1985年、百済最後の都、块餘への王族の ルーツを訪ねる旅が始まる。扶餘は太宰府、飛鳥と姉妹都市を結んでいる、韓国 の歴史の表舞台である。「百済王伝説は日本に数多くあり、伝説だけを頼りとする交流は心もとない、南郷村側の今後の調査を期待したい」との扶餘郡守の言葉であったと聞く。
しかし、この訪韓調査から大きなコマがでてくることとなる。帰国後、地元新聞の片隅に「南郷村百済王族のルーツを訪ねる」という記事がでる。この記事 を見られた方から、南郷村に電話が入る。「奈良の国立博物館を見学した時、展示品の銅鏡に宮崎神門神社と記されていたものがあった」と。
早々奈良へ連絡を取る。考古室長が 電話にでられ「宮崎の神門からですか?」 「ご存じですか」「神門神社は有名ですよ」 「何が有名ですか」「銅鏡です」「どのように有名ですか」「奈良時代の鏡だけで も日本の10指に入る。しかも、正倉院宝物と同笵鏡や東大寺大仏台座下から見つかった鏡と同一品があり、これほどの銅鏡が一力所に伝世されていることは極めて珍しい」とのこと。
朗報を得た南郷村では百済王伝説・師走まつり・銅鏡についてまとめ「神門物語」を出版することとなる。これをもとに、1986年「百済の里づくり」の構想が、基本コンセブトを「子々孫々に誇りうる南郷村の創造」とし、基本計画書としてまとめられる。
村おこしは15のプロジェクトにより構成され各種整備がスタ一トする。 中核施設となるものは、伝説・宝物の展示の場となる「西の正盒院」・韓国との交流のシンボルとなる「百済の館」である。
私が百済の里づくりに参加するのは、1989年3月、百済の館建設の設計者として加わることから始まる。当時宮崎市内の設計事務所に勤務しており、館設計の担当者となったことが、その後の百済の里づくりに深く関わることとなる。
百済の館設計に当たって、南郷村ではすでにそのモデルとなる建物を選んでおり、その図面まで入手していた。抉餘の国立博物館の敷地内に客舎と呼ばれる李朝時代の建物があり、その規模・形が建設地にふさわしいということであった。
「客舎」 は中央政府の役人が地方で政治を行なうときに使われた建物である。その構成は中央にまつりごとを行なう場所、左右にプライベートな場所があり、その一部が宿泊の部屋となっている。
百済の館計画に当たって提示された条件は、百済文化の紹介および焼肉料理の提供の場所ということであった。伝統的な木造の建物の中に厨房施設をはじめとする水回りをいかに配置していくかが計画のポイントであった。
提示された参考図面で、細部の設計を行なうには不十分であったため、現地調査をすることとなり扶餘を訪れた。当時、少しずつ韓国政府に対して、南郷村の村おこしの取り組みについての協力要請が行なわれ始めていたが、調査出発にあたって役場からは、できるだけ内々に調査を進めてほしいという要望があり、現地においても正式に博物館に建物実測調査のお願いはせず、観光客をよそおいスケールを片手に各種寸法の確認を行なった。
一時間もたったころだろうか、遠巻きに博物館職員がじっとこちらを見ている。気にせずに進めていると職員の数が增えてきたため、一日目の調査をやめ、次の日に再度確認し調査を終えたのであった。
3・交流の風景 ②