▼ 絵本の家のご家族と一緒に諸塚村の山へ ▼
1・モザイク林
1986年12月、耳川河口の美々津は重要伝統的建造物保存地区の指定を受けた。
ここから耳川添いの国道を上る時に、対岸の山々が見せる四季折々の変化の中でも春の季節はとくに魅力的な時期である。
真夏の海で見られる入道雲のように緑の山の中にムクムクと山肌が沸き立つように立体感を持つのである。宮崎の山には椎の木が多く、5月から6月にかけて花期を迎える。雄端と雌端があり、黄色の穂状花序をしており、この雄花・雌花が木全体を盛り上げるのである。
また椎の木はどんぐりの木として小さい頃から親しんだ木である。10月ころに黒褐色の熟した実が落ちる。それをよく拾って食べた私には里山の恵みであった。
椎の実は早くから知っていたが、山にボリューム感を与えているのが椎の木であるということを知ったのは耳川を行き来するようになってからである。耳川を上るにしたがい、椎の木からアラカシ、コナラそしてクヌギと「どんぐりの木」が変化していく。
しばらく車で走ると森が針葉樹と落葉樹によるモザイク林となる。ここが諸塚村である。人口2500人ほどの人たちが急峻な山肌にへばりつくように生活を営んでいる。
この村は1993年の第一回朝日森林文化賞を受賞した。古くから椎茸原木林の造成を進めてきた村人は、昭和30年代に行われた杉・桧による拡大造林の中、先人の教えである適地適木主義を守り通し、北面の湿地帯には杉・桧等の針葉樹を植え、南面の乾燥地にはクヌギなどの椎茸原木を中心とした落葉樹を、また渓谷添いなどには天然林の雑木を保存したのである。孫の代にしかお金にならない杉・桧だけでなく、短期間で収入となる椎茸のホダキとして使われるクヌギの選択は山で生きる人々の知恵であった。
諸塚村では、山奥まで管理のための作業道がつくられ、山そして木々の手入れが積極的に行われている。林内路網密度は54m/ha。宮崎県内の平均が31.8m/haで全国1位と言われているが、これと比較してもいかに整備が進んでいるかがわかる。他の地域に見られる荒れ果てた山の姿はここでは見受けられない。
諸塚村での作業道の普及と管理を支えたのは行政だけでなく、明治以来の90箇所の集落を単位とする地域の人々であり、その後にできた16の公民館の自治活動によるものである。大きな災害に発展する初期の段階で住民によって自主的に補修され、山の崩壊へとつながらないシステムができあがっており、現在もそれは機能している。
諸塚村に入る手前で、数カ所、作業道による山の荒廃、そして森林放置による山の崩落現場を見ることができる。山と人との接し方によるさまざまな現状を同じ流域内で目にする時、今後、私たちがどのように自然と接していかなければならないか、ひとつの方向を見る思いである。
同じ耳川流域での森林に対する取組みの違いは、川下に大きな影響を与えることになる。川上から川下までの流域全体をひとつの単位とした環境保全は、21世紀を迎える私たちにとって身近な問題であり、早急に取組まねばならない大きな課題である。モザイク林に代表される諸塚村民の山とのかかわり方は、今後の指針として十分に評価し実践していく必要がある。
2・一つの出会い
1996年10月初め、諸塚村の池の窪グリーンパークを訪れる。ここにはログハウスがクヌギ林の中に、高低差を利用して5棟建っている。
当時、私はログハウスの情報を集めていた。現地を見た後に役場を訪ね企画課の担当者に会い、企画段階から竣工後の運用状況に至るまでの話しを聞いた。技術的な事を確認しようと建設課を訪ねると、机の上に私が設計した南郷村の百済小路壱番館の製本図面が置いてあった。
机の主に話しを聞いてみると、自然素材を使った建物の情報を集めているという。南郷村での本物指向によるさまざまな取組についての情報がすでに伝わっていたようである。
その机の主が矢房孝広氏であった。33才で東京、大阪での設計事務所勤務をやめ、U ターンして役場に入った。「都会での生活に行き詰まり感をおぼえ、その突破口を原点である故郷に見い出そうとして帰ってきた」という。矢房氏との話しの中で、諸塚村が今後めざす「エコビレッジ諸塚プロジェクト」について知ることになる。
森林資源の有効利用と都市と山村との独自の交流をはかることで、諸塚の人達が自信を持って生活していく基盤をつくるのを目標にしていくという。主な活動内容は、九州地区限定の産直住宅の提案と普及、および山村での体験交流である。
とくに、培われたモザイク林をベースに川上と川下との交流を前提に行われる家づくり(産直住宅)をめざすという彼の言葉に、地味ではあるが堅実な村おこしの姿を見た。全国、いたる所でいかに交流人口を増やしていくかが模索されており、さまざまな取組みが行われている。ここ諸塚村で進めようとしているのは、交流人口の数を問題とするのではなく、その質を求めようとしているように思われた。
人の一生の中で家をつくるという大きな事業の中に、諸塚村の培われたモザイク林で育った木を取り入れようという、ある種壮大なるロマンである。個人のロマンである持ち家と、自然環境保全の担い手としての役割を再度求められている森を組み合わせようというものだ。山を守る人々の歴史と想いをもっとも身近かな住宅に、その計画段階から工事そして完成後まで実感できる形で取り入れるシステムというものに、21世紀の住まいづくりの可能性を見た思いがした。
長期的な視野を持ちながら新しいことに取組む彼らの姿勢に、「山からの恵みを受けるために山を守っていくのだ。そしてそれが結果として森林保全という形で川下の人たちに役立つのである」と林業に励む村人の姿を重ね合わせてしまった。地域での試みがその結果、地球規模の環境保全という大きなテーマにまでつながっていくという考え方が、地域で活動する私に新たな可能性を示唆してくれたのである。
3・産直住宅の始まり
エコビレッジ諸塚プロジェクトの取組のひとつが「諸塚村産直住宅」であり、九州を限定とする自然派の家づくのをめざしている。「大規模なことや、大量供給はできないが、材の生産者と家の建築主がお互いに見える体制を作ることで、生産者は市場価格だけで一喜一憂するのではなく、家づくりの現場の意見を聞き、どういう材がどういう値段で必要なのかがわかる。需要にあったものを適正な価格で生産する生産者の原点に戻れる。当然建築主には自分の家にあった環境にも人にも優しい優良な素材が確実に手に入る大きなメリットがある」という。
産直住宅はすでに全国でさまざまな取組が行われている。諸塚村では、現在でもそのシステムをどの様にするのか、木材のみの供給とするのか、木材と施工とを合わせた供給とするのか等模索中である。しかし2000年3月現在、すでに10軒の産直住宅が建っている。そのほとんどは木材の供給のみというスタイルではあるが、「諸塚村産地直送住宅供給原則」に基ずき建てられたものである。
私が初めて取り組んだのは1998年の春である。建設場所は都城市であった。古くなった貸家を、新しくしたいという建築主の話しから計画が始まる。
建築主が勤める職場で、子供がアトピーで苦しんでいる同僚がおり、今回建てる貸家は、なるべく自然素材を使い、シックハウス症候群の原因となる新建材を使わないようにしたいという。話しを進める内に、木材の産地を訪ね建物に使われる木材がどのような場所で育ったのかを実際見てみようということになる。
諸塚村は、県内で唯一、生産者と消費者のお互いの顔が見える方式で産直住宅の取組みをすでに始めており、「山村の自然環境保全と自然素材を元にした住まいづくり」をテーマにしたセミナー、そして諸塚村の木材生産現場を訪れるツアーが企画されており、九州各県より自然素材による家づくりに興味のある人々が多数訪れていた。 1998年6月に建築主の御夫妻と共に産直ツアーに参加する。
計画当初、建築主は「なぜ諸塚材を使うのか、都城市は南九州で有数の木材集積地であり都城周辺も多くの木材が産出されているから、なるべく地元の物を使えば良いのに」と言っていたが、産直ツアーに参加し、山の現状を熱心に語る森林組合の方、山村の今後のあり方を環境保全という視点で話す矢房氏らの話しを聞き、そして何よりも諸塚村の山村文化を目の当りにし、すっかり諸塚ファンとなる。
8月に工事着工となり、尺物の切り出し現場での打合せ、10月に迎えた上棟時にと、建築主と生産者がお互いを訪ねることとなった。12月に竣工を迎えることができ、諸塚村より関係者10数名が祝いの席に出席した。この席で建築主は諸塚村親善大使の称号をいただくことになり、より一層諸塚村への想いを深めたようである。
本来「諸塚材」というブランドはない、全国の杉・桧の産地にいくと、「小国杉・吉野杉・秋田杉」等とそのブランドに誇りをもった人が大勢いる。しかしここ諸塚村では木材そのものに自信と誇りを持った人にまだ出会っていない。
諸塚材の魅力を考える時、材質そのものではなく諸塚という村が前提としてある。山を大事にする心、神楽を始めとする伝統文化を大事にする心、山を訪れる人をもてなす村びとの心、そういった山に生活している村人の想いが木材に込められて出荷される、それが結果として「諸塚材」としてのブランドができあがるのだという想いを強くした。
4・産直住宅TO邸のこと
始めてT氏にお会いした時、自然素材を使った家を作りたい、そして家族で家を作る喜びを感じたいといわれた。
参加型の家づくりというものがあるが、施主がどの時点でどのように関わるのかという決まったマニュアルはない。セルフビルドも言葉としては新しさを感じるが、その実体は太古より行われてきた営みの一つであったはずだ。
家族が、そして地域の住民が協力して家づくりが行われた歳月は非常に長い。住宅が商品として扱われてからそんなに時間はたっていない。祖父が・父親がそして近所のおじさん達が手をかけて作り上げた家に対する「想い」と買った家に対する「想い」が違うのは当然の事だと早く多くの人に気がついて欲しい。一つの家ができあがるとは、まさに一つの「ものがたり」がそこに生まれることである。
Tさん家族は家を作るにあたってこの「ものがたり」大切にしたいという強い気持ちを持っていたのである。すでに諸塚村産直住宅のことは調べており、諸塚村との交流の中で家づくりを進めていこうと考えていた。当初より自然素材についてそして有害な建材について打合せを行い、建築基準法及び住宅金融公庫融資の枠の中で可能な自然な住宅について模索を始めた。
身近な自然素材を使うにあたって、よく問題となる生きているからこそ起る状況(木材の収縮等)については自然に受け止めていただけるとのこと。後は住まい方をどのように考えるのかという点での打合せである。
御両親との同居のなかで、帰宅時間の遅い御主人そして家でも仕事をされることがあり、夜の早い両親に迷惑をなるべくかけたくないとのこと、限られた敷地の中での二世帯住宅のあり方の模索の結果、玄関と外部のユーティリティースペースを共有し、他は完全に独立させるものとして計画し、中央をウッドデッキにて視覚的にも機能的にも繋げた物とする。
基本計画が進む中、1999年4月諸塚村主催のやましぎの杜体験ツアーに Tさん御家族と参加をする。やましぎの杜は民家再生の設計をしており、機会あるごとに私も家族で参加をし色々な体験をしていた。夜、囲炉裏を囲み御夫妻と色々なことを語り合った。
土間、囲炉裏の間、畳の間の3部屋からなる民家の中で、家族の生活そして子どもの成長を始めとする家族構成の変化などを、1世紀に渡って家族の変化に対応してきた「したしぎ」の民家の中での話は様々な場面を想定して考えるのには非常にわかりやすい場所であった。隣の畳の部屋では、ツアーで知り合った家族がすでに寝息をたてており、こちらの話声が夜が深けるとともに小さくなっていったのは言うまでもない。
私は御夫妻との囲炉裏を囲んでの時間にゆったりとした時の流れを感じた。おそらく御夫妻も同じ気持ちであったのではないだろうか。家族が家の中でどのように寄り添い生活をしていくのか、そして同居の両親とどのように向き合うのか、今考えると、様々な日常生活を大きな屋根の下に包込む計画となったのは、この時の経験によるものかも知れない。
5・やましぎの杜
2000年、5月中旬に一泊二日の日程で、宮崎県内の専門学校の建築科の生徒25名を連れ諸塚村を訪れた。木材の生産現場、加工流通の現在とこれからの取組みについての研修を行ない、合わせて山村での生活体験を目的とした合宿だ。昨年は、諸塚村産直住宅モデルハウスの外壁の塗装実習を兼ねて訪れた。
初日は「やましぎの杜」での体験学習である。やましぎの杜は諸塚村と椎葉村との間に位置する高隈山の8合目附近にある上合鴫集落の別名で、尾根筋に古くから3軒の集落があった。日向からの耳川沿いの道が整備されるまでは、椎葉村を始めとする周辺地域の人たちの交通の要所であったが、1998年に空家になった2軒を村が買い取り、都市住民の山村生活の体験交流施設として改修したものである。詳しくは1999年8月号の建築ジャーナルを御覧いただきたい。
現在、建物周辺の整備が進められおり、今回は山茶畑の整備を学生と一緒にする。指導していただいたのは上合鴫集落に住んでいる甲斐光さんである。ずっと山で生活されてきた方であり、山のこと、木のことについての私の先生でもある。ここを訪ねる人の中には甲斐光さんの話を楽しみにしている方が多い。
山茶畑の整備が終わったあとは、夕食そして風呂の準備である。食材を求めて竹の子を採りに行くもの、食後のデザートにと野いちごを積みに行くもの、五衛門風呂を沸かすために、まき割りをするもの、そしてカマドの準備をするものと、それぞれが自分の興味のあるものにとりかかる。ほとんどの学生にとって始めての経験であった。
各々の場所で行われる学生の姿を見てると、彼等はその行為を演じているかのようであった。祖父母から話を聞いたことのあるその作業を楽しんでいるようであった。
この「やましぎの杜」でおこなわれる体験ツアーに参加するたびに感じることがある。それは、作業をしている人が主役になる空間がここにはある。土間でオープンカウンターに設けられた流しの前に立つ人であり、カマドで火の番をする人、風呂の炊き口に座る人、板の間の囲炉裏に火をおこす人各々が主役となる。空間が主ではなく生活する人が動くことにより、そこの空間がより生きてくるのである。
室内は、すすで真っ黒となった柱、梁、壁がそこで生きてきた住人の生活のあり様をイメージさせる。その暗さが、行われる行為、そして人の表情をより一層引き立たせている。このことは夜になると一層強く感じる。「背景のない空間」となるのである。そこに置かれたものが、そして囲炉裏の向こうの顔が浮かび上がるのである。まさに「生活者主役の空間」である。
生き生きと動く同級生の姿に学生達は何を感じたであろうか、学校では見ることのできない姿と合わせて、日常では感じることのできなかった生活の中での基本的な人との接し方を感じ取ったのでないかと期待したい。
6・やましぎの杜で考えたこと
民家の再生の仕事を通じて親しくなった、上合鴫の甲斐さん一家に会いたくて、やましぎの杜へ家族で出かける機会が多い。四季折々の山村での生活体験は私と妻にとっては懐かしく、そして子供達には新鮮なものとなっている。
ある時「諸塚で農作業の体験などもされてましたが、あれも設計の仕事にかなりプラスになるのでしょうか?」と聞かれたことがある。本来は楽しみを求めて訪れているのだが、体験を通じて感じていることに付いて少しまとめてみたい。
□ 物づくりの中での、自然を相手にすることの大切さを再確認できる。
□ 体験施設の設計に当って、体験ツアー等で行われる実際の仕事の流れを知ることは必要である。体験交流のなかで行われる作業を見ていると、同じことでも指導される村人、そして天気、季節等によって空間の使い方、そしてその作業手順が違い、一つこれが正解だというものがない。
設計では、その機能性・利便性だけで計画を進めてしまいがちである。ある一定の型にはまった設計をしてしまう危険性を少しでも減らしたいために、機会あるごとに農作業の体験をしている。
□ 日本の文化は里山より発生したと言われる人がいる。実際、やましぎの杜で炭焼き・釜入り茶等の作業を体験した時に、そこで行われる一つ一つの作業の中に現在使われている機械のシステムを見る思いである。単純なことだが、火の加減をするのに空気取り入れ口に小石を詰め、そして微妙な調整が必要な時には、粘土で穴のすき間を少しずつ埋めていくのである。この作業はまさにバルブの原形である。身近にある機械の生産システムは、人の知恵とその手によって行われていたのだということを強く感じる。機械に頼らずに、手の延長としての道具とくに刃物・縄等により多くの事がなされる山での作業は、自然の中で自分の力だけで生きていく術を教えてくれる。
そして何よりも人工物(機械等)の原形を確認できるということは、その本質を知ることになり、設計行為の中で何を本質として進めていかねばならないのかという「コンセプト」作りの参考になる。
また、自然派空間を考える時に、石油エネルギーに頼らずに生活できる知恵が、里山に数は少なくなってきているが確実に残されている。
□ 地域・自然等との関わりを常に問題としなければならない建築計画において、近代の生産システムによる考え方だけでは、次の時代には対応できないのではという危機感を感じている。
山での自然と人との関わり方から参考になるものは、計り知れない。例えば現在話題の「棚田」がある。昔の人が近くで採取できる自然石を使い、人の手で持てる大きさの石を選び、そして人の背丈を基準とした施工範囲を決して超えようとはしない無理のない高さに積みあげられた石垣は長い時代を生きのび、多くの日本人の原風景となった。
これが、現代の生産システムを使うことになれば、規格化されたブロックを機械によって何段も積み重ねる事となる。田んぼの面積は広く取れるが、決して我々の心に残る風景にはならない。
手の温もりと言う言葉で表現するには無理があるかも知れないが、現地の人が、人から人へ手渡しによって積上げた(石垣・茅葺き等)という「想い」もまた原風景の重要な要素だと思う。この延長線上に田植え・稲刈り・お茶詰みそして釜入れ等の作業があるのではと思っている。
経済性だけの追求により作られる現在の物に対して、特に、建築・土木の完成品に対して地域の人がどれだ愛着を持てるのか。愛着の持てない建物には関心も何もない。これでは街はそして風景は魅力的にはならない。
以上、あれこれ理屈をつけても、要は合鴫集落の人との再会がそしてそこでの生活が「楽しい」から通っているのである。
7・耳川流域という共同体
今年の8月1日、諸塚村を含む耳川流域市町村の森林組合が合併した。上流より、椎葉村、諸塚村、西郷村、南郷村、北郷村、東郷町、門川町、日向市の八つの森林組合である。この合併の結果、森林面積(107,900ヘクタール)素材取扱量(126,000立方メートル)とも全国一位の森林組合となった。
初代組合長となった、前諸塚村長の甲斐重勝氏は「木材価格の暴落など山村と林業を取巻く現状は危機的な状況が続いている。流域が一体となって一貫した生産体制づくりが急務であり、関係市町村と連携し経営基盤を安定させるために全力を挙げる」と言われた。
また、八つの市町村では、広域行政の一体化を図るために「日向・東臼杵南部広域連合」の設立準備室を今年の7月に開設している。当面の対象事業として管理最終処分場、最新鋭ごみ焼却施設、し尿処理施設、火葬場、そして設立後には介護保険制度、観光行政、消防の一体化なども検討していくという。流域を一つの単位として取組む姿勢が着々と進められている。
今回の合併を、興味を持って見ているであろう故人について紹介したい。明治時代に生きた小林乾一郎氏のことである。
明治17年、政府は民有林の国有化を進めた。宮崎県には明治21年に調査官が入り、山林を政府の所管に移すよう県民を説得した。県北出身で当時の県議会議長であった小林氏は、豊かな山林資源を持ち、民有林の多い県北地区では、これを国有林とすることは地元住民の生活に大きな影響を与えると憂慮し、調査官の県北入りを拒否するため、地元住民と共に反対運動に立上がった。
耳川沿いに、鉄砲隊、抜刀隊を配し、調査官が耳川を渡れば皆殺しにする勢いであったという。その後、上京し政府へ国有化編入調査の不当性を訴えた。政府は訴えを受け入れ、東・西臼杵郡、及び児湯郡米良村の調査を中止し国有林化を取り止めた。
全国的な林業不振の中、諸塚村を始めとする耳川流域の積極的な取組みにはこのような歴史的背景があったことを忘れてはならない。
森林組合には、合併後も解決しなければならない諸問題が残されているという。しかし流域を単位として今後行われる森林経営は、林家の経営安定だけでなく、地域の自然環境問題に大きく貢献するであろう。数年前に中流域である東郷町の山陰で起きた大水害は、上流での森林管理の影響が大きいといわれている。現在、山のことは山だけでは解決できず、又海のことも海だけでは解決できない状況になっている。
流域(水系)を通して地域を考える視点は、今後の住まいづくり(建築)の一つの方向を示すものになると考えている。また現場においても、流域内の職人、素材、材料よる工事の可能を模索している。
現在「諸塚村産直住宅」の取組み、「やましぎの杜」での体験交流などを通して諸塚村(川上)の多くの人とおつき合いをしている。
今後も、川上、川下に住む者として各々が、より個性的であり、自由であり、そのことによりお互いが反発したり、共感をしたりするという刺激的な関係でありたい。そして諸塚村とのネットワークの中で、いつの日か「宮崎らしさ」を持った住まい(建築)を産み出したい。