全体概要について
黒木家の所在する地域の概要
黒木家は旧高鍋藩時代の城下町であった一筋通り(松原町・本町・上町・八日町・六日町・十日町・下町)の六日町に建っている。現在この通りには江戸時代に建てられた建物は残っていないが、藩政時代の屋敷割にはさほど変化はなく時代の移り変わりと共にその建物は姿を変えている。
当時の町家の屋敷割りは半ケ畝と一ケ畝があり、半ケ畝は間口二間半、奥行き二四間、面積60坪、本ケ畝はその二倍、間口五間、奥行二四間面積120坪というものであった。ただし敷地の売り買いは藩に届けることが前提で許されていた。
建築主や敷地整備などの概要
黒木家は、伝えられた位牌により享保10年(1725年)に亡くなった族名忠右衛門までさかのぼることができる。安永2 年6 月(1733年)に亡くなった與兵衛は黒木與兵衛と名が刻んであるので、與兵衛までに姓を名乗ることが許されたということになる。
高鍋町史に明治末期から大正初期ごろの一筋通り状況を作成した町並み図があり、その中に六日町の黒木清五郎(初代・嘉永3年〜昭和3年)という名前がある。その屋敷は現在と同じで火産霊神社参道から南側に半ケ畝の5.5倍の間口があり一筋通りで最も広い屋敷で、味噌、醤油醸造、肥料の製造を行っていた。
高鍋町史に名前が出てくるのは明治9年(1876年)5月に誕生し養子となった二代目黒木清五郎からで、町史によると株式会社日向銀行設立の発起人、骨粉工場の経営者、宮田地区区画整理の組合長などを兼務し町内の有力者で昭和6年の納税記録を見ると一位となっている。
建造物の概要について
建造物の概要(由緒・沿革など)
建物の建立時期を棟札で確認できないが、固定資産税台帳によると明治33年が建築年次となっている。一般的に家屋税が全国の市町村で課税されるようになったのが明治21年といわれているので建立したのは初代黒木清五郎と思われる。1階8畳和室にはめ込まれた仏壇があり引出し側面に明治4年と明治19年4月13日付の指物師「・・・」の墨書があるがおそらく以前の家屋に使われていた仏壇ではないかと思われる。
建造物の特徴
建物規模は南北16.23m、東西10.85m、1階床面積は179.84㎡、2階床面積は133.23㎡、
延べ床面積は3313.07㎡で、木造2階建の桟瓦葺寄棟屋根で、東側の前面道路に下屋を下ろしている。
建物は道路に面して左右に2つの出入り口があり、1つは北側にあり2間半の間口で中に入ると巾3間半、奥行き1間の土間となっており、和室(10畳)に面している。2つ目は南側で2間半の間口で中の土間は巾3間半、奥行き1間あり奥に繋がる巾1間の通り土間がある。通り土間の両側は和室となっており、北側に8畳が二部屋、南側に6畳が二部屋それぞれ土間に面している。通り土間の奥(西側)には2020年に解体された、台所、浴室、使用人部屋のあった棟と繋がっていた。
二つの玄関の存在と、合わせて北側の10畳続き間と通り土間に面した8畳続き間との間にある、階段と仏壇・床により1階は2つにゾーニングされており、黒木家の多彩な商売を考えるとどのように使われていたのか興味深い。
2階は大きく2つにゾーニングされている。北側に10畳広さの納戸・物置が2部屋あり、階段・床・違い棚を挟んで南側に和室(15畳)と和室(12畳)の続き間があり、続き間には東・西それぞれに半間の廊下がある。
改修年代
現在は道路に面した店舗兼住宅しか残されていないが、2020年までは西側には、主屋と接した台所・浴室・使用人部屋のある棟、そして来賓用の浴室がある棟が北側にあり、敷地奥(西側)には別棟で離れ屋敷、蔵・納屋、味噌蔵があり、神社参道側には米倉庫、馬屋、肥料倉庫があった。
増築や改修について時期はわからないが、道路に面する部分については残された3枚の写真よりその時々の改装内容を知ることができる。
1枚目は創建当初と思われるもので、2階縁側には当主夫妻と思われる初代黒木清五郎夫妻と道路に立つ近隣の子供達が写っている。北側の出入り口には建具がない。
2枚目は大正時代に撮影されたもので、使用人なのか自転車と共に写っている。北側出入り口には建具はないが腰の高さの格子が設置されている。
3枚目は戦前に写されたもので2階縁側の窓が連装窓から縦長の窓に変わり取り合う外壁も漆喰壁から下見板貼りとなっており、北側出入り口には引き違い戸が見られる。
評価について【登録基準 ⑴と⑵に該当 】
江戸時代まで、町屋の通土間は、1列型が主流であり土間に面した和室を店として使っていたが、明治に入ると店前面に間口の広い土間を設けるようになる。まさに黒木家の南側出入口がその形式となっている。
江戸期の問屋形式の店舗の場合は来訪者が限られており、前面を解放する必要はないので格子を用いて閉じた形が多かったが、明治に入ると小売形式の店舗が主流となり店先に商品を並べ、通りから見えるように前面を土間とし、引き込み戸を用いて開放する形が多くなったといわれている。
黒木家は明治に入り商売を多方面に広げていく過程で建て替えられた大型町屋であり、道路に面した2カ所の土間の存在は黒木家の商売に必要なスペースであり、特に北側土間は時代の変遷と共にその使われ方が変わってきたのではと思われ、製造販売だけではなく有力者としての立場上必要とされたスペースと思われる。単なる町屋としてだけでなく明治から昭和にかけてこの地域の経済上中心的な役割を果たした貴重な建物である。
また、昭和に入り2代目黒木清五郎に家督が移り、改修された2階東側の洋風の縦長窓と下見板貼りの外観は町民にとって六日町の賑わった往時を偲ばせてくれるものである。
現在、建物の所有者は変わり、建物修理後には福祉の父と言われた石井十次の思想を受け継ぐ「友愛社」の施設として使われることになっている。
文責 柴睦巳 柴設計(ひむかヘリテージ機構 世話人)