1990年11月に百済の館は完成し、韓国より国際文化協会使節団40名が落成式に参加した。神事は日韓両方式で行なわれ、 韓国式の神事では韓国ナンバーワンのグループ、ナムサダンが「サムルノリ」を 演じた。
翌12月韓国の朝鮮日報の主催する「歴史探訪旅行団」として韓国の教師816 名が大型バス18台で南郷村にやつてきた。 翌年から南郷村と韓国との交流は盛んに進められていく。
1991年1月の師走まつりに韓国政府より韓国民族学会会長の任東権氏を団長とする8名の学術調査団が入る。1996年11月南郷村において行なわれた「シンポ ジウム96 in南郷村百済王族伝説の謎を解く」(韓国より4名、日本より5名 参加)で任東権氏は「師走まつりと百済文化」というテーマで話をされた。祭神 神門という地名・神社参道の石塚・火の僅・神儀などを検証し、百済文化との関わりについて高い可能性を指摘されてい る。1992年4月に韓国の放送作家で梵鐘研究家の李慶戦氏より梵鐘が南郷村に贈られる。韓国内での南郷村に対する意識が確実に高まり始めていたようだ。
1993年、南郷村に韓国政府より同年大田市で行なう大田EXPOへの参加出展の要請がある。万国博覧会参加など身に余るとして辞退していた南郷村も再々にわたる熱心な誘いに参加を決定する。
当初の計画では、遺品の展示や師走ま つりのパネル展示であったが、神社関係者との打合せのなか、氏子の方より「親子は異国の地で毎年対面している、これを機会に禎嘉王と福智王を故国へ里帰りさせ られないだろうか」という提案が出る。
この里帰りの話を役場の担当者から初めて聞かされたとき、私は身震いがし た。これは大変なことになる。もし実現するのであれば、ぜひその場を見たいという気持ちにかられた。そしてそ同年の 10月25日に「百済王族1300年目の故国帰り」は実現することになる。ご神体とともに百済の里文化使節団の152名が宮崎空港から金浦空港にチャ一タ一便にて韓国入りをする。26日に王陵にて神事・扶餘でのパレードおよび歓迎式典があり、 27日大田EXPOオープニングセレモニ一に参加、 28日にはソウルのホテルにて歓迎会があり、連日テレビ・新聞で報道され大きな反響を呼んだ。私は使節団の一 員として参加し、百済の里づくりの基本コンセプトである「子々孫々に誇りうる南郷村の創造」が、目の前で実現されたことにいたく感激した。
私は当時、韓国より寄贈された梵鐘の鐘楼の設計を進めていたため、地元の鐘楼の視察を兼ね参加していた。鐘楼視察には、扶餘の文化院の方に近郊の鐘楼を案内していただく。当時扶餘では韓国伝統建築の技術者のもと定林寺(百済様式)の復元工事が進められており、担当者との打合せが行なわれるはずであったが予定がくるい、帰国後ファックスのやり取りを行なうことになった。百済様式になるべく近いものにしようと、法隆寺金堂の納まりを参照し、柱・大斗・肘木・巻斗・蛙股等の図面を起こし数回のやりとりの後図面をまとめる。瓦は百済様式の型を起こし韓国にて製作し、また木部は扶餘の丹青(タ ンチョン)師に装飾をお願いした。
5・村人がつくった風景