敷地は幕末に都城領主邸がおかれていた城の西口(現在の八幡西交差点)から大淀川にかかる岳下橋までの間を西町(旧・後町と三重町)といいその西端になる。西町は高岡筋往還(街道)の一部で領主邸がこの場所に移住した元和元年(1615年)から、平江町・唐人町・本町と合わせて城下町の幹線道路であり、この一筋道を中心に市街地が形成され今日に至ってる。
1979年宮崎県教育委員会発行による「薩摩街道」(❊1)によるとこの西町について「岳下橋の南側川沿いに通船方の建物があり寛政年間(1790年〜)にここより宮崎赤江まで、72㎞の舟路を設け物質郵送の事務をとっていた所である」との記載がある。大淀川が舟路として使われていた当時は物流の拠点であり、「庄内地理志」27巻(❊2)に当時の街割りが記載されており現在の江夏邸敷地には「通船方木屋」との表示がある。
明治45年に出版された「都城誌」(❊3)に、現在のヤマエ食品工業の敷地には、すでに江夏本店醤油醸造所として川沿いに立つ工場の写真が掲載されている。
「庄内地理誌」(❊2)「江夏家先祖代々について」(❊4)によれば、正保年間(1644年〜1648年)、中国「明朝」滅亡のおり、隈州内の浦に明人が漂着、その中に「江夏生官(七官)」の名がある。時の都城領主により漢学者として迎えられたとあり、寛政2年(1790年)頃には、唐人町に江夏四家(四郎左エ門・儀助・庄左エ門・喜三太)が居住していたとの資料もあり、その末裔の一人が江夏本店創業者の江夏計佐吉(1849年〜1894年)と思われる。
計佐吉は当初「藍玉業」を営んでいたが、明治4年(1871年)7月に実施された廃藩置県により、藍玉の本場(徳島県)から廉価商品が入り込み、明治11年に藍玉業から醤油製造、そして米穀砂糖、荒物等を取り扱う商売に変更する(❊5)(江夏本店)。
計佐吉には8人の子供がおり(男5人女3人)、それぞれに明治から今日まで都城市の発展に寄与している。創業者の二代目となるのが旧江夏家住宅を建てた長男の岩吉であり、3男の芳太郎は地元では「日向米の名声を高めた人」として知られ都城商工会議所が1929年に創立された時に初代会頭に選ばれている。4男の江夏吉助は霧島酒造の創業者であり、大正13年(1924年)創業時に建てられた社屋は霧島酒造場内に移築され、現在では資料館として活用されている。
岩吉の孫にあたる江夏弘は、京都帝国大学理学部を1944年に卒業後,大学院に進学し湯川秀樹の下で1946年から1957年までの間に素粒子理論を主に研究をする。この事が縁なのか昭和24年(1949年)ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹がその前年に江夏邸を訪れており、床の間の部屋(8畳和室)で家族と一緒に撮った写真が残されている。
江夏家敷地は西町の最も西に位置し、明治時代から街道の南側に店と住宅、道を挟んで北側に工場があったと思われる。南側の敷地は道路境界以外は当時の石塀がそのまま残りその広さもそのままである。敷地は西町の通りに面して間口40m奥行き70m程で敷地面積3,299㎡(997坪)あり、敷地南側に今回登録申請する「旧江夏岩吉家住宅」が建っており、道路側は現在ヤマエ食品工業のスタッフ駐車場となっている。
1948年当時、米軍により撮影された空中写真を見ると広い敷地内に数棟の建物があり、また昭和20年頃の江夏家を描いた俯瞰図(❊5)があり、これと合わせて見ると、道路側に店と住宅、中庭を囲み「はなれ1」と勉強室があり、その先に渡り廊下で繋がる「旧江夏岩吉家住宅」が「はなれ2」と表現されている。また大淀川の堤防沿いに3つの棟を連ねた倉庫が立ち「はなれ2」との間には土蔵があり、その南側の空地は「おばあちゃんの花畑」と表現されている。現在は「はなれ2」の建物だけが残っている。
「旧江夏岩吉家住宅」主屋について
「江夏岩吉家住宅」は敷地の南東側に建っており、建築主は江夏岩吉(1871年〜1952年)で、当時すでに通り沿いに店と住宅があったが、住まいを主な目的として新たに建てられた。
残された棟札の表面に大正15年5月30日に奉納上棟、家主 江夏岩吉、裏面に設計監督 大久保佐太郎 棟梁 田村與三郎と 大工9名、木挽3名、地業2名のそれぞれの名前がある。
大久保については、孫に当る大久保純男が「日和城」(❊6)で祖父「大久保佐太郎」というタイトルで詳しく紹介している。大久保は高城尋常小学校卒業後に10歳で大工棟梁の矢方宗次郎の弟子になり、20歳で軍人となり、25歳で満期除隊後,25歳から建築家をめざし、29歳で宮崎県庁内務部土木課に入り、建築の技能を身につけ、38歳で宮崎市に建築事務所を開設し60歳まで民間、公共の多くの建物の設計監理に関わっている。61歳で郷里に帰り身につけた技能で地域のために貢献する。昭和25年の建築士法制定時には2級建築士の資格を取得し、その2年後に1級建築士の資格を72歳の時に取得している。その後は、傷病軍事の会、民生委員、保護司、文化財保存委員など亡くなる91歳まで地域に貢献する。
建物規模は東西20.09m、南北19.10m、床面積は203.04㎡の、木造平家建で、桟瓦葺きの大きな入母屋造りの屋根があり、周囲に下屋を廻している。俯瞰すると長辺部分が南面した変形コの字型で、下屋端部が入母屋の屋根となっているが、東側の短辺部分には一部直角に突き出た寄棟屋根があり、交差する屋根が印象的な外観となっている。
外壁は内法高さまでを下見板張りとし、小壁は黒漆喰仕上げ、軒裏は化粧野地板仕上げとなっている。東側の突き出た部分は、巾木から外壁、軒裏、軒先まで左官仕上げ(人造石洗い出し)となっている。
平面は西側に隣り合って玄関と裏玄関があり、玄関を上がると直線的に4.5畳和室、8畳和室、そして床の間と書院のある8畳和室と繋がる。二つの8畳和室には北側に前室(6畳和室)と倉庫があり、この4部屋を囲むように南と東側には広縁があり、北側は一部中廊下となっている。
南広縁の西側には4.5畳和室があり、仏間として使われていた。中廊下西側には台所と食品庫があり、以前は竃のある台所と女中室(和室3畳)として使われており、和室3畳の女中室を介して現在無くなった土蔵、そして通りに面していた店+住宅と渡り廊下(一部は屋根のみ)で繋がっていた。また東側広縁(2)の北側に伸びる廊下の西側には押入、着付室(倉庫2)、浴室(事務室・休憩室)があり、東側には4.5畳和室(展示室)、洗面があり、奥に便所(大・小)が設けられている。また東側の4.5畳和室(展示室)の奥に8畳の広さの洋室がある。
この洋室は、他の部屋と違い洋間として作られている。腰壁は板張り、壁、天井は共に布クロス貼り、南側の出窓は引き違い、東・北に設置されている窓は上げ下げ窓となっておりガラスには飾り格子がある。前室の4.5畳和室と合わせてこの二部屋は寄棟の屋根となっており、戦前に造られた建物の洋館の雰囲気を残している。この部分の建設時期について明確な資料は残っていないが、昭和10年に都城を中心に行なわれた陸軍大演習の時に11月8日から11月13日まで、当時の朝鮮王朝の李殿下の宿泊場所となっている(❊7)ことを考慮すると、そのために増築されたのではとも考えられる。
時を同じくして陸軍大演習時には、昭和天皇の叔父にあたる閑院宮が都城島津家に宿泊されており、都城島津家の台帳には昭和10年3月18日に建築認可申請書を提出したと記録が残っている。
2021年5月に創業150年を迎えるにあたり前年の3月より補修及び一部改修工事が行われている。補修箇所は雨漏りにより痛んだ4.5畳和室(展示室)と洋室そして取り合う廊下である。改修は現在なくなった店+住宅と渡り廊下で繋がっていた女中室(食品庫)と台所、そして4.5畳の広さがある浴室(事務室・休憩室)である。
それ以外の補修は、長年使われなく傷んでしまった和室の畳や、襖紙が新しくなり、内壁の左官補修、そして7カ所の部屋に空調器が設置されている。床の間の8畳和室にある襖は4枚で一幅の風景が描かれており、樹木の枝越しに見える山の重なりが表現されており、どこの風景なのか興味深い。傷んでいるため倉庫1でそのまま保存している。
岳下橋から都城市街地を見ると西町通りの左側には現在のヤマエ食品の工場、そして反対側には溶結凝灰岩の石塀で囲われた広い敷地があり、道路沿いは従業員駐車場、その奥にヤマエ食品オーナーの自宅として使われていた「旧江夏岩吉家住宅」が建っている。大正、昭和、平成、令和と102年間を生き延びてきた住宅はほぼ当時の姿のまま残っており、所有者にとって先祖から引き継ぐ貴重な遺産であると同時に、地域の人々にとって時代の変化とともに姿を変える工場と合わせ、「旧江夏岩吉家住宅」の変わらぬ姿は世代を超え慣れ親しんだ地域の歴史的景観の一部となっている。
また明治以降、日本家屋の間取りは様々な変化を遂げ、伝統的な和風住宅に洋風の考え方による住まい方が徐々に取り入れられた。地方の有力者の住宅ではそれが洋館という姿であったり、またはそれまでの伝統的な間取りに生活の洋風化という形で現れてきた。先見の目を持った建築主の意向なのか、関わった建築家大久保の試みなのか、平面にその兆候を見ることができる。
玄関から直線的に繋がる三部屋の和室「続きの間」でありながら、それぞれの部屋を通らずに各室にアプローチできる動線(広縁)、そして居室部分と水回り部分を中廊下で明確に分けるゾーニングがそれにあたる。また「女中室」の存在とその取り扱いは時代を反映している。「旧江夏岩吉家住宅」は書院造を基本とした和風住宅でありながら、明治後半から大正にかけての住宅改良運動の影響と、戦前という時代背景の中で作られ、今日までほぼ当時の姿で残されている貴重な建物である。
補修整備後は、ヤマエ食品工業の味噌・醤油などを使った和食や、お茶・生花等の普及啓発のために、この建物が活用されれば、伝統的な日本家屋の継承と合わせて「衣・食・住」を同時に体験できる場所となる。そのためにも国の登録有形文化財として指定されることを強く望む。
(❊1)宮崎県「歴史の道」調査報告書 薩摩街道 1979 宮崎県教育委員会
(❊2)庄内地理志
(❊3)都城誌 著作兼発行者 宗村満夫 明治45年4月15日出版
(❊4)江夏家先祖代々について
(❊5)花のトンネル
(❊6)日和城(第4号) 刊行 高城の昔を語る会
(❊7)昭和10年陸軍特別大演習並地方行幸都城市記録
文責 柴睦巳 (ひむかヘリテージ機構 世話人)