1986年にまとめられた「百済の里づくり」 の中核施設として「西の正倉院」計画がある。神門神社に伝わる伝説・宝物を展示する場所となる建物である。東大寺正倉院(総桧造り)の宝物と同一品の銅鏡の存在が「西の正倉院」計画のきっかけとなる。 準備そして計画・設計に5年、工事に5 年、計10年の歳月をかけることとなる。
正倉院は厳密にはニつの部分に分けることができる。正倉(本体)部分と、 塘で囲われた場所を示す院の部分である。 国分寺が全国にあった時代に、税を納める倉として正倉はいたる所にあったとい われる。「子々孫々に誇りうる南郷村の創出」をコンセプトとするため、「西の正倉院」は本物でなければならない。以前にも全国で3ヶ所ほど同じ計画をしたことがあり、どこも実現できなかったことを計画半ばにして知ることとなる。
南郷村は1987年に正倉院の複製の可能性と学術的な支援を、奈良国立文化財研究所(以下、奈文研という)に依頼することとなる。はじめ、奈文研からは研究機関であり、市町村が行なう村おこしを支援する所ではないと断わられた。しかし、当時の奈文研の所長が上代寺院建築の研究者であった鈴木嘉吉氏であり、また神門神社の銅鏡により交流のできた考古室からの積極的な働きかけにより支援していただくことになる。
しばらくすると、宮内庁には門外不出としている正倉院の図面があり、本物にこだわるのであれば、その図面が必要であるとの連絡が奈文研より入る。これよりしばらくの間、南郷村の宮内庁通いが始まり、正倉院事務所・宮内庁京都事務所・東京の宮内庁事務所へとお願いに伺うこととなる。本来、村おこしを支援する所ではないが、奈文研が学術支援をしているということで、奈文研に閲覧を許可する形で、宮内庁より図面の借入れが可能となる。
正倉の設計は奈文研の紹介により、金閣寺、銀閣寺の改修などに実績のある(財)建築研究協会の日本研究室で行なわれることとなる。そこで設計が進められ、必要となる木材のリス卜ができあがる。当初、南郷村では木材の調達にはそれほど気にかけていなかったようである。村の93%を森林が占めており、南郷村と周辺の村から集めれば何とかなるのではと考えていたようだ。
リストをもとに木材を探してみるが宮崎県内にはない、九州でも揃えられい、全国の大きな材木店に見積り依頼を行なうが良い返事がかえってこない。そこで、南郷村は宮崎県の知事に相談することとなる。
知事は前林野庁長官であり、木材に関しては詳しいとの情報を得てのことであった。知事のアドパイスは、「日本で現在これだけの桧を集めるのは難しい。青森にヒバがあり、桧に比較的近い性質を持っているからヒバも検討してみてはどうか」というものであった。九州の木材どころか桧の調達さえ危うくなってきたのである。
7・挑戦としての風景 ②