青島青少年の家
2025年宮崎県建築士会ヘリテージ委員会の所見作成講習会の題材として作成する
青島青少年の家
2025年宮崎県建築士会ヘリテージ委員会の所見作成講習会の題材として作成する
全 体 概 要
1 青島青少年の家及び所在する地域の概要
青少年が自然に接し多くのことを学び仲間と交流を深めた歴史は古く、地元(飫肥藩清武郷中野)出身で幕府の最高教育機関「昌平坂学問所」で教鞭をとった安井息軒(1799年〜1876年)は31歳の時に6人の塾生を連れて、故郷の双石山(ぼろいしやま)に登り漢詩「雙石山」と「登雙石山」を残している。
今回取り上げる青島青少年自然の家は双石山を源流とする加江田川の河口に建てられている。その用途は「野外活動施設」に分類され、この種の建物は戦後十数年がたち社会が青少年に目を向けることができるようになり生まれた建物である。
2 建築主や敷地整備などの概要
建築主は、宮崎県で当時の知事は黒木博(1959年〜1979年)で、当時県内は新婚旅行ブームで多くの観光客が訪れていたが、多くの若者が就職のため都会へ流出した時期でもあり、県としては、若者の地元離れへの対応として、質の高い自然環境をテーマとした施設を整備することで故郷への魅力付けを意図した。
公園一帯は歴史的に大きく変化しており、古くは1662年(寛文2年)に発生した外所地震により清武川と加江田川との河口の間が陥没し内海ができ、その後清武川は河口付近で内海に流れ込み、加江田川と一緒に河口から海に繋がっていた。1939年10月15日宮崎県南部に襲来した台風は、清武川流域に記録的な豪雨をもたらし清武川が直接日向灘に流れるようになった。
宮崎県総合運動公園は置県80周年記念事業として1963年(昭和38年)に計画が発表され、1967年(昭和42年)に工事を着手し1971年(昭和46年)に一部が完成し1992年(平成4年)に全国高校総体が開催される。その後も施設整備が行われ現在は多くのプロスポーツ団体のキャンプ地としても利用されている。
公園は北に清武川、南に加江田川、西に国道220号線とJR日南線、東にサーフィンの聖地となった木崎浜の防風林に接している125.4haの広大な敷地の南端に位置している。建物敷地内に作られた外池と内池は、「野外活動施設」という非日常空間に、この敷地の持つ原風景を積極的に取り入れたことによる。
建 造 物 の 概 要
1 建造物の概要(由緒・沿革など)
設計はル・コルビジェの下で学んだ坂倉準三(1901年〜1969年)が、1940年に創設した坂倉準三研究所を前身とする株式会社坂倉建築研究所(1969年設立)で1972年(昭和47年)に計画がスタートする。当時、坂倉は故人となりその思想を受け継いだ西沢文隆が事務所を引き継ぎ、実質計画を主導したのは東京事務所の阪田誠造である。
坂倉建築研究所では1960年前後から時代が求めた「青少年に夢と希望を与える場所」の計画に取組んでいる。1964年に大阪府立総合青少年野外活動センターをかわきりに当時すでに全国各地に10施設を完成させていた。
当時「野外活動施設」は新たなビルディングタイプであり、各地で完成した施設は地域特性を読み取りそれを生かした精神性の高い空間となっており、発注者と建築家の熱意を感じる。青島青少年の家でも、敷地を含む周辺の歴史的背景と周辺の豊かな自然環境(海・川・山)を前提に「みずの蘇生」をテーマの一部として取り組んでいる。
2 建設年代・改修年代等
工事期間は1974年(昭和49年)3月から1975年(昭和50年)6月までとなっている。その後、基本計画時に提案されていた総合研修館が1978年(昭和53年)に、創作工芸館が1987年(昭和62年)に増築される。2000年(平成12年)には外気にオープンだった2階の談話スペースを内部化する改築工事が行われる。
3 建造物の特徴
敷地面積56,493.20㎡ 建築面積2,832.20㎡ 延床面積4,855.79㎡で地下1階地上3階の鉄筋コンクリート造陸屋根、建物を際出させている池に関しては外池8,597.30㎡、内池192.70㎡となっている。
建物へのアプローチは最寄り駅の運動公園駅または公園内の南駐車場からとなり、いずれも正面に防風林の松林を見ながら進むと、右側に外池に浮かぶ建物が見えてくる。2、3階のセットバックした外壁の部分的に張り出した開口部と丸窓は外洋に出港する船をイメージさせてくれる。
利用者は外池にかかる橋を渡り大きなピロティー空間へと導かれる。左側に受付があり、右側はオリエンテーションコーナーとなっており、ここで青少年達は施設利用時の説明を受ける。建物は広い芝生広場を囲むL型プランとなっており、外池に面する外観とは違い、2、3階がキャンティレバーとなり大きくせり出しており、夏場の強い陽射しや通常の雨への建築的配慮が施されている。1階は東西軸に管理棟、食堂、総合研修館があり、南北軸に研修室そして増築予定の視聴覚室やプラネタリウムスペースがある。2、3階のL型は、海と川方向に開放的なベランダのある宿泊棟(東西塾ぼろいし棟・南北軸くんぱち棟)となっており、軸の中点は宿泊者の談話スペースとなっている。
4 評価 【⑴と⑵に該当】
ル・コルビジェ(1887年- 1965年)の下で学んだ坂倉は帰国後モダニズムの理念による建築を生み出し後世に大きな影響をもたらした。坂倉の理念(思想)を受け継いだスタッフ達へのル・コルビジェ建築の影響は大きく、私見ではあるが青島青少年の家の計画においても、その影響を随所に見ることができ、特に建物へのアプローチをコンセプトとした「みずの蘇生」による外池を橋で渡ることでの日常と非日常との意識の切替え手法は秀逸であり、この地域の歴史的変遷を思い起こさせてくれる。他にも戦後の現代建築が取り入れたオープンプラン・ピロティー・テラス・トップライト・吹抜け・スキップフロア等の設計手法が随所に見られ、昭和40年代を代表する貴重な建物である。
県民の施設利用(宿泊人数)は5年間平均(平成30年〜令和4年)で14,072人となっており、建物竣工後の12歳時の平均人数は約11,500人となっている。この数値を比較すると県民全員が青少年の時期に一度は施設に宿泊したことになり、計画当初に意図した故郷への魅力づけを果たしており、利用者にとって施設で過ごしたことは青少年期の原風景の一部となっている。
2025年度から「加江田川流域(双石山)・加江田渓谷・加江田川・青島海岸」をエリアとし関係者との連携を前提とした「宮崎の自然魅力発信事業」がスタートしている。青島青少年の家は加江田川河口に位置し、過去の記憶を継承しており、これからの世代を担う宮崎県の青少年に貴重な経験を与えてくれる場所となる。
2025年10月21日記 ヘリテージマネージャー 柴睦巳