを命令します。そのなかで生まれたモーセを何とかして救いたいと思った母親は、かれを葦の籠にいれてナイル川に流します。すると水浴びをしていたエジプト宮廷の王女がその籠を見つけ、モーセを連れ帰り、エジプトの王子として育てることになります(だからプリンス オブ エジプト)。そうして育っていたモーセは、ある日工事現場?でエジプト人に酷使されているイスラエル人を見て、そのエジプト人を殺害します。そのことをきっかけとして彼の出生の秘密が暴露され、彼はもはや宮廷にとどまることができなくなってそこを逃げ出し、エジプトの荒野で羊飼いとしての暮らしを始めます。その後少したって突然モーセは神様に召し出され、エジプトで奴隷となっているイスラエル人を解放するようミッションを与えられます(召命物語ですね)。なんとか堪忍してと思ったものの、神様に説得され、いろんな奇跡的な手段をつかってエジプト王(ファラオ)との交渉を重ね、ようやくイスラエル人を解放したのですが、ファラオの気が変わりイスラエル人を呼び戻そうと追跡され始めます。大人数で移動するイスラエル人たちの歩みは遅く、ついに紅海の沿岸でファラオの軍隊に追いつかれそうになったとき、モーセが紅海を二つに分け、その間の乾いた土地を通って逃げようとします。そしてエジプト人たちがそれを追って紅海の乾いた場所に突入したとたん、分かれていた紅海の水が元に戻り、エジプト人たちは溺れ死んでしまい、イスラエル人たちはエジプトからの脱出に成功する(エクソダスですね)のです。ただしその映画を見た私の娘が、「エジプト人のひと、かわいそう」と語ったのは忘れられません。その後イスラエルは、エジプトから神様に約束された土地、聖書では「乳と蜜の流れる地」を目指して荒野の旅を続けるのですが、その途中シナイ山というところで、モーセはイスラエル人が新しい土地に入って暮らすための根本的な十の掟(つまり十戒)が刻まれた石の板を与えられる、というところで映画は終わります。そのような物語のなかに、せっかくエジプトの奴隷状態から逃げ出したのに、荒野で食べ物がなくなると、エジプトの生活は苦しかったけれど最低限の食べ物(エジプトの肉鍋 出エジプト記16章3節)はあった、と言ってモーセを非難する人たちもあらわれ、それにこたえてモーセは神に祈り、聖書では奇跡も有名ですね(出エジプト記16章)。
またもや唐突な話題転換になりますが、みなさんはどこかでミサという言葉を聞かれたことがあるとおもいますし、それがキリスト教の礼拝を指すものとして理解されていますが、それは正確ではありません。そんなこと別にどちらでもいいじゃないかということかもしれませんが、キリスト教的には重要なものなので少し説明させてください。ミサ(あるいはマス)と呼ばれるのはカトリックの礼拝のなかで行われる特別な儀式を意味し、でも毎回の礼拝でその儀式が行われるので礼拝=ミサという理解が生まれたのでしょう。その儀式とは信者たちがぶどう酒とパンを分かち合って食べるというものですが、プロテスタント教会ではミサとは言わずに聖餐式(ユーカリスト)と呼んでいます。その儀式はイエスが十字架につけられる前に弟子たちとともにした最後の晩餐を再現するものなのですが、カトリックではそのぶどう酒がイエスの血潮に、パンがイエスの肉体に本当に変化する(聖変化)奇跡がその儀式のなかで起こるとされています。プロテスタント的には聖変化が起こるのではなく、ぶどう酒はあくまでもぶどう酒、パンはパンだけどそれらがイエスの血と肉体を象徴するものと考えます。なぜ突然そんなミサのお話をしたかというと、それがもともとイエスの最後の晩餐を模したものですが、その最後の晩餐は、出エジプト記のなかでイスラエル人がエジプトから脱出するまえに行った過ぎ越しの食事がその起源となっています(出エジプト記12章)。その食事のメニューは、パンとぶどう酒ではなく、傷のない小羊の肉と酵母(イースト)を入れないパンで、「「この儀式にはどういう意味があるのですか」と尋ねるときは、こう答えなさい。「これが主の過ぎ越しの犠牲である、主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」」(出エジプト記12章27節)。過ぎ越しということの説明はあまり簡単ではないのですが、エジプト脱出直前のイスラエル人たちが家でその食事をしているときに、神様がエジプトの街中を通りすぎて、エジプト人の子どもたちの命を奪うということがなされ、この食事によって、もう少し細かく言うと、食卓に用意された小羊が犠牲となってくれたことによってイスラエル人たちはその災いをのがれることができた、という(かなり恐ろしい)出来事を記念するものでした。その食事は毎年春にイスラエル人の一年の始まりとなるニサンの月に行われ、イエスの時代にもこの食事が行われ、そして現代までその伝統は続けられているそうです。その儀式をキリスト教がミサとか聖餐式として取り入れられたとき、まさにこの犠牲として殺される小羊こそ十字架につけられたイエスご自身だという理解をそこに込めたのです。カトリックのミサのなかで唱えられるアグニュス・デイはヨハネによる福音書1章29節の「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」をそのままの言葉として、その儀式の意味を改めて確認させるものとなっています。
そこでこのようなモーセの生涯を語る物語のメインテーマって何でしょう。モーセはすごい人だったよ、イスラエルはこうやってエジプトから脱出したんだよ、ということ以上のものがあるのです。それはイスラエルの神様ってどんな存在かということです。旧約聖書のなかで神様について語る時に、この出エジプトのことが繰り返し引用されています。例えば出エジプト記20章の十戒の序文に当たる箇所で「私は主、あたなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から満ちだした神である」とあるいは申命記26章でも「主はわたしたちの声を聞き、・・・私たちをエジプトから導き出し」(9節)その同じような表現は、モーセの五書からヨシュア記士師記、サムエル記、列王記、歴代誌、エレミヤ書、エゼキエル書そしえダニエル書でも、ほぼ聖書全体で繰り返し用いられています。つまり旧約の人々は、イスラエルの神様とは自分たちの先祖をエジプトから解放した存在だということが、共通の認識であって、私たちがどんな神様を信じているかということを告白するときの定式文、定型的表現とさえなっていたのでしょう。キリスト教でも私たちがどんな神様を信じているかということを、クリスチャン全体で告白するような定型の文章があり、それを「信条」(一番古いものでは使徒信条など)と呼んで、礼拝の時々に全員でそれを告白しています。それはこの旧約のイスラエルの人々の伝統に習ったものなのでしょう。ではなぜイスラエルの民は、モーセはその神を信じることで出エジプトのようなことができたのでしょう。もう一度モーセのことを考えてみると、彼は出エジプトの役目を任じられたとき羊飼いでした。先に羊飼いというのは、貧しく、みすぼらしく、無力な存在のように書きました。そのモーセがその当時、その社会の最高権力者であったエジプト王(ファラオ)と交渉をするのです。またモーセが突然にイスラエル人の前に行って、今からみんなを解放してやる、と言っても誰が彼を指導者として認めるでしょうか。このお話は最初からおかしなことばかりです。そのときイスラエル人を説得し、ファラオに交渉をさせる秘密が、このイスラエルの神様の名前だったのです。そこで神様は自分の名前として日本語で「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節)と訳されるような言い方で答えるのですが、実はこの翻訳はほとんど原語の意味を伝えられていないのです。というのもその名前の基本は英語でいうBe動詞で「ある」「存在する」というハーヤーという動詞の、未完了過去進行形という時制のものが二回使われて、その二つの動詞が関係代名詞でつながっているというものなのです。未完了というと、行くとか来るという動作がまだ完了していない、来つつある、生きつつある、というからまだ途中の段階ということです。でも進行形ですから確実にその動作はすでに始まって、動き出しているのです。ということでそれをBe動詞にあてはめると、存在しようとしているけれどまだ完全な形にはなっていない、ということですね。ということは、まだ完成されていないのですから、そこに何があるのか名前のつけようがない、ということなのです。といった説明を一回読んでわかっていただけるとは私も思いませんし、何よりも私の説明が正しいのかどうかも不安なのですが、それがそれぞれの言語が持つ時間の感覚(センス)なので、イスラエル人のみなさんにはすっと受け止められる意味なのでしょう。要するに、完成途上ということなのですが、完成されてしまったもの(完了形)はそれ以上変化のしようがないのですが、未完了なものはまだまだ未来に対して大きな可能性が広がって、完成を目指して動き続けている。確かにモーセ自身は羊飼いというみすぼらしい存在なのですが、そのモーセに未来に向けての可能性が大きく広がっている神様がともにおられることを信じるということで、モーセ自身の限界が完全に取り払われる、相手が王様であろうと権力者であろうと、それを超えていけることが確信できるのです。だからどんなに困難な状況で、もうこれまでと思わされるなかでもモーセが神を信じるということでその限界が打ち破られていく体験を繰り返し経験し、ついに紅海の水が分かれるという彼の予想にまったくないような現象のなかで、彼の行き詰まりが開かれていったのです。だから旧約聖書の全体を通じて、この出エジプトの事件を通じてイスラエルの神様のことが説明されるということは、イスラエル人たちにとって、常に未来は開けるということを実感させるものとなっているし、だからどんなに「しんどい」状況の中に置かれても、つまり国が滅びても、さらにそこからの可能性を見失わなかったのです。
第十五回 イスラエル どんな意味?
今までイスラエルということばを、別に何の説明もなく使ってきましたが、この言葉は旧約聖書の時代から今日のイスラエル共和国まで(今のイスラエルのあり方にはいろんな問題を考えさせられますが)、少なくとも3000年は用いられ続けている言葉ですね。その旧約聖書で最初にこの名前が登場するのは創世記32章です。これは創世記25章から続くアブラハムの孫のヤコブの物語で、これも読み物としてもとても面白いのでぜひお読みください。その物語のなかで分け合って故郷を離れていたヤコブが懐かしい故郷に明日着くという前の晩、「何者か」(創世記32章25節)に襲われ、取っ組み合いの争いとなります。それにヤコブが勝ちそうになるとその相手はヤコブの「腿の関節」を外すという(26節)や卑怯な手を使ってなんとかその場から逃れようとするところを、ヤコブが食い下がると、その相手はヤコブに「これからはイスラエルと呼ばれる」と告げ、その意味が「神と闘って勝った」(ヘブル語でイッシャラー【勝つ】+エル【神】)だと説明されます(29節)。その名前の意味はそうなんでしょうが、聖書のそれからの物語は、簡単にすでに触れたのですがこのヤコブ(イスラエル)が十二人の子どもの父親となり、その十二人がその後イスラエルという民族を構成する十二の部族の長(族長)となったということで、出エジプト記1章1~2節に「1ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。 2ルベン、シメオン、レビ、ユダ、 3イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、 4ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。」と説明されます。ということでイスラエルという名前は、その民族名となるのですが、さらにその民族がすんだ地域(現在のイスラエル共和国の北部地域)をも指す地域名となります。エジプト脱出を実現し、シナイ山で十戒の板を与えられ、その後四十年の荒野の放浪を経て、このイスラエル人たちはいよいよ神様に約束された土地、乳と蜜の流れる地、彼らの呼び方でいうカナンに入り、ヨシュア記の記す通りその土地を征服してそこに定着、居住を始めます。ところがその土地をめぐって周囲の民族との紛争が起こり、土地を守るための戦いをしなければならないという状況が生まれてきます。カナンの土地に定着した直後のイスラエルは、基本的に十二の部族がそれぞれの自立性をもって生活し、そこで緩やかな部族連合のようなものを形成していたといわれます。ちょうど古代ギリシャの都市連合のシステムに似ていたことから、マルチン。ノートという旧約学者はその連合をアンフィクチオニーと呼びました。そしてその連合のまとめ役というか代表者として「士師」(英語でJudge)と呼ばれる役職が定められました。士師記5章にはデボラという女性の士師が登場し、周囲の外敵との戦いをイスラエル全体に呼びかけますが、その戦いに協力したものは「残った者」(士師記5章13節)だけだったと報告されていますし、それはエフライム、ベニヤミン、マキル、ゼブルン、イサカル、ナフタリという部族(および氏族)だけだったようです。その他のルベン、ギレアド、ダン、アシェルは協力を渋ったようです(士師記5章14~18節)。つまり、カナン定着の初期のイスラエルが「ゆるやかな」連合体というのは、全体を強制して同じ行動をとらせるような権限は士師にはなく、自分にとって関係のないとき、それに協力することが不利な場合など、イスラエルが一致して行動することはなかったようです。そのような各部族の自立性というのは、ノート先生の指摘によると、十二の部族がそれぞれに神様に選ばれて(神様と契約を結び)連合に加わるということで、どの部族も対等の関係であり、例えばその戦いに加わるかどうかの判断もそれぞれの部族が、自分と神様との関係のなかで決定するということだったと説明しています。士師の職務は順番に部族が後退して担うということで、士師記にはたくさんの士師の物語が集められています。そのなか、よく日本でも学校や病院、ホテルなどに聖書を無料配布している団体に「ギデオン協会」がありますが、そのギデオンも士師の一人です(士師記6~8章)。さらにまたもやクラシック音楽の話題で失礼ですが、「メサイヤ」というオラトリオ(聖書の物語を題材にする音楽物語的作品)の作曲家で有名なヘンデルは、この士師記から「エフタ」(士師記3章12~30節)や「サムソン」(士師記13~16章)という作品も残していますし、サンサーンスというフランスの作曲家は「サムソンとデリラ」というオペラを作曲しました。それだけ士師の物語はドラマチックだったのでしょうね。
私たちは士師記の内容をドラマチックだと楽しんでいれるのですが、当時のイスラエルの人々にとっては結構その状況は大変厳しいものでした。これも前に書いたのですが、ギリシャ地中海からやってきたペリシテ人たちは鉄の武器を持っており、それに対してイスラエルの武器は青銅器がせいぜい、つまり戦っても文字通り刃が立たない、ということでなかなか勝つことができなかったのですね。もちろんイスラエルの神様の励ましがつねにあったとしても、なかなか戦果が上がらない状態がずっと続きました。そうやって時代はサムエル記までやってくると、いよいよ深刻になります。イスラエルの部族連合は実は同じ神様(その名前はヤハウェ、例のヘブル語のBe動詞ハーヤーを語根とする名前で、アルファベットではYHWHと綴られます。ただし出エジプト記者20章十戒の掟の中に、神様の名前をみだりに口にすることが禁じられているので、この四文字を神聖四文字として特別に扱い、その言葉くると別のアドナイ(主人)という読み方をする習慣があって、その発音がこの四文字と混同された結果、神様の名前をエホバと呼ぶということがありましたが、それはヘブル語やイスラエル人の習慣を十分に理解できない、間違った読み方です)をともに礼拝する(契約を結ぶ)部族連合組織なのですが、その連合の象徴として共通の聖所を持ち、そこに例のシナイ山で与えられた十戒が二枚の石の板を収めた「主の契約の箱・神の箱」が安置されており、今回のペリシテ人との戦いは決戦としての意味もあってその箱を携えて出陣していたのですが、ついにそれに敗れたときにその箱までも奪われ、祭司たちも戦士し(サムエル記上4章10~11節そのときに生まれた子どもは「イカボド」(栄光は去った サムエル記上4章19~22節)と名付けられたほどでした。つまりイスラエル部族連合体の存在そのものが危機に陥ってしまったのです。その後神の箱は、神様の不思議な力によってペリシテ人の間にさまざまな災厄をもたらしたので、ペリシテ人はそれを牛に引かせた車にのせてイスラエルに送り返すのですが、それからしばらく放置されたままにされてしまいました(サムエル記上6章)。この敗戦はもちろんペリシテ人との武器の違いも大きかったでしょうが、もうひとつイスラエルが抱えている問題が露呈してしまったのです。つまりデボラのときのように、戦争が起こっても全部族が協力して危機に当たるのではなく、それに消極的な部族の存在などがあり、部族全体の統一性、一体感がまったく発揮されなかったということが大きかったようです。そこでイスラエル人たちは、イスラエルがもっと強力な指導者のもとに一致して危機に対応する組織の必要性を痛感し、そこで周辺の国々で行われているように王による強力な支配を、最後の士師ともいうべき預言者サムエルに要求します。なんとしてでもイスラエルを守ろうという決意をそういう形でしめしたのです(サムエル記上8章5,19節)。ところがサムエル自身はそれに否定的でした。王様がいなければイスラエルは滅びてしまう!ということですが、ではそのイスラエルってなんでしょう。それまでの部族連合では、それを構成する十二部族の立場は対等で、それぞれの部族の意志も尊重されてきました。だからまとまりにかけるということなのですが、強力な王(支配者)が生まれると、今までのイスラエル的な社会のあり方は失われてしまうのです。みんな王の家来(臣下)となり、その命令に従い、王に税を納め、王の命令によって組織される軍隊として徴兵されることになります(サムエル記上8章11~18節)。イスラエルを守るためにそんな社会が実現してもいいのか、とサムエルは疑問を抱くのですが、そんなことを言っていて民族全体が滅ぼては元も子もない、イスラエルの人々はサムエルを押し切り、ついに「他の国のように」(サムエル記上8章5,20節)王様を建てることになり、最初の王サウルが即位します。
私の話はついあちらこちらと話題が飛ぶのですが、前にイエス・キリストのキリストという言葉の意味として、自分たちの危機を救ってくれる人、救済者あるいは解放者だと説明したことを覚えておられるでしょうか。このキリスト、ヘブル語でメシヤの本来の語源は、神様によって特別な権威を与えられる人の頭に「油を注ぐ」(マーシャー)、という意味で、油を注がれた者という名詞がメシヤなのです。その油というのは、実はそれまで士師が選ばれるときに、神様の霊が注がれたということをよりはっきりと見える形で示すもので、以後イスラエルでは王様の即位のときには必ずこの油注ぎの儀式が行われ、さらにキリスト教の諸王国でも王様の即位の際にはそれが行われています(イギリスのチャールズ三世の即位式でも行われました)。そしてなんと、イスラエルで最初に油を注がれてメシヤと呼ばれたのは、このサウル王が最初で、以後旧約聖書には何人もメシヤが登場します。ただしその人々はいわば小文字のメシヤで、イエスこそ大文字の、唯一の(真の)メシヤ=キリストだというのがキリスト教の立場です。またまたお話の流れがごちゃごちゃになってきましたが、要するにペリシテ人に敗れ、神の箱まで奪われたイスラエルは、その存続の危機を王様を建てることで回避しようとした、ということです。そしてそれは見事に成功したのです。ただしサウルの時代はまだまだ不安定でしたが、その後、ダビデその子どものソロモンがイスラエル王となることによって、ペリシテ人の脅威も一掃され、イスラエル王国の黄金時代(ピーク)が到来するのです。もうそのことは何度もお話しましたね。
第十六回 ダビデの即位
さてサウルが王権についたとき、早速に王様の支配の持つ問題が噴出しました。それはサウルを王位に就けた預言者サムエルとサウルとの対立でした。つまり宗教的権威と政治的権威と、どちらが優先するのかということです。サムエルにすればサウルは神様に油を注がれた存在として神様の、ということは預言者であるサムエルの命令に従うのは当然だと考えますが、サウルにすれば自分が軍事力を持っているし、王国を維持するための政治的判断も自分が行うべきだというとでその二人の間に緊張、対立が生じ、結局サムエルは神様によってサウルが王位から退けられた!と宣言します(サムエル記上15章26節 「主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ」)。しかしそう預言者に宣言された後もサウルは実質的に王様としてとどまり、そのなかで結局ペリシテ人との戦いの中で戦死してしまうのです。サムエル記上の物語では、預言者サムエルはサウルの退位宣言を行ったのち、その後継者を探そうして、ベツレヘムという村のエッサイという人の家を訪ます(サムエル記16章4節)、ところが長男から順番にその子どもたちと「面接」をし、どれも有力候補であると考えるのですが、神様はルックスや外面で判断してはいけない、とサムエルを戒めます(サムエル記16章7節)。もうほかに息子さんはいませんか、というと一番下の弟が、外で羊を飼っているということで彼を呼んでもらうと、神様は「立って彼に油を注ぎなさい、これがその人だ」とサムエルに告げますが(サムエル記16章12節)、その弟こそダビデだったというエピソードが記されています(サムエル記16章)。なんだかどこかで聞いたようなお話ですね。本当に選ばれるべき主人公は最初は表舞台にはいない、わたしはどうもシンデレラ姫のおとぎ話の原型を読んでいるような気がします。ただしサムエル記の物語の展開では、むしろダビデはサウルの軍隊に出入りするうちに、徐々に頭角を現してきて、むしろその能力のゆえにサウルから警戒され、ついには殺されてしまいそうになる関係であったようです。もうひとつダビデが戦士としての頭角を現した物語にペリシテ人の大男で歴戦の勇士、負けを知らないゴリアトという兵士がが現れ、イスラエル員と一対一での闘いを求めます。イスラエル人たちはみな尻込みするなかで、羊飼いの少年ダビデがたまたま戦場を訪れその戦いに志願し、ゴリアトの侮蔑にもかかわらず、彼の革製の石投げ道具でゴリアトの眉間に石を命中させて、文字通り一撃で彼を倒したとたいうことも聖書にしるされています(サムエル記上17章)。歴史的なことを考えると、サウルとダビデ、もちろん実力的なものもあったのでしょうが、もうひとつは出身部族の違いがダビデの台頭に微妙に影響していたようです。サウルはイスラエルのなかで最も小さな部族であるベニヤミン族の出身(サムエル記上9章21)でした。ところがダビデは「ユダのベツレヘムの出身」(サムエル記上17章12節)ということなのですが、ユダ族はむしろほかの十一部族が北の方に主中していたのに、南の方の結構広い地域を収める大きな部族をバックにしていました。そしてダビデが王になるということは、それまでどちらかというとイスラエルが北の十一部族がみんなで連合を動かしてきたのに対して、ユダのひとつの部族がイスラエル全体を支配するような状態を招くことなり、彼がイスラエルのなかで南側にあるエルサレムを首都とした、ということはまさにそのことをイスラエル全体に示すことでもあったのです。しかもエルサレムが「ダビデの町」と呼ばれることは、まさにダビデ個人の大きさを誇示するものでした。そのダビデがペリシテ人などの脅威を完全に取り除いたのですから、人々は彼に従わざるを得なかったし、さきほどのダビデが神様に選ばれてサムエルから油を注がれたといいう物語も、その権威をさらに強化するために語られたものだったのかもしれません。もうひとつ、ダビデはサウルが預言者サムエルという宗教的な権威者と衝突したことを踏まえて、彼の王権と宗教的権威との関係をしっかりとつけました。ダビデはまず、それまで放置されていた神の箱をエルサレムに移し、それを収めるため彼の(おかかえ預言者)ナタンに、イスラエルの神様のために神殿(神様の家)をエルサレムに建てたいと伝えるます。神様はそのことは息子ソロモンが実現するだろう、むしろダビデが神様のことを重要視したことを高く評価し、むしろまず神様がダビデの家(王朝)を建てるということをナタンを通じて語ります。そして神様はダビデの息子の「王座をとこしえに堅く据える」(サムエル記下7章13節)と同時に神様は「わたしは彼の父となり、彼は私の子となる」(同14節)とさえナタンを通じて宣言させるのです。ということは、それまでイスラエルは各部族がそれぞれに直接神様を礼拝し契約を結ぶということであったのが、ダビデの子孫が神の子としてイスラエルの王として君臨し、神様の意思は王様を通じてのみ人々に伝えられるという、いわばイスラエル宗教の「中央集権化」が実現したのです。こうなると王の政治的権威とイスラエルの宗教的権威とが一体化され、王様はまさに絶対的権威・権力を手にしたのです。どうしても私の修士論文のテーマがこのあたりのことだったのでお話が細かくなってしまいますが、もう少し我慢してお付き合いをお願いします。本当にすみません。
こうしてダビデはイスラエル王として絶対の権威を手にしようとしていたのですが、「驕れるものは」という言葉どおりの過ちを犯してしまうのです。というのも、彼が王宮にいると、とても美しい女性が水浴びをしている姿を見初め(サムエル記下11章2節)。その美しさに引き付けられて、彼女を自分のもとに招き「床を共にし」、その結果彼女は「子を宿しました」とダビデに告げます(サムエル記下11章4~5節)。ところがこの女性は自分の部下ウリヤの妻バトシェバであったので、なんとダビデはウリヤを戦場の最も危険なところに送り出し、彼を戦死させてしまった上で彼女を自分の妻とすることまでやってのけたのです。バトシェバもウリヤもダビデの権威には逆らえないという立場につけこんだスキャンダルはバトシェバ事件として有名なものでした。そこで生まれた男の子は残念ながら早逝し、改めてダビデとバトシェバの間にソロモンが誕生することになります。先に紹介したようにマタイによる福音書1章の「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」のなかで「ダビデは、ウリヤの妻によるソロモンをもうけ」と記されるようになったのです。聖書というのはとても興味深いのは、いかにダビデが旧約の代表的な人物であったとしても、そのような彼の人間的な弱さを包み隠さず記しているところ、「ダビデのしたことは、主の御心にかなわなかった」(サムエル記下11章27節)とまで記されることが、まさに聖書という書物の特徴を表しているようです。
ただし王としてのダビデの存在はその後の歴史のなかでも高く評価され続け、以後のイスラエルの王様の功績の評価基準としてダビデの治世が引き合いにだされてもいます(列王記上15章3節【王アビヤム】列王記下14章2節【王アマツヤ】、16章2節【王アハズ】、18章3節【王ヒゼキヤ】、22章2節【王ヨシヤ】)。もう一つダビデについて触れておかなければならないのは彼の詩人としての才能です。特に旧約聖書詩編の全150編のうち七十三が彼の作品、ダビデ詩編とされていますし、十三の詩編はダビデの生涯の出来事と関係づけられています(三、七、十八、三十四、五十一、五十二、五十四、五十六、五十七、五十九、六十、六十三、百四十二編)。これもまたダビデに対するのちの人々の高い評価の表れだったのでしょう。
第十七回 ソロモンの栄華
さて イスラエルの王としてダビデが即位して、神様が彼に王朝をみとめ、その子どもたちも神様の子どもとして認められるというように、ダビデの王位は盤石なもののように思われたのですが、バト・シェバとのスキャンダルもあったり、やはりどこか不安定さもつきまとっていました。そのなかで誰がダビデの後継者となるのか、ということで実はバト・シェバよりも前にダビデの妻となっていたマアカから生まれたアブサロムという男子があり、彼もなかなかの高青年だったということで有力な跡継ぎとも考えられていたのですが、このアブサロム自身がスキャンダルを起こしてしまい、失脚。そしてソロモンがダビデの跡継ぎとなるというような(ドロドロした)事情も聖書には記されています。そのソロモンが残した業績というのは、なんと言ってもエルサレム神殿の建築でしょう。その神殿は、当時の贅を尽くした建物だったようで列王記にはその詳細が細かに報告されています(列王記上6〜8章)。ところがそれが立派であればあるほど考えさせられるのは、その神殿のデザイン(スタイル)は何をモデルにしたのでしょう? イスラエルの王国時代については聖書のなかに列王記という書物と、ほぼ同じ内容で違った視点から(おそらく後の時代になって書かれた)歴代誌の具樽があります。神殿の設計ということについて、列王記は何もかたっていませんが、歴代誌はダビデがソロモンにその設計図を手渡した(歴代誌上28章11節)とされています。それにしても、それまでイスラエル人たちは、例の十戒の石の板を収めたと言われる神の箱を安置するという形での聖所を定めていましたが、その場所はいろいろと移動し、その作りは天幕(テント)づくりの簡素なものでした。まさに羊飼いの文化・社会から生まれたものですね。しかしこの神殿は違います。そしてイスラエル人たちには、今まで見たこともないような、初めて目にする建物のはずです。となると、ダビデは、あるいはソロモンはそのモデルをどこから得たのでしょう。彼らのオリジナルだったのならあまり問題ではないということになります。列王記のなかに、のちのイスラエルの王がダマスコにでかけ、そこで目にした祭壇の「見取り図とその詳しい作り方の説明書」をエルサレムに送り、それに基づいて新しい祭壇が作られたという記事があります(列王記下16章10〜11節)。もちろんダマスコの祭壇はイスラエルの神様のためのものではなく、むしろ異教の神々のものだったのでしょうが、おそらくエルサレム神殿そのものも、また周辺の国々の宗教施設のイメージが用いられたと考えるほうが自然でしょう。となると、その神殿がイスラエルはイスラエルの宗教性に大きな問題(変化)をもたらすことになります。つまりイスラエル社会のなかに、他の国の宗教的要素が持ち込まれてきたのです。あの出エジプト記20章の十戒には、イスラエルはヤハウェ以外の神を礼拝することを厳しく禁じられ、またその像(イメージ)を作ることも許されていませんでした(出エジプト記20章1〜2節)。ところがマナセ王の時代には神殿には、異教の祭壇、さらに神の像(=偶像)まで持ちこまれるようになってしまったのです(列王記21章4〜11節)。またその神殿建設のためには、イスラエル人が労役に駆り出されるようにもなり(列王記上5章21節)、また彼の後宮(ハーレム)には七百人の王妃とsン百人の側室」がいた(列王記上11章3節)とされ、彼女たちがカナンの異教の神々をイスラエルに持ち込んだともされ(かつてサムエルが王様を立てるるといろんな弊害が起こると懸念したことが、一つずつ現実のものとなって行ったのです。
もう皆さんもお気づきのように、イスラエルが王様という政治のかたちを導入したということは、それはまさにイスラエル人の生活、社会的なあり方の根本的な変換となり、それはまさに宗教的にも変質したものと言えるでしょう。そのことはそれ以後のイスラエル人の信仰生活も大きく変化します。というのも部族連合の時代には、各部族がそれぞれに神様を礼拝し契約を結ぶということで、人々にとって神様の礼拝は人々の生活の場と近いところで行うことができました。ところがエルサレムに神殿ができ、そこに例の神の箱(ここでは契約の箱と呼ばれます)が安置される(列王記上8章)と、神殿がイスラエルの宗教活動の中心地化され、人々はエルサレムにやってきて礼拝することが求められるようになります。ソロモンのころにはそこまで礼拝所がエルサレムに集中されることはなかったのですが、のちのヨシヤという王様がイスラエル宗教の改革を行い、王国の各地にあるそれまでの礼拝所(聖所)を廃止、併催して正しい礼拝はエルサレムのみでなされることを宣言しました(列王記下23章)。その宗教改革の根拠となったのがエルサレム神殿で再発見された申命記だったといわれています(申命記26章2節)が、、こうしてますますエルサレムの政治的、宗教的地位は高められていったのです。
ダビデが詩人としての才能を持っていたと旧約聖書で評価されるように、ソロモンも彼の独自の才能によって旧約のなかで記憶されていますが、それが彼の知恵でした。これもイスラエル人たちの信仰生活のなかから生まれた独特のものなのですが、毎日の生活のなかでいろんな困難や試練を回避し、それに耐えるための生き方としての知恵というものが聖書にも記されています。彼が王となったときに神様が彼に望むものを与えようといわれたとき、かれは「正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と祈り、それにこたえて、神様は「今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」として、それが与えられたとされます(列王記上3章)。それによって彼の支配は順調であり、またシェバ(エジプトあるいはエチオピア?)からやってきた女王との知恵比べ、それに「大岡裁き」とよく似た二人の母親がどちらの母親かという裁定(列王記上3章16〜27節)などが有名ですね。さらに旧約聖書の文学(ユダヤ教で言う諸書というジャンル)のなかの箴言という書物(31章から構成され、一日一章ずつ読める体裁。生活にも有益な知恵が収められている)は「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」(1章1節)という言葉で始まります。その著者が本当にソロモンなのかどうか、旧約学者たちには議論がありますが、ユダヤ人の伝統のなかに、知恵といえばソロモン、と相場が決まっていたのでしょう。紀元前2世紀ごろにギリシャ語で書かれた「ソロモンの知恵」という書物、カトリック教会ではこの書物も(第二)正典として聖書のうちに含めています。
さてイエス様に「栄華を極めたソロモン」と言われたその時代も彼の死で終わりますが、その死後、イスラエルのなかでまたもや後継者争いが起こり、初代のサウル王を支持した北のイスラエルの各部族と、ダビデを支持してきた南のユダ族との争いという形で衝突が起こり、ついに王国は分裂して、北にはヤロブアムという人物を王とする北イスラエル王国が、南にはレハブアムを王とする南ユダ王国が成立します。それ以後は南北二つの王国がそれぞれに並存するのですが、どちらの国の王様もなかなかイスラエルの神様の眼に叶うような政治を行わず、結局まず北イスラエルがアッシリア帝国によって、その後南ユダ王国がバビロニア帝国によって滅ぼされて、王国の歴史が終わってしまったのです。私はつい、自分の関心がこの王様の時代にあるもので、もっといろいろ書きたいこともあるのですが、もういい加減にして、サムエル記、列王記をみなさんにお読みいただくことをおすすめします。面白いですよ。
第十八回 預言者エリヤ
イスラエル王国についていろいろ考えてきましたが、旧約の歴史のなかでその最も大きなポイントはイスラエル宗教の変質にあります。ダビデ、ソロモンの二代にわたってのイスラエル支配でその変質の基礎が確立されたと思えるのですが、そこで従来の旧約の歴史の考え方に大きな疑問が起こります。はたしてダビデやソロモンはいい王様だったのか。そのことはどの立場からイスラエルの歴史をとらえるかによって変わりますが、私の視点は、決して手放しでいい王様だとは言えない、むしろ問題の多い王だったというところでしょう。だって(彼らも)人間だもの。そして直接にこの二人の王に対してではありませんが、その後イスラエル、ユダに登場した何人かの王に対して、とても厳しく鋭い批判や非難を投げかけた人たちがいました。それが預言者です。聖書ではその早い時代から預言者と呼ばれる人たちが登場します。すでにお話したモーセも預言者ともいわれますし(申命記34章10節)、あのサムエルもそうでしたね(サムエル記上3章20節)。興味深いのはイスラエル最初の王サウルも預言をしたと記されます(サムエル記上10章11節)。もちろんこれから紹介するひとたちもそうですが、広くは神様からのメッセージをゆだねられてイスラエルの人々にそれを伝えるということでは、その働きをした人たちはすべて預言者と言われます。イスラム教の理解ではイエスも預言者のひとりとされています。ヘブル語で預言をするということばをナービーと言いますが、それは神様からの霊を感じてエクスタシー(恍惚状態)になって神がかった言葉を口走る、というような状態を意味します。その言葉は聞く人たちの日常生活からはかけ離れた内容であるがゆえに、人々はそれを恭しく受け止めたのでしょうし、サウルの預言というのはまさにこの状態を示しています。「神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった」(サムエル記上10章10節)。ところがこれからお話する預言者と呼ばれる人たちにはもう一つのへブル語でローエーというという働きを果たしていました。文字通りには観る、見るということですが、ただ何かが見えるということ以上に、その視界に入ってくるもののが持っている意味、意義を読み取る、つまり状況を鋭く観察する、という働きでした。例えば南ユダ王国の滅亡近くに登場した預言者エレミヤは、神様から「エレミヤよ、何が見えるか(マ・ローエー)」と問われます(エレミヤ書1章11節)。そして彼らは自分の時代が抱えている大きな問題に気づかされ、人々にそのことを語るのですが、その大きな問題こそ、王国という社会の実現のなかで失われて行こうとする、イスラエル本来の宗教性、信仰のあり方についてだったのです。その意味ではサムエルという預言者は、王国の成立の時からその問題に気づいていたといえるでしょう。旧約聖書のジャンルについてお話をしたときに、その三つ目に預言者(預言書)というものがあることをお話しましたが、その順番は、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、ホセア、ヨエル、アモス・・・と続きますが、この順番は預言者が登場した時代の流れとは関係なく、今私たちにのこされている預言者たちの言葉をまとめた文書(これらの文書を預言者たちが書いたのではなく、後のひとたちがその言葉集めて編集しました)の長さの順番であって、ホセア書からマラキ書までの十二の文書はひとまとめに十二小預言書と言われています。そしてこれらの預言者たちはすべて、王国が成立して以後活躍をしています、つまりすべてが王国の抱える問題についての発言を続けていたのです。ただし、王国のあり方について語った預言者のうち、もっとも有名で重要な役割を担ったひとりが、預言者エレミヤでしたが、彼の言葉は独立した文書ではなく、列王記という歴史書のなかに集められています。またまた話題が大きく飛躍しますが、イエスが十字架につけれられて息を引き取ろうとするそのとき「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫び、それを聞いた人たちが「この人はエリヤを呼んでいる」と語ります。イエスが語ったエリということばはヘブル語で神様!ということ、より正確には私の神様(ヘブル語でエル=神、ィー=私の)ということなのですが、このエリヤという名前は「私の神様はヤー=ヤハウェ)という意味です。人々はそのことを聞き違えたのかもしれませんが、もうひとつ旧約聖書の最後の書物、預言者マラキの言葉に「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ書3章23節)と語られており、まさにイエスの死の瞬間にこのマラキの預言が実現したと感じたのかもしれません。つまりそれだけイエスの時代のユダヤ教の中でもエリヤは重んじられていたのです。
さてこのエリヤですが、登場したのは北イスラエル王国が絶頂期を迎えようとする頃でした。王国分裂後も南ユダ王国はダビデ王朝の系統によって王様が選ばれましたが、北王国の方はそれぞれの部族独自の背景などもあり、なかなか王朝のような安定した体制ができませんでしたが、エリヤが登場する少し前にオムリという強力な王様が現れ、十七年イスラエルを治めましたがその間に国の首都をサマリヤに定めています(列王記上16章24節)。あのよきサマリヤ人のサマリヤですね。そしてその子アハブがその王位を継承し、オムリ王朝二代目王として君臨します。彼の時代に国はより充実し、彼は二十二年間王位にあり、積極的に外交政策を進め(ということは異国、異教の習慣などの影響も強く受け)、妻イゼベルをシドンという地中海沿岸の都市から迎え、彼女は積極的にバアルという神様の礼拝を進めていたようです(列王記上16章29~33節)。バアルというのはカナン(今のパレスチナの諸地域)で広く礼拝された男神で、妻である女神アシュタロテとともにイスラエルでは偶像礼拝の一番はなはだしいものとして、預言者たちから嫌われ、エリヤもまたバアル礼拝、バアルの予言者たちとの闘いを行いました。ただし政治的に言うと、アハブの支配は二十年を超える長期に安定したもので、国外との交易などで国全体は栄え、その当時はユダ王国以上にイスラエル王国は繁栄していたようです。そのアハブの時代にエリヤが神様から預言者として召命を受けるのですが、彼が最初に命じられたことはそのイサベルの出身地シドンのザレプタに住むやもめのところでともに生活をするようにということでした(列王記上17章8節以下)。ところがそのやもめは貧しく、とてもエリヤを養えうどころではなかったのです「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺のなかに一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは一本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(列王記上17章12節)。そしてやがて彼女の一人息子が病気で亡くなってしまったとき、彼女はエリヤに自分の不幸、不満をぶつけるのです。そのときエリヤは神様に祈り、その息子を生き返らせる、というところはまさに聖書らしい展開ですが、旧約のなかにも死者のよみがえりが語られることがあります。そして彼女はエリヤを「神の人」だと認めました。エリヤの、預言者としての最初の体験こそ、彼のその後のメッセージの核となるもので、王国全体が華やかな繁栄を見せる陰で、貧しい人たちが飢えて死んでいく現実、それがイスラエルでゆるされるべきではない、ということで、以後彼はイスラエルの王様、当時のアハブと激しく対立することになり、彼はアハブから厳しい迫害を受け、死を覚悟したときに、逃げ込んだ洞窟のなかで神様の「静かにささやく声」(列王記上19章12節)を聞き、新たな力を得てそこから活動を再開したりもます。エリヤの物語もそれからの展開は劇的で、その内容はメンデルスゾーンという作曲家が「エリヤ」というオラトリオ(聖書の物語にもとづく音楽ドラマ)を作曲しています。その中でのハイライトは列王記上18章の預言者エリヤとバアルの予言者たちとのカルメル山というところでの対決、イスラエルの神ヤハウェとカナンの神バアルと、本当に祈りを聞かれるのはどちらなのか、という闘いの物語などとくにドラマチックです。そのほか列王記上21章のナボトのブドウ畑の物語、王様が自分の権力をふるってナボトという人の先祖伝来のブドウ畑を無理やり奪ってしまうお話なども有名ですね。ついにアハブも、妻イゼベルも死ぬのですが、イゼベルの最後はエリヤが預言したとおり、とても悲惨な最期となったのです(列王記下9章30~37節)。メンデルスゾーンがこのエリヤをテーマとして宗教音楽ドラマを作ったのは、その内容の展開のものすごさですが、彼の紹介の最後まで、作曲家にとっても想像力をかき立たせるものでした。彼はその最後は、彼の弟子エリシャエリコという町を進んでいると「火の戦車がその馬に引かれて表れ、・・・エリヤは嵐の中を天に上っていった」(列王記下2章11節)のです。この場面にメンデルスゾーンはどんな音楽をつけたのでしょうね。創世記にもエノクという人が、その人生の最後に「神に取られた」(創世記5章24節)という記事がありますが、エリヤの最後は本当に劇的で、だからこそあのマラキの預言のように、エリヤの再来臨というものが期待され、ほかにも新約聖書福音書の最初に登場するバプテスマのヨハネの容貌「ラクダの毛衣を着、腰に皮の帯を締め」というのもエリヤのそれ(列王記下1章8節)を連想させるものとなっています。
イスラエル王国の持つ問題、国の繁栄とは裏腹に、その社会の片隅で経済的、社会的な貧しさの中で抑圧され、差別される人たちの存在、その矛盾、問題の告発、それが以後の旧約の預言者のメッセージの基本となりますが、預言者が、神の言葉を預かるというとき、本来の羊飼いであったイスラエルの人々ひとりびとりが神を礼拝し、それぞれの部族で契約を結び、神様の守りを感じ続けるという伝統がイスラエル王国によって踏みにじられる現実、まさにそこに預言者たちの怒りがあり、発言を支えるものとなっていったのでしょう。この預言者たちについてもいろいろ語りたいことがたくさんあるのですが、この講座(おはなし)がどんどん長くなっていくのも心配ですが、もう少し預言者のお話を続けましょう。
第十九回 アモスとホセア 北イスラエル王国の滅亡
エリヤののち、その弟子エリシャの預言者としての活動がありましたが、その後しばらくして北イスラエル王国にほぼ続けて二人の預言者が登場し、活躍します。この二人はともにヤロブアムという王様の時代に活動した(ホセア書1章1節、アモス書1章1節)ようですが、それぞれえの節に記されるユダ王国の王様の名前を比較するとホセアの方がかなり後の時代まで活動をしていたようです。そしてその活動時期の違いがこの二人の語ったメッセージの内容が同じことを語りながら、かなり大きな違い生んでいるようです。それはまさに北イスラエル王国の滅亡であり、アモスはそれを差し迫った危険と感じながら、まだイスラエルの人々の姿勢によって回避できることを考えていますが、ホセアの場合はそれは不可避であり、その滅亡を体験する中でイスラエル人たちがどのようにふるまうべきかを訴えるのです。
まずアモスについてですが、彼についてアモス書では「テコアの牧者の一人」であった(アモス書1章1節)と記していますが、このことには少し注目されます。つまり彼はもともと預言者などのような宗教的な働きをするような生まれではなかったようで、預言者としてはアマチュアでしかなかったようです。そのことについてアモス書7章にひとつのエピソードが記されています。アモスもエリヤと同じく、その時代の王様の支配の抱える様々な問題を告発したとき、おそらく王様の聖所であったベテルという場所の祭司アマツヤがこのアモスの活動を当時のヤロブアム王に報告し、アモスが王に「背いた」(アモス書7章10節)と告発します。その結果、彼はイスラエル王国から追放されかけるのですが、その時「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」と告げます。ここでいう預言者、預言者の弟子、というのはイスラエルには専門的というかプロの預言者がおり、特に王様付として助言などを行っていたようで(ダビデ王の預言者ナタンもそんなひとりだったようです)すが、このプロ預言者は当然王様には批判的なことをあまり語らなかったのです。それに対してアモスが厳しい批判を加えたのは、そんなアマチュアの一人、普通の人間として、その状況は黙っておれないし、そのとき「主は家畜の群れを飼っているところからわたそいを取り、わが民イスラエルに預言せよ」と預言者にされてしまったことを主張します。つまりもう黙っていられない、それほどにイスラエル王国はひどい状況だ、ということだったようです。「主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」(アモス書3章8節)
さて彼の預言メッセージですが、それはローエー(見る)という働きの結果だったのです。アモスはそこにはいなごが飛んでいるのを目にします。普通の人からすれば何気ない、ああいなごか、という光景ですが、彼はそのイナゴをみてまさに戦慄するのです(アモス書7章1~3節)。あ、イナゴか!ということですね。前にも少し紹介した私のかつての愛読書、大草原の小さな家でお父さんが一生懸命春から畑づくりをして、いよいよ収穫間近になってイナゴの大群が襲ってきたというお話です。そのイナゴの数は何千、何万というそれが暗くなるほどの大群で、せっかくの収穫を徐々にすべて食いつくしてしまうのです。一年の働きがまさに無に帰するという体験。ところがその際に飼っていた鶏がそのイナゴをついばみ始めるのをみて、お母さんがこんな災難のなかでもいいこともあるのね、というのも実はポジティブな気休めでしかありませんでした。その年の収穫はあきらめて、来年またやりなおそうと、借金をして種を買い、春になって畑にそれを捲きます。そしてその芽が出て成長をしはじめたとき、なんと地中に産み付けられていたイナゴの卵から幼虫が孵化し、その芽をまたも食べつくしてしまうのです。新しい土地の開拓の厳しさの物語ですが、まさに虫害、蝗害、それは古代から農民の大敵であり、旧約にも繰り返し語られています(ヨエル書1章4節)。そのイナゴを目にしたアモスは、イスラエルが今享受している豊かさが、やがて食い尽くされてしまうというメッセージを読み取ってしまうのです。それからしばらくしてアモスはそこに火が燃えているのを観ます(アモス書7章4~6節)。大火がすべての家屋を飲み込んでいく、戦火によって人々が焼け出され、逃げ惑う光景を彼は予想してしまいます。三度目に彼は神様が下げ振りを手にして城壁の上に立っておられるのを目にします(アモス書7章7~9節)。下げ振り、それはちょうどおもりが先についたロープで、建物の壁にそって垂らすとその壁がまっすぐに立っているかどうかを測ることができるのです。そしてもしまっすぐでなければその壁は危険なものとして取り壊されるしかありません。神様はイスラエル社会を測っておられるのです。そして最後に彼の家のテーブルの上にでしょうか、ひとかごの夏のくだものがおかれていました。その季節だったのでしょうか、家族からすればさああとでみんなで食べようねというところかもしれませんが、彼はそれを見てまさに打ちのめされるのです、我が民イスラエルの終わりが来た、と語ります。夏のくだもの(カイツ)、それはヘブル語で終わりを意味する言葉(ケーツ)と響きが通じ合うのです。イスラエルはまさに神様の審きの前に滅ぼされるほかはなかったのです。彼が目にしてきた北イスラエル王国の王政の結果なのでしょう。「お前たちが正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている」(アモス書5章12節)。聖書を読んでいて、経済学の基礎的知識を教えられるところがあります。8章で「お前たちは言う。新月祭はいつ終わるのか。穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くいたいものだ」(アモス書8章5節)。穀物、麦、それは庶民の生活を支えるなくてはならないものです。しかし一定期間をの販売を控えるとその価格は上昇します。そのとき商人たちは高い値段でそれらを売り出すのです。売り控えの(供給)が下がれば価格は上昇する、というあの需要供給曲線を思い出します。そして貧しい庶民はますます貧しい生活を強いられ「弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。またくず麦を売ろう」(アモス書8章6節)。つまりアモスは繰り返し、北イスラエル王国がもう取り返しのつかない滅亡の危機に向かっていることを繰り返し示され続けたのです。そのなかで「正義を洪水のように、恵み業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」と人々に訴え続け(アモス書5章24節)彼が活動しているうちには、それはまだ実現しませんでした。「このことは起こらない」(アモス書7章3,6節)。神様が忍耐強く、イスラエル王のそして人々の悔い改めを待っておられたのでしょうか。
ところがアモスと同じ北イスラエルで、彼より少し後に活躍した預言者ホセアの場合、事態はより深刻になっていっていました。彼のメッセージは、そんなこと本当にあったのかと思わされるような、彼の結婚の体験、それも失敗した結婚によって告げられるのです。つまり彼はある女性(ゴメル ホセア書1章2節以下)との結婚を神様から告げられます。しかもその女性は最初から姦淫の妻とされるのです。ホセアはやがて彼女との間に三人の子どもをもうけますが、その三人の名前は、まさに呪われたもの(イズレエル:北イスラエルの地名、そこで王国は戦いに敗れる。ロ・ルハマ:愛されない者、可愛くない者、ロ・アンミ:自分の民ではない、よその子)でした。その結婚は当然のように破局を迎えその妻は彼のもとを去るのですが、神様はその妻をゆるしてもう一度迎えるようにと彼に語ります(ホセア書3章)。なんでそんな人を、神様、私は馬鹿にしているのか、と思いたくなることでしょう。だからこのエピソードが実話であるかどうか、いろいろ議論があります。しかし姦淫という言葉、つまり本来のパートナー以外のひとと深い関係を持つ、浮気・不倫ですね。ところがそれは預言者たちの間では宗教的な意味を持っていました。これは預言者エレミヤのところでもまたお話するかもしれませんが、イスラエルはその神ヤハウェを自分の神とするという契約を結びました。それが結婚に例えられるのです。ということはヤハウェ以外の神、カナンの神バアルやアシタロテなどを礼拝することこそまさに姦淫としてとらえられ、姦淫の妻といわれるのはその時代のイスラエルの人々そのものだったのです。ということは神様のはそのイスラエルの罪をゆるし、もう一度自分の民として迎え入れ、愛されなものを愛し、自分の民でないものを自分の民とする、とまさにゆるしと回復のメッセージを語るのです。「わたしは彼女を地に蒔き、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ、ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって、「あなたはアンミ(わが民)と言う。彼は「わが神よ」と答える」(ホセア書2章25節)。ホセアの預言メッセージのキーワードとなるヘブル語が「ヘセト」だといわれます。AI先生の説明では「恵み」、「慈しみ」、「愛」、「誠実」、「親切」などを意味するとされていますが、それが本来の神様が私たち人間へのかかわり方、向き合い方だといわれるものです。ホセアはイスラエルの歴史を通じて神様がイスラエルを愛し続けられたことを語ります(ホセア書11章)「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる・・・わたしは神であり、人間ではない・・・怒りをもって臨みはしない」(ホセア書11章8節)。ということは、そのとき北イスラエル王国は滅亡の危機の中にあったということです。歴史的に言うと起源前722年、アッシリア帝国が北イスラエルの首都サマリアを陥落し、そこの住民をアッシリアに連れ去ってしまったのです(列王記下17章1~6、アッシリア捕囚)。そして列王記は「こうなったのは」とその原因を説明しますがそのなかで「主はそのすべての預言者、すべての先見者を通して、イスラエルにもユダにも警告されいた・・・しかし彼らは聞き従うことなく・・・かたくなであった。」(列王記上17章78~33節)。そしてホセアが訴えたイスラエル人の人々の回復は結局実現することがなかったようです。旧約聖書の歴史でいう「失われた十部族」と呼ばれ、あのサウルを選んだ(北)イスラエルの部族の存在が失われてしまったのです。それ以後の歴史は、ダビデ王朝を継承する南ユダ王国に引き継がれることになるのです。
第二十回 イザヤとエレミヤ 南ユダ王国の預言者 バビロン捕囚
北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされるという状況は、当然すぐ南隣のユダ王国にも直接の影響があり、ショックでした。北イスラエルが滅亡する直前、アッシリアは南ユダ王国にも影響がもろに及びました。というのも北イスラエルを含む近隣の諸国は、なんとかアッシリアに一緒に対抗しようと、なんとユダ王国の王アハズに武力をもって迫り、そこで南北王国の間で戦いまで勃発しようという状況になったのです(列王記下16章5節)。ところがなんと南ユダ王国の王アハズは、アッシリアに出向いてその近隣諸国からの攻撃に対抗しようとして、結果アッシリアが北イスラエルを滅ぼしてしまうのですが、南ユダ王国もアッシリアの強い影響のもとに組み込まれようとするのですが、その後ヒゼキヤ王がアッシリアに抵抗し、聖書の記述ではアッシリアがその後軍を引いてユダ王国は危機をまぬかれることになるのです(列王記下18~20章)。」さてそのアハズ王の時代に登場したのが預言者イザヤです。現在旧約に収められているイザヤ書は全体で66章という長大な文書ですが、実はの文書には三人の預言書、アハズの時代のイザヤの弟子筋とでもいうのでしょうか、イザヤスクールに属するほかの二人の預言者 第二イザヤ40章~55章、第三イザヤ56章~66章の言葉が収められていますが、第二、第三イザヤはともにユダ王国がバビロンによって滅ぼされた後、バビロン捕囚という状況のなかで活動しています。ここでは最初のイザヤについてお話をしますが、彼はもともとエルサレム神殿に務める祭司の家系であったようで、その神殿の内陣でイスラエルの神ヤハウェと出会うのです。「わたしは高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」(イザヤ書6章1節)。そしてそこには不思議な天使のような神獣が飛び交い、「神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙で満たされた」という体験をさせられるのですね。つまり神様の存在に圧倒されるということで、その中で彼は自分の無力さ、罪深さ、汚れを思い知らされるのですが、それは神様の聖に触れることの結果なのですね。聖なるもの(ヘブル語でカドーシュ)は、自分とは絶対に隔てられたもの、自分がどのような努力をしてもそこに達することのできない領域を知るということは、そこに達することのできない自分の弱さ、限界、汚れを経験するのです。ちなみにここで天使たちが呼び交わした「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」という言葉は、カトリック教会のミサのなかで、そこに備えられたパンとぶどう酒がイエスの身体と血に変化する(聖変化)のときに歌われる Sanctusそのものの言葉です。その経験ののち、神様が「誰を遣わすべきか」と彼に問いかけ「わたしがここにおります、わたしを遣わしてください。」とイザヤは応え、預言者として建てられていくのです。そして彼がメッセージを語った時代は、先ほど書いた北イスラエルの滅亡期、そのなかで近隣国家がユダ王国に武力で同盟を迫り、そこでユダ王国はアッシリアに援助を求めるというような政治的大混乱の時代でした。彼はまず当時の王アハズのもとに行き、混乱する正常状況の中で「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(イザヤ書7章9節)、つまりアッシリアなどの政治勢力などに信頼せずに神を信じよ、というまさに預言者としてのメッセージを語るのですが、アハズは「わたしは・・・主を試すようなことはしない」(イザヤ書7章12節)と、非常に表向き敬虔な、謙虚な姿勢をみせてその言葉を拒絶するのです。そのアハズ王の言葉に「もどかしさ」(イザヤ書7章13節)を感じさせられたイザヤは、神様がわたしたちにしるしを与えられることの預言として「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ書7章14節)と語るのです。そうです! あのマタイによる福音書1章でイエスの誕生の預言として語られる言葉ですね(マタイによる福音書1章23節)。ただしイザヤの場合の「おとめ」はただ若い女性という意味で、そこには処女降誕という意味はありません。それは新約聖書の解釈なのです。しかしこのイザヤ書ほど新約聖書、特に福音書に影響を与えたものはありませんし、その一翼を担ったのはヘンデルという作曲家によるオラトリオ「メサイア」だったかもしれません。特にその第一部で歌われる歌詞は第二、第三イザヤも含めてイザヤ書から約三分の一がとられています。ということでメサイア好きの方にとってはイザヤ書の言葉はおなじみかもしれませんし、ある意味それがイザヤの主張をよく表していると思います。というのも彼の預言者としてのスタートは、絶対的な神聖さを持つ神様の前での、全く無力で汚れた存在としての自分(人間)の意識でした。ということは、いかに当時の王様が政治的に能力が高くても決して神様に及ぶものではなく無力でしかなく、限界がある。だからこそ真に理想的な支配者は神様が地上に遣わされる方をすべきだ、というのがメサイアの中でも高らかに歌われるイザヤ書9章の「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた・・・その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる」(イザヤ書9章5節)。ヘンデルの合唱曲が耳に響いてきませんか? "Wonderful, Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace." ということはイザヤが目にする現実のユダ王国は彼の期待とは全く異なっていた、それだけ神様から送られる指導者をきたいしなければならなかった、ということですね。つまり北方のアッシリアからの脅威のあと、南からエジプトの力が迫ってきます、さらにアッシリアを倒したバビロニアの勢力も徐々に影響をし始めます。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れるように動揺した」(イザヤ書7章2節)のです。イザヤはもともとエルサレム神殿に仕えていたからでしょうか。その神様が遣わされる方とは、徹底してダビデ王朝の後継者、つまりダビデの子として生まれるという確信がありました。「ダビデの王座とその王位に権威は増し、平和は絶えることがない」(イザヤ書9章6節)、あるいは「エッサイの株からひとつの芽が生えい・・・エッサイの根はすべての民の旗印とともに立てられ・・・そのとどまるところは栄光に輝く」(イザヤ書11章1,10節)。エッサイ、それはダビデの父親ですよね(サムエル記上16章1節)。そこに理想的な平和な社会が実現するのです。つまりイザヤの預言のなかにのちにユダヤ人の間でのメシヤへの期待につながる原型が芽生えつつあったのでしょう。ところが残念ながら彼の期待は、すぐには実現しませんでしたし、ダビデ王朝が支配を続ける南ユダ王国もやがてバビロニアによって滅亡させられるのですが、エレミヤという預言者はまさにその滅亡のなかで活動したひとりでした。
エレミヤという預言者ですが、どちらかというとイザヤが育ちのいい家系であったのに対しエレミヤは庶民のひとりのような印象を私は与えられます。おいおいご説明しますが、イザヤがどちらかというと宮殿や神殿を背景として語るのに対してエレミヤはまさに娑婆というか庶民の生活のなかで語っているからです。彼が預言者として選ばれるのは神様からの一方的宣告でした。しかも「母の胎に造る前から・・・母の胎から生まれる前にあなたを聖別し、諸国民の預言者としてあなたを立てた」(エレミヤ書1章5節)。そんな宣言に対してエレミヤは抵抗しますが、結局そのまま説得されてしまうのです(エレミヤ書1章4~10節)。そして彼もアモスと同じようにローエー(見る)として彼の語るべきメッセージを与えられるのです。最初に彼が神様から「何が見えるか」と問われて目にしたものはアーモンドの枝(ヘブル語でシャーケード)でしたが、それはまさに神様がユダの社会を見張っている(ショーケード)ことを示すものでした。続いてかれは台所で煮えたぎる鍋を目にしますが、それこそ国の北側で生じつつある巨大帝国の脅威が迫っていることの象徴としてとらえられます(エレミヤ書1章11~15節)。そのような神様の審きが迫ってくる原因は「彼らはわたしを捨て、他の神々に香を焚き、手で造ったものの前にひれ伏した」(エレミヤ書1章16節)、つまりイスラエルの神ではないカナンの土着の神々の礼拝に陥っていったからでした。それは前にも記したように、イスラエルが神様に対して最初抱いていた「花嫁のときの愛・・・荒野の従順」を捨てて「空しいものの後を追い、空しいものっとなってしまった」(エレミヤ書2章2~5節)、」姦淫の罪を犯し続けているからでした。そこでエレミヤは人々に悔い改めて本来の神様の礼拝に戻るように訴え続けます。「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす」(エレミヤ書3章22節)。キリスト教でも「悔い改め」という言葉がよくつかわれますが、わたしはその言葉がとても重々しく厳しさを持っているような感じを常に持たされているのですが、本来のへブル語でのシューブという言葉の本来の意味は、正しい方向に向き直るということです。間違った方向に向かって歩き続けている人に、本当はこっちですよと教えてあげるとその人は正しい方向に向き直って歩き始める。その向き直るということこそ悔い改めなのです、ちなみにオリエンテーションという、新しいメンバーにいろんなことを説明して理解してもらうプログラムですが、その言葉の一番もともとの意味はラテン語でのオリエンス(東、日の出の方角)を意味し、全員が聖地エルサレムがある方向を向く、正しい方向を向いて礼拝するという意味を持っています。悔い改めというのは、決して感情的な悔悟、懺悔という以上に正しい方向を向くということで、エレミヤも当時の人々にそのことを「立ち帰れ、イスラエルよ」・・・「わたしのもとに立ち帰れ」(エレミヤ書4章1節)。しかしそのメッセージは人々に聞き入れられることはありませんでした。その結果彼らに審きが下ろうとするので、エレミヤはより必死になるのですが、それだけ虚しさを覚えさせられるのです。「これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ」(エレミヤ書5章4節)と彼は思うと同時に、もうひとつイスラエルの背信の原因として、驚くべきメッセージを彼は語り始めます。「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉を依り頼んではならない」と。これはイザヤにはとても考えられないことでした。つまり当時の王国の宗教的指導者たちにとって「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか」と非難されるのです(エレミヤ書7章1~11節)。つまりエレミヤにとっては神殿というイスラエルの宗教的核心となる制度さえ非難の対象となってしまっていたのです。やがて福音書でイエスがエルサレム神殿を稼ぎの場にしている商人たちを非難した姿を思い出します(マタイによる福音書21章12~17節)。こうしてエレミヤは熱心に語りかけるのですがやはり人々は彼に聞こうとせず、そこでエレミヤ自身の不満というか怒りがたまっていきます。エレミヤの興味深いもうひとつの点は、彼がその不満や怒りをそのまま神様に言葉としてぶつけているところっです。「正しいのは、主よ、あなたです。それでもわたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ神に逆らう者の道は栄え・・・」(エレミヤ書12章1節)。と素朴に疑問を投げかけます。さらにその思いは募り、神様への訴えは抗議となります「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。」(エレミヤ書20章7節)。つまり彼が何かを訴えようとすると、それを無視される以上に嘲られ、まさに馬鹿にされ続けるのです。「主の言葉のゆえに、わたしは一日中 恥とそしりを受けねばなりません。」(エレミヤ書20章8節) その不満のなかでしかし彼はより重要なことに気づかされます、「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります。押さえつけようとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(エレミヤ書20章9節)。もう預言者としての職務を放棄し、発言をやめようとして、それができない自分の存在。彼の内面の思い、良心がかれを黙らせないのです。まさに彼は神様に「捕らえ」られているのです。おそらく旧約の預言者が単なる政治評論家やコメンテーターではなく、彼の語る言葉は神様から与えられ、預けられていたもの、それは預言者が自分の存在すべてをかけて語るべき重さのあるものだったのです。彼自身がその言葉に抵抗することなどできなかったのです。ただしそのことに気づいた彼がなお、神様のユダ王国に対する審きをについて発言を続けることによって、彼は当時の権力者に「弾劾」(エレミヤ書20章10節)され告発されるてしまうのです。彼は自らの存在を、そしてそのように生まれねばならんあかった境遇を呪いさえします(エレミヤ書20章14~18節)。でもその率直さ、何よりも神様の前に自分の状況をそのまま訴える姿勢、そこにエレミヤの人格と信仰のあり方が表明されているようです。すべてを神様に訴えるなかで彼の神様に対する信仰が示されているともいえるのです。もうひとつ彼に特徴的なメッセージの語り掛けとして、彼は神様から、農夫が牛を使って畑を耕す時に用いる犂を引かせるために牛の首につける首枷、軛(くびき)を自分の首につけてユダ王国の王たちの前に出ることを命じられます。その軛こそ、やがてユダ王国を滅ぼそうとするバビロンの王国の象徴であり、ユダの人々はそれを負わされてバビロンの王に仕えることを強いられることを告げるので。つまりこの時点でもはやイスラエルーユダ王国の命運は、その巨大帝国の手に握られており、それによって神様の裁きを受けることになることを語るのです(エレミヤ書27~28章)。その彼の預言の通りユダ王国はバビロンの王国の脅威にさらされ、エレミヤは結局、ユダ王国に対する神様の審きとしてバビロンの侵攻を語り、それによってユダの王により逮捕・投獄されてしまいますが、結局かれの言葉通りのことが実現し、彼は獄中でユダ王国の滅亡を目撃するのです(エレミヤ書37~38章)。そのなかで彼が語ったもう一つの言葉に私たちは注目させられます。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結び日が来る、と主は言われる。」(エレミヤ書31章31節)。新しい契約、つまり「新約」という言葉はエレミヤによって初めて使われたのですが、ここではモーセが律法として与えた契約(古い律法)が契約の板、文書として残されたのに対し、新しい契約は「彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」、つまり人間の内面的信仰が核心的な意味を持つことが語られるのですが、それこそ福音書のなかでイエスが律法学者やファリサイ人という記された律法を形式的に守ろうとする姿勢を批判し、私たちの内面の信仰のあり方に注目するその姿勢、さらにはパウロの「正しい人は信仰によって生きる」(ローマの信徒への手紙1章17節)という主張の出発点となるものなのです。その後バビロンの脅威から逃れてエジプトに退避移っていこうした一団に捕らえられ、エジプトで過ごしながら神様の審きを受けた人々に、それまでの行いへの悔い改めを促し、それによっって回復の希望が与えられることを訴えるのです(エレミヤ書43章以下)。そんななかついにユダ王国はバビロンに滅ぼされ、主な人々は捕囚民としてバビロンに移されてしまうのです(エレミヤ書52章、列王記下25章)。
第二十一回 バビロンのほとりで 捕囚の時代、その預言者たち
「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って私たちは泣いた」(詩編137編1節)
旧約聖書詩編という書物には、イスラエルの人々が神様を礼拝するために歌っていた讃美歌の歌詞などが150編集められており、神殿のようなたくさんの人々がともに礼拝する中で歌われたものや、この詩編137編のように、一人の詩人が切々と故郷であるエルサレムを思い起こしながら歌う望郷の詩などもあります。もちろんそれがのちに礼拝で多くの人によって歌われたでしょうし、今日でもキリスト教の音楽としてもいろいろ歌い続けられています(グノー作曲のモテットなど)。この作者は、あきらかにバビロンを流れるチグリス・ユーフラテス川のほとりでこの詩を歌っているのですが、その人こそユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされてしまい、その結果捕虜・囚人として、つまり捕囚民としてその首都バビロンに移住させられた一人だったのです。この詩は望郷の念だけではなく、自分たちの故郷を破壊し滅ぼしたバビロニアに対する復讐を誓う歌となり、エルサレム神殿崩壊の日の模様を生々しく描いてもいます。さて、このようなバビロンに連れ去られたユダの人々(やがてこの人たちがユダヤ人=ユダ王国の子孫と呼ばれるようになります)のなかで、一つは異国の文化のなかに染まってしまい、その生活や人々と混じって暮らす人たちもあったでしょうが、その人たちは歴史から消え去ってゆきます。それに対してこの詩人が歌うように「エルサレムよ、もし私があなたを忘れるなら・・・」と決して異文化のなかに埋没しないで自分たちの存在、独自性を守り抜こうとした人たちもおり、その人たちがまさにユダヤ人の歴史をつないで行ったのです。その人たちが自分たちのユダヤ人性(アイデンティティ)を守った根拠がまさにユダヤ教という、イスラエル宗教の新しい形でした。それまでイスラエル王国の宗教は、預言者たちの批判を受けながらもエルサレム神殿を中心とし、そこでともに礼拝をするという祭儀的な宗教、祭司たちの取り仕切る宗教でした。ところがその神殿が破壊され、人々も異教の地に移されてしまうと、もはや神殿に集まることなどまったくできなくなったのです。そこでユダヤ人たちは自分たちの宗教的な伝統・伝承を文書として収集・整理して書物に編纂し、そこに記された内容をしっかりと解釈して自分たちの生活の根拠としたのです。いうなれば私たちが今手にしている旧約聖書というものの最初の編集が行われたのです。そして創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記などに収められている律法、そして様々なイスラエルの先祖(アブラハム、イサク、ヤコブ、その十二人の子どもで族長とよばれる先祖たち)の物語もまとめられ始めました。神殿の宗教であったイスラエル宗教が、書物の宗教としてのユダヤ教に生まれ変わったといえるでしょう。そのような動きの背景に、ユダヤ人が直面した大きな問題への問いかけがあったからです。なぜ自分たちの国は滅びてしまったのか、です。ということは、どうすれば自分たちはまた再び自分たちの国を建て直すことができるのか、という問いへと続きました。その答えをあえて単純に示すと、それまでのイスラエルは神様の導きに従わなかったから、ですし、だからこそ神様の導きに従えば国の再建への希望が生まれるのです。その導きこそ、かつて神様がイスラエル人に与えた掟であり、メッセージだった、ということで捕囚期に積極的にいわゆる聖書の編集が行われ、その解釈が祭司たちではなくラビ(聖書解釈者、宗教指導者)、律法学者たちによってすすめられ、その教えに基づいて人々は自分たちの日常生活を整えていきます。そして安息日にはシナゴーグ(集会所、礼拝所)に集まって聖書を読み、ラビたちによる解釈を聞き続けたのです。そのようにして徐々に形作られていったユダヤ教の教えの一つの柱は「律法主義」、聖書に記された掟を厳守する、ということでした。それによって自分たちはバビロンをはじめ異郷、異教のひとたちとは違う存在であることを生活を通じて示したのです。このような捕囚民たちのことがギリシャ語でディアスポラと言われますが、それはディア(至る所に)+スポラ(蒔かれた種)、ということで、人々は自分が蒔かれた場所でしかしユダヤ教の芽を成長させていったのです。もうひとつの柱はメシアへの期待です。ユダ王国で活躍した預言者イザヤが訴えた理想的な指導者が、やがて神様から遣わされて自分たちの国を再建するという期待の高まりもこの時に生まれました。ただしそのメシアの登場の前提として、人々が神様の導きに従った生活を続けることが求められていたのです。こうして捕囚のユダヤ人のなかに、母国の滅亡という絶望的な経験を超えて、新たな希望が生み出されていきました。
そして当時の歴史的な動きのなかで、その人たちの期待をより高める動きも生まれたのです、超大国と思われていたバビロニアがペルシャ帝国に滅ぼされるという事件が起こります。世界の古代史の教訓とでもいうのでしょうか、古代の様々な巨大帝国はやがて滅びていくのです。その支配者が権力を強め、支配を巨大化してしまうことによって、国の統一した支配が困難になるという矛盾を抱えているからですね。バビロニアもそうでした、聖書の記事によると新しいペルシャ王のキュロス(クロス)は、バビロニアにいたユダヤ人たちに故国への帰還を許した(エズラ記1章2~4節)とされていますが、実際のところキュロスはバビロニアにどのような民族がいるかなどあまり興味がなく、その動きにも関心がなかったのではとも思えます。そのような捕囚からの解放の期待という時代の動きを察知した預言者たちも登場します。例えばエゼキエルという預言者は、おそらくエルサレム滅亡時から活動しており、その後バビロンに強制移住させられた一人と言われますが、そのなかで王国の滅亡を人々がイスラエルの神を捨てた結果だと断罪し(エゼキエル書23章35節)、そこからの悔い改めのなかで神のゆるしとイスラエルの回復を訴えるのですが、とても興味深く、アメリカの黒人奴隷たちの歌ったスピリチュアル(霊歌 ”Dry Bones”)にもうたわれた「枯れた骨の復活」(エゼキエル書37章)のメッセージなどが注目されます。そして彼はやがてイスラエルに再建されるべき第二の神殿の預言(エゼキエル書40〜43章)によってイスラエルの回復への希望を語るのです。この時代の預言者として注目されるのはイザヤです。えっ? イザヤってユダ王国が滅びるよりかなり前にエルサレム神殿をスタートとして活躍した預言者が、なぜそれからずっと後の捕囚のときに、と思われた方はとても鋭い観察力をお持ちですね。でもイザヤ書40章1~2節には「慰めよ、わたしの民を慰めよ・・・苦役の時は今や満ち・・」と捕囚の人々が解放されるというメッセージを語っています。ちなみに、ですが、イザヤのところでもお話したヘンデルという作曲家の残したオラトリオ(聖書にもとづく音楽作品)の第一曲はこの言葉から始まりますが、このイザヤ書40章1節の言葉が、作曲家ヘンデルの生涯の転換をもたらすものとなったともいわれています(ツヴァイク『人類の星の時間』)。ということはこの預言者は、あのエルサレムのイザヤとは別人だと考えられますが、その言葉遣いがとてもよく似ていることなどからきっとその弟子筋にあたる一人で、聖書学者たちは「第二(の)イザヤ」と呼んでいます。彼はいよいよ捕囚の人々が解放される日が近いという期待を語るだけではなく、それを実現させる存在として「主の僕(しもべ)」の登場を語ります(イザヤ書42章1節)。
旧約のエズラ起やネヘミヤ記には、捕囚からパレスチナに帰還したユダヤ人コミュニティの記録がありますが、それを読んでいると、パレスチナに帰還した人たちの規模はそんなに多くはなく、結局エルサレムの周辺に集まってきたようです。もちろん彼らの「留守中」にほかの民族の人たちがそこに住み始めていたので、そこでのトラブルも記されていますし、なんとか彼らの力で神殿を再建しようとするのですが、その物語を読むとき、当時の人々の複雑な思いが伝わってきます。エズラ記の記事で強調されているのは、帰還のユダヤ人に対するペルシア王の破格の好意であり協力でした。帰還の許可を出したキュロス王の勅令に始まり、パレスチナにおける多民族との対立、さらに神殿の建設に対する支援など、ペルシア王とのかかわりが繰り返し語られています。とても興味深いのは、その神殿の規模ですが、そこにもキュロス王の勅令として、再建される神殿は「以前の基礎を保ったまま・・・建物の高さは六十アンマ、間口は六十アンマとする」(エズラ記6章3節 アンマはキュビトともいわれ45センチ)。ところが以前の基礎というのはソロモンの神殿なのでしょうが、「ソロモンン王が主のために築いた神殿は、奥行きが六十アンマ、間口が二十アンマ、高さが三十アンマ・・・」(列王記上6章3節)ということで、実は帰還民の建てた神殿はソロモンの神殿の高さが二倍、間口が三倍という大きさとして記録されています。以前よりももっと大きなものを彼らが建てた、ということで「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て、大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた」(エズラ記3章13節)と、大きな感激がもたらされた、とされています。ところがこのエズラ記もその名前がみられる「預言者ハガイ」(エズラ記5章1節)は、「お前たち、残った者のうち、だれが昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか」(ハガイ書2章3節)と、実際の神殿の状況にある種の失望を語っています。おそらくそれが帰還民の精一杯の状況だったのでしょう。エズラ記の記事は帰還したユダヤ人たちの立場の矛盾した状況を示しているようです。つまりペルシア王の関りですが、彼らはペルシア王の庇護なくしては何もできない、ということを正直に告白しているようで、彼らの帰還は決して解放でなかったし、ペルシア王を強調することで、異民族に対して自分たちの存在の優位性を示さなければならなかった、ということなのでしょう。だから神殿の規模にしても、ペルシア王の支援を強調するものですが、預言者ハガイの語る現実からすると、そのような援助などはほとんど与えられなかったのでしょう。ネヘミヤ記が語るように、なんとかエルサレムという町に自分たちの居住区を確保し、そこに彼らなりの神殿をなんとか建設できた、というのが現状のようです。これ以後のイスラエル~ユダヤ人たちの歴史は、帰還したエルサレムと同時に、結局捕囚民あるいはディアスポラとして各地で生き続けた人々によって担われることになっていくのです。
そのような捕囚からの回復が、ある意味失望におわること、それが新しい希望よりも厳しい現実に向き合わされる経験であったという失望について語るもうひとりの預言者がいますした。そのメッセージはイザヤ書のなかに記されているのですが、56章以後の預言を語ったとされる第三のイザヤです。ということは現在のイザヤ書には、ユダ王国の時代に活躍した最初のイザヤ、捕囚からの回復の兆しを感じて大いに希望を語った第二のイザヤ、そしてこの捕囚後の厳しい現実のなかに置かれた第三のイザヤと三人のイザヤが歴史的な順を追って登場するのです。そしてこの第三のイザヤのメッセージは、捕囚後のユダヤ人たちの苦しみをただ嘆くのではなく、そこにひとつのとても深い意味を読み取ろうとするのです。それは、自分たちが苦しむことによって他の人がその苦しみから救われるという代贖という考え方です。イザヤ書53章には、一人の人物「彼、この人」が登場します。とてもみすぼらしく、皆その人たちから眼をそらすような存在ですが、その人がそのように苦しめられるのには意味があったのです「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」 (イザヤ書53章5節)、つまり彼は他の人の犯した罪の裁きをうけており、その人がその裁きをうけることによって本来罰せられるべき人がゆるされている、という、ある意味とんでもない理解ですね。で、「この人」「彼」とは誰なのか、というところで、それがユダヤ人を表す存在として理解されるのです。ユダヤ人こそ、世界の罪のために(その人たちに代わって選ばれて)罰を受けているのだ、という理解です。フランクルという人の書いた『夜と霧』という有名な一冊がありますが、アウシュビッツの収容所で苦しむユダヤ人たちが、その苦しみに耐えることができたのは、クリスマスになれば解放されるとい淡い期待のせいだったというのです。その自分たちの苦難に理由があり、それに納得できれば、人々は苦しみに耐えられるということですね。捕囚後のユダヤ人がその苦しみを生き抜いたのも、そのような理由付け、代贖を受け入れたからでしょう。そしてこの考え方がその後のキリスト教にとても大きな影響をもたらすことになるのです。
さて、捕囚後のユダヤ人たちは、以後外国人の支配のもとでの生活を強いられることになります。旧約でネヘミヤ記の次に描かれるエステル記の内容は、ペルシアの宮廷で王妃となったエステルという女性の物語ですし、エゼキエル書という預言書の次のダニエル書は、バビロンの宮廷でイスラエルの信仰を守り抜いたダニエルという人物の物語で、その舞台はもはやパレスチナではなくなっています。旧約聖書が現在のかたちにまとめられていくときに、ダニエルという存在は自然に預言者として認められたのでしょうが、その記事は異宗教文化のなかでイスラエル~ユダヤ人の信仰、アイデンティティを守り抜くことの重要性を訴え、周囲からの迫害に耐えることによって輝かしい未来が約束されることを訴えるというところで、黙示的作品と呼ばれています(新約聖書でもヨハネの黙示録が同じように、キリスト教の成立期に生じた様々な迫害のなかで、それに耐え続けることを訴えるというところでダニエル書と共通するものとなっています)。もうひとつ預言書のなかで興味深いのはヨナ書で、その中心人物であるヨナについて、アッシリア帝国の首都ニネベでの預言をめぐって記されますが、彼は最初ニネベに行くことを拒否し、地中海に逃げ出すというような、旧約のほかの預言者には見られない「国際的」?な背景で活躍していますが、それもまた捕囚期以後のユダヤ人たちの世界の広がりが背景にあるようです。
第二十二回 世界史との出会い アレキサンダー大王からクレオパトラ
私は中学・高校生時代は吹奏楽部に所属をしていました。と言っても管楽器ではなく打楽器の担当(ロングトーンなどという基礎練習などしなくてよかったので)でしたが、そのうち指揮者にもなりました。それは楽器の演奏が下手で、変な音を出させないためだったのかもしれません。そして学校の式典などで例えばスポーツ大会での好成績者の表彰のときには、あのヘンデルの「見よ勇者は帰る」(チャーン、チャーンチャ、チャーンチャン、チャチャチャチャチャンチャンチャーン、ってわかりますかね)をお決まりのように演奏していました。でもその音楽はいったい何なのかというと、ヘンデルが作曲した「ユダス・マカベウス」というオラトリオ(聖書に基づく音楽作品)の一曲で、主人公であるマカベウス家のユダスが、異邦人支配を打破し、自分たちの神殿を奪還したときの祝祭の場面で演奏されるものだったのです。そしてその物語は聖書のなかの新共同訳聖書では「続編」、一般的には「外典」とよばれる部分に収められているマカバイ記二に描かれているのです。久しぶりに、そしてまたもやキリスト教学的な説明になってしまうのですが、私たちの教会(主要なプロテスタント教派)では聖書は旧約が39文書、新約が27文書(3X9=27とキリスト教学では教えられました)なのですが、カトリック教会ではそれ以外に15の文書が収められており、それらを第二の正典として「旧約聖書続編」あるいは「外典」として認めているのです。この習慣は古代の聖書が現代にどう伝わってきたかというお話にもかかわるので、私は個人的にそのことにもとても興味があるので、あまりややこしくならないように説明をします(面倒くさかったらこの部分は飛ばしてください)。
何度もお話をしたように旧約聖書はもともとヘブル語で、一部アラム語というヘブル語から派生した言葉で書かれていました。最も最初期は印刷技術などまったくありませんから、一番最初の原版とでもいうものから順次手書きで書きうつされていくので、書き写されたものを写本と呼んでいます。だから聖書の正しい文章はできるだけ原版に近いものを見れば、写し間違いなどがわかるのですが、現在旧約聖書全体としては紀元8世紀以後の写本しか残っていないのです。ただし断片的に紀元前のものが発見されることもあるのですが、あまりにも断片的過ぎて、旧約全体の正しい文章の確認には役立ちません。そこでユダヤ教ではその8世紀ごろの写本をマソラ本文として、聖書の基本としているのです。ところが! なんと紀元前3世紀ごろにヘレニズムという時代が到来したころに、当時のユダヤ人たちもその歴史の流れに巻き込まれて、だんだんと自分たちの母語であるはずのヘブル語よりもギリシャ語を使うようになっていき、エジプトのアレキサンドリアという町にディアスポラとしていたユダヤ人たちにとってはギリシャ語の聖書本文(これを七十人訳、セプチュアギントと呼びますが、なぜ七十人なのか、の説明は直接田淵にお尋ねください)の方が身近になってしまった、つまりヘブル語など読めなくなってしまったのです。(このことは現在でも、例えば海外生活をするときに、子どもたちに自分の母語を覚えさせる、使わせるというのが結構むつかしいという経験をさせられることがあります(個人的なことですが、私の長女などは3歳から3年間ロンドンで生活をしたために、むしろ英語が彼女の言語となってしまったところがあり、もちろん日本語も話しますが、むしろ彼女のFirst Languageは英語のようです)。ただし信仰的にはユダヤ人としてユダヤ教を受け入れていたのですが、結局このギリシャ語の聖書が基本となりました。そしてなんと! そのギリシャ語の聖書の写本は紀元4~5世紀のもの、つまりヘブル語聖書より古い時代のものが残っており、内容的にはギリシャ語聖書の方がより原典に近いものを含んでいると考えられたのです。さてどちらが聖書の本来の文章となるでしょうか。正統的なユダヤ教ではこのギリシャ語聖書(七十人訳)を認めずに、マソラ聖書のみを認めています。そしてその七十人訳のなかに、この続編の文書が含まれていたので、カトリック教会は聖書をラテン語に翻訳したときにそれも含めたのです。ところが宗教改革者のルター先生が、マソラ聖書のなかにこれらの文書が含まれていないということで、それを排除しプロテスタントは旧約39文書のみということにしたのです。さて今回はなんでこんな前置きを長々と書いてしまったのでしょうか。それは聖書のお話でずっと旧約聖書のお話をしてきましたが、旧約聖書(39文書)の時代が終わって、続編(外典)の時代が始まったということと、それはヘブル語という言葉がユダヤ人たちの日常語ではなくなってゆく時代に移っていったということをお話したかったからです。そしてそのきっかけを作ったのが、誰あろうあのアレキサンダー大王だったというところで、旧約のお話も世界史的な背景を持つようになっていくということなのです。もちろんそれまでの捕囚、アッシリア帝国であったりバビロニア帝国、そしてペルシア帝国など、古代世界史の動きのなかにあるのですが、それでもイスラエル~ユダヤ人たちは何とか自分たちのオリジナリティというかアイデンティティを保とうとし、その記録を旧約(39文書)のなかに残してきたのですが、そのこともむつかしくなってしまった時代、自分たちの記録を自分たちの本来の言葉で記せなくなっていく時代を迎え、彼らもまた世界史のなかの一員となったのです。
世界史的背景ですから、歴史的年号が出てきますが、旧約の時代の終わりごろギリシャとペルシアとの勢力は今のトルコ地域などで衝突を繰り返しており、紀元前490年に起こったマラトンの戦いで、ギリシャが勝ち、そのニュースを使者が42.195キロ離れたアテネに届けたのが現在のマラソン競技の起源ともいわれるのも有名ですね、ただしこれは史実というよりも伝説だそうですが。そして紀元前330年にアレキサンダー大王(ギリシャ語でアレキサンドロス、三世)がペルシャ帝国を滅亡させてしまいます。彼はその後インドにまで遠征してその地で亡くなりますが、彼の遠征は、のちにヘレニズム(ギリシャ化)と言われるように地中海的な文化を東方にもたらしましたし、アレキサンダーの後は、地中海東部分を三人のギリシャ人後継者(ディアドコイ)によって支配されます。エジプトがプトレマイオス朝シリア(ちなみに、またか! その最後の王が女王クレオパトラです)、シリア・パレスチナなどはセレウコス朝、そしてギリシャ・マケドニアはアンティゴノス朝の支配となります。そのなかで私たちの関心はセレウコス朝ですが、その支配は徐々にギリシャ文化をその地域に浸透させるという政策となり、エルサレムのユダヤ人たちにもその影響が及び、こうしてギリシャ語が主流となるのです。そのなかでアンティオコス四世エピファネスというセレウコス朝の王が登場しますが、その名「エピファネス」というギリシャ語の意味は「現人神」、自らが神であることを宣言し、その儀礼をユダヤ人たちに強要し神像を神殿に設置するという行為にでます。その動きに反発したのがあのマカベウス家のユダスで、セレウコス支配に対する反乱をお越し(紀元前167年、マカベア戦争とも呼ばれます)、ギリシャの影響を除去し、異教化されかけたエルサレム神殿を純粋なユダヤ教の礼拝所として回復しました。ということで、その功績が旧約聖書続編にも記され、後のキリスト教世界でも有名な物語として記憶されていたのですね。ただし、ユダス・マカベウスの「偉業」は、確かに外面的、形式的にはヘレニズム文化のなかでユダヤ教の伝統を守るということですが、でもそれは十分ではありませんでした。というのも、彼は結局ギリシャ語を使うユダヤ人の日常生活を変えることなどできませんでしたし、イスラエル〜ユダヤ人の大半はその後もヘレニズム世界のなかでの生活を続けるしかなかったのです。ギリシャ語で暮らすということは、自然にその言葉の背景とするギリシャ的な文化を身に着けるということになり、本来の「純粋な」ユダヤ教とは異なっていくのです。だからマカベウスの記事もギリシャ語で記録されますし、旧約続編もすべてギリシャ語の文書です。正統的なユダヤ教を守ろうとする人たち、後のマソラ聖書をよしとする人たちには、到底それは受けられなかったのですね。そして興味深いことに、キリスト教はユダヤ教を母体として生まれたといわれるのですが、それが結局正統的な(ある意味保守的な)ユダヤ教から分離独立する背景としては、やはりこのヘレニズム世界の影響があり、さらに新約のところでお話をしますパウロの読んでいた聖書(旧約)も七十人訳ギリシャ語聖書であったようで、キリスト教の成立にとって、このヘレニズム世界が持っていた役割はとても大きかったようです。もうひとつちなみに、ですが、イエスの誕生したときのユダヤの王様であったヘロデ大王は、あのプトレマイオス朝の最後の女王クレオパトラとのつながりもあったといわれます。
もうひとつ実は!ですが、わたしはもともとは最初関西学院大学史学科第三類(西洋史専攻)の卒業で、卒業論文のテーマがこのユダス・マカベウスだったので、この部分にもいろいろ書くべきことももっとあるのですが、何しろもう50年近くまえのこと、たくさんのことを忘れてしまいました。
その後のパレスチナでのユダヤ人たちの状況ですが、あのマカベウス家が結局その後ハスモン王朝を開き、支配を続けますが、何しろセレウコスの勢力との関係で、妥協を強いられたりして、なかなか完全にユダヤ人たちの国を作ることなどできませんでした。そのうちにまずギリシャのセレウコス朝も周辺の国家に領土を奪われ続けたのち、紀元前83年頃にまだ共和国であったローマに滅ぼされてしまいます。その動きに連動するかたちでハスモン王朝も弱体化し、やがてハスモン朝の武将であり、ローマからの支持を受けたヘロデによって滅ぼされてしまい、ヘロデがユダヤの王となります。ただし彼はユダヤ人ではなく、ユダヤ教を強制された異邦人のイドマヤ人でした。ただしユダヤ人たちの関心をつなぎとめるために、エルサレムの神殿の大改築を行いました。また国内各地でもいろいろな建築活動をしています。しかしこの神殿の改修はかえってユダヤ人たちの宗教心というか民族的アイデンティティを強化することにもなり、彼はユダヤ人たちからの全面的な信頼や支持を受けることははなかったようです。そのヘロデ王の時代に、イエス・キリストが誕生することになり、ようやく私達も新約聖書の世界に移っていくことになるのです。
第二十三回 旧約から新約へ 新しい時代の始まり
聖書のお話をしてきて、旧約聖書については一応これで一段落として、新約のお話をと思いますが、それは実は世界史的な意味を持っています。というのも紀年法がそこで変わるからです。紀年法というのは、ある時代をどう表記するか、数えるかという考え方で、わたしたちに一番身近なのは元号かもしれませんね。つまり今上天皇の即位を元年として、近代日本では明治、大正、昭和、平成、令和という時代が区切られてきました。この元号の紀年法で注意するところは、例えば私の生まれとなる昭和ですが、昭和は64年で終わりますが、その最終日は1月7日、つまり一週間しかなく、1月8日からは平成元年となります。つまり計算上は同じ一年であっても日本の元号では違う時代となります。つまり計算としてよりも歴史的な意味が重んじられるのですね。なぜそれが聖書の話となるとつながるかというと、現在の西暦という考え方は、建前上イエスの誕生を起源とする、ということで時代を区分しているからです。その考え方は当然紀元後6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出されたとされていますが、彼はそこから始まる新しい時代をAnno Dominiというラテン語(主の支配(する時代))と示し、それが現在では世界的標準の紀年法として採用されています。ただし歴史的事実として紀元元年にイエスが生まれたかどうかということは確定できませんが。とにかくイエスの出現で新しい時代が始まるということで、それ以前の時代はなぜか英語でBefore Christ(キリスト以前,、こちらの命名者は調査中)と呼ばれています。ところがその紀年法の問題は、歴史的事実としてイエスがいつ生まれたかということ以上に大きな問題があります。まず最近のYouTubeなどを見ていると、イエスなどという人物が本当に存在したのか、などという議論がまずあります。イエスなど誕生しなかった、という議論は、つまり同時代の歴史史料にイエスについての言及がないということですが、ではその議論でいくとほかの歴史的人物の存在もかなり否定されることになるかもしれませんね。特に日本の歴史などでは・・・ それ以上に私はイエスという人物が歴史的に存在したかどうか、ということよりもその存在について、例えば新約聖書のなかに証言されているということの方により思い意味を感じるのです。さて、もっと大きな意味としては、イエスが生まれたときにキリスト教がすぐに成立したのではない、ということです。もちろん生まれたばかりの赤ちゃんが、何らかの宗教的な教えを語ることはできませんし(お釈迦様は「生まれた直後に7歩歩き「天上天下唯我独尊」と語ったといわれますが)、本人自身はおそらく死のときまでユダヤ教徒だったのです。ただし彼の考え方が当時の正統派ユダヤ教から受け入れられたわけではなく、かなり批判的な主張を語っていたことは事実です。では、いつから新約の時代というかキリスト教の時代が始まったと考えるかですが、それこそキリスト教の信仰の核心にかかわる問題です。つまりキリスト教って何を信じているのかということですね。そのことはかなり以前にも書いていますが、建前的な言い方をすると、キリスト教とは、イエスという存在(歴史的人物)を【自分の】キリスト(ユダヤ教でいうメシア=救済者)として信じるという信仰なのです。具体的にそれはどういうことなのかという説明は、これから回をおってご説明することにしますが、そのことを最初に語ったのはおそらくペトロという弟子だったようです(マルコ8:29)。おそらくそのペトロの理解に共鳴する人たちが、最初のキリスト教と呼ばれる集団(コミュニティ)の芽生えだと思われるのです。しかしそのコミュニティがはまだユダヤ教の枠の中にあり、そこから独立していくのはイエスの死後、イエスの復活ということを信じたグループの存在こそユダヤ教にはないまったく独自の信仰を表明しだしたところからでしょう。何がポイントかというと、キリスト教の「教祖」はイエスではなく、イエスをキリストと信じたひとたちがキリスト教を生み出したということですね。でこれからお話することは、なぜその人たちはイエスをキリストだと信じたのか、そのわけです。そこにはいろんな理由がありますので、それを少しずつお話していきたいと思います。もうひとつのポイント、それはいやただひとつイエス(こそ、だけが)キリストだと信じるということ以外にはキリスト教の教えはこれだ!ということでなかなかまとめきれないということです。そして新約聖書自身もそのことをいろんな形で説明しますが、それをまとめてこれ!ということはできないと私は思います。むしろみなさん自身が、こうだという思いを持たれて、それによってイエスはキリストだと確信されることになるように思うのです。いかがでしょうか。
第二十四回 福音のはじめ
さて新約の時代についてお話しする資料とは、もちろん新約聖書ですが、その構成については前に簡単にお話しました。簡単におさらいをすると、全体27文書があり、最初のジャンルは福音書と使徒言行録、つまりイエス自身の生涯と活動、その弟子たちの活動という歴史的な記録です。二つめはその文書名に「手紙」という言葉が含まれているもので、まずはパウロという人物が主に彼がその設立にかかわった地中海に点在するキリスト教コミュニティ宛のものや個人宛のもの。およびほかの使徒たち(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ ユダなど)執筆者の名がついた手紙などです。それぞれの宛先に新しく成長しつつあるキリスト教コミュニティ(教会)が抱える信仰的な問題についてのアドヴァイスが中心となっています。最後の三つ目のジャンルはヨハネによる黙示録という一冊で、キリスト教が成立したのち周囲からの迫害を受ける中で、それに忍耐することによって約束される未来について語っています。つまり、過去(歴史)~現在(手紙)~未来(黙示録)について語るというところは旧約聖書の構成をモデルにしたとも考えられます。
そこでいよいよ新約聖書を読み始めたいのですが、これも前に少し書きましたが、最初のマタイによる福音書はいったん後回しにして、というのも最初からカタカナのオンパレードで、本文にたどり着くまでにイヤになってしまわれても困りますから、ということで二番目のマルコによる福音書を開きます。その理由は福音書のなかで最も短いということで、福音書という書物について、その内容も含めて一番わかりやすいというところがあるからです。この福音書の最初の言葉は「神の子イエス・キリストの福音の初め 」、この言葉が新約聖書全体の内容と意味とを端的に表しています。新約の最初の四つの文書はイエスの活動についての記録で、五つ目のものは彼の弟子たちの活動記録です。ところがイエスについては福音書、弟子たちについて言行録と、同じような内容なのになぜ呼び方が違うのでしょう。イエス言行録という言い方の方が、内容も理解しやすく思うのですが。そこが新約がキリスト教の正典とされる最大の理由です。つまり最初の四つの文書は、イエスの活動記録という以上にイエスの活動の意味、それを福音だったと訴えているのですし、この言葉によって最初の4つの文書はすべて「福音書」と呼ばれるようになったのです。ということで実はこのマルコ福音書が四福音書のうちで最初に書かれたといわれています。では、福音って何でしょう。それはギリシャ語でエウアンゲリオン、ラテン語でもエヴァンゲリオンという言葉で、どこかで耳にされたことがおありでしょう。そう、まさにアニメでの新世紀ヴァンゲリオンですが、ご存じのように未来世界における宇宙戦争を描くものです。そんな戦争モノがなぜ福音なのでしょうか。でもそれは当然のことで、もともとエウアンゲリオンは戦争用語だからです。しかもそれは「(自軍が)戦いに勝利した知らせ」、だから福(良い=Good)音(知らせ=Spell, News そこで英語では福音をギリシャ、ラテン語のようにEvangelionと言いますが、Gospel(Good + Spell)という事もあります、そうあのゴスペルです、もともとはイエスのすばらしさを歌った曲)なのです。それを聞いた市民たちは、これ以上自分たちが戦禍に脅かされることはない、とそのニュースを聞いて心から安心し、喜ぶのです。そしてマルコはその言葉をイエスの活動をこの言葉を通じて理解したのです。でも福音書のどこを読んでもイエスが戦争を指揮したとか参戦したとかいう記事はありません。それにもかかわらずイエスの活動は戦いだったのです。そして彼が戦ったのは、マルコの言い方を借りれば「悪霊」「汚れた霊」と闘って勝利したのです。そんなのあまりにも神話的な奇跡物語ではないのか、というように聞こえますね。でもイエス時代の人たちにとってそれが普通であり、人々の人生においてあらゆるよからぬこと、忌避されるべきことはすべて悪霊の仕業と言われていたのです。その結果として、その悪霊に憑かれた人たちは病気や障害に苦しみ、「健康」な人たちから差別され、さげすまれ、忌避され、その人格、人間性を失わされていたのです。イエスはその人たちのために戦い、それに勝利したということをマルコは訴えるのです。そして彼の戦いは、決して自ら武器をもって戦うということではなく、悪霊と戦うということになりますが、それは新世紀エヴァンゲリオンのような武器を取るのではなく、イエスはその言葉によって戦い、悪霊を追い出すという、確かに奇跡物語の形になっています。悪霊などという言葉を使うと、なにやらおどろおどろしいようなイメージがありますが、イエス時代の人たちにとってはそのまま受け入れられていたのでしょうが、現代の私たちには神話のような、おとぎ話いや怪談めいた響きですが、その意味するところを現代人的に「翻訳」すると、その人の人間性を失わる現実(力)ということにでもなるのでしょうか。病気であることがその人のあるべき姿を失わせている状態に陥っていることになります。イエスはその状態にある人の本来あるべき姿を取り戻させた、ということになるのでしょうし、まさにその人間性を失わせる力とイエスは戦って勝利した、ということを記すのが福音書なのです。さてこのマルコをはじめ、マタイ、ルカ、ヨハネというのはもちろんそれぞれの福音書の著者と言われますが、なぜ彼らはイエスの記録を書いたのでしょう。またなぜイエスの記録が四種類もあるのでしょうか。
何よりも何かの記録を残したいと思った人は、それを忘れないでいたい、同時に後の時代の人にも知ってほしいと思ったからですね。つまりそれを記録するのに意味があると感じたからです。このことは福音書だけではなく「歴史」を記すということにとって決定的に重要なことなのです。それを記録する意味があるから、ところなのですが、でもそれに意味があると思うのはその著者、あるいは歴史家自身の考え方です。ほかの人にはそれほど意味がないということもあるはずです。だから同じ事件を扱っても、著者(歴史家)によって書き方が異なるのは自然なことです。例えば日本の新聞社などでもその政治的立場で記事のトーンは大きく変わりますよね。福音書も同じで、四人の記者はそれぞれの立場からイエスの記録を残しました。ただしその前提にはイエスの存在はすべての人にとって福音だったというところは同じですが。キリスト教の歴史を通じてマタイは天使、マルコは翼を持ったライオン、ルカは翼を持った雄牛、ヨハネは鷲という図像であらわされるてきましたが、それぞれのテキストを読むと、マタイはユダヤ教徒である読者に向けて、イエスが旧約の預言者、特にイザヤなどが預言したメシヤ(救済者)であることを示そうとしています。そこでマルコの福音書の物語の展開を時間軸として、そこにユダヤ教のラビ(教師)のようにその教えを説くイエス像を描いています。その教えを含む資料について新約聖書学者たちはQという頭文字で呼んでいますが、それはドイツ語でQuelle(資料)という単語に由来しています。マルコは一番最初に福音書という作品を著したのですが、それは徐々に成長しつつあったキリスト教会に属する人たちの第二世代とでもいうか、イエスのことを直接知らない人たちに、イエスの行いを伝える姿勢が明白です。ルカによる福音書にはその冒頭に「敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。」(ルカによる福音書1章3節)とこの福音書がテオフィロという人物(詳細はよくわからないが、ローマ風の名前であるので、その高官のひとりと推定されている)に献呈されているところから、キリスト教に理解や興味を示すローマ人を対象に記されているようです。また伝説的にルカは医学の心得もあったといわています。ちなみに使徒言行録の冒頭にも「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」(使徒言行録1章1節)と同様の献呈辞がしるされており、使徒言行録はルカ福音書の続編として記されたようです。そしてこのルカによる福音書には、マルコの福音書の展開を軸とし、マタイにも含まれるイエスの教えとともに彼独自の譬話を加えて、物語としての「面白さ」も含まれています(ということで、もしマルコ福音書を読まれたら、その次はルカ福音書をお読みになるといいかもしれませんね)。そしてヨハネですが、彼は最初の三人より少し後の時代に、キリスト教がユダヤ教から様々な批判を受けるようになってきた中で、その弁明として書かれた性格を持っており、ヨハネ福音書に描かれるイエスは、かなり長い、理屈っぽい?論述を展開しています。また、イエスの行動もほかの三つの福音書が基本的な時間軸で展開している(ということでこの三つの福音書は共観福音書と呼ばれます)とは異なる独自の書き方をしています。なお新約聖書にはヨハネの手紙とよばれる文書が三つ、それに巻末の黙示録にもヨハネという名前が付けられていますが、これは同一人物というよりも、同じ表現を用いるグループ(学派? スクール)に属していた人たちによって記されたと考えられています。こうしてそれぞれイエスについて独自な見方をする四人の著者による福音書を読むことで、イエスという存在をより立体的に理解することができ、さらにその四つを読んだ読者たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マルコによる福音書8章29節)というイエスの問いかけに、それぞれ自分で答えることが求められるのでしょう。