1986年に計画がまとめられた「百済の里づくり」は、韓国との交流をはじめとするソフト面での予想外の展開のなか、施設づくりが進められていくことになるが、 1992年、神門神社周辺の計画を見直すこととなる。当初飲食施設として作られた百済の館は、その完成前に韓国側と村人の要望により百済文化を紹介する施設として機能することとなった。そのため団体をはじめとする観光客を受け入れる大型飲食施設等の必要性が出てくる。
見直しにより新たに加わることとなったのは、南郷村と韓国の料理双方を提供できる飲食施設、そして百済の館東側一帯に小さな店屋(食物屋・土産物屋など)を集めた小路である。
百済の館は百済様式を再現しているが、あくまでも交流のシンボルであり、 百済の里づくりは韓国(百済)の街なみをつくることではない。施設計画にあたっては南郷村の風景をつくりあげていくこ とを大きなテーマとしており、九州の山 深い百済王伝説の地にふさわしい風景の創出がめざすところである。
飲食施設計画にあたっては当初より「茅葺き」にできないだろうかという話が出てくる。南郷村ではほとんどの茅葺き民家が、昭和30年代に屋根が下ろされ板金蔑き・瓦茛きの屋根に変わっている。 宮崎県立博物館の敷地内には宮崎を代表 する民家が数件移築されている。工事関係者の情報により茅葺きの施工単価を確認すると50,000円/㎡前後かかる。限られた予算のなかでは実現は難しい。
役場担当者が公民館長会議にて茅葺きの話をすると、茅葺きの経験者がまだ健在であること、茅の材料となるススキ が、水清谷地区の山で毎年火を入れている場所にたくさんあるという情報が入る。 百済の里づくりでは村人の参加を積極的に進めており、同時期に進行している 「西の正倉院」建設でも、節目節目で多くの村民の参加をお願いしている。南郷村には神門・鬼神野・水清谷・渡川の4 つの地区があり、各々の地区から茅葺きに詳しい方に集まっていただき、76歳か ら93歳までの13人による茅葺き名人会ができあがった。自然素材を使った民家はその土地の人々の手で、その土地の素材を多用し、各々の気候風土を考えたつくり方をするため独自の地域性が出てくる。 そしてそれが個有の風景となる。
事前に葺き方について名人に話を聞くことから始まる。すると4つの地区で葺き方が違うのである。茅屋根は全体で見ると矩勾配となっているが、束ねられた茅一束ー朿はそれより緩やかになっている。各地区での違いは軒先での最初の勾配の取り方に出てきた。一般的には茅だけで軒先を処理する方法である。打合せの結果、もっとも声の大きかった地区の手法を採用することとなった。それは軒付茅の下に杉の小枝(葉付き)を使う手法であり、宮崎県内でも他には見られ ない。
建物の計画にあたっては、南九州の農山村部に見られる分棟配置を基本とし、 大型になりがちな施設をいくつかの建物 に分け、その屋根を重ねることで風景づ くりとした。1996年1月9日に茅葺きが 行なわれる。当日4つの地区より400名 以上の参加があり、13人の名人の指導のもと作業が進められた。屋根を寄棟としたため、各地区で東西南北各々の面を担当してもらうこととなる。日の出と同時に屋根の上での作業が始まり、午後4時頃には棟部分を残して作業が終了した。
6・挑戦としての風景 ①