Y邸(・・・・医院)
Y邸(・・・・医院)
・・・・年のひむかヘリテージ機構講習会時に発表された山﨑邸について、発表者(柴田氏)原稿を本人の了解のもと修正したもの。
Y家について(概要)
1.「・・・・醫院兼主屋」の所在する地域の概要
五ヶ瀬町は九州のほぼ中央に位置し、北西は丘陵地帯で阿蘇連山が展望でき、北東から南西には九州山脈が連なっている。その山々の谷間を源流とした五ヶ瀬川が延岡市で日向灘に流れ込む。1956年の町制で五ヶ瀬町となるまでは、高千穂郷三ヶ所村と呼ばれており、肥後国と日向国を結ぶ旧道(日向往還)が村の中心を通り賑わっていた。以前より村民の多くは、農林畜産業に従事し特に製茶の気候風土に適した土地であり、明治後期から新技術を取り入れて茶園や製茶工場を大きくしていった。
2.建築主や敷地の概要
郷土の記録「村のおもかげ」※1によれば、寛政12年(1800年)から庄屋であった山﨑民助、安政6年(1857年)には小侍であった純造、そして漢方医でありながら村会議員を務めた山﨑泰俊と代々村のまつりごとに携わってきた家系である。
泰俊の長男が、長崎で西洋医学を学んだ医師の山﨑音人(1872年~1941年)である。音人は医師としてだけではなく、三ヶ所村電燈組合の電燈架設運動(延岡電氣会社との交渉・大正9年点燈)、在郷軍人分会長、村の造林植林事業における労働奉仕活動(大正元年~大正5年・WW1後)、赤谷上水道建設計画(昭和11年完成)など村の発展と衛生的医療のために尽力し、また所有する山林原野の造林を通し生涯にわたって造林思想の普及に努めた。
音人は昭和11年増築した洋館に樂天堂醫院を移し、昭和16年に亡くなるまで医師を続けた。弟の三男・峻が医者として昭和27年に帰郷し樂天堂醫院を引き継ぎ昭和43年五ヶ瀬町町長になり閉院した。その後は峻の妻がひとりで住んでいるが、現在は高齢のため甥の山﨑氏が管理をしている。
敷地は五ヶ瀬町三ヶ所の中心地の赤谷地区にあり、旧国道沿いの赤谷商店街と裏山の三ヶ所小学校に上がる町道の角に位置し面積は約300坪である。敷地角の道路境界にはL型に透かし板塀、南庭側は石塀を設置している。山間の渓谷の中にあっても敷地面積はかなり広く、旧国道側に出入口を設け、敷地北西に旧樂天堂醫院兼主屋を構え、北東に裏庭があり土蔵が建っている。裏山が敷地の南側まで張り出しその景観を利用し庭としている。
Y家主屋について
1. 建造物の概要(由緒・沿革など)
前面道路(旧国道)に平行に建てられ、同一建物だが外観的には明治45年に竣工した黒を基調とした主屋部分と、昭和11年に増築された明るいベージュの医院部分に分けられる。
主屋は鋼板葺き入母屋造りで両側の妻面には菱状に格子が組まれ小屋裏換気のためのガラリ窓がある。周囲には下屋を回し漆喰の真壁取り合い部分は下見板張りで雨避けの工夫が施されている。式台のある玄関屋根は漢方医を意識したのか特徴的な反り屋根となっている。下屋はそのまま北側台所屋根とつながりこの地方の乾燥小屋によくみられる越屋根がある。外壁は腰高まで下見板張りで上部は漆喰仕上げとなっている。
医院部分は鋼板葺きの切妻で外壁は漆喰塗りのかき落とし仕上げ、開口部上部にはアーチ状のモールディングが付いた縦長の木製窓が連続しゴシック様式を思わせる作りとなっている。腰壁は石積みを思わせる小叩き仕上げの花崗岩が用いられている。医院部分と一部一体となっている塀は鋼板葺き屋根付きで腰壁部分は大壁の下見板張りで上部は真壁の白漆喰と縦格子の組合せとなっている。南側庭の塀は池や樹木による湿気への対応なのか切石積みとなっている。
2. 建設年代・改修増築年代
主屋部分は明治45年に竣工し、昭和11年に医院部分が増築されている。明治45年竣工に関しては課税台帳及び現在の管理者からの情報であり、建主は漢方医でありながら村会議員を務めた山﨑泰俊で、その立場に相応しい建物を作っている。
医院部分増築については昭和11年7月15日付の棟札に「戸主山﨑音人六十四才 妻ギン五十四才 設計師石橋厚 大工棟梁菊池友平五十四才…」と大工5名が続き、山師や製材業、左官の名が挙げられている。
他改修については聞き取りにより増築後2回行われており、まずは昭和・年に通り土間に面した6畳和室(囲炉裏の間)の囲炉裏を閉じ、隣接する4.5畳和室(茶の間)と通り土間と合わせてそれまで小屋組見出しだった所に天井を設置している。また通り土間反対側の囲炉裏付き向こう座を応接室に改修している。
平成・年に、それまで南東側に別棟(?)としてあった便所、浴室を撤去し東側縁側からそれぞれの部屋に直接出入りできるように改築し、縁側の木製掃き出し窓の外側にアルミ製サッシを取り付けている。
3. 建造物の特徴
主屋には前面道路に向かって二つの出入り口があり、式台が設置された主屋玄関と、通り土間のための出入口である。増築された医院部分は主屋玄関の右側に医院玄関があり、手術室にも前面道路から直接で入りのできる土間入口がある。
主屋玄関の式台から入ると漢方医時代に診察室として使われていた玄関の間があり横並びに右側へ仏間、次の間と続き南庭に面する縁側となる。次の間上に座敷があり一部の旧延岡藩領内で見られた鍵座敷系の間取りとなっており、この四部屋は使われている建具や釘隠しなどから格式の高さを感じる。医院部分増築のために行き来がなくなっているが当初は縁側が三方向に廻り、周囲の自然な景観を取り入れた部屋であった。玄関の間と仏間の奥に「通りの間」という四方向を部屋で囲まれた畳の部屋があり、上の寝間と合わせて5つの部屋に直接出入りができるようになっており興味深い。
通り土間の出入口を入ると、右側に家人の居住エリア、左側に使用人エリアに分かれ、奥には2.5間×3間の土間があり台所として使われている。通り土間に面した家人エリアは手前から床高さの低い板敷スペース、以前は囲炉裏が切ってあった囲炉裏の間、茶の間と続き、奥に平成・年に作られたDKとなっている。囲炉裏の間は竣工当初は待合室として使われており、手前の板敷スペースと合わせて考えると漢方医時代は患者は通り土間の出入口を使っていたと思われる。
使用人エリアには向こう座と呼ばれる部屋があり当初は農・林業に従事する人が、医院増築後は看護婦の部屋として使われていた。むこう座奥は台所から出入りする土間納戸となっている。
増築された医院部分は医院玄関奥に待合室があり、面して診察室と受付・薬局があり、待合室奥の中廊下を介して手術室がある。手術室に土間があり直接外部と繋がっているのは現在の緊急外来と同じ役割をしていたと思われる。林業の村で作業中の怪我で運ばれる患者さんを想定してのことだと考えられる。
4. 評価
民家の形式を大きく二つに分けると、田の字型(農家)と通り土間型(町屋)に分かれ発展したと言われるが、明治になり武家ではない地域の有力者が家業と地域の発展のために重要な役割を果たすようになり書院造りの格式と機能性を織り交ぜた住宅が作られる。この山﨑家も三カ所村から五ヶ瀬町へと変化する中で地域の近代化に貢献した建物であり、地域の景観としてその姿を残している貴重な建物である。
※1「村のおもかげ」後藤寅五郎著 昭和13年発行 改定増補
文責 柴睦巳(ひむかヘリテージ機構世話人)