目 次
□ 旧吉田家の周辺環境について
□ 旧吉田家の変遷
□ 建物の建築年代とその後の改造
□ 配置について
□ 現状の平面(平成17年改造による)について
□ 戦前の平面について
□ 昭和21年の改造について
□ 屋根のかけ変えについて
□「赤木家」住宅との比較において
□「城勇雄邸」住宅との比較において
□ 建物の価値について
□ 建物の保存と活用について
□ 文中(※□□)資料
講習会用のための参考資料
【文化財建造物の登録の方針】
(平成8年10月8日 文化財保護審議会了承)
文化財登録制度の趣旨を踏まえ、登録基準を満たすもので条件の整ったものは順次登録していくが、具体的には大別して以下の2種類が登録文化財の候補物件として挙げられる。
1. 日本建築学会等の学術団体、文化庁、地方公共団体などにおいて調査などが行われ、文化庁において登録候補として把握されているもの
・日本建築学会「日本近代建築総覧」に掲載されているもの
・土木学会編「日本の近代土木遺産」に掲載されているもの
・文化庁が行なった近代化遺産(建造物等)総合調査、近代化和風建築総合調査、その他の調査においてリストアップされたもの
・地方公共団体が独自に行なった調査においてリストアップされたもの
2. 上記の調査等が行われていないが、地方公共団体の推薦を得られたもの
文化財建造物に関する体系的な調査は、全国で進められています。これまでの調査ではリストアップされなかった建造物も、その存在が明らかになり、登録文化財の候補に加わっていくものと考えられます。
こうした調査の対象にならなかった建造物であっても、所有者が希望すれば、地方公共団体の推薦を得て、候補物件となることができます。この場合は、必要な調査を行い、基本資料を整える必要があります。
以上は、平成22年度地域伝統文化総合活性化事業 地域の歴史的建造物の保全・活用に係る「専門家育成のための研修テキスト」86頁
すでに、文化庁において登録候補として把握されているものを申請する場合、文化庁に提出する初見はA4用紙1枚程度となりますが、リストアップされていない建造物を申請する場合は、地方公共団体の推薦が前提となっていますので、該当建物に関する調査を行い、登録基準に合致することを資料としてまとめ提出することが必要となります。
提出する図面(配置図・平面図)は、該当建物の改修工事のため地元工務店にて実測による図面作成が作成されていましたので、私の取組は建物について調べるまとめること、そして提出用の写真撮影となりました。
□ 旧吉田家の周辺環境について
高鍋藩城下は、西の高台に舞鶴城、北は小丸川に南は宮田川に挟まれ、そして東は日向灘へと繋がる平地となっている。南北に伸びる旧日向街道の一筋に七町(松原町・本町・上町・八日町・六日町・十日町・下町)ありここが城下町となっていた。
そして城下町を囲むように武家屋敷があり、城の近くの新小路、島田,黒谷、などに上級武家屋敷があり、筏,蓑江,石原に中級武家屋敷、そして小丸、袋小路にも中・下級武家屋敷があった。
旧吉田家は、街道筋北側の小丸川近くに存在した中・下級武家屋敷の一画北側にある。当時このあたりの屋敷面積は350坪から400坪ほどあったが、現在ほとんどが分割され住宅地となっており、当時の屋敷形状を残しているのは、旧吉田家と数件だけとなっている。道路境界部分には、一部だが当時のものと思われる野面積みの石塀が残されており、また敷地北隣との間には、当時の水路が残されている。当時の町割りの一端を示している。
□ 旧吉田家の変遷
現在の所有者の曾祖父である吉田良四郎(1839年〜1918年)が明治12年12月(1879年)に書き残した「吉田良四郎一代の履歴」によると、この家は「文久2年12月,棟梁荒川菊蔵の手によって竣工」とある。文久2年(1862年)当時、良四郎の父となる吉田銀蔵(1805年〜不明)は存命であり年齢は58才となる。
高鍋藩史話(安田尚義著)によると、銀蔵61才の時(寛文13年)身分は中小姓で三拾石との記載がある。また息子(養子)吉田良四郎については、高鍋藩史話によると、戊辰戦争に参戦し越後の戦いにおいて武勲をあげたことが記載されている。
良四郎の息子,吉田貞吉(1883年〜1954年)は、京都帝国大学卒業後、住友本社に入り、別子鉱業所勤務等を経て,1927年に土佐吉野川水力電気株式会社(後の四国中央電力 住友共同電力)初代代表取締役、1942年住友化学工業社長に就任し、戦後財閥解体指令に基づき退社し高鍋に帰る。帰郷後,高鍋町内に南九州化学工業株式会社を創立し、地元の雇用促進に貢献する。
貞吉の死後、建物は空き屋となるが、遺言にあった「家を売ったりせず、保存してほしい」という願いを次女の津上和子が守り続ける。貞吉の死後五十年祭に、小学生以来ほぼ30年ぶりに訪れた和子の娘である□□□□(□□□□年〜)は、長い間空き家となっていた吉田家を訪れ、この家の魅力にひかれ、フランス在住でありながらこの家を活用保存するために親族の同意を得て持ち主となる。
□ 建物の建築年代とその後の改造
建物の建立時期は、吉田良四郎の手記より文久2年(1862年)12月と確認できる。
建物は現在までに3回以上の増築、改造が行われている。このうち後半の2回は改造に関する図面等が残っており、その内容を確認できる。最も新しいものが平成17年(2005年)で、その前が昭和21年(1946年)となっており、昭和21年改造時には改造前後の平面図があり、それ以前の間取りを確認することができる。
建立後のはじめての改造に関しては、既存状況より明治に入ってから改造が行われたと思われる。離れと呼ばれる部屋に面する縁側だけにガラス戸と雨戸があり、東側の主屋と北側にL字型に伸びた二カ所の縁側には、雨戸用の敷居・鴨居のみとなっている。現在この場所はアルミサッシとなっている。
また現在の屋根はL字型部分にセメント瓦が使われており、高鍋藩の当時の武家屋敷が茅葺きであったことを考えると、いつ屋根の葺き替えが行われたのかは後述する。
□ 配置について
東側道路にほぼ平行に主屋があり、建物は井戸のある中庭を囲む変形コの字型となっている。道路境界ほぼ中央が出入口となっており、境界部は南側がコンクリートブック塀、北側が野面石積みとなっている。
建物は道路境界より4,5間奥まった所に昭和21年に増築した突出し玄関がある。門よりアプローチの踏石が残っているが、それは玄関にではなく、北側の「次ノ間」縁側につながっている。アブローチ北側は庭園となっており北東隅に氏神様が祭ってある。アプローチ南側は現在何もないが、昭和21年に書かれた配置図面によると、南東角に蔵又は納屋があったと思われる。建物西側は120坪ほどの空地となっている。
□ 現状の平面(平成17年改造による)について
部屋の配置は、北側より床付き8畳和室「座敷」と飾り棚付き8畳和室「次ノ間」の続き間となり、北側に巾2尺、東側に巾3尺の縁側がある。中央部分は東側より玄関土間、玄関、食堂となっている。南側は土間となっており、土間に面して台所があり,その東側に便所,浴室がある。
主屋「次ノ間」から西側の縁側につながり、この縁側の北側に2間続きの6畳板間(旧和室)が面している。この縁側は主屋西側の縁側とつながり、食堂・台所からの動線が確保されている。
続きの6畳板間の西側には、シャワー+便器の部屋がある。その奥には中庭を囲むように東側と南側に3尺巾の縁側のある8畳和室がある。この部屋西側には3尺奥行きの床と押入がある。
□ 戦前の平面(昭和21年改造時の平面図より)について
昭和21年に作成された「現在平面図」をみると、その時点ですでにコの字型平面となっている。ただし、玄関の位置が「次ノ間」に直接出入りする場所となっており「張ヒサシ玄関」と表記してある。「座敷」の床は北側に神棚と並んで奥行き2尺となっている。
主屋南端は3間×1.5間の土間となっており、土間に面して「次ノ間」との間に、炉を切った4.5畳の畳スペースと仕切りの無い板の間の3間×2間の部屋となっている。また、炉のある部屋からは西の縁側を通して奥の6畳和室(二間)及び8畳和室へアプローチできる。
縁側を見ると、奥の8畳和室縁側に「板戸及ガラス戸」との表記がある。他縁側にその表記が無く戸袋が表示されている所を見ると、奥の部屋は時代の特定はできないが増築されたものと考える。
□ 昭和21年の改造について
当時の図面に「現在平面図」と「改造平面図」両方の記載があり、平面改造について確認できる。この時点での改造で特に、座敷(床位置の変化)、玄関(位置およびその形状の変化)、土間の変化から、変わりゆく時代を読み解くことができる。それは武家屋敷に求められた接客・儀礼の空間からの変化であり、戦後の家父長制度の廃止に伴う生活空間の変化、そして地元に貢献しようとした吉田貞吉の想いによるものである。
座敷正面(北側)にあった奥行き2尺の床・神棚を西側に移動し、そのあとを2尺巾の縁側としている。これにはいくつかの理由が考えられる。一つは明るさの確保である、当初は東縁側からの採光のみであり、部屋としての十分な明るさが確保されていたとは思われない。北側に縁側を作ることで「座敷」は角部屋となり、北・東両側からの採光が入ることとなった。また考えられる別の要因として、実現されなかったが息子である剛(戦士)のために北側隣地に住宅新築が予定されていた。この縁側は、二つの住宅の視線的、動線的つながりを考慮したと考えられる。
玄関の変化がある、当初「次ノ間」東側にあった「張リヒサシ玄関」はなくなり、これにより「次ノ間」の居住環境は良くなった。
武家屋敷の特徴の一つであった「張リヒサシ玄関」に変わり、当初より家族の生活空間であった「食堂」につながる「玄関」と「土間玄関」が東側に突き出た形で作られる。
「玄関」南側には女中部屋が作られる。これは、地元での雇用促進を考慮し、書生を迎え入れようとしたためと思われる。
土間は3間×1.5間あったがこの場所に、当初奥の8畳和室の西側にあった風呂が移設される。広かった土間が細分化され、変化してきた日常生活の利便性を優先する配置となっている。
奥の8畳和室がいつ増築されたのか特定できないが、床が主屋の2尺奥行きではなく、3尺となっており、現在一般的につくられる座敷床の仕様となっている。
□ 屋根のかけ変えについて
現在屋根のL型部分はセメント瓦葺き、そして奥の8畳和室は粘土瓦葺きとなっている。高鍋町指定の家老屋敷「黒水家」の主屋根は茅葺きとなっており、旧吉田家も当時は茅葺きと考えられる。いつ現在の小屋組に変わり屋根材が変わったのか。
セメント瓦が使われたのが昭和14年以降ということを考えると、昭和21年の改造時に屋根のかけ変えが行われた可能性がある。高鍋町教育委員会が昭和63年3月に発行した「高鍋の武家屋敷と民家」に参考になる記載がある。現在の南高鍋にあった武家屋敷「野津手家住宅」の説明の中に「終戦までは茅葺きであったが、戦後の台風で屋根が剥がれ、葺き替えの際、セメント瓦に改めた」とある。
ここに記載してある台風とは昭和20年(1945年)9月17日の枕崎台風のことと考えられる。全国で多数の死者・行方不明者を出し、多くの建物損壊を出しており、宮崎県内でも死者97名を出している。日向市細島灯台で観測された最大瞬間風速は75.5m/sとなっている。この台風で旧吉田家の茅葺き屋根が剥がれたと考えられる。戦後作成された図面の日付が1946年2月21日となっており、台風から5ヶ月後には図面を作成したことになる。また10日後の3月2日の日付の入った息子剛のための新居図面が残されている。
□「赤木家」住宅との比較において
赤木家住宅については、平成11年3月に鹿児島大学建築学科による「本陣赤木家住宅調査報告書」があり、その内容が詳細に記載されており、高鍋藩参勤交代の折りに宿舎(本陣)として使われていたとある。建立時期は報告書によると1856年(安政3年)となっており、「本陣部分は当初の形態をとどめ、資料的価値が高い」との評価となっている。旧吉田家建立が1862年(文久2年)であるから、6年前に建てられたことになる。
上級武士と下級武士との違いはあるが、建設時期が近寄っているので、格の違いを考慮しながら、平面構成上の類似点と相違点について考えてみる。
検証部分は、奥座敷と控間を中心に、その他の部屋との関係性とする。両家とも続き間となっており、次の間に面して表玄関があり、奥座敷正面には床と違い棚がある。
赤木家は奥座敷の両側に縁側があり、東側に付け書院があり庭とつながる、西側は坪庭があり、縁側を通じて浴室・便所につながる。旧吉田家は、「座敷」に付け書院はなく、縁側から庭へとつながる。左側は収納をはさんで奥の部屋となっている。
共通点は、武家屋敷としての接客・儀礼の部屋である。玄関から控間、控間から奥座敷とのつながり、格式の違いか、床廻りに違いはあるが、床の奥行きは2尺と同じとなっている。江戸時代の押板床奥行きは現在の座敷床奥行き3尺とは違い、2尺程度と言われている。
また、興味深いのは、他の2尺巾の空間の存在である。赤木家では本陣と町家との間に、旧吉田家では「次ノ間」と西側縁側の間、及び「座敷」西側の収納部分にある。両家とも表と裏を分ける空間となっている。ただし旧吉田家の場合は土間との間は建具となっており、格式の違いがある。
□「城勇雄邸」住宅との比較において
高鍋町歴史資料館の展示物の一つに「城勇雄邸住宅」の2枚の写真がある。この住宅は、幕末の高鍋藩記によると87石の上級武家屋敷である。撮影時期なついては特定できない。
一枚は前面道路からのもので、中央に2本の掘立て柱があり門となっている。その両側は高さ3尺程度の野面石積みとなっている。石塀の屋敷側に生垣があり、門と生垣超しに建物が見える。正面から見ると茅葺き屋根寄せ棟の平入となっている。門の奥に指出し玄関がある。両側生垣のため他の軒下部分は確認できない。旧吉田家と比較すると、道路、敷地入口、そして北側のみ残されている野面石積み等、また現在旧吉田家はセメンと瓦となっているが、寄せ棟の屋根形状、そして目視ではあるが道路から建物までの距離等に共通点が見られる。
二枚目は、裏側から撮られたもので、L型の建物となっている。写真の向きが正しければ、旧吉田家とは左右逆のL型間取りとなる。旧吉田家は現在、L型奥にコの字型となる8畳の部屋があるが、建立当時は「城勇雄邸住宅」と同じ形態であったと推測される。
そのことは旧吉田家がL型部分の縁側が雨戸だけなのに対し、奥の8畳の縁側はガラス戸+雨戸の組合せとなっており。これは、年代の特定はできないが、何らかの理由により、昭和21年の改造以前に増築が行われたことになる。縁側の建具については、昭和21年の改造図面以外で津上家に残されていた間取り図からも読み取れる。
□建物の価値について
旧吉田家の建立時期は残されている資料により明確である。この建物は幕末から明治、大正、昭和,平成と時代の変化による、住宅の作り方、家族構成、その時の所有者の社会的立場、そして家族に対する想い等により少しずつ変化している。建物としては当時の下級武家屋敷の形態を骨格として残しつつ、時代の変化に対応してきた事例として、日本の近世から現代までの住宅変遷を確認できることは、建築学上貴重な資料となり遺産でもある。
外観として、現在、町指定文化財となっている家老屋敷「黒水家」とは違い、現代の家とそう変わりなく見過ごされそうだが、中・下級武家屋敷として150年間北小丸地区景観の一つとして存在してきた貴重な建物といえる。
□建物の保存と活用について
戦後すぐに改造を取組んだ吉田貞吉の、家を過去から未来へ繋いでいこうという姿勢を、その孫となるブヴィエ・津上友子が引き継ぎ旧吉田家を未来に残そうとしている。所有者は若くして海外での生活をはじめ、イギリス,アメリカ,スイス,フランスと西欧諸国での生活体験を重ねる中、旧吉田家での空間体験により伝統的日本家屋のすばらしさを肌で感じている。また年に数回長期間滞在し、その都度高鍋町内だけでなく幅広い友人関係により、旧吉田家を文化的交流の場として様々な取組みを行っている。その一つとしてフランスをはじめとする海外の友人達の宿泊拠点として、日本の伝統的空間を体験できる貴重な場所として提供している。
最後に、今回の登録が現在全国的に広がりを見せるスクラップアンドビルド社会からの脱却を目指している人達の指標となり、高鍋町、ひいては全国のさほど名もない「身近な歴史的建造物」を所有する人達、そしてそれを発見・保存・活用に取組む多くのヘリテージマネージャーに取って力強い支えとなればと祈念する。
文責 柴睦巳(一級建築士 柴設計主宰)
宮崎県ヘリテージマネージャー養成講習会実施委員会委員長