1・伝説の風景
今年も、旧暦のお正月に「師走まつり」はいつもの通りに行なわれた。まつり最後の時がくると、神門神社から小丸川まで広がるたんぽの中で行なわれる、別れの「オサラバ」の風景は、昔から変わらぬものである。遠く北側に清水岳(山神)、中央に神門神社の杜、九州山地の奥にポッカリと広がるこの場所が、百済王伝説の地、南郷村神門である。
南郷村に伝わる百済王伝説
百済国は、四暦660年、唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。百済の王族・武官たちは日本に亡命し、幾内地方に定住した。 その後動乱により、王族の一団がニ隻の船で筑紫をめざした。一隻には父親の禎或王と次男の華智王などが乗り、もう一隻には長男の福智王と母親の王妃たちが乗った。途中激しい時化に襲われ、 日向の国の金ケ浜、蚊口浦に漂着した。
金ケ浜に漂着した祯嘉王たちは、占 いにより神門に住むことにした。蚊口浦に漂着した福智王は、球を投げて定住の 地を占い、木城町比木に住むことになる。 それぞれに別れ住んだ王族は、しば らく安息の日々を過ごした。しかし、桢 嘉王たちの所在を突き止めた追討軍は神門に迫ってきた。この情報を伝え聞いた比木の福智王は周辺の豪族をひきいて神門入りし、父王に仕えた人たちは殉死した。 村人に尊敬されていた禎嘉王は神門神社に、そして福智王は比木神社に神として祭られた。
師走まつりと百済王の遺品
師走まつりは、木城町比木神社の祭神となった福智王が、90キロの道のりを巡幸 して、神門神社の父である禎嘉王に会いにくるという親子対面のまつりである。 以前は9泊10日かけて行なわれていたが、 戦後2泊3日に短縮されている。神門神社には百済王の遺品といわれている二十四面の銅鏡が伝世品として残され、馬鈴、馬鋒、須恵器も伝わってい る。1984年、南郷村は地域イメ一 ジの向上のため、連綿と守られてきた伝説の糸を一つひとつひもとくことによる村おこし 「百済の里づくり」への一歩を踏み出す。
2・交流への風景 ①
1985年、百済最後の都、块餘への王族の ルーツを訪ねる旅が始まる。扶餘は太宰府、飛鳥と姉妹都市を結んでいる、韓国 の歴史の表舞台である。「百済王伝説は日本に数多くあり、伝説だけを頼りとする交流は心もとない、南郷村側の今後の調査を期待したい」との扶餘郡守の言葉であったと聞く。
しかし、この訪韓調査から大きなコマがでてくることとなる。帰国後、地元新聞の片隅に「南郷村百済王族のルーツを訪ねる」という記事がでる。この記事 を見られた方から、南郷村に電話が入る。「奈良の国立博物館を見学した時、展示品の銅鏡に宮崎神門神社と記されていたものがあった」と。
早々奈良へ連絡を取る。考古室長が 電話にでられ「宮崎の神門からですか?」 「ご存じですか」「神門神社は有名ですよ」 「何が有名ですか」「銅鏡です」「どのように有名ですか」「奈良時代の鏡だけで も日本の10指に入る。しかも、正倉院宝物と同笵鏡や東大寺大仏台座下から見つかった鏡と同一品があり、これほどの銅鏡が一力所に伝世されていることは極めて珍しい」とのこと。
朗報を得た南郷村では百済王伝説・師走まつり・銅鏡についてまとめ「神門物語」を出版することとなる。これをもとに、1986年「百済の里づくり」の構想が、基本コンセブトを「子々孫々に誇りうる南郷村の創造」とし、基本計画書としてまとめられる。
村おこしは15のプロジェクトにより構成され各種整備がスタ一トする。 中核施設となるものは、伝説・宝物の展示の場となる「西の正盒院」・韓国との交流のシンボルとなる「百済の館」である。
私が百済の里づくりに参加するのは、1989年3月、百済の館建設の設計者として加わることから始まる。当時宮崎市内の設計事務所に勤務しており、館設計の担当者となったことが、その後の百済の里づくりに深く関わることとなる。
百済の館設計に当たって、南郷村ではすでにそのモデルとなる建物を選んでおり、その図面まで入手していた。抉餘の国立博物館の敷地内に客舎と呼ばれる李朝時代の建物があり、その規模・形が建設地にふさわしいということであった。
「客舎」 は中央政府の役人が地方で政治を行なうときに使われた建物である。その構成は中央にまつりごとを行なう場所、左右にプライベートな場所があり、その一部が宿泊の部屋となっている。
百済の館計画に当たって提示された条件は、百済文化の紹介および焼肉料理の提供の場所ということであった。伝統的な木造の建物の中に厨房施設をはじめとする水回りをいかに配置していくかが計画のポイントであった。
提示された参考図面で、細部の設計を行なうには不十分であったため、現地調査をすることとなり扶餘を訪れた。当時、少しずつ韓国政府に対して、南郷村の村おこしの取り組みについての協力要請が行なわれ始めていたが、調査出発にあたって役場からは、できるだけ内々に調査を進めてほしいという要望があり、現地においても正式に博物館に建物実測調査のお願いはせず、観光客をよそおいスケールを片手に各種寸法の確認を行なった。
一時間もたったころだろうか、遠巻きに博物館職員がじっとこちらを見ている。気にせずに進めていると職員の数が增えてきたため、一日目の調査をやめ、次の日に再度確認し調査を終えたのであった。
3・交流の風景 ②
1989年の韓国・扶餘での調査では、百済 時代の貴族の末裔だといわれる扶餘文化院院長の李夕湖先生にたいへんお世話に なった。日本の学校を出られ百済に関す る著書もあり、百済時代の瓦の研究者と しても実績のある方である。
李先生より「百済時代の建物は韓国にはほとんど存在しない、唯一定林寺の石で作られた五重塔ぐらいである。木造の百済様式を知りたいのであれば、法隆寺を見なさい」とアドバイスを受ける。 日本の仏寺建築は和様・大仏様・禅宗様・折衷様に分けられるが、法隆寺・法起寺 などを飛鳥様式(または百済様式)と呼ぶ 研究者もいる。
博物館内の客舎は建物単体で建っているものであるが、客舎は本来塀で囲われた敷地の中心に建っており、そしていくつかの付厲建物と共に配置されているものである。扶餘近郊の客舎のいくつかを李先生に案内していただくうちに、塀で囲われゆったりとした甍を見せるその姿にすっかり虛になってしまう。
百済の館の全体の配置計画のアイデアはこの時に生まれたものである。狭い敷地内にどのように観光施設としての機能を持った建物の平面計画を、そして四方から見られることとなる建物の外部デザインを計画していけばよいのか、いろいろと考えている時であった。
柔らかい表情を持つ塀のディテールは一種類ではない。その後、数回訪れることとなった韓国のいたるところに地域の素材を使った魅力的な塀があり、韓国 の建物の特徴の一つになっているように感じた。
百済の館の設計も順調に進み、1989 年の秋には工事着工となる。客舎を特徴づけているものとして、屋根の瓦と木部に塗られた丹青(タンチョン)そして足下に敷き詰められた敷瓦(チョントル) がある。瓦はその昔、百済の工人が伝えたものと言われている。百済の館建設にあたって、これらは韓国の物をぜひ使おうということで進める。
百済の館の工事が進む中、韓国との交流が意外な展開で進んでいくことになる。1990年1月に韓国青少年連盟より日 本研修団180名(中学生)の南郷村内での ホームステイの要請があった。村としては初めてのことであり、戸惑いながらもとりあえず半分の90名を受け入れることとなる。このホームステイは1泊2日と短期であったが、結果として「草の根の 交流」を南郷村民に定着させることとな る。儒教の精神の残る韓国で育った中学生は、目上の者に対して礼儀正しく接し、 村のお年寄りに感激をもって受け入れら れたのである。
同年には国際交流員を韓国から受け入れ、韓国文化の紹介、そして韓国との積極的な交流へと村の取り組みは進んでいく。
7月、百済の館の現場に韓国から7人の丹青師が来る。柱・梁・垂木すベての木部材が塗られていく。白木の建物があざやかな建物に姿を変えていくなか、 金鍾泌氏(現・韓国首相)が南郷村を訪れ、 村民の熱い歓迎を受けることとなる。
当 時、韓国は高度経済成長期のまっただ中にあり、建築の近代化が進められており、 客舎をはじめとする伝統的な建物に関心が薄い時代であった。金氏は異国の地、 それも百済王族の伝説を大切に守り続ける小さな村で、自国の文化が限りなく本物に近い形で再現されようとしていることにいたく感激される。この出来事により草の根の交流が、より一層深い交流へと向かうことになった。
扶餘文化院院長の李夕湖先生の自宅にて
定林寺の石で作られた五重塔
4・交流の中の風景
1990年11月に百済の館は完成し、韓国より国際文化協会使節団40名が落成式に参加した。神事は日韓両方式で行なわれ、 韓国式の神事では韓国ナンバーワンのグループ、ナムサダンが「サムルノリ」を 演じた。
翌12月韓国の朝鮮日報の主催する「歴史探訪旅行団」として韓国の教師816 名が大型バス18台で南郷村にやつてきた。 翌年から南郷村と韓国との交流は盛んに進められていく。
1991年1月の師走まつりに韓国政府より韓国民族学会会長の任東権氏を団長とする8名の学術調査団が入る。1996年11月南郷村において行なわれた「シンポ ジウム96 in南郷村百済王族伝説の謎を解く」(韓国より4名、日本より5名 参加)で任東権氏は「師走まつりと百済文化」というテーマで話をされた。祭神 神門という地名・神社参道の石塚・火の僅・神儀などを検証し、百済文化との関わりについて高い可能性を指摘されてい る。1992年4月に韓国の放送作家で梵鐘研究家の李慶戦氏より梵鐘が南郷村に贈られる。韓国内での南郷村に対する意識が確実に高まり始めていたようだ。
1993年、南郷村に韓国政府より同年大田市で行なう大田EXPOへの参加出展の要請がある。万国博覧会参加など身に余るとして辞退していた南郷村も再々にわたる熱心な誘いに参加を決定する。
当初の計画では、遺品の展示や師走ま つりのパネル展示であったが、神社関係者との打合せのなか、氏子の方より「親子は異国の地で毎年対面している、これを機会に禎嘉王と福智王を故国へ里帰りさせ られないだろうか」という提案が出る。
この里帰りの話を役場の担当者から初めて聞かされたとき、私は身震いがし た。これは大変なことになる。もし実現するのであれば、ぜひその場を見たいという気持ちにかられた。そしてそ同年の 10月25日に「百済王族1300年目の故国帰り」は実現することになる。ご神体とともに百済の里文化使節団の152名が宮崎空港から金浦空港にチャ一タ一便にて韓国入りをする。26日に王陵にて神事・扶餘でのパレードおよび歓迎式典があり、 27日大田EXPOオープニングセレモニ一に参加、 28日にはソウルのホテルにて歓迎会があり、連日テレビ・新聞で報道され大きな反響を呼んだ。私は使節団の一 員として参加し、百済の里づくりの基本コンセプトである「子々孫々に誇りうる南郷村の創造」が、目の前で実現されたことにいたく感激した。
私は当時、韓国より寄贈された梵鐘の鐘楼の設計を進めていたため、地元の鐘楼の視察を兼ね参加していた。鐘楼視察には、扶餘の文化院の方に近郊の鐘楼を案内していただく。当時扶餘では韓国伝統建築の技術者のもと定林寺(百済様式)の復元工事が進められており、担当者との打合せが行なわれるはずであったが予定がくるい、帰国後ファックスのやり取りを行なうことになった。百済様式になるべく近いものにしようと、法隆寺金堂の納まりを参照し、柱・大斗・肘木・巻斗・蛙股等の図面を起こし数回のやりとりの後図面をまとめる。瓦は百済様式の型を起こし韓国にて製作し、また木部は扶餘の丹青(タ ンチョン)師に装飾をお願いした。
大田EXPOへ参加
神門に作られた夕照楼
5・村人がつくった風景
1986年に計画がまとめられた「百済の里づくり」は、韓国との交流をはじめとするソフト面での予想外の展開のなか、施設づくりが進められていくことになるが、 1992年、神門神社周辺の計画を見直すこととなる。当初飲食施設として作られた百済の館は、その完成前に韓国側と村人の要望により百済文化を紹介する施設として機能することとなった。そのため団体をはじめとする観光客を受け入れる大型飲食施設等の必要性が出てくる。
見直しにより新たに加わることとなったのは、南郷村と韓国の料理双方を提供できる飲食施設、そして百済の館東側一帯に小さな店屋(食物屋・土産物屋など)を集めた小路である。
百済の館は百済様式を再現しているが、あくまでも交流のシンボルであり、 百済の里づくりは韓国(百済)の街なみをつくることではない。施設計画にあたっては南郷村の風景をつくりあげていくこ とを大きなテーマとしており、九州の山 深い百済王伝説の地にふさわしい風景の創出がめざすところである。
飲食施設計画にあたっては当初より「茅葺き」にできないだろうかという話が出てくる。南郷村ではほとんどの茅葺き民家が、昭和30年代に屋根が下ろされ板金蔑き・瓦茛きの屋根に変わっている。 宮崎県立博物館の敷地内には宮崎を代表 する民家が数件移築されている。工事関係者の情報により茅葺きの施工単価を確認すると50,000円/㎡前後かかる。限られた予算のなかでは実現は難しい。
役場担当者が公民館長会議にて茅葺きの話をすると、茅葺きの経験者がまだ健在であること、茅の材料となるススキ が、水清谷地区の山で毎年火を入れている場所にたくさんあるという情報が入る。 百済の里づくりでは村人の参加を積極的に進めており、同時期に進行している 「西の正倉院」建設でも、節目節目で多くの村民の参加をお願いしている。南郷村には神門・鬼神野・水清谷・渡川の4 つの地区があり、各々の地区から茅葺きに詳しい方に集まっていただき、76歳か ら93歳までの13人による茅葺き名人会ができあがった。自然素材を使った民家はその土地の人々の手で、その土地の素材を多用し、各々の気候風土を考えたつくり方をするため独自の地域性が出てくる。 そしてそれが個有の風景となる。
事前に葺き方について名人に話を聞くことから始まる。すると4つの地区で葺き方が違うのである。茅屋根は全体で見ると矩勾配となっているが、束ねられた茅一束ー朿はそれより緩やかになっている。各地区での違いは軒先での最初の勾配の取り方に出てきた。一般的には茅だけで軒先を処理する方法である。打合せの結果、もっとも声の大きかった地区の手法を採用することとなった。それは軒付茅の下に杉の小枝(葉付き)を使う手法であり、宮崎県内でも他には見られ ない。
建物の計画にあたっては、南九州の農山村部に見られる分棟配置を基本とし、 大型になりがちな施設をいくつかの建物 に分け、その屋根を重ねることで風景づ くりとした。1996年1月9日に茅葺きが 行なわれる。当日4つの地区より400名 以上の参加があり、13人の名人の指導のもと作業が進められた。屋根を寄棟としたため、各地区で東西南北各々の面を担当してもらうこととなる。日の出と同時に屋根の上での作業が始まり、午後4時頃には棟部分を残して作業が終了した。
日本の文化は里山から生まれたとい われる。茅苺き作業には、先人の知恵が積み重なっていた。また体力・経験による作業場所・内容の分担には山で培われた人間関係そのものを見るようだった。 この日はリ夕イアされていた方々がその 知恵と経験により主役となったのだった 。
6・挑戦としての風景 ①
1986年にまとめられた「百済の里づくり」 の中核施設として「西の正倉院」計画がある。神門神社に伝わる伝説・宝物を展示する場所となる建物である。東大寺正倉院(総桧造り)の宝物と同一品の銅鏡の存在が「西の正倉院」計画のきっかけとなる。 準備そして計画・設計に5年、工事に5 年、計10年の歳月をかけることとなる。
正倉院は厳密にはニつの部分に分けることができる。正倉(本体)部分と、 塘で囲われた場所を示す院の部分である。 国分寺が全国にあった時代に、税を納める倉として正倉はいたる所にあったとい われる。「子々孫々に誇りうる南郷村の創出」をコンセプトとするため、「西の正倉院」は本物でなければならない。以前にも全国で3ヶ所ほど同じ計画をしたことがあり、どこも実現できなかったことを計画半ばにして知ることとなる。
南郷村は1987年に正倉院の複製の可能性と学術的な支援を、奈良国立文化財研究所(以下、奈文研という)に依頼することとなる。はじめ、奈文研からは研究機関であり、市町村が行なう村おこしを支援する所ではないと断わられた。しかし、当時の奈文研の所長が上代寺院建築の研究者であった鈴木嘉吉氏であり、また神門神社の銅鏡により交流のできた考古室からの積極的な働きかけにより支援していただくことになる。
しばらくすると、宮内庁には門外不出としている正倉院の図面があり、本物にこだわるのであれば、その図面が必要であるとの連絡が奈文研より入る。これよりしばらくの間、南郷村の宮内庁通いが始まり、正倉院事務所・宮内庁京都事務所・東京の宮内庁事務所へとお願いに伺うこととなる。本来、村おこしを支援する所ではないが、奈文研が学術支援をしているということで、奈文研に閲覧を許可する形で、宮内庁より図面の借入れが可能となる。
正倉の設計は奈文研の紹介により、金閣寺、銀閣寺の改修などに実績のある(財)建築研究協会の日本研究室で行なわれることとなる。そこで設計が進められ、必要となる木材のリス卜ができあがる。当初、南郷村では木材の調達にはそれほど気にかけていなかったようである。村の93%を森林が占めており、南郷村と周辺の村から集めれば何とかなるのではと考えていたようだ。
リストをもとに木材を探してみるが宮崎県内にはない、九州でも揃えられい、全国の大きな材木店に見積り依頼を行なうが良い返事がかえってこない。そこで、南郷村は宮崎県の知事に相談することとなる。
知事は前林野庁長官であり、木材に関しては詳しいとの情報を得てのことであった。知事のアドパイスは、「日本で現在これだけの桧を集めるのは難しい。青森にヒバがあり、桧に比較的近い性質を持っているからヒバも検討してみてはどうか」というものであった。九州の木材どころか桧の調達さえ危うくなってきたのである。
7・挑戦としての風景 ②
私は「西の正倉院」建設にあたっては、 付属施設計画業務について参加した。い わば「院」の部分の計画であり、神門神社の境内整備をも含めて、正倉の配置、 付厲施設、外構施設の検討を始めた。
当時、各種検討のため役場の担当者とともに正倉院や奈良国立文化財研究所を訪ねる機会があり、奈文研の紹介で復元作業の進む薬師寺の現場事務所を訪れた。 倉庫には大量の製材された桧が積まれていた。ただしすベて「台湾桧」であった。 日本で揃えることができず、台湾から購入したものであり、当時国内では大径木の桧の入手は非常にむずかしいものとなっていた。
ヒバ材の検討を進めようとしていた1989年の4月に、南木曾の勝野材木店から役場担当者に電話が入る。「全国から見積もり依頼が きている。調査したところ南郷村の計画 のようだが、間接的な取り引きは高くつくので直接取り引きをしないか」という 内容である。「子々孫々に誇りうる南郷村の創出」を基本コンセブトとしている 南郷村にとって、ヒバ材の採用は苦渋の選択であったため、勝野材木店の申し入れはありがたいものであったが、すぐに材の準備ができるということではなかっ た。すべての用材が集まるまでしばらくかかることとなる。建設省より木曽駒ヶ岳に東洋一の大砂防ダムの計画が発表さ れ、支障木として天然の桧が伐採されることとなり、このことにより「西の正倉 院」の用材がすべて揃うことになった。
設計に長い年月を要した別の理由として建築基準法の壁があった。当時の基準法を厳密に解釈していくと38条による建設大臣の許可が必要であった。県の担当課との打ち合わせのなかで鉄骨による補強方法についての検討の打診があったといわれるが、あくまでも本物づくりへの 強いこだわりのなか、最終的には日本建築センターの評定にゆだねることとなる。 設計をスタ一卜して4年目の3月に評定書がおりた。
南郷村では「西の正倉院」実現のために5つの壁を超えなければならなかつたといわれる。専門機関の学術支援、宮内庁の協力、膨大な檢材の調達、建築基準法のハードルであり、胫後の1つが資金計画であつた。計画内容については自治省の「まちづくり対策特別事業」による起債が認められていたが、当初計画より大きく予算オーバーしてしまったのであ る。支援基準をはるかに超えた内容に 「前例がない」と突き返されたのだ。
しかし村は、県の窓口そして国に対し て、「国の事業趣旨は『より個性的で魅力的な地域づくりの推進を図る』とあるではないか。南郷村の計画はどこにでもあるものでなく、村独自の個性的でより魅力的な取り組みに挑戦しようとしているものである。子々孫々に誇りうる『西の正倉院』をぜひつくりあげたい」と訴 えた。南郷村の熱意は国の基準の壁をも越えたのであった。1992年3月「西の正倉院」工事が始まる。
8・想いづくりの風景 ①
1992年3月「四の正倉院」建設が始まる。百済の里づくり」計画発案から6年目である。同時に進められる村民主体の各種交流はますます盛んになり、同年には 「ふるさとづくり奨励赏」「活力あるまち づくり優良地方公共団体表彰」「旅のまち30・全国旅のまち30選」と全国的な評価を得た。村民にも村にも自信と誇りが感じられるようになる。
計画当初、出身地を聞かれた子どもたちは「日向市の方から来ました」と答えていたが、「百済の里の南郷村からきました」と答えるようになったという。 「人口が減少する過疎はしかたがないが自分の村に自信と誇りを持てない『心の過疎』は大きな問题だ。『心の過疎』は 道路などの基盤整備のために公共工事を進めてもその歯止めにはならない。心の過疎を解消するには地域イメ一 ジの向上であり、そのためには地元の伝統・文化を大切にした地域おこしでなくてはだめだ」と、いつも言っていた当時の村長にとって、大きな賭けであったのかもしれ ない。年問会計予算30億円の村にあって 「百済の里づくり」の施設整備には16億円もの予算が必要であった。
1993年1月に南郷村では、「西の正倉院」用材の現場搬入にあたり、御木曳式を行なうこととなる。ソフト面では順調に進んでいたが、大きな金額を要する施設づくりに対して不安を持つ村人は多く、 村おこしに懐疑的にならざるを得ない人もいたらしい。役場は御木曳式を通して、 村人の心の中に「西の正倉院」づくりに対する「想い」づくりを意図したようだ。 この式は、師走まつりの最後の日となる1月11日に南郷村で行なわれることとなるが、南郷村は南木曾の勝野材木店に、 そちらでもぜひ御木曳式をやってほしいとお願いした。
南木曽での日程が1月8 日に決まると、南郷村の担当者はNHK 松本・信越放送・NHK名古屋・東海テレビ・中部日本放送・名古屋テレビへと 御木曳式の情報を流した。各マスコミより勝野材木店には取材の問い合わせが殺到し、これによりしっかりとした行事にしなければと、南木曽側も一段と力が入ることになった。
9・想いづくりの風景 ②
1993年1月8日、南木曾での御木曳式は全国放送で広く紹介され、それを見た南郷村の多くの人は、事の大きさを実感する。
1月11日、当日1,000人の村人が参加し、見学人も含めると1,500人。実に村 の人口の半分以上の人が集まったことになる。束柱、校木などを5台の台車に積み、猿田彦を道案内役に、「西の正倉院」 と染め抜かれた鉢巻きをした保育園児からお年寄りまでの人が台車の綱を引っ張った。
村人による木挽き唄や木遣り唄の中、 木材加工場までの道のりを進むことにな る。1時間30分かけて到着した村人の顔は参加の軎びとこれから始まる工事への期待であふれていた。「この日、村は一つになった」とよくいわれる。その後、工事の進行に合わせて、手斧始め式、柱立式、上棟式と多くの村民の参加のもとおのおのの行事が行なわれた。
「西の正倉院」は1996年5月2日に落成の日を迎える。式典の中、あいさつに立たれた鈴木嘉吉氏(前奈良国立文化財研究所長)は「西の正倉院は平成の文化財である」といわれた。「子々孫々に誇 りうる南郷村」の村おこしは大きな一歩を踏み出すことになる。
私は百済の館の工事途中にして独立し、 その後、百済の里づくりに関する計画・設計・工事に深く関わる機会を得ることができた。南郷村の風景づくりという中 で、伝説を、交流を、伝統を、挑戦を、 そして村人の想いをおのおのの建物にこめていくという取り組みに参加し続けられたことに感謝する。